議員秘書は猛獣に愛される
湯けむりの立ち込める浴室内。熱いシャワーに打たれながら、高科榮(たかしな さかえ)はきゅっと唇を噛みしめる。
曇った鏡を手のひらで拭うと、いまにも泣き出しそうな顔をした自分の姿が映し出された。ここのところ仕事が忙しく食事を抜くことが多かったせいで、ただでさえ細身な身体はくっきりと鎖骨やあばらが浮いてしまっている。貧相なその姿から目をそらし、榮はちいさくため息を吐いた。
「さすがにそろそろ上がらないと、不自然だよな……」
ただでさえ無理をいって、行為の前にシャワーを浴びさせてもらったのだ。これ以上待たせつづけては、相手を不快にしかねない。
――大丈夫。一度くらい抱かれたところで、女性とちがって妊娠するわけではないのだ。犬に食われたと思えば、きっとなんとでもなるだろう。
「なる、かな……。なると、いいな……」
先刻押し当てられた、凶悪なまでに巨大な昂ぶりの感触が生々しくよみがえる。あれを、自分の身体のなかに受け容れるのだ。そう思うと、さぁっと血の気がひいて、震えがとまらなくなってしまう。
「高科さん、どうかしましたか。大丈夫ですか?」
扉の向こうから、野太い男の声が聞こえてきた。
「ぁ、はい、大丈夫ですっ」
ダメだ。もういかなくちゃいけない。
絶望的な気持ちになりながら、すべりの悪い蛇口をキュッときつく捻る。瞳を閉じ、榮は大きく深呼吸して、浴室の扉に手を伸ばした。
***
「別の議員(せんせい)のところへ出向、ですか……?」
終業後の議員執務室。雇い主である清州政昭(きよす まさあき)の言葉に、榮は俄かに首を傾げた。
「ああ、この事務所内は年功序列で、せっかくのきみの能力を活かす場もない。外の世界で修業を積ませて、いま以上に成長させてあげたいんだよ」
上質なスーツに包まれた長い足を組みなおし、清州は榮を見つめた。
聡明さの滲む整った顔立ち。理知的でありながらも秘めた野心を感じさせるその強い眼差しに見据えられると、榮の心臓は自然と高鳴ってしまう。
「事前に少し勉強しておきたいのですが、出向先は、どなたのところでしょうか」
動揺していることを悟られないよう、できるかぎり平静を装った榮に、清州はやんわりとした笑顔を向けた。硬質な容貌から一転、艶っぽいその笑顔に、ジワリと体温が上がる。見惚れてしまいそうになるのを必死でこらえた榮に、彼は穏やかな声音でいった。
「きみは本当に勉強熱心だな。よい心構えだが、前知識は不要だ。先入観を持たずに仕事をしてもらいたいのでね」
参議院選挙を月明けに控えた六月の半ば。一介の私設秘書である榮に、票読みの算段を漏らすつもりはないようだ。
「かしこまりました。どなたにお仕えすることになったとしても、清州先生のお名前を穢すことのないよう、精いっぱい務めさせて頂きます」
控えめな声音で告げた榮に、清州は満足げな笑みを向ける。
『久々に一杯つきあってくれないか』
そんな言葉を期待したけれど、「頼んだぞ」とちいさく頷いただけで、清洲は榮に背を向け、帰り支度をはじめてしまった。
「あら、公設第一秘書だなんて。すばらしい出世じゃない」
築四十年を超える古めかしい賃貸マンション。交通の便だけを基準に選んだせまっくるしい部屋で、スマートフォン越しに懐かしい母の声を聞く。
「公設秘書になれば今より給料貰えるし、仕送りの額、ちょっとは増やせるかも」
「そんなのいいのよ。ねえ、それより、ちゃんと食べてる? 仕事熱心なのはわかるけど、自分を犠牲にしてまで頑張り過ぎてはダメよ」
心配そうな母の声に、テレビの音声が重なる。ふと画面に目を向けると、ガタイのいい大男が沢山のマイクを向けられ、引退会見をしていた。前回のオリンピックで金メダルを獲った競泳選手なのだそうだ。スポーツに興味のない榮にとって、どうでもいい話題だ。
『引退後はどうされるんですか』
記者に訊ねられ、男は真っ黒に日焼けした顔でくしゃりと笑った。
『参議院選挙に出馬させていただきます』
男の言葉に、榮は眉をしかめる。
「こんなのが議員になったら、世も末だな」
タレント議員なんて、いなくなればいい。ため息をつきつつ、榮はテレビの電源を落とした。
「いままでお世話になりました」
段ボール箱に私物を積めこみ、清州の事務所を後にする。
まばゆい日差しに目を細め、二ブロック先に建つ参議員会館に向かうと、引っ越し業者や胡蝶蘭を運ぶ花屋がせわしなく行き交っていた。初登院を間近に控え、当選を果たした議員たちが続々と事務所の設営をしているのだ。
「ええと、三階の……」
清州に教えられた部屋に向かうと、出入り口にジャージ姿の大柄な男が立っていた。二メートル近くあるだろうか。榮も決して小柄なほうではないが、男は見上げるほど背が高く、頭には無造作にタオルを巻いている。服装からして、引っ越し業者かなにかだろう。
「ご苦労さまです」
声をかけ、室内に入ろうとしたそのとき、部屋の奥から清州事務所で一緒に働いていた後輩秘書の堀田(ほった)が顔を出した。
「高科さん、その方、議員(せんせい)ですよ。金山(かなやま)先生」
「先生……っ?!」
驚いて振りかえると、大男が頭に巻かれたタオルを取り、ぺこりと頭を下げる。
「はじめまして、金山毅志(かなやま つよし)です。よろしくお願いします!」
金山毅志。確か、このあいだテレビで引退会見をしていた競泳選手だ。
「堀田くん、きみもここで働くのか」
彼の隣でニコニコと微笑む小柄な青年、堀田は、清洲派のベテラン議員、堀田義明の三男坊だ。去年の春、新卒で清州事務所にやってきた彼は、残念ながら元女優の母親から麗しい容貌だけを受け継ぎ、父親の持つ政治家としての能力はあまり引き継いでいない。秘書としても使いどころの難しい、事務所のお荷物的な存在だった。
「公設第二秘書として、金山センセイに仕えさせていただくことになりました」
「きみが公設秘書?!」
清州事務所での勤務初日、パソコンの電源の入れ方やFAXの送信の仕方すらわからずスタッフ一同を呆れさせた彼が『公設秘書』。立ちくらみを起こしそうになった榮の目の前に、さらに信じられないコンビが現れた。
「金山センセーイ、これ、どこに置くー?」
清州の後援会長のお孫さんで、これまた外見だけはおそろしく美しいが、敬語の使い方がわからず、電話応対ひとつまともに出来ない残念な双子の姉妹。どちらも大人の事情で預かることになったものの、清州が持て余していた困った人材だ。
二十代のうちに、私設秘書から公設秘書に転身できた。日々の仕事を評価して貰えたのだと喜びを感じていたのだが、どうやら勘違いだったようだ。
「あ、高科さんもコッチの事務所にきたんだー」
「やったぁ、またいっしょに仕事できるねぇ。イケメンばっかで最高の職場だわ」
五つも年下の美女二人にタメ口を叩かれ、高科はぐったりと肩を落とした。
「どういうことですか、これは」
まるで動物園のような金山の事務所を飛び出し、清州の執務室へと駆け込む。
「あぁ、高科、どうした。なにか問題でも起きたのか」
「なにか問題でも、じゃありませんよ。あの事務所はいったいっ……」
いきどおる榮の肩を抱き、清州はぐっと顔を寄せた。深みのある香水の匂いが鼻をかすめ、かぁっと頬が熱くなる。
「あんなメンツだからこそ、きみの力が必要なんだよ。タレント議員の役割は、集票と党のイメージアップ・アイコンだ。客寄せのための獣には、手綱をひく優秀な猛獣使いが必要なんだよ」
「私に、あの珍獣の手綱を引けと?」
「ああ、そうだ。ここだけの話だが……私にはお前以外、心から信頼できる人間が誰ひとりとしていない」
榮を抱き寄せ、清州は耳元でそっと囁いた。
「わかるだろう、榮。田所も日浦も、アレは父のしもべだ」
扉を挟んだ向こう側。秘書たちの働く事務室を見やり、清州はさらに声のトーンを落とす。
この事務所を支えるベテラン秘書たちは、清州のいうとおり、彼の父、与党の重鎮、清州昭久(きよす あきひさ)衆議院議員の息のかかった者たちばかりだ。
「向こうに行けば、演説の原稿もなにもかも、お前があの男に代わって書くことになる。私の意向を汲みとり、あの男をうまく操る。有能な榮にしか出来ない大仕事なんだよ」
清州のつめたい指先が、榮の手のひらに触れる。そっと手を握られ、ドクンと心臓が跳ねあがった。一気に頭に血が上って、どうにかなってしまいそうだ。
「頼むよ、榮。お前だけが頼りなんだ」
耳殻に注ぎ込まれる吐息の熱さに、ふるふると指先が震えはじめる。
やっかいな頼みごとをするときに限って、清州は榮を下の名前で呼ぶ。賢いひとだ。もしかしたら、榮が彼に対して抱いている醜い感情に、気づいているのかもしれない。
「ほら、はやく持ち場に戻るんだ。今晩、ひさびさに鱧(はも)でも食べに行こう。話はそのとき、ゆっくり訊くよ」
こんなことで誤魔化されてはいけない。そう思いながらも、清州といっしょに食事に行けると思うと、それだけで舞い上がってしまいそうになる。
「わかりました。では、のちほど」
できるかぎり仕事の顔をつくり、榮は清州の執務室を後にした。
せっかく二人きりで食事に行けると思ったのに。
夕飯の席には、金山も一緒だった。おまけにジャージ姿の彼を見るなり、清州は行先を懐石料理店から焼肉屋に変更してしまった。高級な店だし、よい肉を扱っているけれど、連日の暑さのせいで食欲のない榮にとって、香ばしく焼ける肉の匂いは苦痛以外のなにものでもない。
「遠慮せず、たくさん食べてくれたまえ」
清州の言葉を真に受け、金山は「ありがとうございますっ」といかにも体育会系然とした快活な顔で笑った。きっとこの単純な男の辞書には、『遠慮』という言葉は存在していないのだろう。
学生時代水泳部に所属していた清州は、競泳選手としての金山をとても高く評価しているようだ。現役時代の話を聞いては、大げさに褒め称えている。
「高科も知っていると思うけれど、日本人が自由形短距離種目で金メダルを獲るっていうのは、本当にすごいことなんだ! 絶対にありえないことだといわれていたんだよ」
熱心に繰り返され、榮はぎこちない笑顔で相槌を打った。アスリートとして凄いことなのかもしれないけれど、そんなものは政治家としての能力にはまったくもって関係がない。はやく終わって欲しくて仕方がないのに、彼らの会話は尽きることがなく、宴席は三時間近くつづいた。
「ご自宅までお送りいたします」
大量に酒を飲んだ彼らと違い、榮は一滴もアルコールを口にしていない。こういった宴席の後、議員を家まで送り届けるのも秘書の役目なのだ。
「いや、私はこの後もう一件約束があるから、ここでいい。高科、彼を議員宿舎まで送って行ってくれ。それからきみも、今日から宿舎で彼と一緒に生活するんだ」
「ぇっ?!」
驚きの声をあげた榮の耳元で、清州はささやく。
『監視だよ、監視。当選早々、羽目を外されては敵わんからな。いいな、絶対に問題を起こさせるんじゃないぞ』
昨今、現職の国会議員によるスキャンダルが後を絶たない。つい最近も、議員宿舎に女子高生を連れ込み享楽に耽っていた議員が辞職に追い込まれたばかりだ。
「頼んだぞ、高科」
一方的にそう命じると、清州は運転代行を呼び、二人を置き去りにしてどこかに行ってしまった。やさぐれそうになる気持ちをぐっと押さえ、タクシー会社に電話を入れる。車を回してもらおうとした榮を、金山が遮った。
「ここからだったら、宿舎まで歩いて帰れますよね。タクシー代、勿体ないんで歩きましょう」
「経費で落とせますから大丈夫ですよ」
「いえ、そういう問題ではなく。税金を無駄遣いするようなこと、したくないんです」
真顔でいわれ、無性に腹立たしい気持ちになる。正論だからこそ、政治のことなどなにも知らないこんな男にいわれると、なんだかとてもいやな気分だ。いまはこんなふうにいっていても、こういう男こそ、数週間もすればなんのためらいもなく公費を無駄遣いするようになるだろう。
「ここからだと、歩いて十分以上かかりますよ」
不機嫌さの滲む声で告げた榮に、男はニッと笑って見せる。
「構いません。ほら、今日は風もあるし、だいぶ涼しくなってきたから、きっと散歩すると気持ちいいですよ」
短く刈られた髪に、男らしく精悍な顔だち。筋肉質で大柄な体躯のわりには暑苦しさを感じさせない爽やかな容貌のこの男は、世の女性たちから絶大な人気を誇るようだ。
オリンピックで二度も金メダルを獲ったトップアスリートとしての知名度と、女性受けするタレントなみの優れた容姿。ふたつの武器を兼ね備え、今回の参院選で圧倒的な得票数を叩き出した。
「敬語、やめていただけませんか。あなたは議員で、私は秘書。それに、あなたのほうが私より年上です」
ぴしゃりと言い放った榮に、金山は人懐っこい笑みを向ける。顔立ち自体は雄々しいのに、笑うと少しあどけなさを感じさせる。少年のようなその笑顔が、女性たちにはたまらないのかもしれない。
「年は関係ないですよ。政治の世界で、自分は右も左もわからないまったくの素人だ。清洲さんからも、高科さんのいうことをきいて色々と勉強させて貰うように、といわれているんです。あなたならなんでも知っているから、といっていました」
清州の名を出され、俄かに頬が熱くなる。本当に彼がそんなことをいったのだろうか。不要だから彼の事務所から追い出された。そんな疑念を、どうしても拭うことができそうになかった。
猥雑な夜の街を抜けると、首都高の高架下、見慣れた弁慶堀が見えてくる。
「こんなところに川があるんですね」
太陽の下では薄汚れて見える溜め水も、こうして街路に照らされているとそれなりにうつくしく見える。興味深げに身を乗り出す金山に榮はいってやった。
「川じゃありません。江戸城の外濠の名残ですよ」
そんなことも知らないのか、と呆れつつため息を吐くと、感心したような顔を向けられた。
「やっぱり高科さんはなんでも知ってるんですね」
「普通に考えたらわかるでしょう」
「皇居ンとこのアレもそうですか」
「あれは内濠です。城を囲むようにぐるっと内濠があって、その外周に外濠が張り巡らされていたんです。日本史の教科書や副教材で見たことないですか。江戸城周辺の地図」
「見たかもしれないけど、全然覚えてないですね。この辺にお城あったってことすら、はじめて知りました」
さらっとそんなふうにいわれ、榮は軽くこめかみが痛むのを感じた。おそらく榮や清州が常識だと思っていることを、彼はなにも知らなかったりするのだろう。こんな男を国会議員に選出してしまうなんて、日本の有権者はやはりどうかしている。
「国会のある場所って、もっとゴミゴミしてるのかと思ったけど、静かだし、いいところですよね。六年間、この街で暮らすことになるんだなぁって思うと、なんだか感慨深いです」
六年間。まさか、六年もの間、この男のお守りをしつづけなくてはならないのだろうか。絶望的な気持ちになった榮とは対照的に、金山は鼻歌までうたいはじめる始末だ。
背広姿の人々が行き交う日中とはちがい、ひと気の少ない夜更けの弁慶橋。ぐったりと肩を落とし、榮は金山の後を追った。
「ちょっと待ってください。なにしてるんですか」
議員宿舎に戻るなり、金山はTシャツとハーフパンツに着替え、どこかに出かけようとした。
「なにって……呑み直しに行こうかなぁと……」
「馬鹿なこといわないでください。ダメですよ。あなたは公人なんです。目的もなくふらふら夜遊びに出かけるなんて、許されるわけがないでしょう」
「どうしてですか。国会議員だって、みんな、ふつうに飲みに行ったりしていますよね」
「無防備に飲み歩くから、醜態を晒すんじゃないですか。あなたは党にとっても清州先生にとっても大切な存在なんです。くだらない報道で失墜させるわけにはいかないんですよ」
酔っぱらってホステスと路上でキスをした、だの、タクシー運転手を殴った、だのと議員の醜聞は後を絶たない。ましてや好感度が命のタレント議員。顔が売れているぶん、ふつうの議員以上に行動には気をつけなくてはならない。
「どうしても夜遊びをしたいというのなら、議員御用達の店がありますから、そういう場所で遊んでください」
無用なスキャンダルを避けるため、多少羽目を外しても絶対に外には漏れない会員制の遊び場があるのだ。清州に付き添い、何度か足を運んだことがある。外見だけでなく教養も身につけた選りすぐりの美女たちが集い、『連れ出し』まで可能な高級クラブだ。
「ちょっと値が張りますが、女性の質は素晴らしいですよ。その辺りのキャバクラやクラブとはわけが違う」
「別にオレは、女性のいる店で呑みたいわけじゃないです」
「じゃあ、なんですか。シガーやモルトを楽しむ場所にしたって、清洲先生が愛顧にしている店がある。せめてそういう上質な店で呑んでください。なにかあってからでは遅いんです」
その腕を掴み引き留めると、金山は苦しげな瞳で榮を見つめた。
「――いっしょに暮らす以上、隠し続けることはできないと思うんで。高科さんには最初にお伝えしておきます。オレが行こうとしてるのは、新宿二丁目です。オレは……同性愛者なんですよ」
「はっ……?!」
「すみません、気持ち悪いですね」
「ゃ、気持ち悪くはないですけど。でも、ダメです。二丁目なんて、行っていいわけないでしょう。そんな場所に行けば、一発で週刊誌にすっぱ抜かれますよっ」
女性有権者たちに絶大な人気を誇る爽やかイケメンタレント議員がゲイだなんて露呈すれば、それこそ大変な騒動になってしまう。
「二丁目がダメなら、上野や野毛ならいいんですか』
「そういう問題じゃありませんっ。ちょっと待ってください、清州先生に相談しますから」
もしかしたら政治家を対象にした同性愛者向けの高級会員制クラブのようなものがあるかもしれない。そんな期待を抱きつつ電話をかけたけれど、返ってきたのはとんでもない言葉だった。
『そんなものは聞いたことがない。というか、あったとしても危険すぎる。絶対に使わせてはダメだ』
『どうしましょう。二丁目に行かれたら、それこそ大変なことになってしまいますよね』
『――きみが止めろ』
『はい……?』
『きみが相手をするんだ。幸いなことにきみはとても見栄えがいい。あの男の好みがどんなタイプなのかわからないが、美男子に迫られて不快に思うことはないだろう』
『はっ……ちょ、ちょっと待ってください、清洲先生?」
『いいな、なにがあっても引き留めるんだ。絶対に、よそで遊ばせてはダメだ!』
用件を告げると、清州は一方的に電話を切ってしまった。
「あのー……高科さん、そろそろ行ってもいいですか」
痺れを切らした金山が、勝手にスニーカーを履きはじめる。
「だ、ダメですっ!」
榮はその足に飛びつき、無理やり靴を脱がした。
「おねがいします。ずっと、我慢してきたんです。現役のあいだはダメだとコーチにいわれ、ひたすら隠しつづけてきた。ようやく自由になれたんです。なにも悪さをしにいくわけじゃない。ただ、自分の性指向を隠さずに過ごせる場所に行ってみた……んっ?!」
もう、どうにでもなればいい。
どうしたらいいのかなんて、わからない。うまい言葉で丸め込む、とか、自分に惚れさせる、とか、物心がつく前から清州に報われない恋情を抱き続け、彼以外誰も好きになったことのない榮には、こういうときの対処法なんて、なにひとつ思いつくことができなかった。
「私じゃダメですか。どうしてもよそのひとと遊ばないと……収まりませんか」
無理やり唇を押しつけたせいで、互いの前歯がぶつかってしまった。声がうわずって、全身が震えて、うまく言葉が出てこなくなる。
「ゃ、えと、あの、高科さん……っ?!」
怪訝そうな顔で榮を見つめる金山に顔を近づけ、榮はふたたび唇を重ねあわせた。
生まれてはじめてのキスだ。
ファーストキスは清州としたい、とずっと思いつづけてきた。願いは叶わなかったけれど……この身を投げうつことで彼の助けになるのなら、本望だ。
四年後の東京オリンピックに向け、与党最大派閥である清州派が党のイメージアップ戦略のために選んだ政党アイコンが、この金山という男なのだ。彼をスキャンダルから守り、六年間その職務をまっとうさせる。そのためなら、どんな犠牲だって厭わない。
「ずっと、あなたのファンだったんです。よそで遊ぶなんて、いわないでください。お願いですから、どこにもいかないで」
ぎゅっと金山のTシャツを掴み、榮は震える声でそう告げた。
清州の役に立ちたい、という想いと、清州以外の男に触れられたくない、という想い。ふたつの想いに引き裂かれながら、じっと金山を見つめる。
こうして間近で見ると、ほんとうに整った顔をしている。つややかな肌。精悍で男くさいのに、瞳の色は思いのほかやさしく、睫毛もとても長い。雄々しさと甘さが絶妙なバランスで入り混じったその顔だちは、きっと見るひとが見れば、とても魅力的に見えるだろう。
「ほんと、ですか……?」
濃茶色の瞳が、じっと榮を見つめている。無言のままちいさく頷くと、突然、抱きかかえられた。
「わっ……な、なにをっ……」
「ひと目惚れだったんですっ。今朝、高科さんをひと目見たときから、あなたのことしか考えられなかったんだっ」
姫抱きにされたまま、勢いよく寝室に担ぎ込まれる。気づけばベッドに押し倒され、のしかかられていた。
「どうしよう。こんな奇跡って、本当にあるんですね。オレ、同性愛者だし、ふつうの恋愛なんて、一生出来ないって思ってた。出会い系とか、そういう店に行かなくちゃ、恋人をつくることさえ出来ないんだって。でもそういうの、やっぱりイヤで。運命みたいなの、信じてて。まさかこんなふうに、運命のひとに出会えるなんてっ……」
「ん、んーーーーっ!」
やわらかな唇を押し当てられながら、ギュっと抱きしめられる。誰かの腕に抱かれるというはじめての経験に、榮はパニック状態に陥ってしまいそうになった。
ワイシャツの布地越しに、火照った彼の肌が触れている。ぴったりと重ねあわされたその身体は、想像していた以上に逞しく、隆々とした筋肉に覆われている。現役を退いてからも、トレーニングをつづけているのだろうか。肉厚なその身体は、どんなに榮が抗っても、びくりとも動かなかった。
「んっ……はぁっ……」
唇を重ね合わせるだけのキスを繰りかえすうちに、段々と彼の唇が湿り気を帯びはじめる。熱く濡れた粘膜が榮の唇に触れ、ドクンと心臓が跳ねあがった。
不思議なことに、嫌悪感はない。けれども、自分を抱く男が憧れの清州ではなく、なによりも嫌いな『お馬鹿なタレント議員』だということが、哀しくてたまらなかった。
議員秘書だった父は、主である清州昭久の政治生命を守るために、その命さえ投げ出し、職務に殉じた。命をかけることを思えば、貞操を捧げることなど、大したことではない。
(この身体を、清州先生に捧げるんだ――)
どんなに想っても、叶わない恋情。それならばせめて、彼のために、いちばん役にたつ男でありたい。
「抱いて……ください……」
意を決して告げた言葉。金山は骨が軋むほど強く、榮の身体を抱きしめた。
下腹に、熱く滾った金山の分身が触れている。はじめて感じる他人の劣情の兆しに、ぞわっと全身の毛が逆立った。
この巨大なモノで貫かれるのだ。そう思うと、不安に押しつぶされてしまいそうになる。
「高科さん?」
心配そうに名前を呼ばれ、震える指でネクタイを緩めた。ワイシャツのボタンを外そうとして、うまく指が動かない。何度も失敗しながら、なんとか三つ目のボタンまで外す。シャツの前を開いて肌を晒すと、あらわれた喉元に金山が喰らいついてきた。
「ぁっ……!」
こんな場所が、こんなにも感じてしまうなんて。
まるで性*器をじかに握りこまれたかのような強烈な快感に、眩暈を起こしてしまいそうになった。指一本触れられていない先端に、ジワリと蜜が滲む。
「はぁっ……んっ……」
なんの刺激も与えられていないのに、こんなふうに天を仰ぎ、蜜まで溢れさせてしまうなんて。そんな自分の身体の変化に、榮は戸惑わずにはいられなかった。
「すごく……きれいだ。高科さんの身体、めちゃめちゃキレイですっ……」
シャツのボタンをさらに外され、素肌を露わにされてゆく。ズボンのベルトに手をかけられたそのとき、榮は思わずその手を払いのけてしまった。
「高科さん……?」
不思議そうな顔で見つめられ、慌てて言い訳を考える。
「ぇ、ぇっと、あのっ……シャワーっ。シャワーをっ……こ、このままじゃ、汗臭くてご迷惑をおかけしますしっ……」
パニック状態に陥り、慌てふためく榮を抱き寄せ、金山はちゅ、とその頬にくちづける。
「大丈夫ですよ。高科さん、すごくいい匂いしてます。このままでも、全然気になりません」
「ゃ、ぁ、ぁ、あなたが気にならなくてもっ……私は、気になりますからっ……」
涙目になって叫んだ榮を、金山は心配そうな瞳で見つめた。
「オレ、臭いですか……?」
「ゃ、あなたではなく、私がっ……と、とりあえず、シャ、シャワー浴びてきますっ」
落ち着け。落ち着かなくちゃいけない。
そうだ。この作戦に成功すれば、きっと金山は夜遊びをせずにいてくれるだろう。見たところ純朴そのもの。あまり賢くないが、生真面目な性分の男のようだ。榮が恋人ごっこに付きあってやれば、操を立て、よそでは遊ばないでいてくれるかもしれない。
浴室に逃げ込み、榮はタイル張りの床にうずくまって頭を抱えた。
(大丈夫。これは、性行為じゃない。単なる忠義を尽くすための試練だと思えばいいんだ……)
清州のため、清州のため……そう呟きながら、熱いシャワーに打たれる。何度も心を決めようとして、そのたびに怖気づいてしまった。
「高科さん、大丈夫ですかー?」
扉の向こうから金山の声が聞こえてくる。
「だ、大丈夫ですっ」
これ以上、待たせ続けるわけにはいかない。シャワーを止め、浴室の扉を開けようとした瞬間、ふらりと立ちくらみを起こしてしまった。
ダメだ、倒れるわけにはいかない。そう思いながらも、榮は情けなく意識を手放してしまった。
目覚めると、ベッドのなかだった。誰のものだろう。いつのまにか見覚えのない、ぶかぶかのシャツを着せられている。
「目、覚めましたか」
とつぜん声をかけられ、びくんと身体をこわばらせる。声の主は――金山議員。自分の置かれた状況を思い出し、榮は慌てて謝罪した。
「も、申し訳ありませんっ……」
長湯をし過ぎて意識を失ってしまうなんて、最低だ。奉仕するどころか、迷惑をかけるだけで終わってしまった。
「ぁ、あのっ……つ、づき、されますか……?」
ぎこちなく訊ねた榮に、金山はやんわりとした笑顔を向ける。
「ゃ、きょうは遅いですし、寝ましょう」
「ですがっ……」
ぴったりと密着した肌。榮の太ももに、猛った金山のモノが触れている。
「オレ的には、こうして高科さんと添い寝できるだけで、すっごく幸せなんですよ」
ギュッと抱きしめられ、首筋に唇を押し当てられる。朝から引っ越しや各種手続きに追われ、疲れ果てているのだろう。反論する間もなく、金山は高科を抱きしめたまま寝息をたてはじめてしまった。
「昨晩、どうでした、高科さん」
翌朝、事務所に出勤するなり堀田に耳打ちされた。
「なっ……」
なぜ、昨夜のことを堀田が知っているのだろう。慌てふためく榮に、堀田はさらに小声で話しかけてくる。どうやら榮が考えているのとは違うことを訊ねようとしているようだ。
「大変ですよね。幽霊が出るって評判の部屋で暮らさなくちゃいけないなんて。あの部屋、石坂議員が自殺した部屋でしょう?」
「自殺っ?!」
思わず大きな声を出してしまい、堀田にたしなめられる。
「声が大きいですよ。ほら、石坂邦彦議員。あの部屋は二十年くらい前に大規模な汚職事件で有名になった石坂先生が亡くなった部屋なんです」
「そ、そんな……っ」
「どうしたんです、大きな声を出して」
執務室から出てきた金山に声をかけられ、堀田はぎこちない笑顔をつくった。
「な、なんでもないですっ。先生、昨晩はゆっくりおやすみになれましたか」
「ああ、おかげさまで。ゆっくり休めたよ。やっぱり職場と宿舎が近いのはいいな」
「ええ、でも清水谷宿舎は旧くて大変でしょう。間取りもあまり広くないようですし」
金山には自殺の件は伏せておくつもりのようだ。堀田はさりげなく宿舎の話題から、近隣の公営プールやスポーツクラブの話へと話題を変えてゆく。
堀田も、学生時代は水泳部に所属していたらしい。盛り上がる二人を尻目に、高科はあの部屋での今後の生活を想い、深く大きなため息を吐いた。
懇親会や各所へのあいさつ回り。多忙な時間を過ごすうちに、あっというまに初登院の日がやってきた。
「いいですね、絶対に余計なことをいってはダメですよ。例の『わかんなーい騒動』以降、新人議員を質問攻めにして貶めるのが定例化しているんです。今回、特に金山先生は標的にされる可能性が高いですから、とにかく足を止めずに敷地内に逃げ込む作戦でいきますよ」
「『わかんなーい騒動』ってなんですか」
「金山先生、そんなことも知らないんですかっ?!」
「僕も知りません。なんですかー?」
不思議そうな顔をする金山と堀田を前に、高科は立ちくらみを起こしてしまいそうになった。
「あー、それ、ワタシ知ってるよー。何年か前の選挙で当選したオバサンが、テレビ局の記者に政治についてムズカシイ質問されたけど全然答えらんなくて、『わたし、わかんなーい。こまっちゃーう』とか答えちゃったやつでしょ」
美人双子の片割れが、自信ありげにそう答える。
「はい。そうですけど、金山先生とお話しするときくらい、ちゃんと敬語を使いましょうね。それから電話に出るときも、お願いですから私の書いたマニュアル通りに受け答えしてください」
「えー、いちいち読むの面倒くさいしー」
「たった数行の文章くらい、読まなくても覚えられるでしょう!」
「無理ですよぉ、高科さん。亜耶(あや)ちゃん、伽耶(かや)ちゃんにそんな能力が備わっているわけがないでしょう」
堀田のツッコミに『お前がいうな!』と叫んでやりたい気持ちを抑え、榮は金山の手に今回の参院選に向けて党が作成した公約と、それらを小学生向けにわかりやすく解説した絵本風のパンフレットを握らせた。
「先日もお伝えしましたが、こちらの小学生向けのパンフレットの内容だけでも頭に入れておいてください。細かい数字や用語が覚えられないのは仕方がないです。ですが、党の方針とまったく異なる意見を口にするようなことだけは避けていただきたいのです」
「そんなの読んでも、きれいごとしか書いてないですよぉ」
政治家の息子の発言とは思えない暴言を吐く堀田の口を塞ぎ、この事務所に来て以来何度目になるかわからないため息を吐く。
「金山先生はその『きれいごと』のなかの、さらにきれいな部分を強調するための存在なんです。とにかくマイナスの印象を与えない。それだけを目標に無難にこなしていただきますっ。では、行きますよ。あまり遅くなっても、よくない印象を与えてしまいますから」
普段は硬く閉ざしている国会議事堂の中央玄関。特別に開かれた正門からの初当院は、当選後の議員にとって最初の晴れ舞台だ。国会前はたくさんのマスコミや支持者で溢れかえっている。
「わ、凄いですね。アイドルのコンサートみたい。アレ、みんな金山先生のファンですよねぇ」
うちわに金山の写真を張りつけた謎の飾り物を手にした女性たちや、まるでオリンピックの壮行会のような横断幕を掲げたマッチョな集団。どこからどう見ても政治家を応援する姿ではない熱狂ぶりに、高科は呆れずにはいられなかった。
「ツヨシくーんっ」
「金山選手ゥ、ファイットォ!」
沸き起こる声援も、明らかにタレントとしての彼に黄色い歓声をあげる女性ファンや、競泳選手時代の熱心な支援者のそれだ。
「高科さん、彼らにお応えしたいのですが、なにか声をかけてもいいですか」
「無難に『ありがとうございます』と返すくらいならいいですよ」
遠巻きに見ていてくれるだけならいいが、マスコミを押し退ける勢いでたくさんの人たちが一斉に突進してくる。
「堀田くん、先生をお守りするんだ!」
榮と堀田は、身体を張って彼らから金山を守る羽目になった。
夏休みのせいか、子どもたちの姿も多い。ひと目金山を観たくて、サインをもらいたくて、衛視の制止をかいくぐって猛攻してくる。
「高科さん、子どもたちだけでいい。サイン、させてください」
現役時代、どんなに重要な大会であっても、彼はサインや写真を求められれば、笑顔で応えていたようだ。
だからといって、ここは国政の場だ。どう考えたって小学生がサインを求めに来てよい場所ではない。それなのに金山はスーツが汚れるのも気にせず、地面にしゃがみ込んで彼らひとりひとりを抱き上げ、サインをしてあげたり、ハイタッチやハグ、握手をしたりしはじめる。
子どもたちとの歓談に割り入ってまで意地の悪い質問をぶつけるのは気が引けたのだろう。幸いなことに、嫌味な記者の質問攻めにされることなく、その場を切り抜けることができた。
「よかったですねぇ、無事に最初の大仕事を乗り切れた」
テレビ画面に映し出された初登院のニュースを眺め、堀田がホッとした顔でつぶやく。子どもたちと仲よく戯れる金山の姿は、視聴者の目に好意的に受け止められたようだ。
今回も意地悪な質問をぶつけられ、記者の前でうろたえる姿を収められた者や、支持母体である学生組織とともに派手なパフォーマンスを繰り広げる野党議員が悪目立ちするなか、特定の色を感じさせることなく好印象を残した金山は、与党保守派のお飾り議員として、まずまずのスタートを切ったといえる。
「あそこで子どもたちを止めていたら、きっと今ごろネットで総叩きですよ」
堀田のいうとおり、どんな些細なことで炎上してしまうかわからない。選挙権が十八歳に引き下げられた今、ネットでのイメージ戦略はいままで以上に重要になってくるのだろう。
「そろそろ金山先生をお迎えに行かなくては。堀田くん、ここは頼みますよ」
パソコン操作や書類作成には疎い堀田だが、幼いころから政界人に囲まれて育っているせいか、人当りだけは誰よりもいい。時折、学生時代を引きずっているようなとんでもない行動をとることもあるが、美人双子と比べたら数段安心感がある。
「任せてください。なにかあったらすぐ連絡します!」
金山事務所に宛がわれた人員は、全部で六人。
公設秘書の高科と堀田、私設秘書の亜耶と伽耶、名義だけで事務所には顔を出すことのない清州の従兄、政策秘書の清州瑛二のみだ。
愛想がいいかわりに時間にルーズな堀田は、スケジュール管理や送迎には使えない。なんだかんだで、業務のほとんどを高科が請け負うことになった。
「金山先生、議員研修おつかれさまでした。本日はこの後、赤坂のホテルで勉強会、党本部での打ち合わせと取材、会派の会食、懇親会が控えております」
榮の言葉に、金山はにっこりと笑顔をかえす。
「教えてくださってありがとうございます」
「『ありがとうございます』ではなく、『ありがとう』です。周囲の目もあります。議員の先生が秘書に敬語をつかうのは不自然ですよ」
ぴしゃりとそう告げた榮に、金山はなんでもないことのようにいいかえす。
「大住先生も、秘書の方に敬語をつかっていますよ」
「あの方は、そういう物腰の方だからです」
大住というのは、与党の生き字引のような高齢の重鎮議員だ。まわりの議員や官僚、秘書やマスコミ、誰に対しても敬語で接する。
「じゃあ、オレもそういう物腰の議員になります」
どこまでもマイペースな男だ。金山はそう答えると、後部座席の扉を開いた榮の横を素通りして、勝手に助手席に乗りこんでしまった。
「お願いですから後部座席に乗ってください。助手席は危険です」
事故やトラブルに備え、議員には後部座席に乗っていただくことになっている。何度説明しても、金山は助手席に座るのを止めようとしなかった。
「勉強会は私が代わりに参加して資料をいただいてきます。金山先生は事務所ですこし休んでいてください」
「いや、そういうわけには」
清州もそうだが、たいていの議員が重要度の低い勉強会や会合には自ら出席することなく、代わりに秘書を派遣し、資料を持ち帰らせてざっと目を通すにとどめる。
出席したところで話の内容などまるで理解できないくせに、この男は声をかけられた場所には、できるだけすべて顔を出そうとしているようだ。
「時間の無駄です。このあいだのように恥をかかされる可能性もありますし」
与党のなかにも、清州派に対し風当たりの強い派閥がある。そんな議員たちが、あえて金山に初歩的な質問をぶつけ、それすら答えられない無知な彼を笑いものにすることがあるのだ。
「だからって、出ないわけにはいかないでしょう。わからないから参加しないなんて、おかしいです。ちゃんと勉強してわかるようにならなくちゃ。それが、オレたち議員の務めでしょう」
あまりにも真面目くさった返答に、榮はため息を吐かずにはいられなかった。
榮自身も、よく『融通が利かない』『頭が固すぎる』といわれることがあるが、金山はそんな榮から見ても呆れるくらいに一本気でまっすぐなのだ。おまけにそのまっすぐさに知識や技量が追いついていないのだから、たちが悪い。
「そういう発言をするのは、せめて小学校で習う漢字をすべて読めるようになってからにしてください」
嫌味をこめていってやると、さらりと笑顔でかわされた。
「努力します。では、次の仕事に向かいましょう」
「ちょっと待ってください。せめていったん事務所に戻って休憩を。初っ端から根を詰め過ぎると、そのうち倒れます」
真顔で告げた榮に、金山はちゅ、と唇を重ね合わせる。
「んーーーっ?!」
あまりにも唐突なキスに、榮は思わず叫び声をあげてしまった。
金山はギュッと閉ざした榮の唇を肉厚な唇ですっぽりと包みこみ、やさしく吸い上げる。彼の身体から真夏の日差しを浴びた草原のような匂いが香って、なぜだか心臓が跳ねあがった。
「心配してくれてありがとうございます。大丈夫ですよ。体力には自信があるんです。それに、こんなに最高の恋人がそばにいてくれたら、どんなに忙しくたって乗り切れますよ」
「こ、恋人っ……?」
「恋人、ですよね。高科さんもオレのこと、好いてくれてるんでしょう?」
金山の顔が近づいてきて、ふたたび唇にキスされてしまいそうになる。
「ぁ、あのっ……」
大柄なその身体を押し退けようとしたそのとき、後方でクラクションが鳴り響いた。信号が青に変わってしまっている。急いで車を発進させなくてはいけない。
「ぅ、運転中にヘンなことするの、やめてください!」
ばくばくと暴れまわる心臓。榮は金山の身体を思いきり突き飛ばし、ハンドルを握り直してアクセルを踏みこんだ。
すべての仕事を終えて宿舎に戻ると、すでに日付が変わっていた。
「明日も七時から朝食会の予定です。はやくお休みになってください」
先にシャワーを浴びるよう促すと、「高科さん、お先にどうぞ」と返される。
「いえ、そういうわけには。睡眠不足で倒れられては困りますから」
「それは高科さんだって一緒でしょう。オレは寝る前にすこし筋トレするんで、先入ってきてください」
「筋トレ?! いまからですか?」
早朝から夜更けまで働きつづけて、まだ身体を動かし足りないというのだろうか。驚愕する高科の腕を掴み、金山はいう。
「なんならいっしょに浴びてもいいんですよ。どうしても先に入るのがいやだっていうのなら、オレもついていきます」
耳元に唇を寄せられ、かぁっと頬が火照った。
「お、お先に浴びさせていただきますっ!」
先刻のキスを思い出し、バクバクと心臓が暴れはじめる。先にシャワーを浴びて来いというなんて、もしかしたら、今日こそあの夜のつづきをさせろ、と迫ってくるのだろうか。
ここ数日、金山は書類の作成や資料読みに追われていて、毎晩電池が切れたように眠りに落ちてくれている。おかげで身体を求められずに済んでいるけれど、今日こそ、あの夜のように襲いかかってくるつもりなのかもしれない。
「はじめての相手が、衆議院と参議院のちがいもわからないような残念な男なんて……」
ぐったりとうなだれながら、熱いシャワーに打たれる。真夏のような日差しのなか、忙しなく歩き回った一日だった。ぼーっと湯に打たれていると、段々と意識が朦朧としはじめる。
「いけない。倒れる前にあがらなくては……」
あの夜の二の舞になるわけにはいかない。ふらつきながら、榮はシャワールームの外に出た。
普段、自室ではパジャマなど着ないけれど、他人と一緒に暮らす以上、いい加減な姿でうろつくわけにはいかない。きっちりとパジャマのボタンを一番上まではめて、榮はリビングに戻った。
築五十年ちかい、古ぼけた2K。新赤坂宿舎の半分の広さしかない簡素な部屋だ。浴槽はなくシャワーのみで水回りも老朽化が進んでおり、入居を嫌がる議員が多いため、建物の半分以上が空室のままだという。両隣も空室で、物音ひとつ聞こえてこない。
「四十二ッ、四十三ッ、四十四……」
静まり返った室内に、金山の声が響く。片手腕立て伏せというものがあるのは知っていたけれど、こんなふうに目の前で見るのははじめてだ。上半身裸でボクサーブリーフだけを纏った姿。隆々とした筋肉が腕を曲げるたびに大きく動いて、褐色の肌に汗が滲んでゆく。
(すごい身体だな……)
筋肉質な男になんか、ちっとも興味がないけれど。そんな榮から見ても、金山の身体は息を呑むほどうつくしかった。
見せるための筋肉ではない。世界の猛者たちと競うため、必然的につけねばならなかった筋肉なのだろう。鍛え抜かれたその身体が躍動するさまに、思わず見惚れてしまいそうになった。性的な関心ではない。芸術的な美を目にしたときのような、そんな感動だ。
「四十九……五十ッ」
一セット五十回で区切りのようだ。五十回目を終えると、金山はゆっくりと身体を起こして額の汗を拭う。
「もう少ししたらオレも浴びてきますから。高科さん、先、寝てていいですよ」
予想外の言葉に、榮は軽く拍子抜けした。
「ぇ……ぁ、はい」
リビングのソファに横になろうとして、やんわりと引き留められる。
「そんなところで寝たら、身体悪くします。ちゃんとベッドを使ってください」
「いえ、そういうわけには……」
「大丈夫ですよ。高科さんが『したい』って思うまで、絶対に無理強いしたりしませんから」
人懐っこい笑顔を浮かべると、金山はテーブルの上のペットボトルに手を伸ばした。
ごくごくと水を飲み干す彼の喉仏に、なぜだか自然と視線が吸い寄せられてしまう。全体的にほっそりとしたつくりの高科と違い、金山はすべてのパーツがごつごつしている。大きくせり出した喉仏が上下するさまはとても雄々しく、妙に性的に感じられた。
シャツをはだけられ、首筋に喰らいつかれたときのことを思い出し、かぁっと頬が熱くなる。
「高科さん、ほっぺたが赤いです。もしかして、夏風邪ですか?」
とつぜん額に触れられそうになり、あわてて後ずさる。ビクンと身体をこわばらせた榮の背中に手を廻すと、金山はちゅ、と頬にくちづけた。
「そんなに……熱くなさそうですね。湯上りのせいかな」
ホッとしたような顔でいうと、金山は榮の背中から手を離す。彼が離れて行った後も、触れられていた背中とくちづけられた額がジンジンと火照って、榮はその場にへたりこんでしまいそうになった。
「大丈夫ですか」
ふらりと倒れそうになった榮を、金山が抱き止める。慌ててその腕から抜け出し、榮は叫んだ。
「さ、先に寝てきますっ」
ふらつく足で、寝室に駆け込む。金山から離れたあとも、心臓が暴れつづけ、うまく呼吸ができなかった。
ベッドの隅にうずくまり、暴れまわる心臓をパジャマの布地越しにギュッと押さえる。
(きっと免疫がないから、こんなふうになるんだ……)
けっして、あの男だからとか、そんなわけではない。
シーツに潜り込み、こんなとんでもない役目を言い渡した清州を、栄は改めて恨めしく思った。
金山が寝室に入ってきたのは、榮がうとうととまどろみはじめたころだった。眠ったふりをしていたかったのに、物音にびくっと身体が跳ね上がってしまう。
「すみません、起こしちゃいましたね」
ちいさな声でいうと、金山はそっとベッドのなかに入ってきた。
「そんなに端っこで寝たら、落ちてしまいますよ」
単身者向けの宿舎。ベッドはセミダブルサイズで、男二人で眠るには狭すぎる。おまけに金山が大きすぎるせいで、端のほうに寄っていないと身体が密着してしまうのだ。
「へいき、です」
背を向けたまま告げると、すこし心配そうな声でいわれる。
「もしかして高科さん、オレに触られるの……ほんとうは、イヤだったりしますか」
突然の言葉に、榮は思わず彼を振りかえった。すると思いのほか近い場所に、真剣な表情をした彼の顔がある。
ひとの心の機敏になど気のまわらない、鈍感な男だとばかり思っていたのに。もしかして、榮が嫌々身体を差し出そうとしていることに、気づいているのだろうか。
「そんなこと……ない、です」
ぎこちなく笑顔をつくった榮を、金山はまっすぐ見つめる。
「でも、高科さん。ほら、オレが触ると震えちゃいますよね」
「そ、それはっ……」
どうしよう。このままではダメだ。金山が榮の本心に気づき、二丁目に相手を探しに行くような事態になれば、清州を失望させてしまうことになる。
「ぁ、あのっ……経験がなくて……キスとか、その先のこととか……全部、はじめてでっ……」
なんとかして金山の関心を、自分につなぎとめておかなくてはならない。必死になって弁明した榮を、金山はじっと見つめた。
(どうしよう、嘘だって思われてしまっただろうか……)
不安になった榮に、彼は心底うれしそうな笑顔を向ける。
「ほんとですかっ。こんなにきれいなのに?」
「き、きれいって……自分は、そんなっ……」
戸惑う榮を、金山はとつぜんむぎゅっと抱きしめた。
「すっごくうれしいです。オレ、ちゃんと待ちますから。高科さんが、もっともっとオレのこと好きになって、自然とその先のこと、したいって思ってくれるまで、いつまででも待ちますから。だから絶対に無理しないでくださいね」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、金山の猛った分身が触れる。
「いってることと、やってることが噛み合ってないと思うんですけど」
思わずぼそりとつぶやいてしまった榮に、金山は慌てて謝罪する。
「わ、すみませんっ……えと、ぁ、そうだ。これっ……」
金山は頭の下から枕を引き抜き、自分の下腹と榮の下腹のあいだにパーテーションのように設置する。
「よし、これで大丈夫っ」
なにが大丈夫なのかさっぱりわからない。枕で下腹だけが分離された状態で、金山はふたたび榮の身体を抱きしめた。
「くっつかずに眠るっていう選択肢はないんですか」
呆れつつそう尋ねた榮に、金山はニッと笑って見せる。
「だって高科さん、おばけ怖いでしょ」
「なっ……ど、どうしてそれをっ……」
どこまでも鈍感で、お馬鹿な男だとばかり思っていたのに。いったいなぜ、そんなことがバレてしまったのだろう。
「昼間はそうでもないのに、夜になるとちょっとした物音でもすぐビクッてなるし。それにソファで寝てるとき、いつも灯りつけたままで寝てますよね。オレのこと警戒してるわりには、誘えばベッドで眠ってくれるし。もしかしたら、おばけが怖くて向こうの部屋でひとりで寝るのつらいのかなぁって思って」
すべて図星だ。あまりの恥ずかしさに、榮はシーツのなかに逃げ込んでしまいたくなった。
「べ、べつにおばけなんて、こわくありませんっ。大体、そんな非科学的なもの……っ」
「ぁ、なんか扉のとこに青い光が見える」
「うわぁああっ!」
思わず飛び上がってしまった榮を、金山はぎゅっと抱きしめる。
「だいじょぶです。誰でも苦手なモノのひとつやふたつ、ありますよ。誰にもいいません。高科さんとオレだけの秘密にしておきますから」
その身体を押しのけようとして、抵抗ごと抱きすくめられる。しっかりと下半身ガードの枕が互いを隔てているおかげで、アレが当たる心配はなかった。
「おばけが出ようが暴漢が襲ってこようが、高科さんのことは絶対にオレが守りますから。安心して眠ってください」
首筋にくちづけられ、びくっと身体が跳ねあがる。こんなの、いやでたまらないはずなのに。確かにこうしてこの男の腕のなかにいたら、幽霊なんて見ずにすむような気がしてくる。
「おやすみなさいのキス、してもいいですか」
普段はなんの前触れもなく、勝手にキスするくせに。わざわざそんなふうに訊ねられ、榮は戸惑った。
「ダメだといったら、しないんですか」
「うーん……完全にナシだと辛いんで。そしたらほっぺたにします」
頬や首筋にするのも嫌がられるとは思わないのだろうか。不意打ちのように頬にくちづけられ、かぁっと熱くなった。
「ダメとは……いってないです」
清州からは、この男の夜の相手を務めるよういいつけられているのだ。キスごときで、ひるんではいけない。きっちり役目を果たそうと心に誓い、榮は金山の唇に、自分の唇を重ね合わせようとした。
「無理しなくていいですよ。ちょっとずつでいいんです。すこしずつ、オレを好きになってもらいますから」
金山はやんわりと榮を遮り、その頬にふたたび唇を重ねる。なぜだかわからないけれど、やわらかなその感覚に、胸がぎゅっと苦しくなった。
「おやすみなさい、高科さん。明日もよろしくお願いします」
くしゃりと髪を撫でられ、思わず目を細める。
「おやすみなさい」
答えると、そっと抱きしめられた。
あたたかな腕のなか。疲れているはずなのに、バクバクと心臓が暴れたまま、なかなか寝付くことができなかった。
「あの男、ずいぶんきみに懐いているようだな」
清州の執務室。冷やかな声音でいわれ、榮はビクンと身体をこわばらせた。
金山とまだ関係を持っていないことを、清州には打ち明けていない。もしかしたらなにかバレてしまっているのだろうか。不安になりつつ、榮は清州を見つめた。
「頼んだぞ。あの男を、くだらないスキャンダルで失脚させるわけにはいかないんだ」
目力の強い瞳に見据えられ、ぎこちなく笑顔をかえす。
「絶対にそのようなことがないよう、しっかりと見張らせていただきます」
清州は満足げに微笑み、執務机の上の書類を片付けた。
「そうだ。きみに、今晩つきあってほしい場所があるんだ」
「つきあってほしい場所、ですか」
「ああ。金山くんのことは、こちらでなんとかする。だから今夜は、私の元に戻ってきてほしい」
艶っぽい低音でささやかれ、かぁっと頬が熱くなる。
「かしこまりました。お供させていただきます」
「大切な会合なんだ。きみ以外の人間には、任せられないんだよ」
仕事の案件であることがすこし残念だけれど、清州が自分を頼ってくれたのだと思うと、とても嬉しい。出来る限り平静を装い、榮は仕事の顔で応じた。
「では、私は清州先生に同行させていただきますが、金山先生も堀田くんも、羽目を外しすぎないようにお願いしますよ」
清州の秘書に連れられ、金山たちは六本木に飲みに行くのだという。ベテラン秘書のお守りつきだ。むしろ自分が監視をするより安全に違いない。そう思いながらも、金山を別の人間に任せるのは、なんだかすこし落ち着かなかった。
「だいじょぶですよ。僕がついてるんですから!」
調子のいい言葉を吐く堀田に、榮はちいさくため息を吐く。
「あなたがいっしょだから、余計に心配なんです。いいですね、仕事中なんですから、あなたはぜったいに飲んではダメですよ」
悪い人間ではないが、堀田は酒好きの上に、若干酒癖が悪いのだ。金山への同行はあくまでも職務。酒の席に呼ばれたからといって、秘書が酒を口にしていいわけがない。ましてや酔っぱらうなんて言語道断だ。
「任せてください!」
不安をあおるような軽い口調で、堀田はそういってのけた。
ぶんぶんと無邪気に手を振る二人の姿に後ろ髪をひかれながら、清州のもとへと向かう。
久しぶりの清州との仕事。気を引き締めなくてはならない。そう思いながらも、どうしても頬が緩みがちになってしまう。
「お待たせいたしました、清州先生」
すでに身支度を整えた清州が、議員会館のロータリーで待っていた。申し訳ない気持ちになりつつ急いで車をまわし、指定された場所へと向かう。
行先は、赤坂の料亭だった。この界隈でも名の知れた老舗で、清州が『ここぞ』というときにつかう、切り札のような店だ。
もてなす相手はいったい誰なのだろう。
興味を惹かれつつ趣深い座敷で控えていると、仲居さんに案内されて入ってきたのは、清州派の対抗派閥、江田派の要、及川(おいかわ)衆議院議員だった。
「及川先生」
ご無沙汰しております、と頭をさげた榮に、及川は手のひらを差し出してくる。
学生時代、テニスで国体に出場した経験があるのだという。すでに五十代半ばだが、上背があって若々しい体型をしており、甘みのある二枚目で女性有権者からの人気も高い。ロマンスグレーの髪をきれいになでつけ、清潔感のある上質な背広に身を包んでいる。
留学経験があるせいだろうか。若干スキンシップが多い。慣れない握手に戸惑う榮の手をぎゅっと握りしめ、及川は微笑んだ。
「きみは本当に変わらないな。清州ジュニアのところにきて、何年になる」
「五年目になります」
「まだ学生だといっても通る初々しさだな」
馬鹿にされているのだろうか。助けを求めるように清州に視線を向けると、無言のままちいさく頷きかえされた。巧くあしらいなさい、ということだろう。
「無作法なままで、大変申し訳ございません。諸先輩方のように先生方のお役に立てる秘書になれるよう、これからも精一杯勉強させていただきたいと思います」
深々と頭を下げ、榮はふたたび清州を見上げる。このような会食の場では、秘書は大抵、車や別室で待機することになっている。清州についてくるよういわれたからここまで来てしまったものの、邪魔になっているのではないだろうか。
「及川先生、どうぞそちらへ」
清州に促され、及川が上座へと向かう。いまが退室のチャンスだろう。
「それでは、わたくしはこれで……」
失礼いたします、といいかけた榮に、清瀬は意外な言葉を投げかけた。
「高科くん、きみは及川先生の隣へ」
「えっ……」
「なにをしている。お酌をしてさしあげるんだよ」
運ばれてきた食前酒。清州は榮にお酌をするよう命じた。普段、酒の席でお酌をすることがないわけではない。後援会主催の宴席や各種パーティ、周囲をもてなすことは多々あるが、こんなプライベートな席で秘書にお酌をさせるなんて、普通に考えてあり得ないシチュエーションだ。
お願いすれば、この店では芸者を呼んでもらうこともできる。清州はこの宴席を『大切な会食』だといっていた。それならばなおのこと、一介の秘書にお酌をさせたりせず、最上級の芸者を呼び、しっかりともてなすべきではないだろうか。
そもそも会食の相手が及川というのも理解に苦しむ。清州の父、清州昭久にとって、彼は同じ与党の議員でありながらも、『政敵』と呼ぶにふさわしい存在だ。
父子で多少政策や理念に差異があるとはいえ、清州はおおむね、父の歩んだ道を歩いている。
主である彼がなにを考え、清州派にとって党内最大の天敵ともいえる及川と席を共にするのか、榮にはさっぱりわからなかった。
「――どうぞ」
どうせお酌をしてもらうなら、艶やかな女性にしてもらいたいだろうに。申し訳ない気持ちになりながら、榮は及川の器に酒を注いだ。
「ありがとう。きみも飲みたまえ」
「お心遣い、ありがとうございます。申し訳ございません、この後まだ、車の運転がありまして……」
「高科くん、ありがたくいただきなさい」
あまりにも想定外な言葉に、榮は一瞬、聞き間違えたのではないかと思った。けれども及川にも同じように聞こえたようだ。呆然とする榮の手にグラスを握らせ、彼はなみなみと酒を注ぐ。
「ぁ、ありがとうございます……」
香りからして、辛口の日本酒だろう。あまり酒に強くない榮は一瞬ひるんだ。
(この状況下で、飲まないわけにはいかないよな……)
意を決し、口元へと運ぶ。予想どおり、それはとても辛口の酒だった。アルコール度数も高いのだろう。キリリとのどを焼くそれは、食前酒とは思えないほど痛烈だった。
飲み干すころには、ふわりと視界が揺れはじめていた。
「いい飲みっぷりだ。もう一杯、どうだね」
ダメだ。これ以上飲んだら……ぜったいに、危険な状態になる。そのことがわかっていながらも、断りの言葉を発することができなかった。
榮が酒に弱いことは、清州もよく知っている。助けを求めるように彼に視線を向けると、「いただきなさい」と命じられた。
どうしよう。すでにこめかみがジンジンと熱を帯びはじめている。不安になる榮のグラスに、及川は半ば強引に酒を注ぎこんだ。
目上のひとから注がれた酒。おまけに相手は清州にとって、たいせつな客人だ。飲まないなどという選択肢は、ある筈がなかった。
「いただきます」
深々と頭を下げ、ふたたびグラスを口に運ぶ。むせかえるようなその匂いだけで、榮は意識が朦朧としてしまいそうになった。
ちいさく深呼吸し、ぎゅっと目を閉じてそれを飲み干す。とくり、と口内に流れ込んだそれは、のどだけでなく榮の全身を焼き尽くすほどの熱を発した。
「――っ」
ふらりとよろめいた榮を、及川が抱き留める。
「どうした。大丈夫かい?」
「も、申し訳ございません……っ」
慌てて身体を起こそうとして、強く引き寄せられた。渋みのある香水の匂いに包まれ、余計に頭がぼーっとしてしまう。及川の掌が、背広越しに榮の背中を撫であげる。ねっとりとしたその手の動きに、ぞわっと背筋が震えた。
はやく、抜け出したいのに。どんなに頑張っても、身体を起こすことはできそうになかった。
大好きな清州の声が聞こえる。凛としたその声に、誰か、別のひとの声が重なった。誰だろう。低くて穏やかな、壮年のアナウンサーのような朗々とした声だ。
「随分酔っているようだね。こんな状態で、ひとりにしては危ないな。彼は清水谷の宿舎だったな。おなじ方面だ。私が送ろう」
「ええ、助かります。及川先生」
なんの話をしているのだろう。遠くに聞こえる彼らの会話を、榮はあまり理解することができなかった。
「行こうか、高科くん」
腕を掴まれ、引き寄せられる。
「ぇ、あ、あのっ……」
嗅ぎ慣れない香水の匂いに包まれ、自分を抱き寄せる男が及川だということがわかった。抗おうとして、ハイヤーの後席に連れ込まれる。
「紀尾井町まで頼む」
どこかに連れ込まれるのではないかと邪推した自分を、榮は恥ずかしく思った。
「ぁ、あの……っ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
身体を起こそうとして、肩に手を廻してぐっと引き寄せられた。
「迷惑だなんて、すこしも思っていないよ。まだ飲み慣れていないのだな。こうして酔いつぶれる姿も、初々しくて魅力的だ」
ねっとりとうなじを撫であげられ、ビクンと身体が跳ねあがる。
「ほら、つらいだろう。楽にしていなさい。私の肩にもたれかかればいい」
側頭部をやんわりと引き寄せられ、上質な背広の生地が頬に触れる。及川は思いのほか力が強く、がっしりと押さえ込まれると身動きを取ることができなくなってしまった。
ぴったりと互いの太ももが触れあっている。うなじを撫でていた彼の指が、榮の耳朶に触れた。
「ぁっ……!」
思わず声をあげてしまった榮に、及川は愉しげな笑みを向ける。
「随分と敏感なんだな。ほんのすこし触れただけで、そんなに好い声で啼くなんて」
耳殻を辿っていた及川の指が、さらに移動してゆく。喉仏を撫でられ、ワイシャツの襟と首との境目をそっとなぞられた。ぶるっとその身を震わせた榮を抱き寄せ、彼は耳元で囁く。
「古めかしい清水谷宿舎のベッドは、さぞかし寝心地が悪いだろう。今夜は広々としたベッドでゆっくりと眠らせてあげよう」
「ゃ、ぁ、あのっ……!」
弁慶橋を渡り、右手に参議員宿舎の旧い建物が見えてくる。それなのに車は左折し、宿舎の目の前にある高級ホテルの車寄せへと吸い込まれていった。エントランス前で車が停まり、そのままホテルに連れ込まれそうになる。
「も、申し訳ありませんっ、まだ仕事が残っておりますのでっ……」
とっさにそう叫び、及川の手を振り切って走り出す。横断歩道までまわりこむ余裕などなかった。車道に飛出し、クラクションの集中砲火を浴びる。
「高科くん、おい、待ちたまえっ!」
及川の叫ぶ声が聞こえる。榮は彼の制止を無視し、無我夢中で参議員宿舎のなかに逃げ込んだ。
「わ、どしたの、高科さん」
古めかしいエントランスに、買い物袋をさげたジャージ姿の金山が立っている。
「なんでも……ありません……っ」
そう答えながらも、酩酊状態で全力疾走したせいで、呼吸が乱れ、まともに立っていることさえできなかった。ふらりと倒れ込む榮を、金山が抱き留める。
「あ、あれは……確か、えぇと、衆議院議員の……あれ、あの先生もここの宿舎でしたっけ」
金山にそう問われ、気だるい身体を起こして振りかえると、扉の向こうに及川が立っていた。
「ちがう……と、思います。金山先生、部屋に戻りましょう」
「ぇ、ああ……。あれ、高科さん、スマホ鳴ってますよ」
ふるふると震えつづけるスマートフォン。そっと胸ポケットから引き出すと、液晶には清州の名が表示されていた。
「出なくて大丈夫ですか。清州先生からですよ」
大柄な身体をかがめこむようにして画面を覗きこんだ金山が、心配そうな顔をする。
「だいじょうぶ……です」
どんなに無視しても、スマホは震えつづける。榮はスマホの電源を落とし、ぐったりと金山の腕の中で脱力した。
「それにしても仕事中に酔いつぶれちゃうなんて、高科さんもまだまだですねぇ」
議員宿舎のリビング。金山から借りたものだろう。サイズの合わないTシャツをまとった堀田が、むしゃむしゃとパンケーキを食べながら偉そうな口調でいう。
「や、堀田くん、君はひとのこといえないから」
どうやら昨日の飲み会で泥酔し、どうにも手がつけられなくなったところを金山がこの部屋に連れ帰ってきたようだ。
「まさか、堀田くんに妙なことを……」
小声で問い質した榮に、金山はぶんぶんと首を振る。
「冗談いわないでください。オレ、めちゃめちゃ許容範囲狭いんですよ。大体、高科さんというすてきな恋人がいるのに……」
「わーーーっ!」
金山の口を慌てて塞ぐと、堀田が不思議そうに首をかしげた。
「全然うまくいってないように見えて、なんだかんだいってお二人は仲良しさんなんですね」
「な、仲良くなんかありませんっ! 大体、あなたいつまでここにいるつもりですかっ。そろそろ出勤の支度をっ……」
「なにいってるんですか、高科さん。きょうはオフですよ。金山先生、働きづめだからたまには一日休ませてやってくれって、清州先生にいわれたじゃないですか」
あぁ、そうだ。きょうは当選後はじめての完全なオフ日なのだった。
「オフといっても、先生は色々と忙しいんですよ。いつまでもダラダラされていては困ります」
「そんなに目くじら立てないでくださいよ。高科さんも冷める前にいただいたほうがいいですよ。金山先生、このパンケーキ、高科さんのために作ったんですから」
「パンケーキ、お好きなんですよね?」
無邪気な笑顔で金山に訊ねられ、榮は慌てて否定した。
「わ、私はパンケーキなんかっ……」
「はいはい。そんなこといったって無駄ですよ。高科さん、忙しくてごはん食べられないとき、いつも議員会館のコンビニで買ったホットケーキパンかじってますよね。週に一度は必ず食べるのに、好きじゃないとかいわれても全然説得力ありません!」
まさか堀田にそんな細かなことを観察されているなんて。呆然とする高科の前に、金山は焼きたてのパンケーキを差し出す。
「二日酔いのときは、おかゆとかのほうがいいのかもしれないんですけど……アイスのっけてありますし、甘さ控えめにしたんで、きっと食べやすいと思いますよ」
こんがりときつね色をしたパンケーキ。甘く香ばしい匂いを漂わせたそれは、とても美味しそうに感じられた。
「これ、金山先生が作ったんですか」
「昨日、堀田くんから高科さんはパンケーキが大好きだって教えてもらって、いっつもお世話ンなってばっかだし、朝ごはんに作ったら喜んでもらえるかなぁって思ったんです」
昨日の夜中に彼が手にしていた買い物袋の中身は、パンケーキの材料だったようだ。大きな皿の上にはパンケーキだけでなく、カリカリに焼いたベーコンやふわふわのスクランブルエッグ、プチトマトやカットしたオレンジも添えられている。
「夜中に勝手に買い物に行くなんて、ダメですっ」
素直に礼をいえたらいいのに。口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。多忙な日々。疲れているだろうに、自分のためにわざわざ買い物に行き、パンケーキをつくってくれた。そのことがたまらなく嬉しくて、うっかり涙腺が緩んでしまいそうになる。
「冷めるまえにどうぞ。アイスも溶けちゃうし」
「――いただきます」
堀田の向かいに座り、パンケーキを口に運ぶ。それは最近はやりの生クリームやフルーツがたっぷり乗っている『パンケーキ』ではなく、幼いころに母がつくってくれたシンプルな『ホットケーキ』のような、懐かしくやさしい甘さをしていた。
「おいしい……です」
できるかぎり素っ気ない口調で、告げたつもりだった。けれども気づけば声が震え、かすれてしまう。
「わ、高科さん、泣いてるっ。泣けるほど好きなんですかっ、パンケーキっ」
堀田に指摘され、高科ははじめて自分が泣いているのだということに気づいた。
「ち、ちが、泣いてなんかっ……」
ごしごしと頬を拭う高科に、金山はフェイスタオルを差し出す。
「気に入って貰えて、よかったです」
邪気のないその笑顔に、余計に涙が止まらなくなる。
昨夜の出来ごと。そして、清州から受けるであろう叱咤。あんなカタチで及川に恥をかかせたのだ。もしかしたら職を失うことになるかもしれない。不安に押しつぶされそうな高科の心を、素朴な味のパンケーキが、じんわりやさしく温めてくれた。
清州に呼び出されるのではないかと不安だったけれど、休みが明けても、なんの連絡もなかった。もしかしたら及川がなにもいわないでいてくれたのだろうか。及川本人からも連絡はない。
翌日も、その翌日もなんのお咎めもないまま、六日間の短い臨時国会は閉会した。
「当選後の初国会、無事に終わりましたねー」
底抜けに明るい堀田の声が響き、美人双子が駆け寄ってくる。
「やったぁ、夏休みだよねっ。ね、センセイ、打ち上げしよっ」
左右から同時に金山に抱きついた二人を、榮はやんわりと引き剥がす。
「おやすみに入られる先生方も多いですが、金山先生はこの後もご多忙なんですよ」
臨時国会終了後、多くの議員は夏休みをとったり、地元に戻って次の選挙に向けた地盤固めに奔走する。
「みんな、地元に戻って当選のお礼をするといっていました。オレも地元に戻るべきですよね」
金山の言葉に、榮はぐったりと肩を落とした。そうだ。この男は比例代表と選挙区の区別もついていないのだ。
「いえ……比例で当選した金山先生には『選挙区』というものは存在しませんから、地元に戻る必要はないんですよ」
「ゃ、でも、近所のじーちゃんばーちゃんとか、むちゃくちゃ熱心に応援してくれてたんですよ」
「そうかもしれませんが、あなたがアピールすべきは、そんなちいさな限られた場所ではありません」
それ以前に、党が彼に二期目続投を望むとも思えない。東京オリンピック開催を控えた今だからこそ、元金メダリストである彼に大きな価値があるのだ。オリンピックが終わってしまえば、今ほどの価値を見出すことはないだろう。
この夏のスケジュールにも、客寄せパンダとして利用できるうちに利用しつくしたいという党の意向が色濃く表れている。
「こちらが明日以降の金山先生のスケジュールです。明日は宮城で市議選の応援演説、その後、あたらしく出来た県営総合体育センターのオープニングセレモニーに出席して、午後は山形で行われるスポーツ障害に関するシンポジウムに出席。夜は県連のみなさまと懇親会を行い……」
延々と続くスケジュールに堀田はポカンと口をあけて金山と榮を見比べる。
「萩のたまご食べたーいっ」
双子たちは無邪気にお土産をねだりはじめた。
「遊びに行くんじゃないですよ。それに都内への戻りはお盆明け、二週間後になります」
「えーっ……萩のたまご、腐っちゃうー」
「大丈夫だよ。出先から送るから」
残念がる双子に、金山はにこやかな笑顔を向ける。
「そんなもの買ってる場合じゃありませんよ。大体、萩のたまごなんて宮城のアンテナショップに行けば買えるでしょう」
「買えませんよ、高科さん。あれは基本的に現地に行かないと買えないようになってるんです。通販も一切してませんし。都内で買えるのは特別なイベントのときだけですよ」
「榮ちゃん、そんなことも知らないんだ」
「さ、榮ちゃんっ?!」
双子から妙な呼び方をされてこめかみをひくつかせる榮に、金山まで追随してくる。
「あ、いいですね。オレも榮さんって呼ぼー」
「ダメですよ、そんな呼び方っ」
「榮ちゃーん」
ふざけた声をあげる堀田に鉄槌を喰らわせ、金山を睨みつける。
「嫌いなんです、自分の名前。お願いですから名字で呼んでください」
そう告げると、なぜだか金山は真顔で謝ってくれた。
「ごめん。これからも上の名前で呼ぶようにします。みんなも、ひとの嫌がることはしたらダメだ。高科さんって呼ぼう」
「えー、つまんなーい。せっかくかわいい名前なのに」
「確かにかわいいいけど、誰でもされたらいやなことってあるよね。たとえばアヤちゃん、『アヤの助』なんて呼ばれたらヤじゃない?」
「やだ、なにその呼び方」
「それと同じだよ。じゃあ、高科さんの呼び方は、これからも『高科さん』で。それよりオレたちが東京にいないあいだ、三人だけで大丈夫?」
「だいじょぶですよ。僕がついてるんですから!」
自信ありげに胸をそらす堀田に、榮は不安を感じずにはいられなかった。清州にお願いして、時折、向こうの秘書にようすを見に来てもらったほうがいいかもしれない。
「いいなぁ、榮ちゃ……じゃなかった高科さん、センセイと一緒に色んなとこ行けるんだー」
「行きたいなら、代わりに行きますか」
「あ、僕行きたいです! 東北とか涼しそう」
「応援演説中は炎天下のなか立ちっぱなしですよ。式典も外ですし、観光なんて一秒もする暇がないほど激務です」
「うぅ、やめておきますっ……」
あっさりと引きさがる堀田にため息を吐きつつ、ちいさな子どもを諭すような口調で告げる。
「というわけで、明日からの激務に備え、今夜は金山先生を早めに休ませてあげなくてはなりません。打ち上げは後日、もうすこし状況が落ち着いてからです」
「わ、ちゃんとやってくれるんだ! ダメなのかと思った」
「やーん、榮ちゃん、最高!」
彼女たちに抱きつかれ、高科はこの事務所に来て以来、何度目になるかわからない深いため息を吐いた。
「みなさん、本日は東京から金山毅志議員が応援に駆けつけてくださいました!」
市長選候補者の声に、割れんばかりの大歓声が巻き起こる。声援の大半は、相変わらず女性たちの黄色い歓声だ。金山の姿をひと目見ようと、選挙カーの周りにたくさんの人たちが詰めかけてくる。
分刻みのスケジュール。この場に滞在できる時間は、三十分のみだ。金山は榮の書いた原稿をもとに、つい先ほどまで名前も知らなかった候補者を旧知の友のように褒め称え、皆に笑顔を振りまいてその場を盛り上げた。
「行きますよ、次の会場に」
「ちょっと待ってください、あと一人だけ……っ」
握手攻めにあう金山をその場から引き摺り出し、タクシーに詰め込んで次の仕事に向かう。まともに食事を摂ることもできない忙しさだが、金山は文句ひとついわず笑顔で仕事をこなした。
「ふぁー……やっと終了―……」
セキュリティのことを考えると、もっとまともなホテルに泊まるべきなのだが、国費を無駄遣いしたくないという金山たっての希望で、安いビジネスホテルに泊まることになった。
「残念、ダブルベッドじゃないんですね」
「と、当然ですっ……いまは議員の支出に対して、終始国民が目を光らせているんです。領収書を調べられたときにダブルの部屋に泊まったなんてバレたら……ぁっ……」
突然うなじに触れられ、びくんと身体が跳ねあがる。
「高科さん、ここ、糸がほつれてる。ほら、このままだと首筋に当たって、くすぐったいでしょ」
榮の浴衣の襟首を軽く引っ張り、彼はそういった。シングルベッド二台に床面積のほとんどを占有されたツインルーム。ただでさえ狭い部屋が、大柄な金山のせいで余計に手狭に感じる。
「ぁ、ぁのっ……自分でやりますからっ」
湯上りで互いに火照った身体。ホテル備えつけの浴衣はおどろくほど薄っぺらで、近づかれると触れ合っていなくても彼の熱が漂ってきてしまう。
「高科さん、ご褒美ください」
金山の顔が、唇が触れるほど近くに寄せられた。
「ご褒美……?!」
とうとう貞操を奪われる日が来たのだろうか。不安になる榮を、金山はじっと見つめた。
「ハグしたいです。そしたら一日の疲れが吹っ飛んで、明日の分のエネルギーがチャージできる。ダメですか?」
「べ、べつに……ダメじゃないですけど……」
軽く拍子抜けした榮を、金山はふわりと抱きしめる。シャンプーの匂いが香って、自分も同じものを使っているはずなのに、なぜだかトクンと胸が高鳴った。
「も、もう、いいですか……」
胸の高鳴りに気づかれたくなくて、その腕から逃れようとする。
「もうちょっとだけ、このままでいさせてください」
抱く腕にギュッと力を籠められ、互いの身体がぴったりと密着してしまった。
「ぁ、あのっ……」
抱きしめられたまま、ゆっくりとベッドに横たわらされる。
「絶対に、なにもしないと誓いますから。ほんの少しでいい。このままでいさせてください」
もしかしたら、終始笑顔でふるまいながらも、強いストレスを感じているのだろうか。
党員のなかにも、金山を快く思っていない者たちもいる。今日の県連の懇親会でも、彼は突っ込んだ質問をされて皆の前で盛大に恥をかかされていた。
広い背中に触れ、そっとさすってみる。金山は甘えたがりな犬のように榮の首筋に頬を摺り寄せてきた。
「仕事、大変ですか」
大変でないわけがない。こんな過密スケジュール、ふつうの議員ならとっくに根をあげている。
「大変じゃないっていったら嘘になるけど。でも、平気。なりたくてなった仕事だから」
彼の声が、榮の身体に響く。雄々しい外見とは裏腹に、すこし甘みのある声だ。
「なぜ、国会議員なんですか。あなたほどの知名度があれば、タレントでもコーチでも、いくらでも仕事の口があったでしょう」
世のなかには『名誉』や『金』のために、政治家になりたいと望む人もいる。けれども金山を見ていると、そのどちらにもまったく興味がなさそうなのだ。まっさらで、馬鹿みたいにまっすぐで、とてもではないけれど、政治家向きとは思い難い。
「オレ、じぃちゃんを震災で亡くしてんですよ。阪神淡路大震災。オレ、じいちゃんのことめちゃめちゃ好きで、だからすごくショックだった。震災直後の変わり果てた神戸の街を見て、世のなかにはどうにもなんないことってあんだなぁって思って……ずっと頭から離れなかった」
金山の家は母子家庭で、祖父からの仕送りで、なんとか生活をまかなえていたのだという。
「ホントは習い事なんか、してる場合じゃなかったんだけど。オレ、喘息持ちだったから。かぁちゃんはオレをスイミングスクールに通わせたんです。じいちゃん死んで、ますます生活に余裕なくなって、選手コースの月謝とか払えなくなって。スクールやめさせてくださいって頼んだオレに、コーチは『お前はぜったいに泳ぐことをやめたらダメだ』っていって……」
月々のレッスン代を、『出世払いしてくれりゃあいい』といって、自腹を切って支払ってくれたのだという。
「月謝だけじゃない。水着とかパドルとか、そういうのも全部、コーチが買ってくれてたし、遠征にかかる費用も払ってくれてた」
金銭的な援助だけでなく、『ちゃんとメシ食えてんのか』と心配して、しょっちゅう夕飯を食べさせてくれたのだという。
「オレ、現役時代は普通のひとの五倍くらい、メシ食ってたから。すっげぇ食費かかるんですよ」
一日に1万キロカロリー以上、摂取するよう義務付けられていたのだそうだ。
「そのコーチだけじゃない。ガッコの先生とか、近所のひとたちとか、みんながオレによくしてくれて、だからオレは速くなれたし、金メダルも取ることができた。そして、あの東日本大震災が起こって、オレ、そんとき高地トレでアメリカにいってて、いてもたってもいられなくなって慌てて日本に戻ってきたんです。それで……そこで見たんだ。オレなんかよりずっと、たくさんの家族を亡くして、家やモノも全部失くした子どもたちをさ」
現役時代、彼は競技と並行して被災者支援に力を入れていた。単なる『持てるもの』の驕りによる自己満足の慈善事業かと思ったが、どうやらそうではなかったようだ。
榮を抱きしめる彼の腕が、かすかにふるえている。榮は、彼の背中に添えた手のひらに、ぎゅっと力をこめた。
「最初のうちは、とにかく食い物と水、運ばなくちゃとか。あれが足りない、これが足りないって、支援物資や避難所や、そういうことが中心で。だけど段々、それだけじゃなくなってって……。生きるのにやっとの環境でさ、夢を見ることってものすごく贅沢なことなんだよ。どんなに泳ぐのが速くて、将来オリンピックに出れるレベルの子だって、プールが壊れちまったらどうにもならない。ピアニスト目指して死ぬ気で頑張ってた子も『今はそれどころじゃないでしょ』っていわれて、日々動かなくなってく指を握りしめて、諦めることしかできない」
首筋に、じわりと熱が広がった。彼の背中が、燃えてしまいそうなほど熱く火照っている。泣いているのだということに気づき、榮はその背中を、そっとさすることしかできなかった。
「『落ち着いたら、また再開すればいい』って、思う人がいるかもしれないけど、それじゃ間に合わないんだよ。三日休んだって、取り戻すのにものすごい時間がかかる。なんも悪いことしてないのに、たまたまその場所に住んでたってだけで、過去の思い出も、いまの生活も、将来の夢も全部、奪われちまうんだ」
阪神・淡路大震災も東日本大震災も、榮はテレビのなかの出来事としてしか知らない。計画停電や物資の不足で不便を感じたことはあったけれど、被災地のひとたちと比べたら、ほんとうに些細な影響だろう。
「震災だけじゃない。どうにもならない理由で、夢をあきらめなくちゃいけない子どもとか、絶対、つくっちゃダメだと思う。すくなくともオレは、まわりの大人たちに夢を叶えさせてもらった。だから、返さなくちゃダメだと思ったんだ。今度はオレが、あきらめざるを得ない子どもたちを助けたい。自分の力でもちょっとはできたけど、だけど全然足りないんだよ。十人、二十人助けたところで、意味がない。誰も、あきらめちゃダメなんだ。もちろん大人も助けなくちゃだけど、特に子どもは救わなきゃダメだ。自分の力ではどうにもできないんだから。国が助けないといけないんだよ」
いつになく真剣な声音に、胸が苦しくなった。彼が議員になって以来、榮は彼に『ぜったいに触れてはいけないワード集』というのを何度も読み聞かせていた。
今回の参院選で党があえて触れなかった部分――被災地の復興や原発関連の話題は絶対にしてはいけないと、ひたすら彼にいいつづけていた。
彼はそのたびに悲しそうに笑って、「わかったよ」と頷いていた。彼の抱く想いなど、微塵も気にしてあげることができなかった。
「なんて……長々と自分語り、ごめん。オレなんかが議員になったところで、全然、世のなか変えたりなんてできないかもしれないけど。でも、こんな未熟で非力な議員でもさ、ベテランの先生とおなじ尊さの一票を持ってるんだ。おかしな法律をつくられそうになったら、ちゃんと反対の票を入れることができる。国民の代表として質問したり、意見をいうことだってできるんだろ」
今日も榮が聞いてもさっぱり理解できないような難しい医療系のシンポジウムで、彼は一心不乱にメモをとり、周囲のひとたちに質問したり、対話をしようとしたりしていた。
この男は本気なのだ。本気で、国をよくしたいと考えている。そのために少しでも知識を得ようと、必死で頑張っている。
タレント議員なんてくだらない。参議院と衆議院のちがいもわからない人間に議席を渡すなんて馬鹿げてる。ずっと、そんなふうに思っていたけれど……。
「オレひとりじゃ、全然足りないから。だから高科さんには、ホント感謝してる。読めない漢字も、わかんない言葉も、全部教えてくれるし。それになにより――高科さんがそばにいると、すげぇ頑張れるんだよ。なんかホント、そばにいるだけで、しあわせな気持ちになるんだ」
榮を抱く彼の腕に、ぎゅっと力がこもる。なにか、されるかもしれない。身構えた榮の頬に、彼はちゅ、とくちづけた。
「おやすみなさい、高科さん。国会議員になれて、高科さんに出会えて……ほんとによかった」
頬の次は唇に降りてくるかもしれない。そんな榮の予想は外れ、金山は榮を抱きしめたまま、ぐうぐうと寝息をたてて眠ってしまった。
疲れているはずなのに。その夜、榮は金山の腕のなかで、いつまで経っても寝付くことができなかった。
お盆が明けると、ふたたび都内での活動が中心になった。
東京での勤務初日、清州から夕飯に誘われた。金山の働きぶりについて、本人のいない場所で詳しい報告を受けたいのだという。
「いいですね、すぐ帰りますから、今夜はひとりで大人しくしていてくださいね」
無用な外出は慎むよう金山に命じ、清州の待つ衆議院議員会館へと向かう。まだ夏の暑いさなかだというのに、清州は涼やかな顔で仕立てのよさそうな背広を一分の隙もなく着こなしていた。
「お待たせしました」
「いや、私もいま仕事が終わったところだ。行こうか」
さりげなく背中に触れられ、トクンと心臓が高鳴る。頬が火照るのを感じながら、榮は清州に促されハイヤーの後部座席に乗り込んだ。
連れていかれたのは、郊外にある、はじめて行く料亭だった。
「こんなところに、こんなお店があるんですね」
「ああ、静かでいいところだろう」
玉砂利の敷き詰められた小道を抜けると、趣深い日本家屋が並んでいる。全室離れになっているようだ。仲居さんに案内され、部屋へと向かう。すると、玄関にはすでに誰かの靴が置かれていた。磨きこまれた上質な革靴。不安を感じて後ずさろうとして、清州に引き留められる。
「私のためにあの男と寝たんだ。ほかの男とだって出来るだろう?」
耳元に注ぎ込まれた低い囁きに、さぁっと血の気がひいてゆく。
「お待たせしました、及川先生。遅くなってしまい、大変申し訳ございません」
榮に囁いたのとはまったく異なる明るい声で、清州は及川に挨拶をした。
いやだ。逃げなくては。
頭はそう思うのに、身体がうまくいうことをきかない。細身に見えて、思いのほか力の強い清州に引きずられ、榮は座敷に連れ込まれた。
「逢いたかったよ、高科くん。真夏の盛りだというのに、相変わらずきみの肌は透き通るように美しいな」
腕を掴まれ、引き寄せられる。清州の目の前だというのに、及川は榮を抱きしめると、おもむろに首筋に喰らいついてきた。
「ぁっ……!」
ビクンと身体をこわばらせた榮のうなじを、及川はねっとりと舐めあげる。
「初々しい反応だ。たまらないな、きみは。うなじにくちづけられただけでこんなに感じてしまうなんて、それ以上のことをしたら、どうなってしまうのかな」
「ゃ、めっ……ぁっ……」
優美な所作で、清州が座敷の奥のふすまを開く。ふすまの向こう側には布団の敷かれた寝室が用意されていた。
及川に抱きすくめられ、寝室に連れ込まれる。
「清州くん、食事の前に、すこし楽しませてもらってもいいかね」
「もちろんです、先生。すこしなどといわず、どうぞ、存分にお楽しみください」
清州の言葉を最後まで聞く前から、及川は榮に馬乗りになり、猛ったモノを押し当ててきた。
「ほら、こっちを向くんだ。高科くん、ちゃんと顔を見せなさい」
顎を掴まれ、引き寄せられる。唇を重ね合されそうになって、榮はとっさに頭突きをかましてしまった。
「っ――」
及川がひるんだ隙に、さらに股間に蹴りを入れる。
「榮!」
清州に叱咤され、それでも止まらなかった。無我夢中で及川を押し退け、清州も突き飛ばして部屋を飛び出す。上着も靴も置き去りにしたまま、榮は全速力で走った。
「おい、待つんだ、榮っ」
閑静な庭園内に、清州の怒声が響きわたる。榮はそれでも振り返ることなく走りつづけた。
通りに出てタクシーを探したけれど、どこにも見当たらなかった。
まずい。このままでは清州に掴まってしまう。
アスファルトや小石が足裏に突き刺さって、とてもではないけれどこんな状態では長時間走り続けられそうにない。それでも、榮は逃げずにはいられなかった。
どれだけ走り続けただろうか。どこをどう逃げてきたのかわかららない。ようやくタクシーを見つけ、転がり込むように車内に飛び込む。
「はぁっ……はぁ、紀尾井町までっ……お願いしますっ」
やっとのことで行先を告げると、榮はぐったりとシートに身を預けた。
(とりかえしのつかないことをしてしまった……)
今度こそ本当に、クビになってしまうだろう。二度と秘書の職には就けないかもしれない。清州家も及川も党内でも相当な実力者だ。圧力をかけられ、政界以外で求職したとしても、まともな再就職口を得られないかもしれない。
「どうして、我慢できなかったんだろう……」
清州のためなら、命だって惜しくない。清州昭久のために汚職の罪を被り、その命を投げうった父を、榮は心から尊敬している。昭久の息子である政昭も、この身を犠牲にしてでもお仕えすべき、敬愛できる人だと思っていた。それなのに――。
「どうしよう、このままじゃ……」
自らの保身以上に、榮は金山のことが気がかりでならなかった。
「俺のせいで、金山先生まで潰されるかもしれない」
ダメだ。あんなにも熱意と理念に溢れた政治家の卵を、絶対に潰させてはいけない。この身がどうなっても、清州の命に従うべきだったのだ。
いまから戻ろうか。戻って謝罪して……及川に抱かれれば、許してもらえるだろうか。
頭ではそう思うのに、どんなに頑張っても、運転手さんに戻ってくれるよういうことはできなかった。
「どうしたんですか、高科さんっ」
ジャケットもネクタイもなく、靴も履かずに帰ってきた榮を、金山は心配そうに出迎えた。
「なんでも……ないです。シャワーを……」
及川に抱きしめられた身体、舐られてしまった首筋。穢れてしまった自分の身体を、金山に触れさせたくはなかった。
「なんでもなくないですよ。ほら、見せて。足、血が出てるじゃないですか」
夢中で走り続けるうちに、ガラスか何かを踏んでしまったのかもしれない。痛みすら感じることができないくらい、必死だったようだ。
「大丈夫、ですから……ぁっ!」
とつぜん、姫抱きに抱えあげられ、浴室に連れて行かれる。
「ダメですよ。ばい菌でも入ったらどーすんですかっ」
靴下を脱がされ、ズボンのすそを捲り上げられて、ぬるめのシャワーで足を洗われる。傷だらけの足に湯がしみて、それ以上に金山のやさしさが堪らなくて、榮は唇を噛みしめ、声を押し殺して涙を溢れさせた。
「どうしてもいいたくないのなら、無理には聞きません。だけど、お願いだからひとりで抱え込まないでください。頼りないかもしれないけど、オレを頼って欲しい」
榮を膝に抱いたまま、その足を丁寧にバスタオルで拭い、彼はそっと額にくちづけてくれた。及川の額に頭突きを噛ませた額だ。金山を穢してしまう。ダメだ。そう思うのに……止まらなかった。
めいっぱい手を伸ばし、彼の背に抱き縋る。広く逞しいその胸に頬を押しつけ、榮は声を押し殺して泣きじゃくった。
金山はなにもいわず、ただ黙って榮の身体を抱きしめつづけてくれた。
「榮、正直にいって、お前には失望しているよ」
清州の議員執務室。いつになく険しい声音で叱責され、榮は深々と頭をさげた。
「申し訳ございません。どのような処罰も受け容れます。ですからどうか――」
最後までいう前に、前髪を鷲掴みにされた。どんなときもおだやかな笑みを絶やさず、激昂するところなど一度も見せたことのない清州。怒りをあらわにした彼の姿に、榮は戸惑わずにはいられなかった。
「あの男に絆されたのか」
忌々しげな声音で、清州は吐き捨てる。
「ち、ちがいますっ……」
金山は関係ない。そう主張しようとして、ぐっと髪を引っ張りあげられた。
「覚えておけ。お前は私のものだ。私の命令をきけないのなら、お前など要らない。お前だけじゃない。金山など私のさじ加減で、幾らだって消し去ることができるんだぞ」
「ま、待ってください。金山先生は関係ありません。どんな命にも従います。どうか、先生だけはっ……」
とっさに叫んだ榮に、清州は冷ややかな眼差しを向ける。
「あの男のセック*スはそんなによかったか。――ふしだらな男め。さすがはあの女の息子だな」
髪を鷲掴みにされたまま、床に這いつくばらされた。
「ほら、舐めろよ。そんなに男が好きなら、私のモノを咥えろ。淫乱の血をひいたお前は、節操なく誰のものでも咥えこむのだろう」
「ゃっ……」
抗う榮の後頭部を鷲掴みにし、清州は自分の股間に押し付ける。こらえきれず溢れた涙が彼のズボンの布地を濡らした。
あんなにも熱意を持って、金山は国政に取り組もうとしている。絶対にこんなことで、彼を失墜させるわけにはいかない。
意を決し、榮は拳を握りしめた。そしておずおずと清州を見上げ、ズボンの布地の上から、ちゅ、とその股間にくちづける。
「冗談だ、馬鹿者。――気色の悪いことをするなッ」
不快げに吐き捨て、清州は榮を引き剥がした。
「お前が奉仕すべきは、及川だ。いいな。次こそしっかりと勤めを果たし、あの男を懐柔しろ」
今度こそ、あの男に抱かれなくてはいけない。
そうすることでしか、金山を守ることができないのだ。清州から手渡されたメモ用紙。ホテルの部屋番号の記されたその紙をギュッと握りしめ、榮は及川のもとへと向かった。
「このあいだは、大変申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた榮を、及川はにこやかな笑顔で出迎えた。
「分かればいいんだよ。少しくらい抵抗されたほうが可愛がり甲斐がある。大人しく身体を差し出すお人形さんより、ずっと魅力的だ」
部屋に入るなり抱き寄せられ、頬を包みこまれる。くちづけられそうになったそのとき、ドンドンと激しく扉を叩く音が響いた。
「開けろっ、開けなければ、扉を壊しますッ!」
金山の叫び声だ。
「なんの騒ぎだ」
扉を開けた及川に、金山は思いきり殴りかかった。
「金山先生っ!」
慌てて引き留めると、とつぜん抱き上げられる。
「行きましょう、高科さんっ」
「ゃ、ちょっと待っ……」
「待てません!」
榮を抱き上げたままそう叫ぶと、金山は及川を一瞥し、部屋を飛び出した。
「ダメですよ、金山先生、戻ってください。このままでは先生の政治生命が……」
「そんなもの、どうでもいいです。高科さんを犠牲にしてまで、議員を続けたいなんて思わない」
抱きかかえられたままエレベーターに乗せられ、ホテルのロビーへと連れて行かれる。ふたりの姿に周囲の視線が痛いほど注がれた。
「お、おろしてくださいっ……」
「ダメです。おろしたら、高科さん、またあの先生の所に行くんでしょう」
どんなに頼んでも、金山は榮を離してはくれなかった。抵抗を封じ込められ、タクシーに押し込まれる。
「離してくださいっ。清州の命令に従わなければ、今度こそ大変なことになります。議員を続けられなくなったら、子どもたちを助けることもできないんですよ」
こんなことで、金山の政治人生を終わりにさせてはダメだ。
彼を守るためなら、自分の身体なんか、どうなったっていい。ちっぽけな自分にはできないこと。金山ならきっと、叶えてくれる。主のために命を投げ打った父の気持ちが、生まれてはじめて本当の意味で理解できた気がした。
「オレのために犠牲になるなんて絶対にダメだ。もしこのことで議員をクビになったって、オレは諦めたりしない。ほかの方法で、子どもたちを助け、世の中の誰もが夢をあきらめずに頑張れる社会をつくってみせます。お願いだから、もっと自分を大切にしてくださいッ」
きつく抱きしめられ、反論の言葉を封じ込まれる。
「あのー……どちらまで……?」
運転手さんに困惑気に訊ねられ、ふたりは慌てて身体を離した。
手を離したら逃げ出すとでも思っているのだろうか。宿舎にたどり着くまでのあいだ、金山は榮の手を離そうとはしなかった。固く握りしめられたまま、部屋まで連れ帰られる。部屋に戻ると、ようやく彼は榮の手を離した。
ギュッと榮を抱きしめたあと、なにかを思いついたかのように、金山は不意に抱擁を解く。
「もしかして、オレとのことも、清洲先生に頼まれて嫌々したことですか」
「ち、違います。あなたのことは本当にっ……」
「『本当に』なに?」
じっと見つめられ、かぁあっと頬が熱くなる。
「無理しなくていいんですよ。――正直にいえば、最初からなんとなくおかしいなぁって思ってたんです。高科さん、全然スポーツに興味ないし。オレのファンだったなんて嘘だろうなぁって」
「ち、ちがっ……それは……」
慌てて否定しようとした榮の頬を、金山の大きな手のひらが包み込む。おなじことを及川にされたときには不快でたまらなかったのに、金山にされると胸がギュッと苦しくなって、頬の火照りが加速してしまう。
「高科さんが無理してるのわかってて、それでもオレ、手放せなかった。すこしずつ好きになってもらって、いつか本心から『抱かれたい』って思って貰えるように頑張ろうって、そう思って。――オレはあんまり賢くないし、自惚れ屋なところがあるんで、間違ってたら、いってください。高科さん、いまはオレのこと、すこしは好きですよね」
顎を掴まれ、やんわりと上向かされる。大柄で精悍な顔つきなのに、榮を見つめる瞳の色は、今日もとてもやさしい。
そのやさしい色に、涙があふれてきてしまいそうになった。こらえつづけてきたものが、決壊してしまう。気づけば彼に飛びかかり、唇を重ねあわせていた。
「好き、だから、守りたい。それじゃ、いけませんか。今から電話をかけて、及川先生に謝罪してきます。謝罪して、それで……っ」
かすかなキスのあと、震える声で告げた榮の頬を、金山はむいっと両側から押し潰した。
「ダメです。そんな方法で議員人生を延命してもらったところで、オレはちっとも嬉しくない。そんな犠牲のもとに成り立ってるって知ったら、もしオレがたくさんの子どもたちを助けられたとしても、彼らはちっとも喜びません」
「でもっ……」
「でも、じゃない。嫌なんですよ。高科さんをほかの男に触られるなんて、耐えられないんだ」
抱きすくめられ、ソファに押し倒される。額にかかった前髪をそっと退けられ、じっと見つめられた。
「お願いだから、自分を大切にしてください。清州先生を悪くいうつもりはありませんが、『秘書』は道具じゃない。大切な『仲間』だ。仲間の人格を踏みにじって犠牲を強いるなんて、そんなのおかしいです」
「ですが『大きな目的』の前には、多少の犠牲は……」
「そんなくだらない犠牲を払わなくちゃ果たせない目的、達成する必要ない。ひとがひとを踏みにじるなんて、絶対にあっちゃいけないことなんだッ」
彼のいっていることは理想論でしかない。頭ではそう思うのに、まっすぐ榮を見据え、子どもじみた正論を貫く目の前の男に、心を揺さぶられずにはいられなかった。
己のすべてをかけて、議員(せんせい)を護ること。
そのことこそが、秘書の仕事だと信じてきた。父のことを尊敬していたし、自分も彼のようになるのだと心に決めていた。
ましてや清洲家は、父亡きあと、生活費や母の入院費、榮の進学の費用など、長きに渡って経済的に支援しつづけてくれていたのだ。あの、有名な政治家の清州昭久が、年に何度も父の仏壇に手を合わせに足を運んでくれていた。
そんなふうに大切にされる父は、とても尊い仕事をしたひとなのだと考えていた。父のようになりたい。自分たちを助けてくれた清州家にせめてもの恩返しがしたい。その一心でいままで生きてきた。
それなのに……ここに来て、正直判らなくなっていた。
お仕えすべきは清州。そのことがわかっていながらも、目の前のこの理想ばかり高く、実力の伴わない未熟な政治家に、惹かれずにはいられないのだ。この男を支えたいと、心底思う。もし、そのことで清州に背くことになったとしても――この男を支えたい。
「あなたの、せいだ。あなたのせいで……っ」
信じていたものが、根底から揺らぎはじめている。
清州のために罪を被り、命を投げ出した父は、本当に正しかったのだろうか。
そんな父を妄信的にあがめ、同じ道を歩もうとする自分は、間違っていないのだろうか。
そんなふうに、思ってはいけないのに……自殺などしなければ、父はいまも自分のそばにいてくれたのではないかと考えてしまいそうになる。
はらりと、大粒の涙が溢れだす。唇を噛みしめ、肩を震わせる榮の頬を、金山はそっとぬぐってくれた。
「いまは、あなたは清州先生の『モノ』じゃない。オレの、たいせつな仲間です。だから絶対に自分を傷つけてはダメです。これは、命令です。あなたは誰の犠牲にもなってはいけない。破ったら、今日みたいに実力行使で助けに行きますよ」
金山の親指が、榮の唇に触れる。下唇をそっと撫でられ、もう限界だった。
思いきり金山に抱き縋り、声をあげて泣きじゃくる。情けない。そう思うのに止まらなかった。
ずっと、強くあらねばと思っていた。
父を亡くし、病弱な母ひとり。自分が、父に代わって母を護らなくてはならないと思って頑張ってきた。父のように、立派な秘書にならねば、と。
しゃくりあげ、泣きじゃくる榮をきつく抱きしめ、金山はその額に頬ずりをする。頬ずりはいつのまにかキスに代わり、額に与えられるかすかなキスにさえ、榮は胸を高鳴らせずにはいられなかった。
どうしよう。この男のことが、好き。
議員として、男として、たまらなく好きだ。
公私混同するのは榮のいけない癖だ。敬愛と恋愛の区別が、うまくつけられなくなってしまう。ブレーキをかけなくては。お仕えする先生に、そんな感情を抱くなんてとんでもないことだ。頭ではそう思うのに……身体はいうことを訊いてくれない。
金山を見上げ、キスをねだるように唇を突きだす。きっといま、自分はとんでもなく酷い顔をしているだろう。涙でぐちゃぐちゃになった榮の頬を、金山は大きな手のひらでそっと包み込む。やんわりと引き寄せ、榮の唇に唇を重ね合わせてくれた。
触れ合った瞬間、なにかがはじけ飛んだような錯覚に陥った。いままでずっと、榮を戒めていたもの。跡形もなくはじけ飛び、止められなくなってしまう。
金山の背に回した手に、ギュっと力をこめる。きつく、きつく抱きしめあうと、互いの熱が触れあってしまった。
いつものようにバリケードを作ろうとする金山を、そっと引き留める。
「クッション、なくていい、です……」
照れくささに頬を染め、榮は俯き加減に告げた。
「ダメですよ。ないと、自制が効かなくなる」
金山の声が、ジンと腰骨に響く。その声にさえ高められてしまい、どうしていいのかわからなくなった。
「効かなくて、いいです」
金山の指に、自分の指を絡める。こんなとき、どうやって誘っていいのか、榮にはわからなかった。
いままで、清洲家にお仕えすることだけを目標に生きてきた。
死にものぐるいで勉強に励み、清州と同じT大に入って法学を専攻した。いつか政策担当秘書を目指すときのためにと、在学中はすべての時間を旧司法試験の勉強に費やした。頭のなかは、つねに清洲家にどう恩返しをすべきかということで一杯だった。そのため、合コンにいったことも、キスはおろか、女性と手を繋いだことさえ一度もない。
こんなふうに好きなひとの手を握ると、それだけで心臓が壊れそうになってしまうのだということを、榮ははじめて知ったのだ。
「高科さんっ……」
唐突にソファに押し倒された。バリケードなしで宛がわれた金山のモノが榮の下腹にめり込む。不思議なことに、まったく嫌悪感はなかった。自分のことを好いてくれているのだと思うと、胸が熱くなってゆく。
「あ、あのっ……シャワーを……っ」
榮の言葉を聞き入れず、金山は唐突に榮を抱えあげた。姫抱きにされたまま寝室に連れ込まれ、ベッドに押し倒される。
「嫌だったら、いってください。高科さんが嫌がることは、したくないです」
耳元で囁かれ、そっと頬を撫でられた。強引に奪われてしまうのかと思ったのに、思いのほかやさしいその仕草に、余計に心臓の高鳴りが止まらなくなってしまう。
「い、いやじゃ、ないですけどっ……シャワーを……っ、汗、かいてますしっ」
八月の終わり。残暑は相変わらず厳しく、空調の効きが悪いせいで互いの肌はかすかに汗ばんでいる。
「大丈夫。高科さん、すっごくいい匂いだし。それとも、高科さんはオレの汗の匂い、いや?」
そんなふうに訊ねられ、榮は照れくささに目を伏せた。
金山からたちのぼる、牡の香り。男らしいその匂いは、まったく不快ではない。それどころか、自分にはない野性味を感じさせる雄々しいその香りに、榮はたまらなく惹かれてしまっているのだ。
「別に……気になり、ません……」
気にならないなんて、うそだ。その匂いに包まれただけで、腰の奥がジンと痺れて、熱く疼いてしまう。
あんなにもお慕いしていた清州に対してすら、こんな淫らな気持ちは抱いたことがなかった。自らのなかにそんな欲求があったことに、榮は驚かずにはいられない。
できればその匂いから逃れてしまいたいのに。金山は榮を押しつぶさないように気遣いながらも、ぴったりと身体を密着させてくる。逞しい腕にすっぽりと抱きこまれると、むせ返るような牡の匂いが榮を包みこんだ。
「ぁ……っ」
ただそれだけでジワリと先端に蜜が滲んでしまい、羞恥に身体が火照ってゆく。
「好きです。高科さん。高科さんのことが、好き」
澄んだ瞳でまっすぐ見つめられ、胸が張り裂けそうになった。好きになった相手から、好きだといってもらえる。こんなにもしあわせなことは、他にはないと思う。
「私も……」
好きです、とは、どんなに頑張っても口にすることができなかった。先刻はどさくさに紛れていってしまったけれど、改めて言葉にしようとすると、それはあまりにも照れくさい。
「高科さんがこんな目でオレを見てくれる日がくるなんて。オレ、しあわせすぎて、どうにかなってしまいそうだ」
そんなふうにいわれ、榮はあわてて表情を改めようとした。
いったい自分はどんな顔で、彼を見つめているのだろう。目をそらしたくて、けれども、どんなに頑張ってもそうすることができなかった。いとしくて、いとしくて、目の前の男から、目を離すことができないのだ。
ちゅ、と不意打ちのように軽く唇にくちづけられる。困惑する榮を抱きしめ、金山は首筋に頬を摺り寄せた。伸び始めた髭が、ほんのすこしチクチクして、そんな刺激にまで感じずにはいられない。ビクンと身体をこわばらせた榮の背中をやさしく撫でると、金山は甘やかな声で囁いた。
「無理、しないでくださいね。高科さんがいやなことは、したくないんです」
つないだ手を口元に運ばれ、そっとくちづけられる。指先へのキスはくすぐったい反面、大事にしてくれているのだと思え、胸が熱くなった。
「ぁ……っ」
指先から指の股に、金山の唇が移動してゆく。ちゅぷりと音をたてて吸い上げられ、こらえきれず甘えた声が漏れてしまった。
ネクタイを解かれ、ワイシャツのボタンをひとつずつ外されてゆく。露わになった鎖骨に唇を寄せ、金山は囁いた。
「どうしよう。好き過ぎて、おかしくなりそうだ。高科さんの指も鎖骨も、首筋も、全部好き」
かすかに眉をひそめた榮に、金山はにっと笑ってみせる。
「もちろん、それだけじゃないよ。高科さんのそのきれいな顔も、それ以上にまっすぐできれいな心も、高科さんの全部が好きだ」
「きれい、なんかじゃ……ない、です」
顔は、自分では客観視することができないからなんともいえないけれど。心は、絶対にきれいなんかじゃない。
「きれいなのは……あなたのほうです。心がきれいっていうのは、あなたのような人のことをいうんですよ」
震える声でそう告げた榮を、金山は骨がきしむほど強く、抱きしめた。
どちらからともなく唇を重ねあい、互いの舌を求めあう。榮のワイシャツを脱がすと、金山は自分自身もシャツを脱ぎ、その鍛え抜かれた肉体を露わにした。
互いの肌がぴったりと重なりあい、その熱に蕩かされてしまいそうになる。おそるおそる手を伸ばし、榮はそっと彼の背中に触れた。厚みのある筋肉の感触。弾力のあるそれは、自分には備わっていない彼ならではの魅力だ。喉仏に喰らいつかれ、ねっとりと舐めあげられる。
「んっ……ぅ」
シーツの上で大きく身体をのけぞらせた榮の腰を抱き、金山はズボンのベルトに手をかけた。
「ゃ、えと、電気っ……電気、消しましょうっ」
慌てふためき、逃れようとした榮を、金山はけっして逃してはくれなかった。
「ダメです。高科さんの全部、見せてください」
やんわりと、けれども強い力でベッドに押さえこまれる。彼の吐く息が、とても熱い。その吐息にさえ感じてしまい、体温が一度上がったような錯覚に陥った。
ベルトを外されジッパーを下ろされると、はしたなく下着の中心を膨らませた下半身があらわになる。
「ご、めんなさい、こんな、みっともない……」
隠そうとして、やんわりと手を避けられた。
「みっともなくなんてないです。凄く、嬉しいです。高科さんがこんなふうになるの、今夜がはじめてですよね」
普段は金山ばかりが昂ぶり、ふたりのあいだに枕でバリケードをつくっていた。まさか自分が金山に対してこんなふうになるなんて……榮は自分の身体の変化に驚かずにはいられなかった。
「ちゃんと見せて。高科さん。全然、恥ずかしがる必要なんてないから」
左右の手首を掴まれ、身体を隠せなくされてしまう。下着の上からちゅ、とくちづけられ、榮はそれだけでびゅるりと白濁を迸らせてしまった。
「んあぁっ……! ゃ、ご、ごめんなさっ……」
慌ててティッシュに手を伸ばそうとして、手首を掴まれたまま引き留められてしまう。
「オレのキスで気持ちよくなってくれたなんて、すっごく嬉しいよ」
榮のボクサーブリーフのゴムの部分を咥え、金山は器用に下着を脱がせてゆく。
「ゃ、ぁ、だ、めっ……」
白濁に汚れた中心が露わになり、榮は目のくらむような羞恥に襲われた。榮をやさしく拘束したまま、金山はそこに舌を這わせてゆく。
「んーーーっ!」
くちゅりと音をたてて横咥えにされ、榮はふたたび前を昂ぶらせてしまった。すっかり天を仰いだそこから、止め処なく蜜が溢れつづける。
「ぁっ……も、だめ、です。せんせ、このままでは……っ」
また達してしまう。そう思ったときには、手遅れだった。温かな口内に包まれたとたん、二度目の精を迸らせてしまう。
「んあぁあっ……!」
どくどくと溢れつづけるそれを、あろうことか金山は一滴残らず飲み干してしまった。
「せ、先生、申し訳ありませんっ、ぁ、ぁのっ……」
ティッシュを探そうと周囲を見回す榮に、金山はにっこりと微笑みかける。
「もう飲んじゃったよ」
無邪気に舌を出すその姿に、さらに罪悪感が加速した。
「な、なんてことをっ……ぁ、あのっ、お詫びに私もっ……」
起き上がって同じことをしようとして、やんわりとベッドに引き戻される。
「だめ。こんなとこにキスするくらいなら、こっちにしてよ」
唇を重ね合され、ねっとりと舌を絡めらとれる。ゆるく吸い上げられると、達したばかりのはずの先端がふたたびムクリと立ち上がってしまった。
(うそ……自分は、性に淡白なほうだと思っていたのに……)
ふだんの榮は、男性に対しても女性に対しても劣情を抱くことがなく、自分で自分を慰めることすら、ほとんどしない。あまり長いこと放っておくと、寝ているあいだに布団を汚すことになる。そう思い、仕方なく時折、『処理』していただけだ。
「高科さん、キスするだけで、こんなになっちゃうんだね」
淫らに濡れた先端に触れられ、ビクッと身体をこわばらせる。
「い、いけません……先生、手が汚れてしまい……あぁっ……!」
握りこまれ、ゆるく扱きあげられる。はじめて感じる他人の手の感触に、榮はシーツのうえで身悶え、ギュっと目を閉じて耐えることしか出来なかった。
「感じやすいんだね。ここも、こんなに勃ちあがってる」
ちゅ、と胸の尖りに吸いつかれ、榮は大きく身体をのけぞらせる。シーツから浮き上がった榮の腰に手を廻すと、金山はすっかり膨れ上がった榮の乳※首を軽く甘噛みした。
「んあぁあっ……ゃ、め、そこ、ゃ、ゃめてくださいっ……」
こんな場所を噛まれ、感じてしまうなんて。自分の身体がどうにかなってしまったみたいで、榮は戸惑わずにはいられなかった。
そうしているあいだにも、金山は榮の胸にむしゃぶりつき、ねっとりと舐めあげたり、軽く噛んだりしつづける。
「ぁ、ぁ、ぁっ……ゃ、もうっ……あぁああっ!」
強く吸い上げられた瞬間、榮はふたたび精を放ってしまった。
「ん、ぅ……はぁっ……ぁ……」
朦朧とする意識のなか、濡れた指で窄まりに触れられる。
立て続けに何度も達した榮には、もはや抗う言葉さえ、発することができなかった。気づいたときには、先端を埋めこまれていた。身体のなかで一番汚い場所に触れられているのだという羞恥と、内側から押し広げられる得体の知れない感覚。
拒まなくちゃいけない。そう思うのに……指先ひとつ、動かすことができない。
「好きだよ、高科さん。高科さんの、全部が欲しい」
くちづけられながら、彼の指で蕩かされてゆく。ぬるぬるするものを塗り込まれ、ゆっくりとなかを掻き混ぜられた。
「ぁ……っ、ん、ぅ……」
そんなふうにされると、達したばかりの先端がふたたびカタチを取り戻してしまう。もうこれ以上、達せるはずがないのに。先端からはみだらな蜜が溢れつづけている。
「高科さんっ……」
熱っぽい声で名前を呼ばれ、両足を大きく開かされる。のしかかるようにして、熱く猛ったモノを押し当てられた。散々指で焦らされたそこは、宛がわれたそれを、勝手に喰い締めてしまう。
「ぁっ……!」
ほんの数ミリ。先端を埋めこまれただけで、榮の身体に、いままで感じたことのない鮮烈な快感が走った。
(熱い……こんなの挿れられたら……絶対におかしくなるっ……)
ささやかな榮のモノとは比べ物にならないほど逞しい、金山の雄芯。めりめりと押し拡げられながら、その身を震わせ続ける。
「高科さんのここ、すごくキツい。辛いよね? きょうは、ここまでにしておこうか」
やさしく髪を梳かれ、高科はふるふると首を振った。
「大丈夫、ですから……もっと、そばに……っ」
気遣ってくれるのは嬉しいけれど、できることなら、すべてを受け容れてあげたかった。高科の気持ちを尊重してずっと待ち続けてくれていた彼を、ちゃんと受け容れたい。
自ら背中に手をまわし、そっと引き寄せる。ぴったりと互いの肌が重なって、挿入が深くなった。
「高科さんっ……!」
きつく抱きしめられ、すべてを埋めこまれる。
「んあぁあっ……!」
最奥まで貫かれたその瞬間、榮は意識を手放してしまった。
今度こそ、本当に清州を怒らせてしまった。
いったいどんな報復を受けるのだろう。不安でたまらなかったが、いまのところなんのお咎めもない。
テレビではお盆休み中の金山のようすが連日放映されている。地方選挙の応援やさまざまな行事に駆けつけ、熱心に働く姿。多忙な日々の合間を縫って継続している被災者支援のようす。テレビだけでなくネット上でも、彼の奮闘ぶりは広く有権者に支持されているようだ。
「支持率が高すぎて切るに切れない、ってところですかね」
金山の人気はますます高まるばかりで、今日も朝からひっきりなしに陳情客や取材記者が事務所を訪れている。彼に陳情したところで具体的に何かを改善できる力はないのだが、それでも話を聞いてもらいたいと思っているのだろう。
一時間ほど前から金山は党本部に呼び出されて不在にしており、榮と堀田が手分けして対応に当たっている。
「どうしたんですか、堀田くん」
パーテーションの向こう側、堀田の唸り声が聞こえる。さりげなく覗き込むと、老婆が床に額を擦りつけるようにして土下座していた。
「どうかお顔をお上げください」
慌てて駆け寄り、榮は彼女を立ちあがらせる。
「金山先生はどこですか。彼ならきっと引き受けてくださる。どうか直接お話をさせてください!」
老婆は高科の腕にすがり、そう懇願した。
「金山はもう、競泳選手ではないのです。国会議員なんですよ。そのようなお申し出には答えられないんです」
堀田の言葉に、勢いよく扉がひらく音が重なった。
「ただいま戻りましたっ。みんな、差し入れに『白クマくん』買ってきましたよー」
満面の笑顔でアイスの入った袋を差し出す金山に、老婆が駆け寄ってゆく。金山の足元にひれ伏し、彼女は叫んだ。
「どうか孫娘のために、先生のお力をお貸しください!」
「いえ、ですからおばあさん。国会議員は個人の頼みごとをきく存在ではなくてですね」
ふたりのあいだに割って入ろうとした堀田をやんわりと押し退け、金山は彼女の前にしゃがみ込む。
「お顔をあげてください。どうされました。僕にできることなら、なんでも請け負いますよ」
「先生!」
非難めいた声を発した堀田を無視して、金山は老婆をソファに座らせた。
「はい。白クマくん。九州名菓だそうです。よかったらどうぞ」
唐突にカップアイスを差し出され、老婆は恐縮して頭をさげる。
「お茶をお願いします」
双子たちに声をかけ、榮は金山の隣に座った。この事務所の主である金山自身が話を聞きたいといっているのだ。どんなくだらない陳情であっても、ここは老婆の話を聞くべきだろう。
「どうぞ、つめたいものが苦手でなければ、遠慮せずに召しあがってください」
スプーンを差し出した榮にぺこりと頭をさげ、彼女はアイスの蓋を開けた。
「高科さんもどうぞ、溶ける前に。みんなも手が空いたところで休憩にして。アイス食べてくださいね」
スタッフ全員にアイスを配り、金山はふたたび彼女に向きなおる。来客の分まで考慮していなかったのだろう。自分が食べたくて買ったのだろうに、金山の分はなくなってしまった。榮は蓋を開けた自分のアイスを、さりげなく金山の前に置いてやった。
「それは高科さんの分です」
「いえ、先生がお召し上がりください」
「ダメです。いつも頑張ってくれているみんなに、差し入れしたくて買ってきたんですよ。白クマくんなら、復興支援にもなるかなぁって思って」
「では、はんぶんこで。私もあとで半分いただきますから、まずは先生、食べてください」
小声でそんなやり取りをかわし、老婆にくすりと笑われてしまう。
「失礼いたしました。ええと、それで、お願いごとというのは、なんでしょうか」
金山の手に無理やりスプーンを握らせ、榮はそう切り出した。
「私には今年十六歳になる孫がおりまして……彼女の夢をかなえて欲しいのです」
老婆の言葉に、堀田は『ほら、ありえないでしょ?』と無言のまま肩をすくめてみせた。それを無視して、さらに訊ねる。
「どんな夢ですか?」
「津軽海峡を泳いで渡る、いう夢です」
堀田のネガティブなジェスチャーがさらに大きくなる。さすがの榮も、どうリアクションしていいのかわからなくなった。
「失礼ですが……その夢と金山に、なにか関係があるのでしょうか」
「ウチの孫は、目が不自由なのです。ひとりでは海を泳ぐことができんのですよ」
「ええと……ちょっと待ってくださいね。まず、お孫さんはなぜ津軽海峡を泳ごうと思われたのでしょうか」
あまりにも突飛すぎる話に、榮は困惑せずにいられなかった。
「何年か前、24時間テレビで、盲目の少女が津軽海峡を泳いで渡る、という企画を見たのです。孫は当時、視力を失いつつありまして……彼女にとって、目が見えなくてもそんな偉業を成し遂げることのできた少女の存在は、なにより心の支えになりました」
いつか、自分も津軽海峡を渡る。そんな想いを胸に、失明の不安と闘い続けてきたのだという。
「段々と視力が失われ、中二の春には、ほとんどなにも見えん状態になりました。その年頃の少女にとって、自分の姿さえ見ることが出来んというのは、絶望的なことだったんですよ」
それでも彼女には、夢があった。いつかあの少女のように、自分も津軽海峡を渡る。目の見えるひとにさえ困難な偉業を成し遂げた少女のように、自分も立派なスイマーになりたい。その一心で、彼女は水泳に打ち込んできたのだという。
「毎年行われとった津軽海峡横断企画ですが、震災以降、行われんくなってしまいました」
船を出し、万全の態勢で挑む横断泳は経費がかかるうえ、危険も伴う。その番組では、津波による甚大な被害をもたらした震災を機に、海に関する企画はやめ、障がい者によるマラソンをメインコンテンツにしているのだという。
「いつか再開されると、孫は信じていたようです。あの番組に参加できるのは十六歳から。ようやく参加できる年齢になったのに、企画が再開されないことに孫は絶望しました」
それまで、その企画に出ることをだけを夢見て、頑張って生きてきたのだという。ふさぎ込む彼女を慰めるため、老婆はテレビ局に直接お願いに行ったのだそうだ。
「もともとマラソンと比べて、視聴率もよくなかったそうで、スポンサーの意向もあって難しいといわれたんです。ただ、『金山議員に伴泳をお願いできるなら、企画を通してもいい』と」
現在、押しも押されぬ人気者である金山。彼を起用すれば、高視聴率獲得は間違いないだろう。
「申し訳ありませんが、金山は現在国会議員でして、以前のように競泳のトレーニングをしているわけでは……」
「やりましょう!」
きっちり半分食べ終えたアイスのカップを榮に押しつけ、金山は老婆の手を握りしめた。
「ちょっと待ってください、そんな、勝手に……っ」
「党の皆さんには僕からお願いします。絶対に、議員の仕事をおろそかにしたりしませんから」
津軽海峡がいったい何十キロあるかわからないが、そんな危険なことを金山にさせるわけにはいかない。大体、ただでさえ多忙な日々なのだ。いったいどこにそんなトレーニングをする暇があるというのだろう。
「ええと、あなたのお名前は」
おばあさん、と呼びかけるのは失礼だと感じたのだろう。金山はにこやかな笑顔で、老婆にそう尋ねた。
「鈴田静江(すずた しずえ)と申します」
「静江さん、よろしくお願いします。党のみなさんを説得するのにすこし時間がかかるかもしれませんが、必ずお孫さんの横断泳を成功させて見せますから!」
なにを勝手に安請け合いしているのだろう。老婆の背後で、堀田がぐったりと肩を落としている。榮も同じく、脱力してしまいたい気持ちになった。
「てわけで、きょうからトレーニングを行うことにします。許可は……清州先生に取ればいいんですかね」
「あの方が許可するとは思えません」
「許可してくれなくても、オレはやりますよ」
子どもたちが夢をかなえられる社会をつくりたい。
そうだ。金山の理念は、そこにあるのだ。誰にも夢をあきらめさせない。たったひとりの少女の願いだとしても、金山はけっしてそれを軽んじたりはしないのだろう。
「ありがとうございますっ……」
堪えきれず泣き崩れる静江の背中を、金山はやさしく摩ってやっている。金山の安請け合いに呆れつつも、榮は彼を全力で止めることはできそうになかった。
静江を見送りに席を立つと、彼女と入れ違いに背の高い白人男性が入ってきた。
二メートル近くあるだろうか。金山と遜色のない長身にタンクトップからのぞく鍛え抜かれた体躯。さらりと揺れる金色の髪に、透きとおるような白い肌と翡翠色の瞳が特徴的な、ハリウッド俳優かと思うほどずば抜けて整った容姿をした男だ。
「申し訳ありません、本日の面談はこれでおしまいなんです」
日本語が通じるだろうか。不安になりつつ告げた榮の脇を素通りし、彼は金山に飛びかかる。
『ツヨシ!』
『おー、ケビン、元気だったかっ』
『久しぶりだな、ツヨシ、政治家になったんだって?!』
飛び交う流暢な英語。リスニングの得意な榮でさえ聞き取るのがやっとの早口の応酬に、堀田が目を丸くしている。
『こちらの方は?』
英語を使うのは久しぶりだ。ぎこちなく訊ねた榮に、金山はおかしそうに笑う。
「高科さん、本当にスポーツに興味ないんですねぇ。ケビン・オードウェル。『世界最速の貴公子』ですよ」
「ふぁっ、ほ、本物のケビン選手っ?! わわっ、サ、サインくださいっ!」
マジックを手に堀田はワイシャツの背中にサインをして欲しいとねだった。
「きゃー、ケビンさまーっ!」
「わー、本物のケビンさまだわっ!」
どうやら双子たちも知っているようだ。
バタフライ・自由形の100mと200m、個人メドレー200mと400m、それらの種目で世界記録を樹立し、競泳のみではなく、全競技を通してオリンピックメダル獲得数史上一位の天才スイマーなのだという。
『立ち話もなんだし、どこかでお茶でもしようぜ』
金山の流暢な英語に、発音に自信のない榮は軽く劣等感を刺激された。まさか、小学校で習う漢字も読めないお馬鹿な金山が、こんなにも英語が得意だなんて思わなかった。
「先生、今日は何の予定もありませんし、このまま直帰されても構いませんよ。ただ、おひとりでの行動は、謹んでいただかなくてはなりませんが」
かたく抱きあったまま、仲睦ましげに会話を交わしあう二人。もしかしたら、そういう関係なのだろうか。ちらりとケビンの美貌を見遣り、榮は胸が痛むのを感じた。
『ケビン、もう仕事あがっていいそうだから、今から東京を案内してやるよ。高科さんも一緒だけど、いいか』
『そういえば、恋人が出来たっていっていたな。彼がそうか?』
『ああ、そうだよ。絶対に盗るなよっ。大事なパートナーなんだからな!』
職場でなんというやり取りをしているのだろう。慌てふためく榮とは対照的に、堀田も双子も彼らの会話がまったく聞き取れず、ぽかんとしている。
『はじめまして、きみがツヨシのパートナーか。名前は? キュートだね。ツヨシから散々のろけられていたけど、想像以上にきれいで驚いたよ!』
とつぜんハグしてくるケビンを、金山が慌てて引き剥がした。
『オレの大切な人に勝手に触んなっ!』
『なにいってるんだ。触るくらい、減るもんじゃないだろう』
子どものようにいがみ合う二人を前に、榮はどうしていいのかわからなくなってしまう。
「そいじゃオレらは今からケビンをもてなしてくるから。みんなも今日は早くあがっちゃいな」
「ぇー、高科さんだけズルいですっ。僕らも連れて行ってくださいよー」
「あまり大人数だと目立つから、今日は高科さんだけ。明日、みんなで食事に行こう」
金山は日本語でそういったあと、ケビンに明日の夜、事務所のみんなと夕飯に行かないかと英語で告げた。
『いいよ、こんなに美しい女性たちといっしょに食事が出来るなんて楽しみだよ』
にこやかな笑顔で双子の肩を抱くケビンをに、彼女たちは黄色い歓声をあげる。
「えー、僕はーっ」
英語が判らなくても、彼女たちに甘い言葉を吐いたのがわかったのだろう。不機嫌そうな顔をした堀田の頭を、ケビンはちいさな子どもにするようにポンポンと叩いた。
『もちろん、きみも歓迎だよ。少年』
完全に子ども扱いだ。それでも嬉しいらしく、堀田は満面の笑みで踊り狂っている。
『それじゃ、ケビン、一本だけ電話をかけたら出れるから、ちょっとソファに座って待ってて』
金山に促されソファに腰かけたケビンに、双子と堀田が群がった。世界最速の貴公子。彼がどんなに凄いスイマーなのか榮にはよくわからないけれど、確かにその優美な容貌は『貴公子』そのものだ。
『待たせたな、ケビン』
静江との約束を果たすため、金山は清州に電話をかけていたようだ。彼は不在だったらしく、ふたたび明日電話をすることになったのだという。
『ケビン、どこか行きたいところはあるか』
『せっかく日本に来たし、花火大会に行きたいな。日本人はみんな、ユカタを着ていくんだろ?』
『花火大会? 平日はやってないんじゃないかなぁ……』
困惑する金山の隣で、榮はスマホを取り出して関東地区の花火大会カレンダーを探した。
『都内ではありませんが、群馬なら、本日開催の花火大会があるようですよ』
『いまから行って間に合いますか』
『二十時開始なので、十分間に合うと思います』
車で行けば、一時間半ほどで辿りつけるようだ。
『折角だし、浴衣で行くか』
親日家のケビンは、浴衣を着て花火大会に行くのが夢だったようだ。近くの呉服店で浴衣を調達し、その場で着替えて会場へと向かった。
『金山先生、会場に近づいてはダメです!』
ただでさえ目立つ容姿をした金山とケビン。おまけに二人そろって世界的に名の知れたトップアスリートだ。ひと気のない場所でゆっくり花火を楽しませてあげようと思ったのに、彼らはごったがえす会場内に突き進んでいってしまう。
『一度でいいから、ワタアメというものを食べてみたかったんだ』
大柄な身体に似合わず、ケビンは甘党のようだ。わたあめの屋台を見つけ、うれしそうに歓声をあげる。貴公子という呼び名どおりの華やかな容姿と浴衣のギャップが何だか不思議だ。そしてその隣に立つ金山の雄々しい浴衣姿に、榮はケビン以上に目を奪われずにはいられなかった。
「おお、ケビン・オードウエルだ!」
「わ、金山毅志もいるっ」
あっというまに人だかりができて、大変な騒ぎになってしまう。
「金山選手じゃないですか。どうされたんですか。こんなところで」
異変を察知してやってきた花火大会の実行委員は、偶然にも金山とともに震災ボランティアをしていた青年だった。
「このままでは危険ですから、どうか来賓席へ」
特設ステージ脇にある来賓席に三人は招かれることになった。
「みんな大変な思いをして場所取りしているのに、こんな特等席で見るわけにはいかないだろ」
辞退しようとする金山に、彼は縋るような目を向ける。
「いや、実はですね。浴衣コンテストを行うことになってるんですけど、なかなか参加者が集まらなくて。金山選手の力で、なんとかなりませんかね」
「オレなんかで人が集まるかどうかわかんないけど、ケビンがいりゃ、インパクト絶大だ」
党の上層部に無断でそんなことをさせてはいけない。そう思いながらも、彼が震災当時苦楽を共にしたボランティア仲間の力になろうとしているのを、榮は止めることができなかった。
(今までの自分なら、絶対になにがあっても止めていたはずなのに……)
特設ステージに金山とケビンがあがると、割れんばかりの歓声が巻き起こる。彼らに促され、たくさんの人たちが浴衣コンテストに飛び入り参加してくれた。
「大賞はケビン選手と金山選手に贈らせていただきたいです」
「いやいや。こういうのは地元のひとに贈らなくちゃダメだろ」
金山に窘められ、実行委員の彼は、親子で参加した地元の家族連れに大賞を授与した。ほかにもたくさんの人たちに賞を授け、全員に参加賞として地元の特産品が配られる。
「よかったですね、浴衣姿の美女たちに囲まれることが出来て」
嫌味をこめてそういってやると、金山は榮を見つめ、『ようやく一番きれいなひとのそばに戻ってこれて幸せですよ』といった。英語なら大丈夫だと思っているのだろう。平気で人前で甘い言葉を吐いてくる。
「な、なにを馬鹿なことをっ……」
『照れちゃって。可愛いなぁ。ツヨシ、きみが彼に振られたときはすぐに連絡してくれ。僕がサカエの心をもらいに来るよ』
『絶対にお前なんかに渡さないから!』
子どものように本気で憤る金山は、幼い言動とは裏腹に、濃紺の浴衣を粋に着こなし、男らしい色香を漂わせている。思わずぽーっと見惚れてしまい、ケビンにからかわれた。
『あーあ、サカエは本当にツヨシに夢中だな。うっとりした顔で、お前のことを見つめてる。二人きりにしてやりたいのは山々だけど、きょうは朝まで邪魔してやるからな!』
『勝手にいってろよ。お前がいようがいまいが、オレは高科さんと浴衣で愛を育むからな』
来賓席に並べられたパイプ椅子。闇にまぎれ、金山はさりげなく榮の手を握りしめる。
『お、花火だ!』
ドン、という音とともに、闇夜に鮮やかな火花が躍る。空いっぱいに咲き乱れる大輪の花火に、思わず榮は歓声をあげてしまった。
「すごい!」
花火を見るのなんて、いったいいつ以来だろう。小学生の頃、母と一緒に見に行ったきりだ。色とりどりの花火を眺めながら、金山は榮の手をギュっと握りしめる。
『高科さんといっしょに花火に来れて、すっごくしあわせ』
英語で発されたその言葉にうまく返事をすることもできず、榮はただ彼の手を握りかえすことしか出来なかった。かすかに震えるその手を、金山はしっかりと握りしめ続けてくれる。最後の花火が消えるまで、ケビンに冷やかされながらも、ふたりはずっと手を握り続けていた。
花火大会終了後、三人はケビンが宿泊しているという汐留のホテルへと向かった。
「大丈夫ですか、高科さん」
慣れない下駄のせいで足の指が剥けてしまい、うまく歩けない。よろめく榮を、金山は支えてくれた。
『サカエ、僕が抱っこしてあげようか』
『おい、離せよばかっ。オレの大切な人に触るなっ!』
大男ふたりに奪い合われ、榮は困惑する。
『ダメですよっ、誰かに見られたら大変です』
単なる友人同士の悪ふざけ。そう思って貰えればいいが、穿った見方をする者もいるだろう。
『これ以上無理です。花火大会のあいだ、ずっと我慢してたんですよ』
手を握るだけじゃ足りなかったんだ、と金山は頬を摺り寄せてくる。
『ずるい、僕も混ぜて』
ふたりにもみくちゃにされながら、榮はケビンが宿泊する最上階のスイートルームへと連れて行かれた。
「すごい……」
広大なリビングルーム。全面ガラス張りの窓から、まばゆい東京の夜景が見える。
「高科さん、夜景好きなんだ?」
「ゃ、べ、べつにっ……」
金山にやんわりと後ろから抱きしめられ、榮は慌てて否定した。
「ごめんね。はじめてのえっち、こういう場所にすればよかったね」
ちゅ、と耳朶にくちづけられ、羞恥に頬が火照る。
「ゃ、やめてくださいっ……ケビンさんの前で……」
『大丈夫。コイツ、こういうの気にしないから。な、ケビン』
いつも金山が、見せつけられる側だったのだという。
『いいよ、どんどんやっちゃって。サカエが淫らに乱れる姿、僕も見てみたいよ』
『ちっ……なんだよ、それ。誰が見せてやるか!』
ケビンのからかいに、金山は本気になって反論した。
『高科さん、ベッドルームに行こう』
『ダメですよ。ちゃんとお友達とゆっくり過ごしてください』
はるばるアメリカから来たケビンを放っておいて、自分に時間を割かせるわけにはいかない。
『そういえば、どうして日本に来られたんですか? オリンピック終わられたばかりですよね』
榮はあまりスポーツに詳しくないけれど、オリンピック終了後といえば、凱旋帰国し、さまざまな取材を受けたり祝賀パレードをしたりするのではないだろうか。
『ああ、帰国前にどうしてもツヨシに話しておきたいことがあってさ』
ふざけた様子から一転。真剣な表情でケビンはいった。
『席を外しましょうか』
立ちあがろうとした榮を、彼はやんわりと引き留める。
『ツヨシのパートナーにも、いっしょに聞いてほしい。ここにいてくれ』
ローテーブルを挟み、三人は向き合ってソファに腰をおろした。
『実は……帰国後の祝賀会見で、カムしようと思ってるんだ』
ケビンの言葉に、金山は驚きの声をあげる。現役トップアスリートのカミングアウト。それはとてつもなく大きな波紋を呼ぶことなのだそうだ。
特に男性アスリートの場合、依然としてホモフォビアが根深い。同性愛者といっしょの更衣室を使いたくない。触れられるのも、視界に入れられるのも嫌だ。宗教的な背景があるだけに、日本以上にそんな主張をする者が少なくないのだという。
『コーチやスポンサーには相談したのか』
『いや、コーチからは引退後にしてくれっていわれてる。だけど、それじゃ意味がないんだよ。現役時代にカムしなくちゃ、なにひとつ変えることは出来ない。僕だけじゃないんだ。たくさんのアスリートが性的指向や性自認のことで悩んでる。まだこれからっていう若いアスリートたちがそんなことに煩わされてダメになっていくのを、これ以上、見ていられないんだ』
『ケビンの気持ちはわかるけど、コーチにだけは、事前にいうべきだ』
『いえば止められる』
『当然だ。お前のことを思うから、止めるんだよ。カムすれば、スポンサーが撤退し、競技を続けられなくなる可能性だってある』
『わかってる。――それでもいいから、本当のことを打ち明けたいんだ』
たとえ競技人生を断たれても、それでも真実を打ち明けたいのだという。
『世界最速の貴公子』なんてあだ名をつけられ、国民的英雄のように崇められる彼は、いままでに何冊も自伝を出している。そのなかで同性愛疑惑に対し、いつもきっぱりと否定しているのだ。
『もし総叩きにあうのなら、それも結構。自由の国アメリカもその程度のものなんだってことを、世界中に知らしめてやればいい。だけど、そうじゃないかもしれない。ちゃんと、受け容れてもらえるかもしれない。もし僕のカミングアウトが世界中に受け容れられたなら、それは革命的なことになるだろ。アスリートだけじゃない。同じ悩みを抱えるたくさんのひとたちが、救われることになる』
『失敗したら、お前の競技人生はそこで終わるんだぞ。多くの人を、哀しませることになる』
『そんなの、常に感じてるよ。ツヨシだってわかるだろう。スタート台から飛び込む瞬間、いつだって僕らは引退の恐怖と隣り合わせだ』
数字がすべて。よいタイムが出せなければ、今までの実績もなにもかも、意味がなくなってしまうのだ。
『お前はまだやれる』
『だから、いまなんだ。競技者としての僕に価値がある今のうちに、本当のことを伝えたい。メジャー競技のトップ選手が現役中にカミングアウトをする。そのことに意味があるんだ』
決意は固いようだ。翡翠色の瞳が、まっすぐ金山を見据えている。
『そこまで決意が固まってんのに、どうしてオレのところに来た』
『怖いからだよ。不安だから、一番のライバルで友人であるお前に、最初に伝えておきたかった』
金山は手を伸ばし、ローテーブル越しに、くしゃっとケビンの髪を撫でた。
『お前の気持ちはわかった。だけど、やっぱりコーチにだけは事前にいえ!』
『しつこいよ』
『しつこかろうがなんだろうが、大事なことだ。ちゃんと話して、ダメなら決別すればいい。いままで散々世話になった恩師に対して、不義理なことはするな』
『なんか、やっぱりツヨシはツヨシだなぁ』
そういって破顔したケビンの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
世界の王者として競泳界に君臨していながら、その身分を投げ打ってまで真実を語りたいという彼の気持ちは、榮には正直にいうと、よくわからない。けれどもきっと、彼にとってそれは、選手生命をかけて戦わなくちゃいけない、大きな問題なのだろう。
『馬鹿だなぁ、ゲイだって伏せておけば、着替え中の裸、観放題なのに』
場の空気を和ませるために、わざといっているのだろう。ふざけた口調で金山はうそぶいた。
『うるさいなぁ。わかってるよ。僕だって前はそう思ってた。だけどそれって、すごく失礼なことだ。女装して女子更衣室に入って、女性の裸をいやらしい目で見ている変態と変わらない』
『まあな、実際そうなんだよな。うん。オレも現役のころ、特にまだガキのころなんかは、それが一番つらくて、できるかぎりまわりの奴の身体を見ないようにしてたよ』
清州以外、男も女もまったく眼中になかった榮は、思春期にそういう悩みを抱えた経験がない。みんな大変な思いをしていたのだなぁと、今さらのように思った。
それと同時に、金山が自分以外に対してもそういう感情を抱いていた時期があることに、すこし苛立ちのようなものを感じる。
『さぞ、すてきな身体を観放題だったんでしょうね』
思わず憎まれ口を叩いてしまい、金山に抱き寄せられた。
『全然。オレは高科さんみたいな、すらっとしたきれいな身体が好きなんだよ。マッチョな男の裸を見ても、なんとも思わない』
『嘘ばっかり。気になったっていってたじゃないですか』
『そりゃ、ふるってぃんだと好みじゃなかろうが気になっちまうってだけで。欲情するっていうのとは別だから』
きつく抱きしめられ、耳朶にくちづけられる。その身体を押し退けようとして、どんなに頑張っても払いのけることができなかった。
『さーて。すこし飲もうか。イチャついてないで、ほら、アルコールとおつまみ、頼もう』
ルームサービスのメニュー表を突き出し、ケビンはいう。その夜、三人は空が白むまで酒を飲み交わしつづけた。
「もの凄い騒ぎになっていますね」
事務所の壁際に置かれたテレビを眺め、榮は呟く。画面に映し出されているのは、ケビンの祝賀会見のようすだ。本大会最多メダルを獲得したトップアスリートの突然のカミングアウトは、アメリカのみならず世界中を驚愕させる大ニュースとなった。
「そんなに大騒ぎするようなことですかねぇ。別に、女を好きだろうが男を好きだろうが、そんなこと競泳選手にとって関係ないと思いますけどね。ケビン、凄くいいひとだし」
食事会ですっかりケビンと仲良くなった堀田は、画面を見ながら唇を尖らせる。
「堀田くんは、意外とリベラルなんですね」
「いえ。高科さんと同じ、ガッチガチの保守ですよ。うちは四代続いて保守の家系ですから。でも、それとこれとは関係ないっていうか。ぶっちゃけ、誰がなにを好きだろうが、そんなのそのひとの勝手じゃないですか。ただ、自称リベラルな候補者が、当事者でもないくせに集票のために七色の旗を掲げて『同性愛者の権利を』とかやってんの見ると、なんだかなぁって思いますけどね」
いつもお気楽な態度で、なにも考えていなさそうな彼が、そんなふうに自分の考えを持っていることに榮は驚かずにはいられなかった。
(こう見えて、やっぱりお父さまやお祖父さまの血を引き継いでいるんだな……)
いつかは父の地盤を引き継ぎ、彼も議員になる日がくる。こんな子が議員なんて、と思っていたけれど、金山と同じように、彼も案外よい議員になるのかもしれない。
「ぁ、そうだ。バタバタしてて高科さんにいうの忘れちゃってたんですけど。今日から学生インターンがきますよ」
「ぇっ?! そんなの聞いてませんよ」
「今、いいました」
「ちょっと待ってください。誰がそんなこと許可しました? 金山先生はご存じなんですか」
「あ、先生にもいうの忘れてました。いまからお話してきますっ」
「そういう問題じゃないですよ、ちょっと堀田くん!」
議員執務室に駆け込む彼と入れ替わりで、事務所に見知らぬ青年が入ってきた。
「おはようございます。本日からこちらの事務所でお世話になります、K大学の藤川昴(ふじかわ すばる)と申します」
ぺこりと青年が頭をさげると、双子たちの黄色い歓声が沸き起こる。
「きゃーっ、すっごいイケメンっ」
「かわいいーっ」
彼女たちの声に気づき、堀田と金山も執務室から顔を出した。
「はじめまして、金山先生。藤川と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げた藤川に、金山はにっこりと笑顔を向ける。
「こっちこそ、よろしくな」
藤川は金山の大ファンのようだ。心底尊敬しているようすで、すっかり彼に懐いている。年が近いせいだろう。堀田ともすぐに打ち解け、双子たちとも気が合うようだ。
愛想がよく、頭の回転もとても早い。みんなから好かれているのに、なぜか榮だけは、彼のことを好きになることができなかった。
「そもそも、インターンの予定なんて、誰からも訊いていませんよ」
清州に確認しようとしたが、彼は海外視察に出かけていて不在だった。一週間で帰ってくるようだし、国際電話をかけてまで確認することでもないだろう。彼が帰国し次第、連絡を取ってみようと榮は思った。
(それにしても、どこかで見た顔だな。誰だろう。誰かに似ている……)
知的で整った顔立ち。金山ほどではないが、筋量もそこそこあり、背が高くバランスのとれた身体つきをしている。
「かっこいいよねー、昴くん」
「イケメンまみれで働けるなんて、パラダイスだわ!」
うっとりと藤川に見惚れる双子を眺めつつ、いったい誰に似ているんだろう、と思い出そうとする。すると不意に彼と目が合ってしまった。
「なにか、ぼくの顔についていますか?」
「いえ――なにもついていませんよ」
慌てて目をそらし、手元の書類に視線を落とす。空欄を埋めようとして、万年筆からうまくインクが出てこなかった。
「なんだろう。ここのところ、調子が悪いな……」
十歳の誕生日に、父から貰った大切な万年筆だ。分解して調べてみたけれど、どこでインク詰まりを起こしているのか素人の榮には判断することができなかった。
「高科さん、大変です。高科さんのお母さまがっ……」
堀田に差し出された受話器を受け取ると、母の入院先の病院の看護師からだった。
『お母さまの容体が急変しまして、非常に危険な状態なのです。いますぐ来られますか』
あまりにも唐突な出来事に、どうしていいのかわからなくなる。ここのところずっと安定していたのに。いったいなにが起こったというのだろう。
「高科さん、どうしたんですか」
心配そうに金山に見つめられ、榮はうまく言葉を発することができなかった。
「お母さんの具合、よくないんですか?」
堀田に訊ねられ、無言のまま、ちいさく頷く。
「病院、どこですか。オレ、送っていきますっ」
「いえ、大丈夫です。金山先生はお仕事に向かってください。藤川くん、きみ、車の運転できましたね。先生の送迎、お願いしてもいいですか」
「ええ、お手伝いさせていただきます」
車の鍵を藤川に手渡すと、堀田が不機嫌そうに頬を膨らませた。
「僕だって運転くらいできますよ」
「堀田くんは、いつもどおり事務所を守ってください。陳情の対応だって、彼女たちだけではまわせないでしょう。頼りにしているんですよ、あなたのこと」
そういってやると、堀田は照れくさそうに頬を染める。
「ここは頑張って僕たちが守りますから。気をつけていってきてください」
「忙しい時期に、本当に申し訳ありません。向こうに着いたら、すぐに連絡をしますから」
「高科さん、東京駅までお送りしましょうか。私たちも、ちょうどそちらの方面に向かうところですから」
一瞬ためらったが、一秒でも早く母のもとに向かうため、榮は藤川の申し出を受け入れることにした。
後部座席に座るなんて、なんだかとても不思議な感じだ。自分の代わりに運転席に藤川が座っている。そのことに、無性に落ち着かない気持ちになった。
「本当にひとりで大丈夫ですか」
新幹線のホーム。心配そうな顔をする金山に、ぎこちない笑顔をつくって見せる。
「大丈夫です。不在にしてすみません。できるだけ早く、帰ってこられるようにしますから」
母が危篤状態にある現状でそんなことをいうのは、母の死を願っているのと同じだ。自分で口にしておいて、ギュっと胸が苦しくなる。
「オレ、高科さんが不在でもちゃんとできるように頑張ります。だから、そんな哀しい言葉、口にしちゃダメだ」
「でも……っ」
「でも、じゃない」
藤川の目の前だというのに、金山は高科の耳元に唇を寄せ、小声でそっと囁いた。
「黙らないと、口をふさぎますよ」
ギュッと手を握りしめられ、戸惑いながらもその手を握りかえす。電話を受けて以来、ずっと続いていた指先の震えが、ようやくすこし収まってくれた。
「行ってきます」
「ああ、気をつけて」
勇気づけるように再度強く握りしめられ、金山の手のひらの温もりを残したまま、新幹線に乗り込む。早く次の仕事に行かなくてはまずいだろうに。金山は新幹線が動き出すまでずっと、榮を見送り続けてくれていた。
新幹線と在来線を乗り継ぎ、地元の駅へと向かう。ホームに降り立った瞬間、むっとする潮の香と耳鳴りのような蝉の声に包まれた。
バスを待つわずかな時間すらもどかしく、ロータリーに停まっているタクシーに飛び乗る。わざわざ到着時間を調べ、メールしてくれたのだろうか。タクシーが走り出したのと同時に、金山からメッセージが届いた。
『オレがついてるから』
仕事の合間に打ったのだろうか。たった一文の短いメッセージ。スマートフォンを胸の前で握りしめ、唇を噛みしめる。
いつか、こんな日が来る。わかっていたことだけれど、それでもつらかった。
覚悟を決めて病室に向かうと、幸いなことに母は容体を持ちなおしていた。薬が効いて、いまは静かに眠っている。おだやかな寝顔にホッとひと息ついたものの、予断を許さぬ状況のようだ。看護師さんから、しばらくそばについていてあげて欲しいといわれた。
「そういうわけで、申し訳ありません。すぐには戻れそうにないです」
病棟の外に出て金山のスマホに電話をかけると、やんわりとした声音で叱られた。
『申し訳ありません、じゃないでしょう。ご無事でなによりです。このまま、順調に回復してくれるといいですね。こんなときくらい、ゆっくりお母さん孝行してあげなくちゃダメです』
もちろん榮だって母の回復を願っていないわけではない。けれども、事務所のことが心配で、手放しに喜んでいいのかどうかわからないのだ。
『オレも休みが取れたら、すぐにそっちに向かいます。困ったことがあったら、なんでもいってくださいね。あ、困らなくても……ちゃんと、一日一回は声を聞かせてください』
長期戦になるのだろうか。そのあいだ、事務所はどうなってしまうのだろう。本来なら清州に相談すべき事態だが、あんなことがあったあとで、わざわざ海外にいる彼に電話をするのも憚られる。
「とりあえず、堀田くんと藤川くんに頑張ってもらうしかないですね。私のほうからも、現段階でわかっているスケジュールに関しては、フォローさせていただきます」
不在期間がどれくらい続くのかわからないけれど、こちらから指示を出せば、二、三日ならしのぐことができるかもしれない。それ以上かかるようなら、やはり清州を頼らなくてはならないだろう。
『ありがとう。じゃあ頑張って。辛いときはいつでも電話ください』
病と闘うのは母で、榮にできることはなにもないけれど。それでも金山のそんな言葉を、榮はとてもありがたく感じた。
その日の夜更け、ようやく母が目を覚ました。
母に会うのは久しぶりだ。顔立ちは相変わらずうつくしいが、随分と痩せ細ってしまい健康だったころの面影は失われている。血の気を失った肌に胸を締め付けられ、榮はうまく言葉を発することができなかった。
無言のままぼーっとたたずむ榮に、母が微笑みかける。
「お仕事いそがしいのに、ごめんなさいね」
蚊の鳴くような、か細い声だ。声を発することで力を使い果たして死んでしまうのではないかと、榮は不安になった。
「無理に喋ららなくていい」
やっとのことでそう告げると、堪えきれずひと筋涙が溢れる。
こんなことなら、秘書の仕事をやめ、彼女のそばにいてあげればよかった。地元で就職先を見つけて、一秒でも長く、いてあげればよかった。
「あなたに、いっておきたいことがあるの」
「なに」
少しでも母が無駄な力を使わずに済むよう、榮はベッドの脇に跪き、彼女の話に耳を傾けた。
「ごめんなさいね。ずっといえなかったけど、あなた本当は……祐司(ゆうじ)さんの子どもではないの」
「なにをいいだすかと思えば……母さん、こんなときに、そんな冗談いわないでよ」
泣いている榮を、笑わせようとしてくれているのだろうか。それにしたって、この状況下でそんなデタラメをいうなんてタチが悪い。
「冗談じゃないわ。本当のことなの。あなたの本当の父親は、清州昭久先生なのよ」
「なんで、そんなワケのわかんない嘘を……」
「嘘じゃないの、本当よ。学生時代、昭久先生の事務所でインターンをしていた私があなたを身ごもって……周りの反対を押し切って、無理やり生んだのよ」
冗談だといって欲しかった。たしかに政治家の秘書をしていると、隠し子や愛人関係のゴタゴタは嫌というほど耳にする。外に作った子どもを、秘書が養子として迎え入れ、代わりに育てるなんて話も、訊いたことがないわけじゃない。
けれどもまさか自分が、その当事者だなんて考えたこともなかった。おまけに清州昭久の子どもだなんて――ありえない。
「冗談だろ? ありえないよ。じゃあ、政昭先生が俺の兄貴だっていうのか? 全然似てないじゃないか。大体、俺は……」
あの人たちのように、優秀じゃない。
そういいかけ、学生時代、周囲にいわれた言葉が脳裏をよぎった。
『高科くん、凄いわねぇ。今回も学年一位なんて』
『お前、また全国模試トップだったんだって? 賞品の商品券でなんか奢れよ』
よい成績を取れたのは、先天的な要因ではなく、自らの頑張りのおかげだとばかり思っていた。けれども……。
「似てなくなんてないわ。確かにあなたは私似よ。でもね、時折、怖いくらい似てるって思うときがあるの。声や、仕草や……」
言葉を詰まらせ、母は泣き出してしまった。咳き込み、彼女の心拍数や血圧を計測する機器が警告音を発する。慌ただしく看護師さんが駆け込んできて、それ以上、話を聞くことはできなくなってしまった。
「もしかして昭久先生は、父さんの仏壇に手を合わせに来ていたわけじゃなくて……」
父亡きあと、榮たちは母の親類を頼り、伊豆の温泉街にやってきた。そこで、母は旅館の仕事をしながら、榮を育ててくれたのだ。
榮たちの暮らす家に、年に何度も、昭久はやってきた。やってくると必ず泊まっていって、時には清州もいっしょに来ることがあった。
「ぁ……」
激昂した清州は榮のことを、『淫乱の血を引いている』と罵った。
もしかしたら彼は、母と昭久の関係や、榮が昭久の隠し子であることを知っているのだろうか。
「どうしよう。謝らなくちゃ……」
もしそれが事実なら、彼が自分に対して怒りをぶつけるのも当然のことだ。
母は、昭久との間に子をもうけ、その後も彼の愛人でありつづけた。榮たちに対する経済的な支援は、職務に殉じた父に対するねぎらいのためではなく――愛人に対する、お手当や養育費だったのかもしれない。
ポケットからスマートフォンを引っ張り出し、清州の携帯に電話をかける。彼のことだ。きっと海外滞在中も、電話に出られるようにしているだろう。
『――どうした。こんな時間に』
しばらくのコールの後、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「わ、すみません。そちらは今……」
『朝の四時半だ』
「も、申し訳ありませんっ、あの、切らせていただきますっ……」
慌てて電話を切ろうとして、引き留められた。
『なにがあった。金山がなにかしでかしたのか』
「いぇ、あの、そのっ……申し訳ありませんでした!」
『及川議員のことか。そのことはもういい。お前にだって、選ぶ権利はあるだろうからな。あの男のことを、本気で好きなんだろう?』
「そ、そのことではなく。いえ、そのことも当然、謝らなくてはならないのですが、それ以上に、あの……っ」
『なんだ。さっさといえ』
寝起きで機嫌が悪いのだろう。いつになくラフな口調で、清州は先の言葉を促す。
「清州先生は、ご存じだったんですよね。私が、あなたの異母弟だってこと」
電話の向こうで、彼が息を呑むのがわかった。
『誰が、そんなことをいった』
あんなふうに母を罵ったということは、きっと清州はすべてを知り、母や榮のことを憎んでいるのだろう。もしかしたら彼の家庭を、自分たちがひどく脅かしていたのかもしれない。
「母から聞きました。いま、伊豆の病院にいて、それで……」
『お袋さんの具合、よくないのか』
ほとんど休みをとらない榮が病院にいることを、訝しく思ったのだろう。心配そうに訊ねられ、榮は答えた。
「あまり、いい状態とはいい難いです。おそらく最期だと思って、打ち明けたのだと思います」
かすかに声が震えた。情けない。そう思うけれど、止まらなかった。嗚咽を噛み殺し、手の甲で頬を拭う。
「母は、あなたの家庭を……」
周囲の反対を押し切って、母は勝手に榮を生んだのだといっていた。彼女の行いを謝罪しようとして、途中で遮られた。
『お前たちの存在が、私の母親を苦しめていたのは事実だ。母は心を病み、家族関係は崩壊してしまった。だが、そんなことをいったところで、いまさらどうなるものでもない。そもそも彼女がお前を身ごもったとき、彼女はまだ十代の学生だったんだ。お前や彼女のせいじゃない。悪いのは、すべてウチの父親だ』
「ですが……っ」
『そんなことより、事務所のほうは大丈夫なのか』
「申し訳ありません。できるだけ早く戻れるように……」
『馬鹿をいうな。仕事のことなど気にするな。お前は、お袋さんのそばにいてやれ。いいな、絶対にそこを離れるなよ。金山の事務所へは新藤(しんどう)を派遣する。できるかぎりのサポートをするよういっておくから、お前は安心して母親のことだけを考えていろ』
新藤というのは、清州の事務所のなかでも中堅にあたる優秀な秘書だ。職歴も長く、榮なんかよりずっと仕事ができる。
「清州先生……っ」
全力で罵られたって、おかしくないのに。それなのに清州は、榮に手を差し伸べようとしてくれている。
『お前のせいじゃない。謝るのは俺のほうだ。頭ではわかっていても――時折、どうしても自分を押さえられず、怒りをぶつけてしまった。榮……ほんとうにすまなかった』
及川の件のことをいっているのだろうか。榮は頬を拭い。ふるふると首を振った。そんなことをしても受話器の向こう側の清州には見えない。そのことがわかっていても、止まらなかった。
「いえ……こちらこそ、なにも知らずに……本当に申し訳ありませんでした」
血を分けた兄だとわかったところで、清州に対する態度を急に変えることはできそうになかった。はじめて出会ったときから、彼に惹かれていた。ずっと抱き続けてきた敬愛の気持ちと、ひそかな恋心。その想いが血の繋がった実の兄に対するものだと知り、どうしていいのかわからなくなる。
(清州先生は、すべてを知ったうえで、そばにおいてくれていたんだ)
彼の母親を病むほどに追い詰め、家庭を壊した元凶。それなのに、こんなふうに許してくれるなんて。
「清州先生が、兄さん……」
ひとりっ子の榮にとって、それは今までに想像すらしたことのなかった、不思議な感覚だった。
清州の言葉に甘え、事務所の仕事はすべて新藤に任せることにした。あっという間に一週間が経ち、段々と最初のような緊張感はなくなってきた。
このまま持ち直してくれるかもしれない。そんな期待さえ抱けるようになった。
ようやく落ち着きはじめた榮のもとに、一本の電話がかかってきた。液晶には金山事務所の電話番号が表示されている。金山からだろうか。胸を高鳴らせつつ通話ボタンを押すと、慌てふためく堀田の声が聞こえてきた。
『大変ですっ、高科さん、きょう発売の週刊新朝、見ましたか?』
「新朝? いえ、見ていませんけど」
週刊新朝というのは、政治家や有名人のスキャンダルを中心に扱っている週刊誌だ。
『ネット見てください。金山先生が大変なんです』
うながされるまま、金山の名をスマホのブラウザに打ち込み検索ボタンを押す。すると『お飾り議員金山つよしの呆れた実体』と書かれた記事がヒットした。雑誌記事をスキャンしたものだろう。モノクロの記事が数ページに渡って掲載されている。
「これは……」
榮と金山が抱きあっている写真が掲載され、その隣に『秘書を愛人化』とデカデカと見出しがつけられている。ケビンといっしょに写っている写真もある。『世界的に有名なゲイアスリートと乱交』と題し、もつれるように三人で抱きあってホテルに入る写真と、翌朝、エントランスを出る写真が時間表示入りで掲載されている。
それだけではない。『違法薬物・未成年者への淫行疑惑』と題し、ブラックな噂がつきまとうとある企業のCEOが主催するパーティに参加している写真や、高校生と思しき制服姿の少女たちと抱きあい、もみくちゃにされている写真が掲載されている。なかにはホテルの一室と思しき場所で、横たわった金山に美女が馬乗りになり、キスをしている写真まであった。
ありえない。危険な場所にはいっさい近寄らないようにさせてきたというのに。
「堀田くん、これ、どういうことですか。この企業のCEO、薬物接待やら芸能人との乱交パーティやらで有名な男ですよね?!」
『僕もわからないんです。夜はいつも藤川くんが宿舎に送って帰っていましたし』
「藤川くん……そうだ。彼はどうしました? いま、どこにいるんです?」
『それが……なんか急に、体調を崩したとかで、来なくなって……』
うかつだった。母の独白に気を取られ、清州に彼の存在を報告するのを忘れていた。
「新藤さんは、どこにいらっしゃいますか。代わってください」
『彼も金山さんも、朝からマスコミの応対に追われています。とんでもないことになってるんですよ。事務所の電話はひっきりなしに鳴るし、宿舎も議員会館も山のようにマスコミややじ馬が詰めかけて物凄い騒ぎなんです』
現在も電話が鳴り続けているのが聞こえる。これ以上長話をするわけにはいかないだろう。
「わかりました。今すぐ私もそっちに向かいます」
『ぇ、でも、お母さんの容体は……』
「それどころではないでしょう」
いますぐ行きます、と電話を切ったそのとき、ナースセンターから着信が入った。
『大変です、お母さまが……っ』
悪いことというのは、どうしてこうもタイミング悪く重なってしまうのだろう。
榮はスマホを握りしめ、全速力で母の病室へと戻った。
終わりは、あまりにも呆気なかった。
このまま持ち直すかもしれない、そう思っていたのに。榮が駆けつけたときには、ベッドサイドのモニターには無慈悲に水平な線が表示されていた。
呼吸も、脈拍も、なにも反応していない。
彼女にすがって、声をあげて泣きつづけていられたらいいのに。唯一の遺族である榮には、するべきことがたくさんあった。
現実感が湧かないまま、諸々の手続きをこなしてゆく。いつも持ち歩いている愛用の万年筆で書類にサインをしようとして、どんなに調整してもまともにインクが出てきてくれなかった。
父からこの万年筆を貰った日のことを思い出しながら、ゆっくりとキャップをしめる。
(父さんはずっと、清州昭久の子だということがわかったうえで、俺にやさしくしてくれていたんだ……)
いったい、どんな気持ちで母と結婚し、榮のことを育ててくれていたのだろう。昭久に無理やり押しつけられ、仕方なく育ててくれていただけなのだろうか。秘書の仕事で忙しくしながらも、彼はいつだって榮のことを気にかけ、やさしく接してくれていた。
『がんばって勉強して、将来は清州家のお役にたてる立派な大人になりなさい』
万年筆を手渡してくれたあのとき、どんな気持ちで、そんな言葉を口にしたのだろう。
主のいなくなった病室。書類を前にため息をついたそのとき、扉がひらく音がした。不思議に思い振りかえると、そこには清州が立っていた。普段はきっちりとセットしている髪が乱れ、手には大きなスーツケースを提げている。
「もしかして……空港から直接ここに寄ってくださったんですか」
「ああ、飛行機を降りてスマホの電源を入れたら、お前のお袋さんが亡くなったと、新藤からメッセージが残されていてな」
唐突に抱きしめられ、言葉を失う。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。パニック状態に陥りそうになって、彼は自分の兄なのだということを、いまさらのように思い出す。
一見ドライに感じられるが、清州はこう見えて、とても情に厚いひとだ。もしかしたら今までもずっと、こんなふうに兄として自分のことを見守ってくれていたのかもしれない。
「大変だったな」
くしゃりと髪を撫でられ、こらえきれず涙が溢れてきた。
「スーツが汚れて……しまいます……」
迷惑をかけるのがいやで、なんとか逃れようとする。けれどもどんなに抗っても、清州は榮を離してはくれなかった。
きつく抱きしめられ、深みのある香水の匂いに包まれる。ずっと、触れて欲しくて、触れて欲しくて、たまらなかった相手。もしかしたら彼に惹かれるこの気持ちは、恋情ではなく、本能が求める肉親への慕情だったのだろうか。
「兄さん……なんて……ごめん、なさい。そんなふうに呼ばれたら、イヤですよね……」
掠れた声で告げた榮を、清州はさらに強く抱きしめた。
「いやなはずがない。榮、お前は私の、たったひとりの血を分けた兄弟だ」
今までに聞いたことがないくらい、やさしくて慈愛に満ち溢れた声で名前を呼ばれ、堪えきれず声をあげて泣いてしまう。清州は榮を抱きしめたまま、そっとその背中を撫でつづけてくれた。
「高科さんっ……!」
誰かの叫び声が響く。慌てて身体を離そうとして、ふらりと体勢を崩してしまった。床に倒れそうになった榮を、清州が抱き留める。
「なに……してるんですか……」
呆然とした声で、金山が呟いた。なぜ、彼がここにいるのだろう。スキャンダル騒動の真っただなか、マスコミへの対応に追われているはずだ。
「ど、どうして金山先生がここに……?」
「聞きたいのはコッチのほうですよ。なんでここに清州先生がいるんです。しかも、いま抱きあってましたよね。なんで二人が……っ」
「ちがっ、これは……」
彼は私の兄なんです、と告げようとして、清州に視線で制された。
そうだ。こんなとんでもないスキャンダル、ぜったいに誰にも明かしてはならない。与党保守派の重鎮が、未成年者である学生インターンを妊娠させ、隠し子を産ませたうえに、その女性は若くして病死してしまったなんて。外部に漏れれば、マスコミの格好の餌食になるに違いない。
「そんなことより、金山くん、東京を離れて大丈夫なのか」
「大丈夫かどうかはわかりませんけど、そんなこといってる場合じゃないでしょう」
「そんなこといってる場合じゃない? なにを考えているんだ。あんな記事を掲載されて。いまは政治生命のかかった大切な時期なんだぞ。今すぐ東京に戻りなさい」
「いやですっ。絶対に戻らない。高科さんのそばにいたいんです」
「――戻ってください」
「高科さん……?」
怪訝そうな瞳で見つめられ、胸がしめつけられる。だけどダメだ。ただでさえ大騒動になっているこんな状態で、公務を放置して愛人の母親の葬儀に駆けつけたなんて書かれたら、さらに彼の立場は危ういものになってしまう。
「お願いです。今すぐ戻って、仕事をつづけてください」
「なんで高科さんまでそんなこというんですか」
「当然でしょう。あなたは『公人』なんです。私情よりも公務を優先すべきです」
声が震えた。けれど、ちゃんと伝えなくちゃいけない。これ以上金山の支持率を下げるわけにはいかないのだ。
「いやです。絶対に帰らない」
「帰ってくださいっ」
「いやだ。オレが帰ったら、高科さんはまた、清州先生の胸で泣くんですよね。許せないんですよ、そんなの。あなたは私の大切な恋人です。指一本、誰にも触れさせない!」
清州を強引に押しのけ、金山は榮を抱きしめる。そのとき、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
「こっちだ、こっちだぞっ」
開け放ったままになっていた扉に、カメラを抱えたマスコミたちが群がる。看護師さんの必死の制止を訊かず、彼らは抱きあう金山と榮にカメラのフラッシュを浴びせかけた。
「やめたまえ。ここは病室だ。無礼だと思わないのか!」
清州の怒声が響きわたる。
「どうして清州先生がここにいらっしゃるんですか。海外視察中だとお聞きしましたが」
「まさか、海外視察と称して、こちらの病院に詰めていらしたのですか」
「この部屋は、金山先生の秘書のお母さまの病室ですよね。なぜ、あなたが他の先生の秘書のためにそんなことを?」
「お二人のご関係は?」
警備員が駆けつけてくるまで、三人は大量のマスコミにもみくちゃにされ、無遠慮なフラッシュと下世話な質問を浴びせかけられ続けることになった。
「本当に申し訳ございません」
深々と頭をさげた榮に、清州はちいさく首をふって答える。
「お前は、なにも悪くない。悪いのは、あの男をコントロールしきれなかった私だ。まさか、こんなにも馬鹿なことをしてくれるとはな」
斎場の遺族控室。週刊誌を放り投げ、喪服姿の清州は苦々しげに眉を顰める。
「あの、そろそろ清州先生も東京に戻られたほうが……」
「馬鹿をいうな。お前ひとりでなにができる。今日だって、朝から何も食べていないのだろう。このままでは倒れる。せめて、ゼリー飲料だけでも摂れ」
週刊誌とともにコンビニで仕入れてきてくれたのだろう。ゼリー飲料を差し出され、ぺこりと頭をさげる。
「あの馬鹿オヤジは、どんなに来たくたってここには来られない。ヤツの代わりだと思ってくれ」
漆黒のネクタイを緩め、清州はため息交じりに呟いた。
母を孕ませたのは昭久であって、息子である彼はなにも悪くない。それなのに、罪悪感を抱いてくれているのかもしれない。
「しかし、とんでもないことをしてくれたもんだ。お前とのことは私がけしかけたことだから仕方がないとして、なぜ、あんな危険な男のところに行ったりしたんだ」
金山とともに週刊誌に掲載されているとある企業のCEOは、薬や女を駆使して政治家や企業家、芸能人やスポーツ選手を歓待し、自分の力をあらゆる業界に浸透させようと暗躍している人物だ。つい最近、薬物所持で捕まった大物芸能人も、彼の庇護を受けていたという。
「それが……あの、報告が遅れてしまって申し訳ないのですが……」
藤川昴というインターン生の話をすると、清瀬は怪訝そうに眉を顰めた。
「インターン? こんな時期にか」
大学生の議員インターンというのは、主催するNPOによっても異なるが、大抵は二月から三月、八月から九月の二か月間の日程で行われるものなのだそうだ。清州の事務所ではいっさい受け入れをしていなかったため、榮は今まで一度も彼らの来訪を受けたことがなかった。
「先生がインターンを受け容れないのはやはり……」
母が原因なのだろうか。不安になった榮の髪を、清州はくしゃりと撫でる。
「二人きりのときくらい、『先生』はやめろ」
清州の手のひらが、そっと榮の髪を梳く。心地よさに、榮は思わず目を細めた。
「彼女が亡くなった今、私は数少ないお前の家族だ」
棺に納められた榮の母親をちらりと見やり、清州はさらに榮の髪を撫でる。
「少しくらい、私を頼ってくれてもいいんじゃないのか。それともなんだ。お前が私に抱いていた感情は恋情だけで、兄だとわかった途端に用済みか」
「ち、ちがっ……」
やはり気づかれていたのだ。あまりの恥ずかしさに、榮はどこかに逃げ出したい気持ちになった。
「お前が金山を本気で愛しているのだと思い知らされたときのショックといったら、どんな言葉を使ったって表すことができないよ。ずっと私のことだけを慕い続けてくれるのだとばかり思っていた。それなのにお前は、すっかりあの男に入れあげ、私のいうことなど聞かなくなってしまった」
「そ、それはっ……」
「ひと足早く、花嫁の父親にでもなったような気分だ。『大きくなったらパパと結婚する!』ときらきら目を輝かせていた娘が、あっという間にほかの男に夢中になってしまったみたいでな」
「娘って……」
「それくらい、ショックだったってことだよ。あの男なら仕方ないと、どんなにいい聞かせたって本能が拒絶する。だけど――救わないわけにはいかない。お前が大切に想う相手なら尚のこと。絶対に、私は金山を切り捨てたりしない」
今回のスキャンダルで、党の上層部には金山を切り捨てようとする動きもあるようだ。一度失ってしまった有権者の信頼は、並大抵のことでは取り返すことができない。それでも清州は、彼を守り抜くといってくれた。
「まずはその、藤川という男を捕まえなくてはな」
清州の秘書がK大学を探したが、藤川昴という人物は在籍していないようだ。さっそく興信所に依頼し、彼の足取りを追ってくれるのだという。
こんなゴシップを信じてはいけない。そう思いながらも、視線は金山が美女に跨られている写真や、女子高生たちにもみくちゃにされている写真に吸い寄せられてしまう。
彼は男女どちらも、愛せるタイプなのだろうか。そんなふうに思うと、胸が苦しくなる。
警備員に裏口に誘導され、金山はタクシーに押し込まれて都内へと帰って行った。あの後、一度も連絡がない。無事に帰れたのだろうか。鳴らないスマホを握りしめ、榮は唇を噛みしめる。
「そんな顔をするな。アレはお前のこと以外眼中にない。さっきだって、わかっただろう。俺は危うく、あの男に殴り殺されるところだったぞ」
くしゃりと髪を撫でられ、涙腺が緩んでしまいそうになった。
「申し訳ありません。私がもっとしっかりしていれば、あんな不審な子を事務所に入れることもなかったのに……」
自分の不手際のせいで、金山を守り切れなかった。深々と頭をさげた榮の後頭部を、清州はやんわりと引き寄せる。
「すべての責任は私にある。お前は気に病む必要はない。そんなことより、こんなに大変なときなのに、まともに泣けてないだろう。ほら、泣け。明日の葬儀では喪主をつとめなくてはならないんだ。泣くなら今のうちだぞ」
かすかな香水と清州のにおい。ゆるく抱きしめられ、その香りに包まれる。
「ありがとう……ございます」
榮は彼の胸に寄りかかり、声を推し殺したまま、ほんの少しだけ泣いた。
清州の依頼した興信所は、葬儀が終わるころには例の青年の身元と現在の居場所を割り出していた。
「いったいどうやって調べ出したんですか」
元公安のキャリアが営む興信所なのだという。おそるおそる訊ねた榮に、清州はちいさく笑ってみせる。
「世の中には知らないほうがいいことが沢山ある」
国内の随所に防犯カメラの設置された現代。きっと国民のプライバシーなど、あってないようなものなのだろう。
「その手の方たちが本気になれば、偽名を使おうがどこに逃げようが、無駄ということですね」
榮の呟きに、清州はなにも答えない。
「お前は先に金山の元に戻れ。私が話をつけてくる」
「いえ……私も、行かせていただきます」
藤川がいったいどんな処分を受けるのか榮には見当もつかないけれど、できれば会えなくなる前に、なぜあんなことをしたのか教えてもらいたかった。
どんなに金山があの記事を『事実無根』だと突っぱねても、きっと国民に与えた悪い印象を、完全に払しょくすることはできないだろう。
金山に対し、なにか個人的な恨みでもあるのだろうか。こんな酷いことをした理由を、確かめたかった。
水島昴(みずしま すばる)。それが、例のインターンの本当の名だった。
「どうして、下の名前は本名のままなんですかね」
偽名を使うのなら、普通は姓名ともにまったく違う名を名乗るのではないだろうか。
「なぜだろうな。それにしても……」
タクシーの後部座席。タブレット端末で昴の経歴報告書に目を通していた清州が、言葉を詰まらせる。
「どうされたんですか」
「いや……なんでもない」
憂いを帯びた表情。昴に関し、なにか気にかかることでもあるのだろうか。不思議に思いながら、榮は見慣れない車窓の景色に目をやった。
たどり着いたのは、三浦半島の南端にある、医療施設だった。心を病んでしまった患者のための長期療養施設だ。ここで彼は、入院中の母親の付き添いをしているのだという。
「こういう場所って、家族が付き添うこともできるんですね」
ひと目を避けるようにひっそりと建つ、年代物の建物。窓に嵌められた鉄格子が、この場所が特殊な場所だということを物語っている。
「どうかされましたか」
清州の顔色が、とても悪い。心配になり、榮はそう訊ねた。
「なんでもない」
彼はふたたびそう答えたけれど、いまにも倒れそうに蒼白な顔をしたままだ。
「あの、ここで患者さんの付き添いをされている、水島昴さんにお会いしたいのですが」
受付でそう告げると、難しい顔をされた。
「申し訳ありません。当院では患者さまのプライバシーにかかわるご要望に、お応えすることはできませんので」
すげなく断られ、それでも清州は引き下がらない。交渉をつづけていたそのとき、受付脇の扉が開き、背の高い青年が出てきた。
ポロシャツにハーフパンツというラフな服装だが、間違いない。藤川――いや、水島昴だ。
「昴くん!」
驚いた顔をして、彼は扉のなかに駆け込もうとした。そんな彼を、清州が素早く捕まえる。
「待つんだ。話を聞かせてほしい。お前は本当に、水島玲子(みずしま れいこ)の息子なのか」
清州の問いかけに、昴は忌々しげに眉をしかめた。
「慣れ慣れしく口にするな。お前に、母さんの名前を呼ぶ資格なんてない」
母さん。なんのことか理解できず困惑する榮の目の前で、昴は清州の腕を振り払おうと必死でもがく。
「やめてください、患者さまのご家族に暴力を振るわないでください。警察を呼びますよ!」
看護師さんの叫び声に、清州は振り絞るような声で答えた。
「私たち『親子』の問題です。通報したければ、してください。ですが、いま、彼を逃すわけにはいかないんだ」
「親子だって? ふざけるな。お前を親だと思ったことなど一度もないっ。そもそもお前は、オレが生まれてきたことさえ知らなかったんじゃないのか。金を手渡して中絶させた。それですべてが片付いた。そう思ってのうのうと生きてきたんだろうが」
清州の顔面に頭突きをかまし、昴は思い切りその身体を突き飛ばす。
「待ってください、昴くんっ」
逃げようとした昴に、榮は必死の思いで縋りついた。
「あなた方、親子の事情は、私にはわかりません。ですがあなたのした行為は、許されることではないです。金山をあのように危険な男に接触させ、貶めるような写真や記事を売り込んだのはあなたでしょう」
「触んなッ。気色悪ぃんだよ、ホモ野郎。国民の血税で食わせてもらっておいて、お飾り議員にケツを差し出すことが仕事なんて、最低の売※女だな」
「昴、言葉を慎め!」
清州の喝に、昴は形のよい眉を思い切りしかめて吐き捨てる。
「昴、だと? お前に呼び捨てにされるいわれはない。お前のせいで、お前のせいで母さんはっ……!」
泣き崩れる昴を、清州はぎゅっと抱きしめる。
「逢わせてほしい。玲子に逢って、謝罪したいんだ」
「ふざけんなっ……謝って済む問題じゃねぇんだよ。あのひとがたった一人で、いままでどれだけ苦労してきたと思ってんだ」
「本当に申し訳ないと思っている。一生をかけて、償わせてほしい」
「遅ぇんだよ、馬鹿。次の新朝には、金山の新たなスキャンダルとともに、お前の記事が載る。保守派の若手ナンバーワン議員が学生時代にオンナを孕ませ、金で堕胎を強要していたってな。子育て支援に力を入れ、イクメン議員なんていわれてるお前にそんな醜聞が露呈すれば、支持率は地に落ちたも同然だ」
乾いた笑い声が、古めかしいエントランスいっぱいに響き渡った。
「あなたのいうことが事実なら、確かに清州先生のしたことは許されることではないです。けれども、だからといって関係のない金山まで貶めるなんて間違ってる。金山があなたに何をしたっていうんですか」
「何をした、だと? 何の力もねぇくせに、周りに担がれて出馬して議員になって。こんなクソみたいなやつらの手下として働いてる。それだけで十分罪なことじゃねぇか。欲と金にまみれた汚れきったてめぇらの姿を隠すために、あんな能天気でバカな男を使ってんだろ。その看板ごと叩き落してやって、なにが悪い」
「そんなことのために政治生命を絶たれ、人としての尊厳さえ踏みにじられるあの人の身にもなってくださいっ」
胸倉につかみかかった榮に、昴は冷ややかなまなざしを向ける。
「お前、バカか。そうやって何の罪もない人間の尊厳を踏みにじるのは、お前たち永田町の人間のオハコじゃねぇか。この男がやったことを、そっくりそのまま返してやった。それの、なにが悪い」
「もうやめろッ。――榮、みっともないところを見せてすまなかった。ここは私に任せてくれ。お前は、金山のもとに戻れ」
「ですがっ……」
「いいから、早く。それから、今すぐ新藤に連絡を入れろ。私のことはいい。せめて、金山の追加記事だけでも、差し止めるんだ」
清州はそういうと、榮から昴を引きはがし、彼を背後から羽交い絞めにした。
「離せっ、クソっ、オレに触るなっ!」
暴れまわる昴を、清州は決して離そうとしない。
「早く行け、榮」
清州に促され、榮は後ろ髪をひかれながらも、その場を後にした。
一度にあまりにも色々なことが起こりすぎて、頭がついていかない。ぐったりとタクシーの後部座席に身を預けながら、榮は新藤の携帯に電話をかけた。
「新朝ですか。マズいですね。他社なら多少は圧力をかけることも可能ですが、あの出版社は、難しいと思います」
訴訟覚悟で噛みついてくる、攻撃的な出版社なのだそうだ。全体的に左派がかった社風で、保守派に対する風当たりが強い。
「あの出版社の大株主って、テレビ日の本ですよね。テレビ日の本の創業家って、確か、及川先生の奥さまのご実家では」
いつだったか、清州がそんなことをいっていた記憶がある。私になにかスキャンダルが浮上したら、先生のお力で頼みますよ、と酒の席で冗談混じりにいっていたのだ。
「及川先生の連絡先を教えていただけませんか」
新藤なら、知っているかもしれない。そう思い訊ねた榮に、新藤はためらいがちな声でいった。
「無理ですよ。及川議員と清州家は、常に反目しているのですから」
彼らが急接近していた事実は、昭久の息のかかった新藤には伝わっていないようだ。
「やってみなければ、わかりません。直訴してきます」
「やるだけ無駄です。そんなことより、今すぐ金山先生の元に戻ってくるべきです」
「金山先生のためにも、必要なことなんですよ」
金山のスキャンダルにも追加があるといっていた。先週以上に露骨な記事を掲載するつもりなのだろう。なんとしてでも、差し止めなくてはならない。金山も清州も、絶対にこれ以上、誰も傷つけてはダメだ。
「わかりました。お教えしますが、あのお方にはあまりよい噂がありません。どうか気をつけて」
告げられた番号に電話をかけたけれと、応答はなかった。見知らぬ番号からかかってきても、出ない主義なのかもしれない。事務所にかけたけれど、不在だといわれてしまった。
「どうしよう。急がなければ、手遅れになってしまう」
新朝の発売日は月曜日。今日は金曜日だ。そろそろ印刷所にデータがまわっているころではないだろうか。
一刻一秒を争う。なんとしてでも、及川に連絡を取らなくては。
「確か、及川先生のご自宅は松濤(しょうとう)だったはず」
三崎口(みさきぐち)でタクシーを降り、京急に飛び乗る。新藤に及川の住所を調べて貰い、榮は彼の家に向かった。
朝から雲行きが怪しかったが、渋谷にたどり着くころにはすっかり黒い雲に覆われていた。
「傘、買ったほうがよかったかな」
駅の周りはコンビニが多かったけれど、住宅街に入ると一気にその姿を見かけなくなる。
見上げた空。ぽつりと額に雨粒が当たり、榮はちいさくため息を吐いた。
引き返すべきかもしれないが、一秒でも早く及川に逢わなくてはならない。自宅にいるという確証はないが、榮は走らずにはいられなかった。
息を切らせながら、重厚な門にしつらえられたインターフォンを押す。お手伝いさんだろうか。年配の女性の声で、主は不在である旨を告げられた。
ふたたび携帯に電話をかけたけれど、つながらない。いらだちを募らせたそのとき、黒塗りの高級車が路地を入ってきた。
「及川先生だ」
すばらしい偶然に、思わず歓声をあげる。雨はさらに強まっている。大粒の雨に打たれた榮の背広は、ぐっしょりと重い枷となって不快に肌に張り付いた。
「先生っ……!」
後部座席に駆け寄った榮に、及川は怪訝そうな目を向けた。車を停め、細く窓を開いて榮に問いかける。
「こんなところで、なにをしている」
「先日は大変失礼いたしました。本日は、お願いがあって参りました」
あのように無礼を働いた自分の話を、まともにとりあってくれるだろうか。不安になりながら、榮は週明けに掲載されるスキャンダルのことを、内容の部分は伏せて及川に告げた。
「なんだ。お前はあの金山の記事を、私がお前達に対する報復の為に掲載したと思っているのか」
「いいえ、先生がそのようなことをするお人ではないと、重々わかっております。あの記事を持ち込んだ犯人は、もうわかっているのです。ただ、週明けには追加記事が掲載されてしまう。どうか先生のお力で、止めていただくことはできませんでしょうか」
雨が、さらに激しくなってきた。
どしゃぶりの雨に打たれながら、榮はアスファルトに膝をつき、額を地面にこすりつけるようにして土下座する。きっと周りから見たら、とてもぶざまな姿だ。それでもいい。どんなことをしたって、先生方をお守りしたいのだ。
「鈴木、後部座席のドアを開けろ」
「ですが、この雨では先生まで濡れてしまいます」
「いいから、開けろ」
運転席の男にそう命じ、及川は車から降りてきた。傘をさし、それを榮に向ける。
「高科。確かお前は、私たちとおなじ、T大の法を出ているそうだな」
「は、はい……」
頷くと、顎を掴んで上向かされた。
「私がお前にどんな感情を抱いているのか、知らないわけではないだろう」
「そ、それは……」
「『スキャンダルをもみ消すために、股をひらいてこい』と命じられたのか」
「いえ、ちがいますっ……」
「確かお前の父親も、清州昭久の秘書だったな。それだけの頭があれば、自ら政治の道に進むことも、法曹を目指すことだってできただろうに。なぜそこまでして、清州家に忠義を尽くす」
「そ、それは……」
「惚れているのか」
「そのような理由ではありません。いえ、もちろん、それもありますが、邪な意味ではなく、私は清州や金山に、人として強く惹かれております。政治家としての彼らを心底敬愛しているのです。だからこそ、彼らのために出来ることならどんなことだってしたいと考えています」
「そんな考え方は、私には理解できんよ。能力があるのに、それを使わない。こんなくだらない尻ぬぐいまでさせられて、陰で支えるだけの仕事に、お前は本当に満足しているのか」
「満足しております。私には、国を変えよう、とか、世の中をもっとよくしよう、とか、そんな信念はありません。もちろん誰もがもっと幸せに生きられたらいいという、漠然とした想いはあります。ですが、清州や金山、あなたのように、それを具体的に推し進めようというビジョンも情熱もない。ですから、支えたいのです。議員の先生方を支え、間接的にその想いの達成に寄与する。そういう生き方をしたい私にとって、秘書の仕事は天職です」
父親が秘書だから、とか、そんなことは関係がない。
金山に出会い、本当の意味で気づくことができた。議員の先生が一人では出来ないことを、そばでお仕えしてサポートする。そのことを通じて、自らも彼らの描く未来実現の一翼を担うことができる。裏方である秘書の仕事を通じて、彼らとともに、国をよくしていきたいのだ。
「お前の父親は、清州家のために殉じたのだろう。求められれば、お前も父親と同じように、死をも厭わないということか」
「勿論、命をかけてでも、お守りしたいと思っております。ですが清州も金山も、私に死を選べなどと強制したりはしません」
先刻から、スマートフォンがひっきりなしに鳴っている。榮が及川の元に向かっていることが清州の耳に入ったのだろう。必死で止めようとしてくれているのだと思う。着信を無視し続けたら、メールが送られてきた。
『早まるな。絶対にバカなことはするな』
自ら及川に榮を差し出そうとしたこともあるのに。実際に榮が及川の元に出向くとなれば、こうして止めてくれるのだ。弟として、少しは大切に思ってくれているのかもしれない。
その想いだけで十分だ。清州からだけではない。金山からも何度も着信がある。二人から、大切にして貰えている。それだけで、彼らのためにこの身を差し出す価値があると思う。
「出版を差し止めていただけるのなら、どんな命にも従います。どうか、及川先生のお力をお貸しくださいっ」
再び頭を下げようとした榮の顎をつかみ、及川はぐっと顔を近づける。渋みのある整髪剤の匂いが鼻をかすめた。
「せっかく愛らしい顔をしておるのだ。もっと自分を大切にしろ。そんなことでは、いつかは父親のように身を亡ぼすことになるぞ」
突然、噛みつくようなキスをされた。紳士的な外見に似合わぬ、窒息してしまいそうなほど激しいキスだ。脳天が痺れるほど執拗に舌を求められ、解放されたときには、その場にへたりこんでいた。呆然と脱力する榮に傘を手渡し、及川は誰かに電話をかける。通話を終えると、静かな声でいった。
「なんとか間に合ったようだ。来週号に、清州や金山の記事が掲載されることはない」
「あ、ありがとうございますっ」
見返りに、どんな行為を要求されるのだろうか。もしかしたら、一度や二度では済まないかもしれない。ギュッと拳を握りしめた榮の顎に手をやり、及川はふたたびくちづけた。
先刻とはうってかわって、甘やかで優しいキスだ。蕩けてしまいそうなキスの後、及川はじっと榮の瞳を見つめた。
「貴様の義心に免じて、今回は赦してやる。だが、次はないと、あいつらに伝えておけ」
ホテルについて行ったり、しなくてよいのだろうか。不安になる榮に、彼はこう付け加えた。
「何をしておる。さっさと飼い主の元へ帰れ」
「ですが、まだお礼を……」
「対価なら、もう貰った。なんだ、キスだけでは物足りないのか」
顎を掴まれ、からかうように唇を寄せられる。
「い、いえ、あのっ」
「本当に愛らしい男だ。主に愛想を尽かしたら、いつでも私のところへ来い。たっぷり可愛がってやる」
こめかみにくちづけられたそのとき、榮を呼ぶ声が響いた。
「高科さんっ」
「ほれ、迎えが来たぞ。さっさと立ち去れ。これ以上ずぶ濡れの艶っぽい姿を見せつけられたら、この場で押し倒してむしゃぶりついてしまいそうだ」
及川に促され振り返ると、心配そうに自分を見つめる金山の姿があった。
「大丈夫ですか、高科さんっ」
抱き上げられ、張りつめていた気持ちが一気にゆるんでしまう。
ぐったりと脱力した榮を、金山は骨がきしむほど強く抱き締めた。久しぶりに感じる、金山の熱。込み上げてくる愛しさに、どうにかなってしまいそうだ。
「先生」
いつもなら、ここでキスが降ってくる。及川に唇を奪われた直後。罪悪感を抱きながらも胸を高鳴らせた榮に、金山はなにもしなかった。
「行きましょう、高科さん。堀田が車を回してくれています」
週刊誌にスキャンダルをすっぱ抜かれ、少しは自制することを覚えたのだろうか。肩透かしを喰らったような気分になりながらも、榮は金山に促されるまま、堀田の待つ車へと戻った。
「三十八度二分。今日は仕事、休むべきです」
やんわりとベッドに押し戻され、榮は慌てて首を振る。
「いえ、大丈夫です。この程度の熱……」
「大丈夫なわけがないでしょう。ほら、ちゃんとタオルケットをかけて。そもそも父母の忌引きは一般的に一週間だっていうじゃないですか。新藤さんが、週明けまで休ませるようにといってましたよ」
清州事務所在籍時代、新藤はとても厳しい先輩だったが、それと同時に、面倒見のよい先輩でもあった。
「喪が明けて落ちつくまで、しばらく彼がいてくださるそうですから」
ベテラン秘書の彼がついていれば、自分が出勤するよりずっと安心だ。そのことがわかっていても、この大変な時期に金山のサポートを出来ない自分の不甲斐なさがつらかった。
「ほら、ちゃんと横になってください。昼ご飯は堀田くんに届けてもらう予定になってますし、新藤さんに頼んでできるかぎり早く帰してもらえるようにしますから」
額に触れられ、びくんと身体が跳ね上がる。
昨日、ずぶ濡れの榮を宿舎に連れ帰った金山は、なぜか指一本触れてはこなかった。二人でいっしょのベッドに眠ったものの、キスはおろか、ハグさえしてこない。
あんなにもスキンシップ好きで、隙あらばキスをしようとじゃれついてきてばかりだったのに。もしかしたら清州と抱き合っていたことを、まだ怒っているのだろうか。
「じゃあ、行ってきます。ほんとに、寝てなくちゃダメですからね」
金山はそう言い残し、いってきますのキスもせずに宿舎を出て行った。
その夜、金山は本当に早く帰ってきた。
「仕事、大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよ。あの記事が出て以降、呼ばれる場所が減っているんです」
当初は金山をちやほやしていた党員たちも、議員として未来のない彼に時間をかけなくなっているのかもしれない。少し寂しそうに微笑む金山の姿が、とても痛々しく感じられた。
「おかゆ作りましたから、食べてください」
金山はそういって、榮にお手製のおかゆを食べさせようとした。
「じ、自分でできますっ」
今までなら榮がそう主張しても、無理やりにでも食べさせようとしただろうに。なぜか金山はあっさりと引き下がった。
(やっぱり、清州先生との関係を誤解しているんだ……)
本当のことを告げたいけれど、榮が清州昭久の子であることは、おそらく誰にも明かしてはならない極秘事項だ。
「食べ終わったら、身体拭きますね。汗かいてるし、辛いでしょう」
さすがに裸体をさらせば、そういう気分になるだろうか。普段、金山は薄着になった榮を見ただけで欲情し、飛びかかってきた。
「はい……」
身体を見られるのは恥ずかしいけれど、これ以上、この状態がつづくのは辛い。榮は覚悟を決め、ちいさく頷いた。
「熱かったら、いってくださいね」
ベットに横たわった榮のパジャマのボタンを外し、金山はいう。ホカホカと湯気をたてる濡れタオルで身体を拭われ、くすぐったさに思わず身をよじった。
首筋や肩、腕を丹念に拭われ、ふたたび洗面器の湯につけた後、胸を拭われる。
「んっ……」
さんざん金山に舐られ、すっかり性感帯になってしまった乳※首。タオルで刺激され、ツンと立ち上がってしまう。思わず甘えた声をあげてしまい、榮は羞恥に頬が熱くなるのを感じた。
金山はいったいどんな顔をしているのだろう。ちらりとその顔を盗み見たけれど、いつになく無表情なその顔からは、なんの感情も読み取ることができなかった。
「下も拭きますよ」
ズボンを下ろされ、太ももを拭われる。下着まで下ろされそうになって、榮は困惑した。
「じ、自分で……やります……」
さすがに下着を脱げば、なんらかの反応を示してくれるのではないだろうか。金山は以前、榮の下半身を見て、鼻血を拭いてしまったことがあった。
おずおずと、金山の表情をうかがいながら下着を下ろす。けれども、すべてを脱ぎ捨てた榮を見ても、金山はなんの反応も示さなかった。
「拭きますよ」
なんでもないことのように淡々と、榮の下腹を拭ってゆく。
「ぁっ……」
敏感な太ももの付け根を拭われるうちに、むくりと榮の中心が天を仰いでしまった。金山はそれでもなんの反応も示さず、榮の身体を拭いつづける。お尻の割れ目にタオルをあてがわれたそのとき、ビクンと先端が跳ね上がり、熱い滴が滲み出してしまった。
「ぁ……ぁ、ごめ、なさいっ……」
慌ててティッシュで拭ったけれど、先走りは後からあとから溢れつづける。金山に嚢を拭われたその瞬間、榮はとうとう耐え切れず、勢いよく白濁をほとばしらせてしまった。
絶頂を迎え、びくびくと震えるつづける榮の汚れた下腹を、金山は淡々と拭ってゆく。拭い終わったら新しい下着とパジャマを着せ、タオルと洗面器を持ってどこかに行ってしまった。
(達するとこを見ても、なんとも思わないなんて……)
もう、完全に嫌われてしまったのだと思う。
金山はいつまで経っても、寝室に戻ってこない。榮は枕に顔をうずめ、しばらくの間、声を押し殺して泣き続けた。
及川のおかげで、週刊誌掲載は未然に防ぐことができた。
けれども、相変わらず金山に対するバッシングは止むことがなく、未だに宿舎の前も議員会館前もマスコミで溢れかえっている。
ネット上には清州の隠し子に関する怪文書が出回り、金山と榮が肩を寄せあって歩く写真や、いっしょにスーパーで買い物をしている写真など、雑誌未公開の写真が何枚も拡散されている。
『血税で建てられた議員宿舎に愛人を囲う厚顔議員』と金山を激しく非難する者たちが後を絶たない。
「今はなにをいっても無駄です。ほとぼりがさめるまで、どこかに身を隠しましょう」
秋の臨時国会で審議される予定のIR法案の事前調査のため、清州はマカオに視察に行っている。金山もできる限り外部への露出を減らし、事態の鎮静化に努めるべきではないだろうか。
「いえ、今まで通り活動を続けます。二十四時間テレビにも出ますよ」
「馬鹿なことをいわないでください。いま、この状態でそんなものに出れば余計に騒ぎが大きくなってしまいますよ」
どんなに止めても、金山は榮の言葉を聞き入れようとしない。榮が不在のあいだに、スポーツクラブにも勝手に入会してしまったようだ。毎日欠かさずトレーニングに出かけてゆく。
「騒動の渦中にあるあなたが通ったら、施設にもご迷惑がかかるんじゃないですか」
「大丈夫です。館長さんもスタッフの皆さんも、とても協力的ですから」
トレーニングを兼ねて、ジムには走って向かうようだ。マスコミの車が追いかけて来られない細い路地を選び、金山は黙々と走ってゆく。榮が不在の間は、堀田が付き添ってくれていたようだ。彼が残していった自転車(クロスバイク)で、榮も金山を追いかけた。
金山がスポーツクラブに通っていることは、記者たちの間では周知の事実になっているのだろう。クラブの前にもたくさんの記者がいた。金山は堂々と彼らにあいさつをして、館内に入ってゆく。
「おつかれさまです、金山選手!」
金山はここでは『先生』ではなく、『選手』と呼ばれているようだ。
「あとで入会の手続きをしますから、彼も見学者として中に入れてもいいですか」
榮を振り返り、金山はフロントスタッフにそう告げる。
「もちろんです。レンタルウェア、ご用意しますね」
館内を背広姿でうろつくわけにはいかないようだ。榮もスポーツクラブの名前の入ったTシャツとハーフパンツというラフな服装に着替えることになった。
ぴったりとした黒いタンクトップにショートパンツ。トレーニングウェア姿の金山は、体格のよいスポーツ愛好家が集うクラブ内でもひときわ目を惹いた。
「金山選手、おつかれさまです!」
「横断泳がんばってくださいっ」
誰もが笑顔で彼に声援を送っている。
「外ではあんなに叩かれているのに……」
「ここにいる人たちは、一般の人たちよりはオレのこと、よく知ってくれていますから」
スポーツを愛する人間にとって、金山は英雄のような存在なのだろう。競泳自由形短距離種目で世界記録を更新し、あのケビン・オードウェルを破ってオリンピックで金メダルを獲得する。その偉業にたどり着くまでの彼の軌跡を、一般の人たちよりずっと深く知り、理解している。そしてその金山が、ひとりの少女のために再び立ち上がり、トレーニングを再開した。その姿に、彼らは強く共感しているようだ。
「金山選手、自分が補助につきます」
ウェイトトレーニングでも、ほかの会員たちが率先して彼のサポート役を買って出てくれる。誰に頼まれるでもなく、みんな、金山の挑戦を心から応援しているようだ。
鍛え抜かれた逞しい身体。黙々と自らを追い込むその姿に、涙腺が緩んでしまいそうになる。マシン・フリーウェイトエリアでみっちり追い込んだ後、彼は水着に着替えてプールに向かった。
「おつかれさまです、金山選手。自分、計測します」
遊泳していた会員たちが自主的にコース中央を彼に明け渡し、スタッフが駆け寄ってきて計測係を買って出る。
「すみません。皆さんの利用のお邪魔をしてしまって」
深々と頭を下げた榮に、皆は笑顔を向けてきた。
「とんでもない。金山選手の泳ぎを間近で見られるなんて、それだけで俺たちめちゃめちゃ幸せなんですよ。モチベーション上がって、トレーニング頑張れるんです」
「議員の仕事で大変だってのに、一銭の得にもならねぇのに伴泳を引き受けようってんだろ。そんな話を聞いちまったら、俺たちだって協力しないわけにはいかねぇよなぁ」
先週末には少女を招き、実際にふたりで泳ぐシミュレーション練習も行ったようだ。このスポーツクラブ全体で、彼らを応援してくれているのだという。
アップを終えた金山が、スタッフの吹く笛の音と共に泳ぎはじめる。周囲から歓声が沸き起こり、榮も思わずつられて叫んでしまいそうになった。
はじめて目にする、金山の泳ぎ。ダイナミックでありがなら、それはとても滑らかで、無駄がなくうつくしく感じられた。
「凄いでしょ、これがトップスイマーの泳ぎです。しかもね、キックを打ってないの、わかります? 掻きもゆったりだし、あえて水を掴み過ぎないようにしてるんです」
ほかのスイマーにいわれ、榮は今更のように彼の足が動いていないことに気づいた。
「金山選手が本気で泳いだら、女の子との間に速度差が生まれすぎちゃいますからね。彼女が一番泳ぎやすい速度を計測して、その速度にぴったりくるよう、調整しながら泳いでるんですよ」
計測係がストップウォッチ片手に付き添っているのは、タイムを計るためではなく、彼女のペース感覚を徹底的に身体にしみこませるためのようだ。
「ペースを維持しながらゆっくり泳ぐって、実は意外と難しいんです」
自らのベストタイム前後の速度域なら、コンマゼロ秒単位で知覚できる金山のようなトップスイマーであっても、極端に遅いペースを維持しつづけるのは、骨が折れるようだ。
最初のうちは自分でプールサイドのペースクロックを見ながら泳いでいたようだが、海にはクロックは存在しない。敢えてなにも見ずに感覚だけで泳ぎ、一定以上のズレが出たときだけ、スタッフが鐘を鳴らして知らせるようにしているようだ。
「これでゆっくり泳いでいるっていうのも、信じられないですけどね」
「横断泳に挑戦する明日香ちゃんも、かなり本気で泳いでる子ですからね。どうしてもこの企画に出たくて、小さなころから何年もトレーニングを重ねてきたそうです」
騒動の最中、そのような番組に出れば、余計に炎上を助長する可能性が高い。それでも金山は辞める気がないのだろう。黙々と泳ぎ続ける彼の姿を眺めながら、榮はたまらなく胸が苦しくなった。
議員としての仕事やトレーニングに日夜奔走しつづける金山を少しでも支えたくて、榮は彼のために食事を作ることにした。アスリートのための食事法を提唱するレシピ本を購入し、そのとおりに作ったつもりだったのだが、自炊経験のない榮にはハードルが高すぎた。
黒焦げになった残骸を前に、金山はそれでも笑顔で喜んでくれた。
「ありがとうございますっ。高科さんがオレのためにメシ作ろうと思ってくれたっていう、その気持ちだけで、めちゃめちゃ嬉しいです」
かろうじて残っていたトマトと買い置きの乾燥パスタで、金山はトマトソースのパスタを作ってくれた。相変わらず彼の作る料理はとてもおいしい。応援するつもりが足を引っ張るだけになってしまった自分を、榮は無性に情けなく思った。
「あの、せめてマッサージでも……」
素人のマッサージが役に立つとは思えないけれど、少しでもなにかしてあげたくて、そう申し出る。
「じゃあ、力入れなくていいんで、肩甲骨のまわり、さすってもらえますか」
金山の引退の理由は、右肩の故障だと聞いている。やはり今も痛むのだろうか。ベッドに横たわった金山の肩回りを、榮はそっとさすってやった。
こんなとき、今までなら絶対に、キスやスキンシップを求めてきたのに。今夜も彼は榮に触れようとしない。やはり、清州と抱き合っているところを見られてしまったせいで、嫌われてしまったのだろうか。仕事でも宿舎でも、表面的には今までと変わらず接してくれているだけに、金山のそんな変化に戸惑わずにはいられなかった。
「ぁ、あの……っ」
「なんですか」
気持ちよさそうに脱力していた金山が、うつぶせになったまま榮を振り返る。
『私のこと、嫌いになってしまったのですか』
そう確認してみたくて、どんなに頑張ってもその問いを口にすることはできなかった。
『あなたには幻滅したんです。正直、いっしょに暮すのも苦痛なんですよ』
そんなふうにいわれたら、立ち直れそうにない。
「ゃ、えと……なんでも、ないです」
以前なら、こんなふうに間があくと、必ずキスをしてくれた。けれども今日は、なにもする気配がない。
「もう大丈夫ですよ。もう遅い。そろそろ寝ましょう」
さらりとそんなふうにいわれ、榮はぎゅっと拳を握りしめた。
男二人で眠るには手狭なベッド。榮を抱きしめることなく、金山は背を向けて眠ってしまう。触れ合った彼の背中の温かさに、榮は無性に泣きたい気持ちになった。
あっというまに、二十四時間テレビの日がやってきた。
横断泳のスタート地点は、青森の最北端、権現崎(ごんげんざき)だ。早朝五時のスタートに備え、撮影スタッフやサポートスタッフと共に前泊することになっている。
放送前夜、今回の主役である盲学校に通う女子高生の宮野明日香(みやの あすか)と金山を囲み、ささやかな壮行会が行われた。
自分のために沢山の大人たちが集まってくれたことに、感極まってしまったのだろう。泣きじゃくる明日香の肩を抱き、金山は慰めてやっている。それらの模様は、二十四時間テレビの特設ツイッターに随時アップされてゆく。あっという間に拡散したツイートに、『頑張って!』という好意的なメッセージと共に、『この子にも手を出したんじゃないのか』『今夜はヤリまくりだな』などという下世話なつぶやきもたくさん混ざっている。
良い意味でも悪い意味でも話題になる。そのことがわかっていて、テレビ局のスタッフは敢えてやっているようだ。
「なんだかちょっと、気分が悪いです」
二人のスイムサポートとして、金山の通うスポーツクラブのスイミングコーチ、佐々木が同行してくれている。思わずそうこぼした榮に、彼はちいさな声でいった。
「金山選手は、自分たちが視聴率を取るための道具にされてるってことがわかってて、それでも彼女の夢を叶えてあげたいって思ってるんですよ。向こうが自分たちを利用するつもりなら、こっちだって利用してやればいいって考えているんです」
国際航路である津軽海峡を游いで横断するには、二隻以上のサポート船の配備が義務付けられているのだそうだ。そのため、自力で実現しようとすると莫大な費用がかかる。おまけに個人での挑戦では、今回のように大掛かりなサポートチームを編成しづらく、視覚障がい者の彼女を安全にゴールまで導くことが難しくなる。
「どんなカタチであれ、今回の横断泳を成功させれば、たくさんのひとに勇気を与えることができる。金山選手はそのために、忙しいなか時間を工面して頑張ってきたんです」
「なんとしてでも、成功させてあげたいですね」
榮たちにできることは、なにもない。せめて、明日の天候や海が穏やかでありますように、と強く祈った。
短い宴は終わり、それぞれ宿に戻って休むことになった。金山がゲイであることを警戒しているのだろうか。スタッフたちは大部屋だが、金山と榮だけは別の部屋に隔離されることになった。
「いよいよですね」
湯上り、浴衣に着替えて床に就こうとして、ふいに腕を掴まれた。
ここのところずっと触れられていなかっただけに、突然のことに心臓が跳ねあがる。
「な、なんですか……?」
震える声で訊ねた榮に、金山は真剣なまなざしを向けた。
「明日の横断泳が終わったら、高科さんに話があります。オレに時間をください」
いったいなんの話をされるのだろう。もしかして、秘書を辞めてほしいとでもいわれるのだろうか。
「いいですよ。明日は、どちらにしても道内で一泊する予定になっています。先生のお身体のダメージを考え、ゆっくり休んでから移動するようにと新藤さんが宿を手配してくださっているんですよ」
最初は猛烈に反対していた清州や新藤も、金山と榮の必死の説得により、今回の撮影に参加することを許可してくれた。清州は認めてくれたものの、党内からは未だに反対の声も少なくないようだ。これ以上有権者にマイナスの印象を与えれば、金山だけではなく、彼を推した清州や党全体の責任も問われかねない。
「オレ、どんなに頑張っても清州先生のような優秀な議員にはなれませんけど。それでもオレのやり方で、ひとりでも多くのひとに夢を与えられるように、全力で頑張りますから」
どんなつもりでいったのだろう。金山はそう言い残し、榮に背を向けて眠ってしまった。
榮たちの祈りが届いたのだろうか。翌朝は雲一つない快晴だった。
かすかに白み始めた空。満天の星に見守られながら、彼らは泳ぎはじめる。夜明けの海はとても冷たく、水しぶきが飛んできただけでヒヤッとした。きっと海中の金山たちは、水温の低さに苦しめられているだろう。
「せめて、もう少し日が昇ってからにしたらよかったのに」
サポート船の甲板。思わず呟いた榮に、スイミングコーチの佐々木が小声でささやく。
「仕方ないですよ。番組放映時間中にゴールしなくちゃいけないんですから」
今回の横断泳は、あくまでも二十四時間テレビの番組内の企画だ。番組がフィナーレを迎える前に、彼らはここから北海道までたどり着かなくてはならない。
「それにしても、波が高いですね。よくこんな状況でOK出したなぁ」
佐々木はプールでの競泳だけでなく、トライアスロンやOWS(オープンウォータースイミング)など、海泳ぎの経験も豊富のようだ。
「このあたりの海は荒れやすいことで有名ですけど、ちょっとひどいな。トライアスロンやOWSの大会だったら、中止にするレベルですよ」
そんなに危険な状態なのだろうか。海のことに疎い榮にはよくわからないが、確かに榮たちの乗る漁船も、さきほどから右へ左へと大きく揺れている。
「どうにも危険だと思えば、誰かが中止の決定をしてくれるんですよね」
不安になった榮に、佐々木は渋い顔を向けた。
「どうかな。僕はさっきも『かなり危険な状態ですよ』って進言したんです。漁師さんたちも危ないっていってたし。それでもTV局のスタッフは、GOサイン出しちゃったんですよね」
漁船を複数台手配し、サメから身を護るためのサメかごまで用意して万全のサポート体制で挑む今回の撮影。おそらく、船やスタッフを押さえるのに多額の費用がかかったのだろう。元を取るためにも、多少のコンディションの悪さには目を瞑ろうとしているようだ。
「大丈夫なんですか、こんな状態で」
「どうですかね。金山選手はもともとプールの人だし。明日香ちゃんも海泳ぎの経験は、あまり多くない。何かあったらすぐに飛び込むつもりではいますが、正直、安全とは言い難いです」
金山一人ならなんとでもなるかもしれないが、彼の身体は明日香と伴泳用のロープでつながれている。どちらかが流されれば、道連れになってしまうだろう。
「波、収まってくれますように」
神頼みしかできない自分が、情けなくなる。榮は胸の前で手を組み、真っ暗な海のなかを泳ぎ続ける二人の姿を見守った。
空が朝焼けに染まり、船上からも彼らの姿がはっきりと見えるようになってきた。
明日香はオレンジ色のワンピースタイプの水着にピンク色のキャップを被り、金山はお世話になっているスポーツクラブのロゴの入った青い水着に白いキャップを被っている。
心なしか、波も落ち着いてきたようだ。朝日を浴びて、二人は気持ちよさそうに泳いでいる。
「順調ですね。このまま穏やかになってくれるといいんですが」
コース中に、三つの難しい潮目があるのだそうだ。風や波と戦い、それらの難所を乗り越え、三十キロの行程を無事に泳ぎ切らなくてはならない。
「順調に泳げても、十二時間はかかるんですよね」
「そうですね。順調で十二時間。もしかしたら十三時間以上、かかるかもしれません」
二十四時間テレビのフィナーレは二十時。なんとかして番組終了までにゴールにたどり着かなくてはならない。
十数時間、彼らは一度も陸に上がることができない。水分補給はもちろんのこと、食事も水の上で摂ることになるのだそうだ。
「金山選手、そろそろ水分摂ってください!」
息継ぎに合わせ、佐々木がそう声をかける。水分補給の間も、彼らは決して船に掴まったりしない。紐をくくりつけたドリンクボトルを海中に投げ入れ、金山たちが飲み終わったら紐を引っ張って回収する。
金山のボトルには、スポーツクラブでいっしょに汗を流しているみんなの寄せ書きが記されており、明日香のボトルには、彼女のクラスメイトや家族がつくった点字テープが貼られている。ひたすら泳ぎつづける彼らにとって、それらの声援が少しでも力になればいいと榮は思った。
泳ぎはじめて二時間が経ったころ、最初の難関が現れた。泳いでも泳いでも、進まない。潮が大きくうねり、渦を巻いているのだ。回避しようにもその渦は大きく、なかなか流れをつかむことができない。
「金山選手、もっと左に迂回してください!」
言葉でいうのは簡単だが、ただでさえ波の高い海で、潮の流れに逆らって進むのは生半可なことじゃない。
「明日香ちゃん、左だ。行こうっ」
金山は明日香の背中を軽く叩き、そう促した。大柄でパワーのある金山と違い、小柄な明日香は特に流れに巻き込まれやすい。波に揉まれ、飲み込まれ、苦戦を強いられている。
「明日香ちゃん、がんばって!」
榮の声援に気づいた金山が立ち泳ぎでニッと笑顔を向けてくる。彼はまだ、そんなふうに笑う余裕があるようだ。心配なのは明日香だ。なかなか進まない潮流に、苛立たしげにもがいている。
撮影スタッフが視線を交し合い、カメラを止めた。
「この先も長いんです。あまり大変なようなら、いったん船に上がりますか」
二十四時間テレビの挑戦企画。カメラのまわっていないところで不正をしている可能性があると噂には聞いていたが、本当にズルをさせようとしているようだ。
撮影スタッフの申し出を、明日香はふるふると首を振って拒絶する。
「もう少し待ってください。風の流れが変わるかもしれない。明日香ちゃん、力抜いて。立ち向かっても体力を消耗するだけだ。ほら、オレの手を握って。潮流を避けるんだ。いっしょに泳ごう」
金山はそういって、明日香の手のひらをぎゅっと握りしめた。
「おお、いい絵が取れるぞ。ほら、さっさとカメラを回せ」
ゲンキンなことをいい、スタッフは撮影を再開する。互いの手をぎゅっと握りあい、金山たちは器用に片手で泳いでゆく。ストロークの差で曲がってしまうその軌道さえ、金山はうまく修正しているようだ。ほんの少しずつだけれど、渦から逃れ、着実に前へと進んでいる。
「次は固形物、行きましょう」
やっとのことで潮目を抜けたころ、佐々木が補給食の準備をしはじめた。固形物といっても、海中にオニギリやパンを投げ入れるわけにはいかない。バラバラにならず、濡れても溶けたりしないもの。ゼリータイプの栄養補助食品といっしょに、名古屋在住の明日香の大好物である、ういろうを用意したのだそうだ。糖分もたっぷり入っており、米粉でつくられているため、腹持ちもいい。
「明日香ちゃん、ばあちゃんが買ってきてくれたういろうだよ」
金山が立ち泳ぎで器用にフィルムを剥いて、明日香に食べさせている。テレビカメラは常時回っているが、ずっと生中継しているわけではない。中継部分以外は、テレビ的においしい部分を抽出し、放映することにしているようだ。
「いいな。これは使える」
彼らは熱心に、補給食を摂る明日香たちの姿を追い続ける。
「まずいですね。この先、また風が強くなりますよ」
船頭にこの先の状況を確認しに行った佐々木が、険しい顔つきで帰ってきた。
「追い風ならいいんですが、向かい風だと辛いですね」
「向かい風だそうですよ」
「大丈夫ですよ。どうにもならなくなったら、ヘルプ出しますから」
不安になる榮たちに、撮影スタッフがぼそりと囁く。
そういう問題じゃない、と怒鳴りつけてやりたくなるけれど、彼らになにをいったって、きっと通じやしないだろう。
「風向きが変わってくれるのを、祈るしかないですね」
神さまなんて信じていないけれど、榮はそう口にせずにはいられなかった。
「十キロ地点通過!」
GPSで航路を見守る船頭がそう叫ぶ。やっと、三分の一を泳ぎ終えたようだ。
「明日香ちゃん、金山さん、十キロ達成ですよっ」
船から身を乗り出すようにして、榮はそう叫ぶ。金山はまだ余裕があるようだ。大きく手を振って、それに答えてくれた。
「明日香ちゃんは、だいぶ疲れが出てますね」
心配そうに佐々木がつぶやく。泳ぎはじめて三時間以上経った。そろそろ体力的にも辛いころだろう。それでも二人は、泳ぐ力を緩めない。着実に水を掻き、進み続けてゆく。
要所要所で、中継の順番がまわってくる。スタッフの所持しているモニターにスタジオのようすが映されるが、誰もが懸命に泳ぐ明日香の姿に胸を打たれているようだ。
津軽海峡を泳いで渡ったからといって、どうなるわけでもない。オリンピックのようにメダルをもらえるわけでも、誰かから表彰されるわけでもない。それでも、泳いで渡るのが最も難しいとされる『世界七大海峡』の一つである津軽海峡を横断すれば、最年少達成者として、名を残すことができる。
そのためにも、できることならヤラセなどさせることなく、最後までしっかりと泳がせてあげたい。
疲れが出ているのだろう。段々と明日香の泳ぎが弱々しいものになってゆく。最後の難関に差し掛かったそのとき、今までとは比べ物にならないくらい強い風が二人を襲った。
「まずいな、こりゃ」
激しく船体が揺れ、スタッフたちが動揺しはじめる。
「これじゃ、進むどころか押し戻されちまいますね」
心配そうに佐々木が呟いた。
「なんだか明日香ちゃんの様子、おかしくないですか」
波に揉まれる明日香が、しきりに右腕を押さえている。もしかしたら蓄積する疲労で、腕を痛めてしまったのだろうか。
「いったんカメラ止めろ」
「ダメですよ。そろそろ中継です」
「なんだよ。パスできないのか」
「無理です。あと三分、来ますよ」
「仕方ねぇなぁ、苦戦してるけど頑張ってる、って図にするしかねぇな」
「明日香ちゃん、中継来るあいだだけでも、もうちょっと頑張って」
なんて勝手なオーダーなのだろう。スタッフの言葉に、佐々木が反論する。
「ちょっと待ってください。明日香ちゃん、腕、限界ですよ。少し休ませて、風がおさまるのを待つべきです」
「中継が終わったらな。おい、来るぞ!」
「明日香ちゃん、休憩おしまい、泳いでっ」
スタッフたちの叫び声に、佐々木がぎゅっと拳を握りしめるのがわかる。
榮も同じ気持ちだ。あまりにも勝手すぎる。明日香は困惑気にしながらも、命じられるまま、ふたたび荒れ狂う波と格闘しはじめた。よほど痛むのだろう。右手はほとんど水を掻けていないようだ。そのせいで左右のバランスが崩れ、余計に進まなくなっている。
「金山先生、明日香ちゃん、右腕負傷してます。助けてあげてくださいっ」
榮は堪えきれず、船の外に身を乗り出すようにしてそう叫んだ。
「おい、勝手なことをするな」
スタッフに止められたけれど、それでも止まらない。
「金山先生、お願いですっ」
最初の潮目を越えたときのように、手をつないで二人で乗り越えることはできないだろうか。そう思った直後、榮は金山の引退理由を思い出した。
「ぁ――」
そうだ。金山自身も右肩に爆弾を抱えているのだ。まずい。そう思った時には、もう遅かった。金山は榮を振りかえり、親指を立てて見せる。そして左手で明日香の手を握り、右腕だけで泳ぎはじめた。
「よし、いい絵が取れるぞ」
しっかりと手を握りあい、二人は荒れ狂う波に立ち向かう。テレビ的においしいと感じているようだ。スタッフたちは嬉々として彼らにカメラを向けた。
「まずい、金山先生の右肩……っ」
うまく進むことのできない明日香の分も、カバーしようとしているのだろう。金山は大きなストロークで進んでゆく。
「風がさらに強くなってる。しっかり捕まってろ、振り落とされるぞっ」
激しく船体が揺れ、船頭がそう叫んだ。
「撮影している場合じゃないんじゃないですか」
そう声をかけたけれど、スタッフたちは撮影を止めようとしない。波が激しければ激しいほど、よいシーンが取れると思っているようだ。
「高科さん、伏せて。こっちですっ」
佐々木にウィンドブレーカーを掴まれ、甲板に伏せる。カメラマンは尚も身を乗り出したまま、撮影を続けている。
「このままじゃ振り落とされますよっ」
「高科さん、放っておきましょう。自業自得です」
彼らの傍若無人ぶりにいらだちを感じているのだろう。佐々木は険しい声音で、そういった。
その直後、カメラマンの悲鳴が響き渡る。足を滑らせ、海中に放り出されたようだ。
「助けなくちゃっ」
思わず立ち上がった榮を、佐々木が引き止める。
「馬鹿いわないでください。こんな状況で飛び込んだら、あなたまで波に飲み込まれますよ」
「だけどっ」
確かに彼らは最低だ。けれども、目の前で失われてゆく命を、放置するわけにはいかない。
「先生、金山先生っ、助けてください、カメラマンの方が!」
気づけば、叫んでいた。金山や明日香だって危険な状態なのだ。カメラマンを助ける余裕なんて、あるはずがない。
「任せとけっ!」
それなのに金山は、そう叫んだ。
「明日香ちゃん、ごめん。いまから人を助けに行くよ。少し、危険な思いをするかもしれない。だけど、このまま死なすわけにはいかない。いっしょに来れるかい」
「行けますっ」
もう、一メートル泳ぐのだって辛い様子なのに。明日香はうなずき、金山と共に泳ぎはじめた。右腕が痛むのだろうに、必死で両手を使って泳いでいる。
「佐々木コーチ、浮き輪(フロート)をお願いしますっ!」
やっとのことでカメラマンの近くまで泳ぎ寄り、金山はそう叫んだ。
風が、さらに強く吹いた。佐々木の投げた浮き輪が大きく軌道を変え、彼らから数メートル離れた場所に落下する。ロープを引っ張ったけれど、流れが複雑すぎてうまく金山たちのそばに寄せることができなかった。
「ダメだ、僕も行きます!」
「来ちゃダメだ。佐々木コーチ、そっちに残って彼を引き上げてください」
波に揉まれながら、金山はそう叫ぶ。
「引き上げるのは撮影スタッフに頼めばいいでしょう」
佐々木は眉を吊り上げ、船上に残されたスタッフを睨みつけた。すると彼らは呆れたことに、スマホを手に救出の様子を撮影していた。完全に他人事だ。もしかしたら、カメラマンが溺死してもいい画さえ取れればいいと思っているのかもしれない。
「明日香ちゃん、浮き輪を頼む」
互いをつなぐハーネスを長く伸ばし、金山はそう叫ぶ。明日香に浮き輪の捕獲を託し、自分はカメラマンの安全を確保するつもりのようだ。パニック状態に陥ったカメラマンは、荒れ狂う海のなかで手足をばたつかせて必死でもがいている。
「おとなしくしてください。大丈夫だから、ほら、力を抜いて」
金山は彼を抱き支え、そう叫んだ。
浮き輪を手にした明日香がすかさず泳ぎ寄り、カメラマンに装着させる。
「掴まってください、ほら」
浮き輪に掴まらせた彼を、佐々木と榮は二人がかりでロープを引っ張って手繰り寄せた。縄が手に食い込み、たまらなく痛い。金山と明日香が浮き輪を押し、バタ足で何とか船に近づけようとしてくれている。
「撮影していないで、あなた方もはやく手伝ってくださいっ」
榮の懇願もむなしく、スタッフたちは撮影をやめようとしない。それどころか予備のカメラを引っ張り出してきて、大掛かりに撮り出す始末だ。
「いきますよ、せーのっ!」
佐々木は懸命に引っ張り上げようとするが、カメラマンのほうがガタイがよく、なかなか引き上げることができない。榮も佐々木の腰に掴まり、彼が引きずり落されてしまわないよう、必死でサポートした。
「ほら、オレの肩に乗ってください」
どんなに頑張っても持ち上がらないカメラマンを、金山が肩車しようとする。立ち泳ぎの不安定な状態で、おまけに彼は肩に故障を抱えている。
「ダメですよ、金山先生、そんなことをされては先生の肩はっ……」
「大丈夫。オレは、大丈夫だから」
こんなヤツらのために、どうしてそこまで自らを犠牲にできるというのだろう。金山のその姿に、榮は涙をあふれさせずにはいられなかった。
「佐々木さん、あなたは右脇を、私は彼の左脇をサポートしますっ」
カメラマンを左右から抱き支え、なんとか引っ張り上げようとする。
「みんな、頑張って」
自分だって辛いだろうに。明日香まで必死でカメラマンを押し上げようとしている。
「行くぜ、高科さん、佐々木コーチ、支えてくれっ!」
金山はそう叫び、まるで水球選手のように水中で力強いハイジャンプをした。ずしりとした重みが榮の身体にのしかかり、引きずり込まれないように必死で踏ん張る。
異変を察知した偵察艇の漁師たちが、こちらの船に飛び乗ってくれたようだ。彼らに支えられながら、やっとのことでカメラマンを引き上げることができた。
「やったぁ!」
明日香の無邪気な叫び声に、どこからともなく拍手が沸き起こる。
「カメラがっ……」
カメラマンのそんな嘆きは無視し、漁師たちはふたたび自分の船に戻っていった。
ホッと一息ついたそのとき、海上の金山のようすがおかしいことに気づいた。肩を押さえ、眉間に深くしわを寄せている。
「金山先生っ」
声をかけると、彼は無理やり笑顔を作り、榮に親指を立てて見せた。
「大変です、先生の肩が……」
「大丈夫かな、よりによってこんな下らないことで」
悔しそうに佐々木が唇を噛みしめる。
「時間が押してます。いったん、船に引き揚げさせるべきじゃないですかね」
ふざけたことを言い出すスタッフを、佐々木が一喝した。
「いい加減にしろ、アンタらの身内を助けるために時間をロスしたんじゃないか」
「開始から十二時間、本来ならもう上陸している頃合いです」
上陸が近づいたら、中継をまわしてもらう予定になっているようだ。潮の流れのせいでなかなか進めないが、ゴールまであと少しだ。船に乗って移動し、ロスしたぶんの時間をカバーすべきだと彼らは主張する。
「最悪、番組終了までにゴールすればいいんでしょう」
「いや、そんなに引っ張られても、ぐだぐだになるだけですし」
できればフィナーレに入る前に、フィニッシュシーンを放送してしまいたいようだ。
「あなたたちのそんなくだらない事情で、彼女の夢を汚すのはやめてください!」
気づけば、榮はそう叫んでいた。そして金山たちを振りかえり、「あがってこなくていいですよ」と伝える。
「あと少しです。大変ですが、このまま頑張ってくださいっ」
「ちょっとアンタ、なに勝手なこといってるんだ」
掴みかかってくるスタッフを、佐々木が引き剥がしてくれた。
「明日香ちゃん、金山選手、ラストスパートだ、ファイットォ!」
佐々木の叫び声に、二人は満面の笑顔を向けてくる。
「金山先生の肩や明日香ちゃんの腕は大丈夫でしょうか」
「横断泳に、泳法の決まりはありません。肩や腕がダメなら、足を使えばいいんだ。ラスト三キロ、二人ならいける」
佐々木はそう答えると、彼らに向かって大きな声で叫んだ。
「この潮目を抜けたら、あとは穏やかです。がんばって!」
佐々木の言葉を聞いた明日香が、手さぐりに金山の手を探し、ぎゅっと握りしめる。
「明日香ちゃん、違うよ。それは金山さんの右手だ。手をつなぐなら左手を……」
「いや、間違えてるんじゃないよ、高科さん。明日香ちゃんは金山さんの右肩をかばおうとしてるんだ」
自分だって右腕を負傷しているのに。彼女は金山のために痛んだその右腕で泳ごうとしているようだ。
「行こう、金山さん」
明日香は金山の手をひき、荒波に向かってゆく。彼女の右腕は力が弱く、まともに水を掻くことができない。それでも少しずつ、ほんの少しずつだけれど、波を掻きわけて着実に進んでゆく。
彼女の気持ちに気づいたのだろう。金山が、ゆったりと大きなストロークで掻きはじめる。ほとんど進まない明日香の掻きと、金山の大きな推進力。蛇行しながらも、うまく軌道を修正し、最後の難関を乗り越えてゆく。
「やった、抜けた!」
彼らの身体が、進行方向に向かう潮の流れに乗る。
「ここからは追い風です! 行けますっ」
佐々木の歓声に、榮は感極まって涙を溢れさせてしまいそうになった。
「無理にストロークしなくていい。ラスト三キロ切りました、キックだけでも十分たどり着けますよ」
佐々木の声に応えるように、ふたりはストロークを止め、キックだけで泳ぎはじめた。体力消耗を防ぐため、ここまで二人はほとんど足を使っていない。ゴール地点である白神岬(しらかみみさき)まで、温存された足で力強く進んでゆく。
岸にはたくさんの支援者が集まっていた。明日香の祖父母や両親、学校の友人たちに、金山の通うスポーツクラブの仲間たち。感極まった彼らが、十三時間を超える長旅の末にようやく上陸した二人を揉みくちゃにする。榮も堪えきれず、金山に駆け寄ってしまった。
「先生っ!」
思わず飛びついてしまった榮を、金山はしっかりと抱き止める。
「高科さんっ……見ててくれましたか。これがオレの、やり方です。国会議員として、間違ってるかもしれない。だけど議員をクビになったって、オレは諦めない。自分なりの方法で、子どもたちに夢を与えられるように頑張り続けるから。だから――まだ少しでもオレに対して気持ちが残ってるなら、どうかこれからもオレのそばに……」
最後まで聞き続けることはできなかった。カメラが回っていることも忘れ、金山の唇に自分の唇を押し付ける。金山は榮を抱きしめ、蕩けそうなほど熱いキスを返してくれた。
二十四時間テレビの生放送中に、カメラの前で思いきりキスシーンを披露してしまった。
ネット上は大変な騒ぎになっている。それなのに金山は、なんとも思っていないようだ。隠し事をしなくてよくなったといわんばかりに、街中で堂々と榮の手を握りしめてくる。
「申し訳ありません、私のせいで……」
週刊誌の写真だけなら、なんとでも言い逃れをすることが出来ただろうに。あんなふうに生放送中に抱き合ってキスをしてしまっては、どんなに頑張っても否定することはできなくなる。
「高科さんは、なにも悪くないです。っていうか、高科さんがしなかったら、オレのほうからしてましたから」
榮の手を取り、金山はちゅ、とその甲に口づけた。
「だ、ダメですよ、ひと目がっ……」
函館市内の温泉街。疲労を理由にテレビ局主催の祝賀会を早々と抜け出し、ふたりは新藤が用意してくれた宿へと向かう。
「ここですかね。なんか思っていたより、ずっと豪華な宿ですね」
金山はジャージ姿だし、榮もウィンドブレーカーにカーゴパンツというラフな服装だ。気後れしつつ、天井の高い開放的なエントランスを抜けてフロントでチェックインを済ませる。案内されたのは、最上階にある露天風呂付きの部屋だった。
「凄いですね。全面ガラス張りで、津軽海峡を見渡せるようになっているんですね」
すっかり日の暮れた今、水面は闇に染まっているけれど、明日の朝、目覚めたときには、金山と明日香が泳ぎ切ったあの海を一望することができるのだろう。
「潮まみれで辛いでしょう。先にお風呂、入ってきてください」
そう告げると、腕をつかんで引き寄せられた。
「高科さんもいっしょに入りましょう」
「ゃ、わ、私はっ……」
逃れようとして、背後から抱きすくめられる。うなじに口づけられながら、ウィンドブレーカーのジッパーを引き下ろされてしまった。
「ぁ、あの、わ、私のこと……嫌いになったのでは、ないのですか……?」
恐る恐る告げた榮の首筋に、金山はちゅう、と吸いついてくる。
「嫌いになるわけ、ないでしょう。あの日、抱き合ってる二人の姿を見て、あぁ、やっぱり高科さんは清州先生のことが好きなんだなぁって思い知らされた気分になりました。だけど、どんなに頑張っても諦められないんです。清州先生になんて勝てるわけがないけど。オレなりの方法で頑張って、もう一度、高科さんに惚れ直してもらいたいなぁって思ったんです」
金山の手のひらが、榮の頬を包み込む。じっと榮の瞳を見つめると、金山はいつになく真剣な声音でいった。
「改めていいます。高科さん、あなたのことが好きです。絶対に誰にも渡したくないし、これからもずっと一緒にいたい。この先の人生、全部。オレといっしょに生きてくださいっ」
あまりにもストレートな告白に、照れくさくてどうしていいのかわからなくなる。
「ダメ、ですか……?」
答えを待つ金山に、榮はふるふるとちいさく首を振った。
「ダメ、じゃないです。ごめんなさい。嬉しすぎて……」
父を亡くしてから、ずっと、自分がしっかりしなければと思って生きてきた。
父の分も自分が母を支えていかなくてはならないのだと思った。涙なんか、流したことは一度だってなかったのに。金山と出会ってから、感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜられてばかりで、すっかり涙もろくなってしまった。
大粒の涙を溢れさせた榮を、金山はぎゅっと抱きしめる。
「一番そばにいてあげなくちゃいけないときに、そばにいてあげられなくてごめん」
金山の吐息が熱い。頬を摺り寄せられ、自分のものではない滴で、榮の肌が濡れた。
「金山……せんせい……?」
「オレ、頑張るから。清州先生のこと、すぐに忘れられなくてもいい。少しずつでいいから、高科さんの心ンなか、オレで塗り替えさせて欲しいんだ」
ウィンドブレーカーを脱がされ、Tシャツまではぎ取られてしまう。
「ぁ、だめっです、汗、かいてるからっ……」
首筋にねっとりと舌を這わされ、慌ててその身体を押しのけようとする。けれども、どんなに頑張っても大柄な金山の身体は、びくともしなかった。
あっという間にズボンを下ろされ、丸裸にされてしまう。姫抱きにされ、露天風呂に連れていかれた。
「汗なんて全然気にならないけど、榮さんが気になるなら、先に流します」
榮さん。突然下の名前で呼ばれ、トクンと心臓が跳ねあがる。
「下の名前で呼ぶなら……さん、いらない、です。敬語も……できればないほうが……」
「じゃあ、榮さんも、オレのことちゃんと下の名前で呼んでください」
促され、おずおずと下の名前を呼ぶ。
「毅志(つよし)さん」
なんだか照れくさくて、まともに視線を合わせることができなかった。
「やば。いまの、めっちゃキた」
ただ名前を呼んだだけなのに、なぜだか金山はとても喜んでくれた。
「いっしょに、風呂入りましょう」
湯船に連れて行かれそうになって、慌ててシャワーに手を伸ばす。
「かけ湯くらい、しないと」
「あぁ、そうですね。ついでに、榮さ、いや、榮の身体、洗ってもいい?」
「じ、自分で……します」
金山から逃れようとして、壁際に追い詰められてしまった。逃げ場を奪われ、あたたかなシャワーで身体を洗われる。石鹸のついた手のひらでやさしく肌をこすられ、榮は堪えきれず甘えた声をあげた。
「んあぁっ……」
大きくのけぞらせた腰をがっちりと抱きすくめられ、隅々まで身体を洗われてゆく。背中や肩をたどっていた指が榮の胸の尖りに触れ、再び声が漏れてしまった。
「ぁっ……ゃ、そこは……」
やめてください、といいたいのに、うまく言葉が出てこない。ぷっくりと膨れ上がったちいさな粒を指の腹で転がされながら、もう片方の手で太ももを撫であげられた。
「まだ何もしてないのに、こんなに大きくなってる」
天を仰ぐ中心を揶揄され、榮は羞恥に消えてしまいたい気持ちになった。
「ご、ごめんな……さ、ぁっ……!」
太ももの付け根を軽く揉まれ、堪えきれず白濁を迸らせてしまう。飛び散った劣情を指先で掬い上げ、金山はねっとりとその指をしゃぶった。
「少し前まで、こんなじゃなかったのに。清州先生に開発されて、ヤらしい身体になっちゃったの?」
「ち、ちがっ……先生とは、なんでもありませんっ」
必死になって否定する榮の腹を、金山はゆっくりと撫であげてゆく。
「前にオレと寝たときには、ここまで感じやすくなかったよね」
「そ、それは……っ、ぁ、あのときは初めてだったし……っ」
確かにあのときも金山のことが好きだったけれど、いまはあのときとは比べ物にならないくらい、もっともっと強く惹かれているのだ。金山のすべてが欲しくて、欲しくてたまらない。
口に出していうことができず、もどかしさに暴れ出したい気持ちになった。せめてこの想いが一ミリでも伝わればいいと思い、金山の指に自分の指を絡め、キュッとその手のひらを握りしめる。
「嫉妬なんてみっともないってわかってるけど、おかしくなりそうなんだ。榮さんの身体に、ほかの男が触れたと思うと、気が狂れてしまいそうなんだよ」
背後から抱きすくめられ、尻に猛ったモノを宛がわれた。こんな場所で貫くというのだろうか。露天風呂の置かれたベランダは海に面しており、完全なオープンエアーだ。隣の部屋とは壁一枚で隔てられているだけで、声を出せばきっと丸聞こえになってしまう。
「だ、だめです。せめて、部屋のなかへっ……」
不安になってそう叫んだ榮の尻の割れ目に、金山は熱く滾ったソレを擦りつけてきた。
「ずっと、触れたくて触れたくてたまらなかった。榮さんがオレのそばに帰ってきてくれてから、そのことしか考えられなかった。だけど――身体だけじゃ、ダメだって思った。ちゃんと心も全部、貰わなくちゃ意味がないって思ったんだ」
ぐっしょりと先走りに濡れた、金山の雄※芯。窄まりをぐりぐりと刺激され、自ら腰を浮かせてなかに導いてしまいたくなった。
(はやく、先生と一つになりたい)
「せ、んせっ……」
言葉でせがむのはあまりにも恥ずかしくて、振りかえって唇を突き出し、金山のキスをせがむ。彼は榮にくちづけながら、さらに激しく窄まりに先端を擦りつけた。
「あぁっ……!」
ひと息に貫いて貰いたいのに。決してなかに押し入ることなく、入り口ばかりを執拗に攻め立てられた。
「せっかく洗ったのに、また汚れちゃったね」
白濁で汚れた榮の身体を石鹸まみれにし、金山は榮のうなじを舐りながら、その身体を洗ってゆく。
「ぁっ……はぁっ……んっ」
声が漏れてしまわないように、必死で唇を噛みしめる。どんなに噛みしめても、堪えきれずかすかな吐息が溢れ出してしまった。
「ここも、しっかり洗っておこうか」
石鹸のぬめりを利用して、ぬぷりと窄まりのなかに指が入り込んでくる。
「ぁっ……ぁ、んーーーっ」
ぐるりとなかをかき混ぜられ、榮は堪えきれず二度目の精を放った。溢れた白濁を榮の窄まりに塗り込め、金山はふたたび昂ぶりを押し当ててくる。
「ぁ、だめ、部屋に……戻りま……んあぁあっ!」
背後からゆっくりと押し入られ、深々とすべてを埋め込まれる。
「ぁっ……ぁ、ゃ、も、せ、んせっ……」
手の甲を噛んで必死で声を押し殺そうとして、それでも止まらなかった。
「露天風呂、入ろうか」
つながったまま、金山は榮を抱き起こす。湯船に腰を下ろした金山の上に跨らされ、背面座位の姿勢で貫かれた。
「ぁっ……ぁ、んっ……はぁっ……」
とにかく、声を出さないようにしなくちゃいけない。両手で口を押さえ、なんとか声を殺そうとする。けれども背後から揺さぶられるうちに、段々と力が抜けて、押さえていることができなくなってしまった。
「ぁっ……!」
倒れそうになった榮の身体を、金山はがっちりと抱き留める。動きを封じ込められた状態で、最奥に埋め込んだまま卑猥に腰を遣われた。
「ゃ、もっ……ほんとに、おかしくなっちゃう……っ」
達したばかりだというのに、もう限界だった。このままでは湯船を汚してしまう。不安になった榮を、金山は突然抱えあげた。
達する直前に引き抜かれ、行き場のない熱にどうにかなってしまいそうだ。金山は榮にくちづけると、抱きかかえて一気に寝室まで運んだ。
バスタオルにくるまれ、濡れた身体を拭われながら布団に押し倒される。両膝を肩に担ぐようにして大きく股を開かされ、再び窄まりに宛がわれた。
「ぁ……なにか、塗って、ください……」
そうせがむと、潤滑剤を塗り込められ、ひと息に貫かれた。
「んあぁあっ!」
背後から貫かれていたときとは違う、強烈な羞恥にぎゅっと目を閉じる。逞しい金山の雄が、榮の窄まりを引き裂かんばかりに埋め尽くしている。みっちりと埋め込まれたソレは、ほんの少し動かれるだけで榮の内壁をゴリゴリと擦り上げ、つま先まで痺れてしまうほど激しい快楽を生じてゆく。
「ダメですよ、高科さん。ちゃんと目開けてください」
呼び方が、下の名前から名字に戻っている。心なしか、呼吸も乱れているようだ。興奮してくれているのだろうか。おそるおそる目を開けると、思っていたよりずっと近い場所に金山の顔があった。
「んっ……!」
唐突にくちづけられ、ねっとりと舌を絡めとられる。まるで身体のなかすべてを弄られてしまうような、生々しいキスだ。熱く濡れた舌で執拗に絡めとられ、きつく吸い上げられてゆく。腰の奥のほうが甘く疼いて、どうにもならなくなった。自然と腰が浮き上がり、自ら揺すってしまう。はしたない。そう思うのに、止まらなかった。
「こんなヤらしい動き、前はしなかったのにね」
キュッと胸の尖りをきつく摘み上げられ、榮は思わず悲鳴をあげてしまいそうになった。
「二度と、ほかの人としないで欲しい。高科さんの指も唇も、胸も、ここも、全部オレだけのものだ」
ぐっと身体を倒しこまれ、挿入がさらに深くなる。繋がったまま結合部に触れられ、浅ましくめくれ上がった淫らな窄まりをさらに押し広げられた。
「んあぁあっ……!」
これ以上、深い場所なんてないと思っていたのに。あり得ないくらい奥まで突き立てられ、激しく揺さぶられた。
「ぁっ……ぁっ、ゃっ、も、それ、だめっ……も、だめっ……」
硬く猛った金山のモノが、榮のなかを突き破るほど執拗に突き上げてゆく。
「ほかの男のモノなんてもう、二度と受け容れられないくらい、高科さんのここ、オレのカタチを刻み込みたいですっ……」
「ちがっ……ほんとにっ……清州先生とは、なんでもな……あぁっ!」
「清州先生、とは?」
ほかの人とは寝た、と思われているのだろうか。榮は必死になって、首を振り続けた。
「誰とも……してなぃっ……先生、だけっ……金山せんせい、だけ、だからっ……」
嘘じゃない。本当のことだ。この身体に榮が受け容れるのは、後にも先にも金山だけだ。ほかの相手のモノなんて、きっと金山と別れることになったって、絶対に受け容れようなんて思わない。
「信じ、て、先生、おねがい、だからっ……」
激しく揺さぶられながら、必死で訴える。その背中に短い爪を立て必死で抱き縋ると、骨がきしむほど強く抱きしめられた。
「信じる、よ。信じる、から。だから、これからもずっと、オレだけの高科さんでいて」
やさしいキスだった。いままでにされたことがないくらい、やさしくて、甘くて溺れてしまいそうなキスだ。布団の上にちゃんと背中をつけているのに、底のない水のなかに沈んでしまうような錯覚に陥る。目いっぱい手を伸ばして必死で縋りつくと、さらに深く舌を絡められた。一ミリの隙間もないほどぴったりと重ねわされ、きつく吸い上げられる。榮のなかに深々と突き立てられた金山のモノが、むくりとさらに逞しさを増したのがわかった。
「好きだ。高科さん、高科さんのことが好きっ……」
とつぜん始まった突き上げに、振り落とされてしまいそうになった。汗で滑る手で慌ててしがみつきなおし、必死で耐える。
「んあぁああっ……ぁ、ぁっ、ゃ、あぁあっ……!」
脳天まで揺さぶられる激しい突き上げに、なにもかも壊されてしまいそうだ。あまりにも荒々しい金山の突き上げに、敷布団が畳の上をどんどんずり上がってゆく。
怖い。自分が、どうにかなってしまいそうだ。
こんなにも激しく貫かれているのに、不思議なことに痛みはなかった。感じすぎておかしくなってしまったのかもしれない。押し寄せる快楽の暴風に飲みこまれ、声を我慢することさえできず、必死で彼の名を呼び続ける。
「せ、んせっ……金山先生っ……」
金山のことが、好き。誰よりも、好き。身体の全部で、金山のすべてを受け止めたかった。
「高科さん、好きだっ、心も身体も、高科さんの全部をオレで一杯にしたいっ……」
突き上げが、さらに激しさを増した。凄絶な快楽に打ちのめされ、まともに目を開けていることさえできない。
それでも金山をもっと感じていたくて、見えない代わりに触れ合う肌の全てで彼を感じようとした。その汗ばんだ背中をさすり、彼の頬に自分の頬を擦りつけ、腰を擦りつけるようにして彼のモノを根元までしっかりと受け容れる。
「くっ……締まるっ、だめ、だよ、高科さん、そんなにしたら……っ」
咎められても、止まらなかった。金山の動きに合わせ、めちゃくちゃに腰を振ってしまう。互いの動きがぴったりと重なり合って、今までにないくらい深く、ひとつになってしまうほど奥までつながることができた。
「はぁっ……せん、せ、ごめ、なさい、もぅ、先にっ……」
今度こそ、自分ばかりではなく金山をイかせてあげたかったのに。もう限界だ。これ以上、すこしも我慢できそうにない。
「いいよ、高科さん。一緒にイこう。オレも、イクよ。高科さんのなかでっ……!」
これ以上激しい突き上げなんて、ありえないって思ったのに。金山は榮の腰が逃げてしまわないように両手でがっちりと押さえこむと、いままでにないくらい荒々しく、がむしゃらに腰を振った。
「んあぁああっ、ゃ、せ、んせっ、イク、イっちゃ、あぁあああっ!」
びゅるり、と榮が迸らせた瞬間、金山の牡が、どくりと雄々しく脈動した。どくどくと大きく脈打ちながら、榮のなかを温かなモノで満たしてゆく。
「ぁ――ぁ、ぁ――……」
蕩けそうに熱い劣情に満たされてゆく感覚に、なぜだか涙が溢れてきた。
哀しい、わけじゃない。痛い、わけじゃない。しあわせすぎて、涙が溢れてくるのだ。いとしい金山の愛情で、たっぷりと満たされてゆく。そのことが嬉しくてたまらなかった。自然と唇を突き出し、そのキスを求めてしまう。激しく突き上げられ、呼吸は乱れたままなのに。肩で息をしながらも、金山を求めずにはいられなかった。
「ダメですよ、高科さん。そんなふうにしたら……また、大きくなっちまう」
達したばかりの金山が、ふたたびカタチを取り戻すのがわかる。榮は金山の頬に触れ、自ら、ちゅ、とちいさくくちづけた。
「いいですよ。何度でも、抱いてください。先生がおなか一杯になるまで……いくらでも、お相手します」
答えるなり、つながったまま抱き上げられた。くちづけながら、下から突き上げるようにして腰を遣われる。
「ぁっ……ん、はぁっ……」
たっぷりと流し込まれたそこを激しくかき混ぜられ、室内に卑猥な水音が響き渡った。
「凄いね、高科さんのここ、めちゃくちゃ熱くなってる。火照って、蕩けて、オレのペニ※スに絡みついてくるよ」
ぐちゅぐちゅと敢えて大きな音がたつように出し入れされ、羞恥に頬が熱くなる。
「ほら、触って」
手首をつかんで引き寄せられ、互いの結合部に触れさせられた。
「ゃっ……」
あまりの恥ずかしさに逃れようとした榮をやんわりと布団に押し倒し、金山は繋がったままさらに体位を変えさせた。四つん這いの姿勢を取らされ、深々と突き立てられる。
「んーーーっ」
挿入の角度が変わるからだろうか。いままでとは全然違う場所を力強くえぐられ、榮は一瞬にして絶頂へと追いやられてしまった。
「ゃ、ぁ、ぁっ……イク、イっちゃっ……」
シーツを掴み、めちゃくちゃに手繰り寄せる。尻たぶを鷲掴みにされ、思い切り深く突き立てられた。
「んあぁああっ……!」
白濁を迸らせてもなお、金山の突き上げは止まることがない。達したばかりの身体を執拗に突き立てられ、榮はふたたび達してしまいそうになった。先刻の絶頂による痙攣も収まらないまま、新たな快楽の渦に飲み込まれてゆく。
「ぁっ、ぁ、ぁっ、イく、も、イっちゃ……っ」
凄絶な絶頂を予感したそのとき、唐突に引き抜かれた。
「ぁ、ゃっ……やめ、ないでっ……」
戸惑う榮の腕をつかみ、金山は布団に横たわる。
「乗って。オレのこと好きなら、ちゃんと自分から乗ってください」
彼の上に跨れ、ということだろうか。雄々しくそびえたつ彼の中心は、どちらのものともわからぬ白濁と潤滑剤のぬめりでぐっしょりと濡れそぼり、淫らに光っている。
(こんなに逞しいモノを、咥えこんでいたんだ……)
榮の倍ちかくあろうかというその凶悪な牡に、めまいがしてしまいそうになった。
はしたないことは、したくない。心は拒むのに、身体は彼の熱を欲し、勝手に動き出してしまう。
「見ないで……ください」
金山の目を手のひらで覆い隠し、榮はおそるおそる彼の上に跨った。硬く猛ったソレが榮の窄まりに触れ、それだけでジワリと身体の中心が濡れるような錯覚に陥る。熱く蕩けた窄まりを自ら擦りつけ、榮はゆっくりと腰を落としこんだ。
「んぅっ……ぁっ……!」
やっぱり恥ずかしい。自分でしておいて、羞恥におかしくなってしまいそうだ。戸惑う榮の腰を掴み、金山はがっちりと押さえ込んで逃げられなくしてしまう。
「やらしいね。そんなにオレのこと、欲しかったんですか?」
囁かれ、頬の熱さが加速してゆく。
「ち、ちがっ……先生が、しろって、いうからっ……」
反論しながらも榮の窄まりはいやらしく蠢き、金山の牡を貪ってしまう。やんわりと手を退けられ、じっと見つめられた。
「ほら、高科さんのここ、きゅうきゅう動いて、オレのこと喰いちぎりそうなくらい締め付けてる」
極限まで押し広げられ、野太い雄芯を突き立てられたそこを、ゆっくりと指先でなぞられてゆく。
「いいよ、動いて。イキたいんだよね? オレのペ※スでイっていいよ」
あからさまな言葉で煽られ、パニック状態に陥ってしまいそうになった。それなのに金山の白濁で溢れかえった榮のなかは熱く蠢いて、一ミリでも深く彼を欲しいと渇望してしまう。
「んっ……ぅ、ぁ、わ、かんな……どう、やっていい、のか……っ」
欲しくて、欲しくてたまらないのに。金山が突いてくれるときのように、うまく腰を振ることができなかった。当ててほしい場所に当ててもらえない。もどかしくて、どうにかなってしまいそうだ。
「どこを突いて欲しいの? ちゃんと言葉でいってくれないとわからないですよ。欲しい場所、教えてください」
顎を掴まれ、上向かされる。恥ずかしさにぎゅっと目を閉じると「目ぇ閉じたら、抜きますよ」と囁かれた。
「ぅ……ゃ、抜かない、で」
もう、限界だった。達する直前で放り出された身体。いまにも溢れてしまいそうな劣情が、身体のなかをぐるぐると渦巻いている。
「じゃあ、ちゃんといわないと」
一度達して、余裕ができたのだろうか。先刻までの直情的なセッ※スとは打って変わって、金山は榮の身体だけでなく、心までめちゃくちゃにかき乱してくる。
「おく……」
「奥?」
「奥、突いて、先生、奥、突いてくださいっ……」
涙を溢れさせながら懇願すると、思い切り激しく突き上げられた。
「んあぁああっ!」
振り落とされそうなほど強烈な突き上げに、必死になって金山に縋りつく。彼はしばらく下から榮を揺さぶり続けると、今度は榮の身体を布団に押し倒し、正常位の姿勢で貫いた。
「あぁぁっ!」
ふたたび挿入の角度が変わって、新たな場所を擦り上げられる。深く、浅く、リズミカルに突き上げられ、榮の先端からシーツまで滴るほど蜜が溢れ出した。
「ぁっ……ぁ、イク、も、イっちゃ……っ」
「いいよ、イって。何度だってイかせてあげるからっ」
金山の突き上げが、さらに激しさを増す。榮は今にも達してしまいそうになりながら、ふるふると首を振った。
「ゃ、です……せんせい、と……先生と一緒にイきたいっ」
振り絞るような声で懇願した榮を、金山はぎゅっと抱きしめる。
「あぁ、もうっ……そんなかわいい顔でおねだりされたら、応えないわけにはいかないじゃないですかっ、くそっ、もっと、ずっと繋がってたいのにっ……今のかわいらしい声だけで、イっちまいそうですよ」
身体を密着させたまま、榮に叩きつけるように金山は腰を遣った。
「ぁっ、ぁっ、ゃ、すごっ……も、だめっ……ぁ、あぁっ」
シーツごとずり上がって、身体が移動してしまう。壁際に追い込まれ、頭をぶつけそうになって仰ぎ見ると、そこは壁ではなく海に面した窓だった。
窓ガラスに室内の光があたり、鏡のように榮たちの姿を映し出している。慌てて視線をそらしたけれど、金山もそのことに気づいたようだ。
繋がったまま、榮に四つん這いの姿勢をとらせ、顎を掴んで窓のほうに向きなおらせる。
「ちゃんと見てて。いま、自分が誰に抱かれてるのか、しっかり見ててほしい」
窓のほうを向かされたまま、ズンッと思い切り突き上げられた。
「あぁっ!」
はしたない自分の表情だけでなく、浅ましく天を仰いだささやかな分身まで丸見えになってしまう。
「ぁっ……ぁ、ぁっ、イク、イっちゃっ……」
ふたたび絶頂を迎えそうになったそのとき、またもやお預けを喰らってしまった。
「ダメですよ。イクときは、ちゃんとオレとキスしながらじゃなくちゃダメです」
繋がったまま器用に体位を変えられ、布団に横たわらせられる。正面から貫かれ、くちづけられると、なぜだか無性に安心したような気分になった。
「高科さん、正常位がいちばん好きでしょ。ほら、ここがキュウキュウしてる」
パンッ、パンッ、と肉を打つ音を響かせながら、金山はリズミカルに腰を振り続ける。
「ぁっ……ぅ、ごめ、なさい、もっ……」
あなたの顔を見ると安心するんです。――そんなこと、いえるはずもなく、照れくささから逃れるように目を伏せる。わざとしているのだと思う。金山は榮がいちばん感じる場所を外し、じらすように腰を擦りつけてくる。身をよじって場所を変えさせようとして、腰を押さえ込むようにして阻止された。
「も、焦らさない、で、くださっ……これ以上されたら……おかしくなちゃっ……」
耐え切れず、金山の手を振り払って腰をくねらせる。金山はそんな榮を抱きしめ、こめかみに唇を押し当てた。
「ダメだ、マジ可愛すぎる。もっともっと可愛がってあげたかったけど、限界ですっ」
両膝を掴まれ、待ちわび続けていた場所に、ひと息に突き立てられた。
「んあぁあっ!」
痺れるような快楽が全身を駆け抜け、先端から新たな蜜が溢れ出す。
失神してしまいそうなほど鮮烈な快感に、榮は大きく背をのけぞらせて身もだえた。
「行きますよっ、高科さんのなか、オレのでいっぱいにしますっ」
そう宣言すると、金山は今までになく激しく榮を突き上げた。
このまま、壊されしまうのではないかと思うくらい激しい突き上げ。なにもかも考えられなくなって、ただ、彼の背に抱き縋りつづける。
「ぁ、ぁっ、ぁっ、ゃ、イク、イっちゃ、ぁ、んあぁああっ……!」
勢いよく迸らせた瞬間、最奥に叩きつけるように吐精された。雄々しい彼の脈動を感じながら、榮も白濁を溢れさせつづける。
もっと、ずっと、金山を感じていたかったのに。
榮は彼の熱に満たされながら、意識を手放してしまった。
目覚めると、温かな腕のなかだった。以前のように、二人を遮るバリケードはない。さんざん抱きあった後だというのに金山は元気いっぱいで、凶悪なソレが榮の下腹に思い切りめり込んでいる。不思議なことに、嫌悪感はなかった。むしろ彼の全てを、いとおしいとさえ思う。
「ん……あぁ、おはよ、ございます」
眠たそうにあくびを噛み殺しながら、金山が頬を摺り寄せてくる。年上なのに、相変わらずなぜだかちょっとかわいいところがある。こんなにもガタイのいい大柄な男をかわいいと思うなんて相当重症だと思うけれど、心底そう思ってしまうのだから仕方がない。
「先生、まだ寝ていて大丈夫ですよ。レイトチェックアウト、申し込んでありますから。ゆっくり休んで、昨日の疲れをいやしてください」
彼の短い髪をそっと撫でると、首筋に喰らいつかれた。
「気が利きますね。朝えっちオッケーってことですか」
「ち、ちがっ……横断泳の疲れを……ぁっ!」
あっという間に組み敷かれ、窄まりに牡を宛がわれてしまう。気づいたときには、金山を深く体内に受け容れてしまっていた。
「ぁっ……やめっ……んぅっ……!」
あっという間にイかされ、体内にたっぷりと金山の精を注ぎ込まれる。
ようやく解放されたときには、すっかり日が高くなっていた。朝のニュースをチェックしたかったのに、どのチャンネルもドラマやワイドショーをやっている。
二十四時間テレビでの一件がどう扱われているのか気になりザッピングすると、インタビュアーにマイクを向けられる清州の姿が映し出された。
「珍しいですね、清州先生がこんな番組のインタビューに応えるなんて」
どうやら例の隠し子問題について、語っているようだ。事実無根であると、彼ははっきりと言い切っている。
「昴のことですよね。認めてやればいいのに」
画面を眺め、金山は少し不服気にそうつぶやいた。
「いえ、世の中には認めないほうが相手のためになる、ということもありますよ。おそらく昴くんのことを思いやってのことだと思います」
現在ネット上に出回っている清州の隠し子に関する記事には、昴個人を特定するような情報はひとつも書かれていない。もし仮に、清州が昴を隠し子だと認めてしまえば、彼はきっとマスコミの注目を一身に集めることになるだろう。そのことが今後の彼の人生に与える影響は計り知れない。
「今は納得がいかないかもしれませんが、昴くんも、きっと清州先生のお気持ちがわかる日がくると思います」
榮自身、いまさら清州昭久に認知され、彼の隠し子だなどと騒ぎ立てられたら、正直、とてもつらい気持ちになると思う。
清州のことだ。きっと認知しない代わりに、なんらかのかたちで彼を手厚くバックアップするつもりなのだろう。インタビュアーの質問は、清州自身のことから、金山の一連のスキャンダルに関する話題に変わった。
「薬物疑惑や淫行疑惑に関しては、警視庁から正式発表があった通り、事実無根であります」
「秘書を愛人化し、議員宿舎で同棲をしているという疑惑についてはどうですか」
「あなた方のおっしゃる『愛人』という言葉の定義が私にはよくわかりませんが、世間一般的な意味での『愛人』として使われているのなら、私は彼らの関係をそのように表現することに対し、強い違和感を覚えずにはいられません」
「どういうことですか」
「金山もその秘書も独身です。そして、彼らは真剣に愛し合っている。私も、交際をはじめる際には彼らから正式な挨拶を受けております。金山にとって、例の秘書は愛人ではなく、男女でいうところの『正妻』なんです。現在の日本の法律では入籍することが不可能なため、仕方なく私的な関係のままでいるだけです。ほかの先生方のなかにも、配偶者を秘書にしておられる先生や、家族と共に宿舎で同居なさっている先生がたくさんおられます。そうでなくとも、政治家にとって配偶者は、誰よりも仕事を支えてくれるかけがえのない存在なのです。真剣に互いを想いあい、支えあっている彼らを差して『愛人』などと書き立てるのは、いかがなものでしょう」
「――保守派の清州先生が、同性婚制度を支持されているということですか」
「『同性婚制度』の導入に関しては、まだまだ慎重な協議が必要だと思います。ただ、だからといって同性カップルが『入籍していない』という理由だけで不当に差別される現状は、是正すべきであると感じております」
「それは、清州派全体のお考えと捉えてよろしいのですか?」
「いいえ、私個人の私見です。ですが、今回の参院選のマニフェストにも掲げているとおり、わが党では『多様性に富んだ豊かで活力ある社会』を目指しております。私だけでなく、党内にはほかにも同じように感じている先生方も少なくないのではないでしょうか」
在日アメリカ総領事が同性のパートナーを伴って来日し、領事館で同棲していることを例に挙げ、清州は金山達に対する批判が正当なものであるとは思いかねる、と自身の考えを主張した。
「清州先生……」
私見である、と前置きしたうえでも、保守派の議員が同性間パートナーシップに関し肯定的な意見を述べるのは非常に珍しいことだ。
「大丈夫なんですかね、オレたちのことなんか庇って」
党内からの突き上げは覚悟の上、それでも金山や榮を護ろうとしてくれてるのだろう。
清州に対するインタビューに続き、画面は一連の報道に関する街の声を映しはじめた。年配男性を中心に「けしからん」「金山には失望した」「理解不能だ」という強い非難が集まるなか、若い世代からは彼らとは異なる柔和な意見が多く見られた。
「ぶっちゃけ、男同志だろうが、ちゃんと愛し合ってんならそれでいいんじゃないのって思います。最初にニュースで見たときは、金山選手が秘書の人を無理やり食いものにしてる、みたいな報道で幻滅したけど。二十四時間テレビで見た限りでは、秘書のひとも金山選手のこと大好きーって感じが現れてたし。いいんじゃないですか、別に。そんなの非難する暇あったら、あたらしい都知事の金銭問題のほう、もっと厳しく追及してほしいです」
「なんか雑誌を売ろうとしてデタラメ書いてるのがミエミエっていうかぁ、ケビンもツイッターで『親友のツヨシと複数プレイなんかするわけない!』って呆れてたしー。あの、女のひととのキスの写真なんてコラだって噂もあるんですよねー。酷くないですかぁ」
次々と映し出される街の声に、堪えきれず涙が溢れてくる。VTRの最後には、金山に命を助られたというあの二十四時間テレビのカメラマンが明日香と共に登場した。
「本業をおろそかにしてテレビ番組の企画に参加してるって批判もあったみたいですが、あれは私のおばあちゃんが無理やり先生に頼み込みにいったせいなんです。普通なら門前払いされて当然なのに、約束もなしにいきなり現れたウチのおばあちゃんに、先生も高科さんもすっごくよくしてくださって」
そこまでいうと、明日香は突然泣き出し、嗚咽を噛み殺しながら、たどたどしく付け加えた。
「二人とも、大好きっ。いつか、二人の結婚式におよばれするのが夢です」
二十四時間テレビのメイキング番組の視聴率をアップさせるための、単なる話題づくりなのかもしれない。けれども、そのコーナーでは全面的に金山を支持し、擁護してくれていた。
「もしかしたら、風向きが変わるかもしれませんね」
旧来の考え方を重んじる保守派議員たちの理解を得るのは容易なことではないだろうが、きっと世論の風向きさえ変われば、彼らも金山を無碍には扱えなくなるだろう。
「いいほうに向かうとしても、このままダメになるとしても、オレは今まで通り、自分の信じた道を突き進みますよ」
津軽海峡を泳ぎ終えたときに見せた明日香の笑顔に感動し、金山はこれからもできるかぎり沢山の子どもたちに、夢を与えられる活動をしていきたいと考えているようだ。それが議員としての仕事であろうが、金山個人としての活動になろうが変わりはないと、彼はいう。
「どこまでも、ついていかせていただきたいと思います」
そう告げると、満面の笑みで抱き寄せられた。
「じゃあ、ひとっ風呂浴びて戻りますか」
「――はいっ」
窓ガラスの向こう側、昨夜は見ることのできなかった津軽海峡が、秋の日差しを浴びてきらめいている。二人はキスを交し合い、うつくしい海原を望む露天風呂へと向かった。
=エピローグ=
「わー、二人とも足長いからタキシード、めっちゃ似合いますねぇ。白パンなんて僕が穿いたら超マヌケになっちゃいそうですよ。あ、そうだ。ツイッター用にもう一枚、写真撮らなくちゃ」
うらめしそうな顔をする堀田にカメラを向けられ、榮は照れくささに頬を染める。
「そんなに何枚も撮る必要ありませんよ」
「なにいってんですか。支持者の皆さんはこの日を待ち望んできたんですからね。――ねぇ、明日香ちゃん。明日香ちゃんだって、めちゃめちゃ楽しみにしてたんですよねー」
突然話を振られ、明日香が声の場所から堀田の居場所を察知して振りかえる。
「楽しみにしてましたよ。だから、きょうは絶対に来なくちゃって思って」
鮮やかなドレスを纏った彼女は、以前、二十四時間テレビに一緒に出たときより、ひとまわり以上逞しくなっている。
金山のサポートのもと『津軽海峡を渡る』という夢を叶えた彼女は、現在、七海峡すべてを泳破することを目標にしているようだ。二十四時間テレビ撮影時に知り合った佐々木コーチが彼女をバックアップするための団体を立ち上げ、クラウドファウンドディングで資金を集めて実現に向けて着実に歩んでいる。すでにジブラルタル海峡とノース海峡を制覇し、来年はドーバー海峡にチャレンジするのだそうだ。
「明日香ちゃん、東京オリンピックが終わればオレも少しは時間が取れるから。ドーバーはぜひ一緒に泳がせてほしい」
金山擁護の世論を受け、党幹部たちは彼の続投を決めた。あれから四年。彼は週明けから開幕する東京オリンピック・パラリンピックの大会実施本部の一員として、一大イベント成功に向けて奔走している最中だ。
「はーい、いよいよ出番です。行きますよ」
堀田に促され、代々木公園の野外ステージに設えられた手作りのチャペルへと向かう。毎年行われる日本最大規模のプライド・パレード。東京オリンピック開幕直前とあって、例年以上に国際色豊かでにぎやかなイベントとなった。
そのイベントのひとつとして行われるLGBTカップルのための人前結婚式に、金山は現役の保守政党国会議員として初めて参加するのだ。
「凄いですね、海外のメディアも沢山来てる」
周囲を見渡すと、さまざまな国のメディアがカメラを向けていることが分かった。
「そりゃあ主要な先進国のなかで日本だけだからなぁ。いまだに同性婚の制度がないのは」
法整備を推し進める国が増えるなか、日本ではいまだに議論の場にさえ上がらない。
「こうして『見える化』が進めば、すこしは変わるんじゃないですかね。日本も」
毎年恒例の人前結婚式。去年や一昨年もモデルやタレントが参加してマスコミを賑わせていたが、今回の金山の参加は今までにないビッグニュースのようだ。LGBT関連の報道に力を入れているN※Kだけでなく、民放各社も勢ぞろいし、プレスの腕章をつけた各国のメディアが数えきれないほど沢山ひしめきあっている。
『ツヨシ! よかった、間に合ったー』
懐かしい声に顔を上げると、ステージの下で双子用の大きなベビーカーを押すケビンが汗だくになって手を振っていた。
三十代後半にして未だに現役を貫く彼は、今回のオリンピックに同性の配偶者と、代理母出産によって授かった双子の息子たちと共に来日しているのだ。
『おー、ケビン、久々だなぁ。すっかりパパらしくなって』
「ぁ、清州先生もいらしたようです」
参列者のなかに清州の姿を見つけ、榮は思わず顔を綻ばせた。彼の隣にはムスっとした表情の昴の姿もある。彼らの中でどんな話し合いがなされたのか分からないが、大学卒業後、昴は清州の元で秘書として働いているのだ。
「おー、ジムのみんなもいるなぁ、ほら、明日香ちゃんの周り、佐々木コーチと一緒にみんな来てる」
それだけじゃない。金山の現役時代の仲間たちや、榮の同級生、たくさんの人たちが祝福に駆けつけてくれている。
「それでは本日の人前結婚式、最後のカップルにご登場願いたいと思いますっ」
司会者の口上と共に、金山と榮の名前が呼ばれる。連れだってステージ中央に向かうと、割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「キスしろー、キスー」
気の早い野次馬が、ふたりをはやし立てる。
「いわれなくてもガッツリするんで待っててくださいねー」
金山は笑顔で叫びかえし、ぎゅっと榮の手を握りしめた。
誓いの言葉の後、指輪の交換をすることになった。金山はいまでも毎日仕事の合間にトレーニングに明け暮れ、できれば余計なものは身につけたくないのだという。榮自身も金属アレルギーでアクセサリーが苦手なため、金山の提案で万年筆を交換することなった。
だましだまし、何度も修理に出しながら使い続けていた父からもらった万年筆が、とうとうまったく使えなくなってしまった。大切にしていたことに気づいてくれていたのだと思う。金山が用意してくれた榮の名前の刻まれた万年筆は、父があの日、選んでくれたものとまったく同じ型のものだった。
「よっしゃ、キスしろ、キス!」
金山の選手時代の友人たちだろう。ふたたびはやし立てられ、無性に照れくさい気持ちになる。
「それでは、誓いのキスを」
司会者に促され、互いに見つめあう。
「愛してるよ、榮さん」
相変わらず『さんづけ』の治らない金山にそう囁かれ、ぎゅっと瞳を閉じる。すると、なぜか思いきり抱き寄せられ、本気のキスを繰り出されてしまった。
水音が響くほど激しく舌を絡めとられ、きつく吸い上げられる。口内を執拗に弄られ、意識が朦朧としてしまいそうになった。
「んっ……」
膝から力が抜けて、まともに立っていられなくなる。その場にくずおれそうになった榮を、金山は姫抱きにした。
「ちょ、だ、だめですって、こんなっ……んーーーっ」
抱きあげられたまま、ふたたびくちづけられる。こんなのめちゃくちゃだ。軽いキスで終えるのが普通なのに、金山はいつまでたっても榮を解放しようとしない。
「いいぞー、もっとやれーっ!」
「しあわせになーっ」
皆の歓声に包まれ、長い、長いキスを交し合う。
ようやく解放されたときには、榮はすっかり腰が抜けて、ひとりでは立てなくなってしまっていた。脱力してしゃがみこんでしまった榮を、金山がふたたび抱き上げる。おそるおそるステージの下に目を向けると、誰もが晴れやかな顔で笑っているのがわかった。
「すごい……」
「ああ、すごいね。オレはさ、子どもだけじゃなくて、こんなふうに大人も、みんなを笑顔にしたいんだ。これからもずっと、オレはそのことを目標に生きていくよ」
榮を抱く腕に力を籠め、金山はそういった。
「それには、絶対に榮さんの力が必要なんだ。これからもずっと、いっしょに生きてほしい」
マニュアルに書かれた定型の誓いの言葉じゃない。金山が心から発してくれた言葉。うれしくて、榮は思わず金山に抱きついてキスしてしまった。
観客から、ふたたび大歓声が巻き起こる。
「おい、キリがないぞー」
そんなふうに冷やかされながらも、ふたりは固く抱きあい、長い長いキスを交わしつづけた。
完