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笹にねがいを

 FMラジオから流れるヒットチャート。あいかわらず自分の関わった楽曲はランキングをかすりもしない。

 大学卒業後、拙いながらも作曲家として仕事をはじめ、すでに六年の月日が経つ。そろそろ人生設計を立て直すべきかもしれないなぁ、と黒瀬友哉(くろせ ゆうや)は思った。

「ふぁー……ねむ」

 いま作っているのは、地方ローカルアイドルのためのポップなラブソングだ。

『ぽっちゃりーず★NEO』。グループ名からして三百枚売れれば御の字だろう。

 できあがったデータをアップロードして、クライアントにメールを送る。

 あまりにも長期間引きこもりすぎて身体がだるい。運動がてらマンションの一階まで郵便受を覗きにいくと、大量のチラシと公共料金の請求書、タウン誌がごちゃ混ぜになって詰まっていた。

 片っ端から大手音楽事務所にデモ音源を送り続けているけれど、返信は一通も来ない。

「織姫募集。もうそんな季節か」

 年が明けたばかりだと思っていたのに、気づけば四月も半ば。今年も桜を見ないまま春が終わってしまう。あくびを噛み殺しながら、友哉はタウン誌の一面に躍るミスコンの出場者募集記事を眺めた。

 七夕まつりで有名な町。

 会場のちかくで暮らしているけれど、もう何年も七夕には足を運んでいない。

「懐かしいな……」

 幼いころに母を亡くし、男手一つで育てられた友哉。いそがしい父にかわり七夕まつりにはいつも従兄の大輔(だいすけ)が連れていってくれていた。

 大きな手のひら。広い背中。大好きだった従兄を思い出し、ギュっと胸が苦しくなる。

 はじめて大輔への恋心を意識したのは六歳のときだ。七夕まつりで笹飾りを見るのに夢中になり、迷子になってしまった友哉を、彼は必死で探し出してくれた。

 悪いのはよそ見をしていた友哉なのに、「お前は悪くない。俺が手を離したせいだ」といって、泣きじゃくる友哉の手をギュっと握りしめ、家まで連れ帰ってくれたのだ。

 遠い夏の記憶。

 あの夜のことは今でも鮮明に覚えている。

「あれから二十二年か。年喰うはずだよな」

 溜め息交じりに呟き、タウン誌を郵便受の下に備え付けられたゴミ箱に放り投げる。

「大ちゃん、元気にしてんのかな」

 五年前、大輔の結婚式を仮病で欠席して以来、友哉は彼と、そのお嫁さんの姿を見るのが嫌で親戚の集まりにはいっさい顔を出していない。

 このまま一生会えないのだろうか。そう思うと寂しいけれど、彼を射止めた女性を前に、にこやかに笑っていられる自信はない。

「いっそ、都内にでも引っ越すかな」

 定年退職後、意気揚々とシニア海外協力隊の隊員として活動している父はほとんど日本には帰ってこず、友哉がこの地に留まる理由はもはや何ひとつとして残っていない。

「どこか遠くに行けば、忘れられるのかも」

 叶うことのない従兄への初恋を二十年以上も引きずり続けているなんて、我ながらちょっと情けない。

 エレベーターに乗り込み、自室に戻ろうとしたそのとき、スマホの着信音が鳴り響いた。

 自分のなかでは渾身の一作。だけど残念ながらちっとも売れなかった楽曲だ。

 液晶画面には見慣れない携帯電話の番号。不審に思いつつ、もしかしたら大きな仕事の依頼かもしれないと期待に胸を膨らませる。

「はい、黒瀬です」

「――ゆーや、か?」

「だい、ちゃん?」

 空耳だろうか。なつかしい大輔の声に、ドクンと心臓が高鳴る。

「ああ、俺だよ。大輔だ」

 記憶のなかの彼の声より、ぐっと渋みを増した低い声が耳に響く。

 ああ、そうだ。もうお互いいい大人なのだ。

『だいちゃん』なんて呼び方をしてしまったことが、急に恥ずかしくなる。

 だけどそれ以外の呼び方でなんて、いったいどう呼んだらいいのだろう。『大輔さん』とでも呼べばいいのだろうか。なんだか他人行儀な感じがしてちょっとくすぐったい。

「元気にしてるか」

 いかにも男くさくて、だけどやさしい喋りかた。だいすきな大輔の声に、スマホを持つ手が震えてしまう。

「ん、元気、だけど……どうしたの。まさか、おじさんおばさんに何か……」

 不吉なことを口にしかけた友哉に、大輔は豪快に笑ってみせる。

「ばーか。親父もお袋もピンピンしてるよ」

「え、えと、じゃあ……」

 あまりにも不謹慎すぎる誤解をした自分が、無性に恥ずかしくなる。

「お前に頼みがあるんだ、友哉。近いうちに会えないか」

「えっ……や、い、いーけど、なに?」

 大学卒業後、実業団で競泳をしていた大輔は、結婚を機に地元に戻り、家業であるスイミングスクールで支配人として働いている。

 地方ローカルだけれど、近隣に十校ちかく展開する比較的大きなスクールだ。

 互いにすぐ近くに暮らしていながらも、今までばったり町なかで出くわすことはなかった。――というかここ数年、友哉は彼に遭遇したくないがために、できるかぎり家の外に出ないようにしているのだ。

「お前にしか頼めないことだよ。仕事、自宅でやってんだろ。明日の昼、どうだ。メシ奢ってやるから出てこないか」

 そんなふうにいわれ、慌ててミラー仕様のエントランスにうつる自分の姿を確認する。

 ひきこもり続きのせいですっかり青白くなった肌、痩せこけた頬、伸び放題で寝癖だらけの髪。こんなみっともない姿をさらすなんて耐えられそうにない。

「え、えっと……」

「ウチのスクールの前に十二時半。いいな、待ってるぞ」

 やや強引にいうと、大輔は返事も待たずに電話を切ってしまう。優柔不断な友哉に合意を求めるとロクなことがないということを、彼はよく知っているのだ。

「どうしよう……まずいっ……!」

 とにかく髪を切らなくては。肌や軟弱な身体はどうにもならないにしても、せめて髪だけでもちゃんと整えなくちゃいけない。

 慌てて部屋に駆け戻り、友哉は明日の朝イチバンでカットしてくれる美容院を探した。

 

 ひさびさに髪を切り、クローゼットのなかから一番まともだと思える服を引っ張り出して待ち合わせ場所へと向かう。

 十二時ジャスト。当然、まだ大輔はいない。

 駅前の大通りに面した場所にあるそのスクールは系列のなかでもいちばんの旗艦校で、フィットネスクラブやテニススクール、サッカースクールも併設した巨大な建物だ。

 ちいさなころ、建て替える前のこのスクールに友哉も通っていた。本当は水泳なんてあまり好きじゃなかったけど、すこしでも大輔との接点が欲しくて通い続けていたのだ。

「よお、久しぶりだな」

 昔の思い出に浸りかけていたそのとき、懐かしい声が響いた。

「だ、大……」

 大ちゃん、といいかけ、その呼び方はないな、と口を噤んだ友哉の髪を、大輔はちいさなころと同じようにくしゃくしゃと撫でた。

「ぁ……」

 セットしてもらったばかりの髪がぐちゃぐちゃになって、それでも残念に思う気持ちより、嬉しさのほうが百億倍大きかった。

 だいすきな大きな手のひら。二度と触れてもらえないと思っていた彼に頭を撫でてもらえた。――思わずその感触に浸ってしまいそうになって、慌ててその手を払いのける。

「なに、その子ども扱い。俺、もう二十八なんだけどっ」

 真っ赤になって悪態を吐いた友哉に、大輔は「ゴメン、ゴメン」と頭を掻く。

「いや、あまりにも変わらないんでビックリしたよ。そっか。友哉ももう二十八か。俺も年喰うわけだな」

 そういって笑う大輔の目尻に、ほんのすこし笑いじわが寄っている。

 友哉より七つ上。いっそ剥げあがったり、見る影もなく太ってくれていたらよかったのに。短く刈られた髪は黒々としていて、ジャージを纏った体躯は一ミリの余分な脂肪も感じさせず、豪快に笑うその笑顔は少年らしささえ漂わせている。男っぷりが増した分、魅力が倍増しているように感じられる。

「そっちこそ、全然変わってないな」

 なんと呼んだらいいのかわからず、友哉はそっけない口調でいう。

「そうか? だいぶオッサンくさくなったと思うがな」

 周囲より頭ひとつぶん以上飛び抜けた長身。スクール名の入ったジャージをこんなにもカッコよく着こなせる男なんて、きっと世界中探したって誰一人としていないはずだ。

「そんなことより、なに奢ってくれんの」

 照れくさまぎれにポケットに手を突っ込み、エサに釣られたゲンキンな従弟を演じてみせる。平均身長をゆうに上回る友哉だけれど、大輔相手だと珍しく見上げる形になる。

「ん、ああ。なんでもいいぞ。お前の喰いたいもの、なんでも喰わせてやる」

「やった。じゃあオコノモがいい」

「ああ、いいよ。『こなもんや』行こう」

 いまは亡き祖母は、お好み焼きのことを『オコノモ』と呼んでいた。どこかの方言なのか、祖母だけがそうなのかわからないが、おばあちゃんっ子だった友哉と大輔のあいだでお好み焼きといえば『オコノモ』だ。

 線路を渡った先にあるちいさな鉄板焼き屋に入る。祖母に連れられ通った店だ。二人で鉄板を囲むのはなんだかとても懐かしくて、それだけで楽しい気分になった。

「で、頼みってなに」

「ああ、そのことだけどな……」

 友哉が鰹節を苦手なのを覚えてくれているのだと思う。大輔は武骨な指をぎこちなく使って、自分の陣地にだけかけながらいう。

「息子の太一(たいち)がな、音楽教室に通いたがってんだ。ほら、お前、昔通っていただろう。ヤマト音楽教室って」

 ヤマト音楽教室。友哉の人生を狂わせた諸悪の根……いや、音楽の楽しさを教えてくれたすばらしい教室だ。

「ん、通ってたけど。息子さん、いくつ」

「四つ」

 そうか、この男にはもうそんな大きな子供がいるのか。――まじまじと目の前の大輔を眺め、友哉は苦い気持ちになった。

「ヤマトって保護者同伴じゃないと通わせてもらえないだろ」

「ああ。幼稚園児に宿題出しても覚えらんないしな」

「四歳から宿題があるのかっ?!」

「あるよ。鍵盤なんか毎日練習しなきゃイミないし」

「ますます俺の手には負えんな。友哉、頼む、このとおりだ。俺のかわりに息子といっしょに音楽教室に通ってくれ!」

「はっ?!」

 突然の申し出に、思わずむせてしまいそうになる。

「な、なにいってんの。嫁は。嫁さんに連れてってもらえばいいだろっ」

「お前は知らないかもしれないけど、ゆう子とは別れたんだ」

「うそだ……」

 思いもよらない言葉に、友哉は絶句した。

「嘘ついてなんになる。なあ、困ってんだ。頼むよ。四月末までに入会しないとグループレッスンには入れてもらえないんだよ」

 どうやら彼の息子、太一には発達障害の傾向があり、自分の興味のあること以外、なかなか取り組もうとしないのだそうだ。

 じっとしていることさえままならない彼が唯一興味を示すのが音楽で、だからこそ、その才能を伸ばしてやりたいのだという。

 大好きな大輔と、彼を射止めた女性との子供。できれば関わりたくないけれど、そんな話をされたら断れるわけがない。

「わかったよ。――報酬は」

「は。ゲンキンなやつだな。金をとるのか」

 呆れた顔をされ、心がチクンと痛む。

 だけどゲンキンな従弟のふりをしなくちゃ、やっていられそうにない。

「友哉、もしかして相当生活困ってんのか。相変わらず細っこいもんなぁ」

 二の腕に触れられ、慌てて払いのけた。

「くすぐったい!」

「ああ、ごめん。お前、くすぐったがりだったな」

 くしゃっと笑うその笑顔に、かぁっと頬が火照る。

 ――どうしよう。やっぱり大好きだ。

 奥さんと離婚したからといって、ノンケの大輔が自分を好いてくれるわけがない。

 そのことがわかっていながらも、友哉は胸を高鳴らせずにはいられなかった。

 

 翌日、友哉はさっそく太一と顔合わせをすることになった。

 待ち合わせ場所のファミレスには、大輔そっくりのかわいらしいちびっこがいた。

 どうやら極度の恥ずかしがり屋らしい。父親のうしろに隠れるようにしてモジモジしている。

「大……輔そっくりだな」

 大ちゃん、といいかけ、慌てていいなおす。七つも年上を相手に呼び捨てもどうかと思うが、ほかにいい呼び方が見つからない。

「そりゃそうだ。俺のガキなんだからな」

 あまりの可愛らしさに、ふらぁっと膝から力が抜けてゆく。その場にしゃがみ込んでしまった友哉を、太一は大輔の足にしがみついたまま、そっと覗き込んだ。

 ニッと微笑みかけると、彼はギュッと大輔の足にしがみつき、友哉から隠れてしまう。

「太一、このにーちゃんな、怖いひとじゃないから大丈夫だぞ」

 大輔は太一の背中を摩るようにしてそういった。

「にーちゃん、て。『オジサン』じゃない? 俺、大輔の従弟なわけだし」

「いや、お前のその外見を見て『オジサン』と思うやつはいないだろう」

 一蹴すると、大輔は太一を抱き上げる。

「ほら、このにーちゃんがお前を音楽教室に連れてってくれるって」

 大輔がそういうと、太一の顔がぱぁっと明るくなった。よっぽど音楽教室に通いたいのだろう。その輝くようなまなざしを見ていると、『そんなにいいもんでもないよ』なんて、とてもじゃないけどいえそうもない。

「ホゴシャといっしょじゃないとダメって」

 発達障害があると聞いていたから、しゃべりは苦手なのかと思ったが、思った以上に難しい言葉がつかえるようだ。

 自分が四歳のころ、『保護者』なんて言葉、知っていただろうか。

「こいつはな、とーちゃんの従弟なんだ。血がつながってんだよ。だからお前にとっても親戚だ」

「シンセキ……?」

「家族みたいなもんってことだ」

 家族みたいなもん。

 大輔の言葉に、ドクンと胸が高鳴る。

 子供を説得するためにいっているだけ。

 わかっているけれど、頬の火照りがおさまりそうになかった。

「カゾク……」

「ああ、親戚のおにーちゃん」

「おにーちゃん……」

 どうやら、『おにいちゃん』という単語に反応したようだ。

「ママ、おにーちゃんはつくれないって」

 おにいちゃんが欲しいと、母親にねだったことがあるのだろうか。太一はじっと友哉を見上げ、親指の爪を噛みはじめる。

「いや、作れないけど、元からいたんだ。太一が知らなかっただけで、ずっといたんだよ」

 やんわりと太一の噛み癖をやめさせながら、大輔はいう。

「おにーちゃん?」

 つぶらな瞳で尋ねられ、友哉は大輔に助けを求めた。大輔は無言のまま、『いいから頷け!』とプレッシャーを送ってくる。

「そ、そう。おにーちゃん。太一のおにーちゃんだよ」

 答えた瞬間、体当たりするように飛びかかられた。ぷにぷにのほっぺたを押しつけられ、よだれか鼻水かわからないなにかが友哉の頬に擦りつけられてしまう。

 見ず知らずの子供にされたら物凄く残念な気持ちになりそうだけれど、この子にされると無性に愛しい。

「にーちゃん!」

 ぎゅっと抱きつかれ、その身体を抱き寄せる。

「とりあえず……なんか食おっか」

 メニューを持ったままぎこちない笑顔を浮かべるウェイトレスさんの視線が気になり、友哉は彼を座席に促した。

 

 その翌週から、友哉は太一といっしょに音楽教室に通うようになった。

「太一くんのお父さん、すっごく若いわねー」

 ほかの保護者にそういわれるたびに、太一はぶんぶんと首を振って、「んーん、おにーちゃんだよ!」と答える。

「えっ、お兄ちゃん?!」

「あ、いや、『親戚の』おにーちゃんです」

 自分で自分のことをおにーちゃんというのもどうかと思うが、大学卒業後、就職らしい就職もせずにこの年まで来てしまったせいか、どうやら友哉はいまだに大学生くらいに見えてしまうらしい。

「太一くんのお兄さん、お仕事はなにを?」

 平日の午後三時からレッスンの付き添いをしていれば、訝しまれて当然だろう。

「あ、えーと……」

 作曲家というにはあまりにもキャリアが残念すぎる。口ごもる友哉に代わって、太一が勝手に答えてしまった。

「にーちゃんはねー、さっきょくかだよ!」

「わ、太一、ダメだってっ」

 慌てて口を塞いだけれど、ひとあし遅かった。保護者だけでなく先生からも、『どんな曲を書いてるんですか』と質問攻めにされた。

「あれ、にーちゃん、おなかいたい?」

 心配そうな顔をされ、太一の髪をくしゃりと撫でる。

「へいき。だけど太一、にーちゃんの仕事は周りにはいわないでくれよ」

「どーして?」

 無邪気な瞳で見つめられ、ショボイ仕事しかしたことがないからだよ、と答えることはできそうにない。

「うーん、照れくさいから、かな」

「にーちゃんテレヤ!」

「ん、太一と一緒だな」

「いっしょ!」

「しずかにー、では、きょうはこのお歌からはじめますよー。ピアノの前にきてください」

 先生の声を合図に、太一は満面の笑みで先生のもとに駆けだしてゆく。

 同年代の子供たちと一緒にニコニコ顔でうたう太一の姿に、友哉は無性に愛しい気持ちになった。

 

 レッスン終了後、友哉は毎回、太一を自分のマンションに連れ帰る。

 太一たちの暮らす部屋にはピアノがないため、友哉の部屋で復習をさせるのだ。この家にも電子ピアノしかないけれど、紙鍵盤やピアニカで練習させるよりはマシだろう。

「みーれーどー、ふぁーみーれー」

 レッスン開始から一か月。

 音名を覚えた太一は、鍵盤を押さえながらドレミで歌うのが大好きだ。

 仕事柄、防音性能だけは恵まれた部屋。ちいさな子供が多少うたを歌ったところで、隣近所から文句がくることもない。

「じょうずになったなー」

 くしゃりと髪を撫でてやると、太一はうれしそうに抱きついてくる。

 大輔そっくりの太一に抱きつかれるたびに、友哉は満たされた気持ちになった。

「きょう、とーちゃんはやく帰ってくるかな」

 太一は玄関を見つめながら友哉に尋ねてくる。

「ん、いつもよりは早いと思うよ。だって、きょうは太一の誕生日だろ」

 ギュッとその身体を抱きしめてやると、太一は照れくさそうに微笑んだ。

「たんじょうびぷれぜんと、買ってもらえるかなー」

「なに頼んだんだ?」

「ぴあの」

「うーん、それは無理じゃないかなぁ」

 離婚後、大輔は実家には戻らずマンションの一室で太一と二人で暮らしている。

 いくら消音機能を装備したピアノが存在するとはいえ、レッスンをはじめたばかりの四歳児に、そんな高価なものを買い与える父親はなかなかいないだろう。

 

「ただいま!」

 想像していたよりも一時間以上はやく、大輔が帰ってきた。

「とーちゃん!」

 さっきまで『にーちゃん、にーちゃん』と甘えていたのに、子供はゲンキンだ。

 太一は友哉の腕のなかから飛び出し、全速力で大輔の元に駆けてゆく。

「おかえりなさーいっ!」

 思い切り飛びかかった太一を抱えあげ、大輔は太一に頬ずりする。

「やー、とーちゃんのほっぺいたい!」

 伸びかけの髭がチクチクするのだろう。太一はむずかって大輔の頬を押し退ける。

「なんだよ、せっかく誕生日プレゼントにピアノ買ってきてやったのに!」

「はっ?! 冗談だろ、大輔」

「ちょっと待ってろよ。運んでくるからな」

 呆気にとられる友哉に太一を託し、大輔は部屋の外に消える。

 そして玄関の扉をかろうじて通り抜けるくらいの巨大な箱を運搬しはじめた。

「ちょ、ちょっと待って……なにしてんの」

「なにってピアノを運んでんだよ。てか、これ重いなぁ」

 重いなぁといって大輔がひとりで運んでいるその箱には、『重さ90kg』と書かれている。ありえない。こんなものを一人で運ぶなんて、運送屋の兄ちゃんだって不可能かもしれないのに。

「な、なに考えてんだっ。これ……ヤマトでもいちばん高い電子ピアノじゃないかっ!」

 確かこれは、安い生ピアノが買えてしまうような高額商品だったはずだ。

「ああ。よくわかんないけど、高いやつのほうがいい音がするんだろ」

 そういう問題でもないけれど、店員はきっとそうやって高いものを勧めるのだろう。

「大体、なんでここに運んでんのっ」

「なんでって……ここに置いておけば、太一のいないとき、お前もコレ、使えるだろ」

 友哉がいま使っているのは、おなじメーカーの製品ではあるものの、いちばん安い古い電子ピアノだ。

 母を亡くし、一軒家からマンションに引っ越したとき、アップライトピアノは売ってしまった。それ以来、友哉はずっと本家にある祖母のピアノを借りて練習していたのだ。

「お前、すげーピアノ好きだったじゃん」

 そんなふうにいわれ、涙腺が緩んでしまいそうになる。

「だからってこんな高価なものっ……」

「こいつを音楽教室に連れてってくれてる礼だ。――お前のおかげで、太一、めちゃくちゃ明るくなったんだよ」

 母親と離れ離れになって以降、太一は時折、酷くふさぎこむことがあったのだという。

 どんなに起こしても布団から出ようとせず、お気に入りのクマのぬいぐるみを抱きしめたまま、まったくいうことをきかなくなる。

 音楽教室に通い始めてから、そうやって駄々を捏ねて幼稚園を休むことがなくなったのだそうだ。

「それは……俺じゃなくて音楽教室のおかげだろ」

 大好きな音楽と出会って、すこしずつ母を失った喪失感を紛らわす術を覚えたのだろう。かつての友哉がそうであったように、太一もうたをうたい、鍵盤を弾くことで癒されているのだ。

「お前には感謝してるよ」

 そんなふうにいわれ、なにも答えることができなくなる。

「すっごいおっきいねー。ぴあの、おっきーね!」

 巨大な箱をちいさな手のひらですりすりとさすり、太一が歓声をあげる。

「ああ、だけど組み立ては後でな。さきに飯食おーぜ。腹減って死にそうだ」

 スクール名の入ったジャージを脱ぎ捨てながら、大輔がいう。ジャージの下から現れた逞しい身体に、微かにただよう塩素と汗の匂いに、ジワリと身体の奥底が熱くなった。

 

「わりーな、毎晩ごちそうになって」

 レッスンの日だけでなく、いつのまにか太一は毎日ここで鍵盤の練習をするようになった。そしてこの部屋で大輔の帰りを待ち、友哉のつくった夕飯を食べる。

「おー、きょうは豪勢だな!」

 うれしそうに顔を綻ばせる大輔の姿に、ドクンと胸が高鳴る。

「太一の誕生日、だからな」

 煮込みハンバーグにかにクリームコロッケ、ナポリタンに鶏のからあげ。太一の好物に紛れて、大輔の好きなカツオのたたきも用意してある。

 父との二人暮らしが長かったため、料理の腕前だけは自信がある。

 大輔も太一もうれしそうに食べてくれて、友哉はそんな二人を眺めているだけで胸がいっぱいになってしまった。

 

 その夜、どうしても今すぐピアノを見たいという太一に押しきられ、友哉と大輔は夜遅くまでかかって設置できるスペースを捻出し、電子ピアノを組み立てた。

 太一は途中で眠ってしまい、結局、完成を見れずじまいだ。

「アイツも寝ちまったし、たまにはいっしょに呑もうぜ」

 まだ五月だというのに、日中は真夏のような暑さだった。リビングの窓を開け放っているものの風はほとんどなく、大輔の額にはうっすらと汗がにじんでいる。

「明日、朝練ないの?」

 支配人でありながらも、選手コースのコーチとして直接子供たちを指導している大輔。

 朝練に大会の引率にと日々せわしなく働いている。

「あるけど、すこしくらいなら次の日に持ち越すようなこたねぇよ」

 酒豪の大輔は、いつも親戚の集まりでも皆の輪の中心にいた。本家の跡継ぎというだけでなく、周囲の者を惹きつける魅力に溢れているのだ。

 大人たちに混じって大酒を飲んでいた彼と違い、友哉は賑やかな酒盛りが苦手で、いつも子供たちばかりが集められた席でひっそりしていた。

「こんなふうに二人で呑むの、はじめてだな」

 友哉も大人になったんだなぁ、と、大輔は感慨深げな顔をする。

 高校卒業後、都内の競泳強豪大学に進学した彼は、この街を出て寮で暮らしていた。

 競泳雑誌に掲載される国内ランキング。彼の活躍をうれしく思いながらも、手の届かない遠い場所にいってしまったみたいですこしさみしかった。

 もちろん、逢えばいつだって大輔は昔と変わらない笑顔で、友哉を可愛がってくれた。 

 素直に彼の夢を応援できない自分を、友哉はとても醜い人間だと思った。

 自分が、「自分だけの『大ちゃん』でいて欲しい」なんて馬鹿なことを考えていたせいで彼が日本代表になれなかったんじゃないかと、本気で思ったこともある。

「どうした。仕事で疲れてんのか」

 ぬっと大きな手のひらが、目の前を横切る。

 頬に触れられ、ドクンと心臓が跳ねた。

「べ、別に疲れてなんてないっ……!」

 慌ててその手を振りほどき、つまみを取りに行くふりをしてソファから立ちあがる。

 父が土産に買ってきてくれた南米の酒を煽るように呑む大輔とは対照的に、友哉は缶チューハイをちびちび舐めているだけだ。

「この酒、うまいな。孝也(たかや)おじさん、次、いつ帰ってくるんだっけ」

 グラスを掲げながら、大輔がいう。

「来年の夏。今回も二年契約らしいから」

「そっか。すげぇな、定年後にボランティアで世界を飛び回るなんて」

 自分のことを褒められたわけでもないのに、なんだかもぞもぞと落ち着かない気分になる。

「ん。あ、そうだ。冷蔵庫に笹かまがあるんだ。食う?」

「お、いいな。どうしたんだ。仙台にでも旅行に行ったのか」

「ううん、このあいだ楽曲提供したアイドルグループが、仙台ローカルの子たちでさ」

 新曲のお礼に、といってたくさん送ってきてくれたのだ。

「すげーな。アイドルの曲、書いてんのか」

 何十万枚も売れるような全国的に有名なアイドルなら、そりゃすごいと思う。けれども友哉の担当するアイドルはどんなに売れても数千枚、大半が百枚単位でしか売れない超マイナーな子たちばかりだ。

 そんな愚痴、大輔にだけは聞かせたくなかったのに。酔いのせいだろうか。友哉は気づけば本音を露呈してしまっていた。

「正直、もう潮時かなって思ってる」

 ちっとも大きな仕事がまわってこないこと。やっとのことでまわしてもらった小さな仕事も、思うように結果が出せないこと。

 自分には作曲の才能なんてないかもしれない。

 誰にも打ち明けたことのない弱音を晒した友哉のほっぺたを、大輔はむいっと掴んだ。

「なーにが『才能ないかもしれない』だ。馬鹿いうな。才能ないやつがどうやって音大に行くんだ」

「や、俺の行ってたとこなんて、専門学校に毛の生えたようなとこだから……っ」

「だけど同じ大学出身で活躍してる人間だっているんだろ」

「そ、それは……まあ、いるけど……」

 大輔の指がほっぺたから顎に移動する。ぐっと上向かされ、じっと瞳を覗き込まれた。

「五年や六年やっただけで馬鹿いってんじゃねーよ。俺がいったい何年、競泳にしがみついてたと思う」

「う……」

 0歳から泳ぎはじめた大輔は、成長するにしたがってメキメキと頭角を現し、ジュニア時代は全国的に名を馳せるスイマーだった。

 特待生として高校に進み、大学も競泳で進学した。大学卒業後、世界クラスの舞台には立てなかったものの、実業団の選手として三〇歳になるまでひたすら泳ぎ続ける日々を送っていたのだ。

「お前、いくつから作曲してる」

「本気で取り組みはじめたのは中二、かな」

「まだ十年ちょっとじゃねぇか。あと二十年ぐらい踏ん張らないでどうする」

「や、二十年って。そんなに踏ん張ったら、その後の人生やり直しきかないしっ」

 反論する友哉の両頬をムギュッと押し潰すようにして大輔はいう。

「そんときゃ俺が雇ってやる。ウチでもジジイの不動産屋でも、働き口なんぞ幾らでもあるだろうが」

「う……」

 確かにそうなのだ。祖父が経営している不動産屋と、祖父が道楽のために始め、今では本業より大きくなったスイミングスクール。

 本家の長男である大輔と違い、友哉は外孫ではあるものの、望みさえすれば一族の営む事業に雇い入れてもらうことは可能だろう。

「言い訳してねぇで死ぬ気で取り組めよ。大体お前、専攻はクラシックだろ。ヒット曲じゃなくてもっと普遍的な、長い間受け継がれるような曲を作りたかったんじゃないのか」

「それはそうだけど……」

 友哉が元々つくりたかったのは、童謡や唱歌。ちいさな子供からお年寄りまで親しみをもって口ずさめるような楽曲だ。

 けれども今の時代、新作の童謡、唱歌の発表の場はとても限られており、ポピュラー以上に狭き門なのだ。

「そういえば来年の七夕は七十七回目らしいな」

 大輔はそういうとポケットからタウン誌の切り抜きらしきものを取り出した。

「七十七回を記念して、『たなばたのうた』のCDを作るんだと。今年の七夕まつりで、そのための楽曲を募集するらしいぞ」

 応募資格は市内在住者または在勤者。ひとりで作詞作曲を行っても、クラスや職場単位、家族で行ってもいいのだという。

 最優秀作品はCD化され、七夕まつりのテーマソングとして使用されることになるのだという。

「締め切りは来月の二十日。採用されれば第百回まで、ずっと使い続けて貰えるそうだ」

「うーん……そういうのはプロが参加するものじゃなくて……」

「プロアマ問わずって書いてある」

 びし、と記事の一文を指さし大輔はいう。

「だけど歌詞なんて書いたことないしっ」

「歌詞は俺と太一で考える。おまえは曲を作れ」

「太一と大輔が……?」

「ああ、逃げんな。おまえはここぞってとき、いっつも仮病つかって逃げやがるからな」

 結婚式のことをいわれているのかと思い、ドクンと心臓が跳ね上る。けれども大輔が具体例に出したのは、スイミングの記録会や子供のころに受けたピアノのコンクールのことだった。

「仕方ないだろ。勝負運ないんだよ、俺」

「バカヤロウ。勝負に運もへったくれもあるか! 勝利ってのは力づくで掴み取るモンだ」

 いかにも体育会系然とした口調でいうと、大輔は手を伸ばし、ぺちぺちと友哉の頬を叩く。

「どうせお前のことだから、プロが素人のなかに入って、それでも負けたら恥ずかしいとか思ってんだろ」

 図星を当てられ、友哉はなにも言い返すことができなかった。

「いいから一度くらい、がむしゃらに頑張ってみろ。俺はお前の作った歌が町中のやつらに愛されるところ、見てみてぇよ。『すげぇだろ、この曲、俺の従弟がつくったんだぜ』って、みんなに自慢してまわりたい」

 大輔は手を伸ばし、くしゃりと友哉の髪を撫でる。

 だいすきな手のひら。その心地よい感触に、涙が溢れてしまいそうになる。

「太一にとっても凄くいい記念になると思うんだ。あいつ、お前のこと本気で尊敬してるからな」

「尊敬なんて……そんなっ」

 ぶんぶんと首をふる友哉のほっぺたを大輔はむにっとつねる。さっきからスキンシップが多すぎておかしくなってしまいそうだ。

「『にーちゃんは魔法使いだ!』っていつもいってるよ。どんな曲でも、お前に伴奏をつけてもらうとキラキラ楽しい曲になるって」

「そんなのは……そういう職業だから……」

「あのな。一般の人間から見たらそれはすげぇ能力なんだよ。すこしは胸を張れ!」

 バシッと背中を叩かれ、思わずよろめきそうになる。とっさに腕を掴んでくれた大輔の手のひらが、物凄く熱い。

「ぁ……」

「とにかく、期限まであと一か月ないんだ。予選を突破した作品は七夕の会場で流されるらしいからな。ちゃっちゃといい曲作れよ」

 七夕会場に設けられた特設ステージで一般のお客さんから投票を募って最優秀賞を決めるのだという。

「わ、そんなの絶対ムリっ。勝てる気がしないっ」

「ばーか。やる前からなにいってんだ!」

 肩に手を回して引き寄せられ、プロレスの真似事みたいなことをされる。もちろん力は加減してくれていて痛くはない。

 だけどぴったりと肌が重なり、Tシャツの薄い布越しに大輔の熱が生々しく伝わってきて、心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなった。

「大ちゃん……」

 思わず昔の呼びかたで呼んでしまった。

「なんだ」

 大輔は友哉を背後から抱きしめたまま、やさしい声音で問う。

「――ありがと」

 わざわざ自分のために、この記事を切り抜いてきてくれたのだ。

 ローテーブルの上に置かれたしわくちゃの切り抜き。指先がすこし震えて、涙がこぼれてしまわないように必死で上を向く。すると大輔は友哉の額に顎をくっつけるようにして、ギュッと友哉を抱く腕に力を籠めた。

「頼りにしてんぞ。友哉先生」

「わ、馬鹿にしてんだろっ!」

「してねぇよ。本気でいってんだ」

 むくれる友哉を慈しむような眼差しで見下ろし、大輔はいう。

「そういうの、太一にとっても凄ぇいい経験になると思うんだ。だからさ、頼むよ、友哉」

 息子に頬ずりしたりするのの延長なのだろうか。大輔はそういうと、友哉を抱きしめたまま、友哉の額を顎でぐりぐりした。

「チクチクするからやめろー」

 照れくさまぎれに悪態をつき、その腕から逃れる。

「おー、そんなことより、友哉、酒だ、酒。おかわりもってこい!」

「知るかよ。自分で持って来いよ!」

 やっぱり息子の誕生日というのはうれしいものなんだろうか。

 大輔はいつになく上機嫌で浴びるほど酒を呑み、そしてだらしなく寝潰れた。

 

「おい、そんなとこで寝たら風邪ひく」

 ソファのうえでいびきをかく大輔の肩を揺さぶると、むにゃむにゃと寝言をいいながら抱き寄せられた。

 息子の太一と勘違いしているのだろうか。大きさが違いすぎるだろう、とツッコミを入れかけたそのとき、ほっぺたを手のひらで包みこまれた。

 そして次の瞬間、唐突に視界が陰る。

「ん――――っ」

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

 唇に宛がわれた熱くてやわらかいもの。それが大輔の唇であると理解するまで、しばらく時間がかかった。

 ――うそだ。なんでこんなこと……っ。

 酔っぱらうと男女構わずキスしまくるキス魔になるやつがいるというが、大輔にはそんな癖はなかったはずだ。

 蕩けそうに熱い唇に食むように口づけられる。くちゅりといやらしい音が響いて、濡れた内唇が友哉を包みこんだ。

「ぁっ……!」

 ぞわりと全身に得体の知れない感覚が駆け巡る。気づけば膝から力が抜け、大輔の逞しい身体に身を委ねてしまっていた。

「ゆう……」

 掠れた声で大輔が友哉を呼ぶ。

 自分は、夢を見ているのだろうか。

 わからない。

 わからないけれど……。夢でもいいから、このまま覚めないで欲しい。

 ギュッと抱きしめられ、キスがより深くなる。唇よりもやわらかな熱く濡れたなにかが、友哉の口内に割りいってくる。

 それが大輔の舌だということに気づいても、友哉は抵抗しようとは思わなかった。自分から唇を開き、その侵入を受け容れる。

「ぁ……ぅ、んっ……」

 うまれてはじめて感じる舌と舌が絡み合うその感触に、脳髄まで痺れてしまいそうな錯覚に陥る。なにもかもどろどろに溶けて、なくなってしまいそうだ。

 大輔、こんなにヤらしいキスするんだ……。

 競泳一辺倒で、それ以外のことなどなんの関心もなさそうだった大輔。

 結婚していたのだから当然といえば当然だけれど、まさかこんなにもキスがうまいなんて思いもしなかった。

 ねっとりと絡めとられ、吸い上げられるうちにすっかり昂ぶり、いまにも達してしまいそうになる。

「ぁ、も……ダメっ……」

 意識を持っていかれそうになって、友哉は慌てて彼の背中にしがみついた。

「――お前のことが忘れられないんだ。ゆう……お前のことが……」

 絞り出すようなその声に、友哉はふと我にかえった。

 ゆう。

 一瞬、自分のことかと勘違いしてしまったけれど、どう考えても違う。

 彼の前妻は『鹿島ゆう子』。元シンクロナイズドスイミング日本代表で、引退後はタレント、解説者として活躍している美しい女性だ。

 さぁっと血の気がひいてゆく。

 さっきまで嬉しくて仕方がなかった大輔の手のひらの感触が、急に残酷なものに思えてくる。

 ふたたび唇を近づけてくるその顔を押しのけ、友哉は彼から身を離した。

 ――馬鹿みたいだ。ひとりで勝手に舞い上がって……。

 好いてもらえるはずなんてないのに、馬鹿な夢を見てしまった。

 どちらのものとも知れぬ唾液で濡れた唇を手の甲で拭い、ふらつく足で立ち上がる。

 友哉は大輔の大柄な身体にブランケットをかけると、太一の眠る自分の寝室へと戻った。

 

 翌朝目覚めると、何事もなかったかのように大輔も太一もいなくなっていた。

 机の上には不格好な文字の並ぶ置手紙と、夕飯代のつもりと思しきお金が置かれている。

『太一の誕生日、いっしょに祝ってくれてありがとな。昨晩もメシ、うまかった。太一も大喜びだ。七夕の曲の件、頼んだぞ』

 やさしい笑顔。大きな手のひら。自分を抱きしめ、愛しげに奥さんの名を呼ぶ声。

 置手紙を手に、友哉は声を押し殺してすこしだけ泣いた。

 

『ゆう』

 あんなに愛しげな声、いままで一度もきいたことがなかった。

 昨夜の大輔の声を思い出し、涙腺が緩んでしまいそうになる。

 馬鹿だ。ノンケ相手に期待するからいけないんだ。

 どんなにいいきかせても、息苦しさは収まりそうにない。

 うまれて初めてのキスだった。

 中三のとき、眠っている大輔にこっそりと口づけたあの夜のことをカウントに入れなければ、正真正銘、ファーストキスだ。

 別れた奥さんに向けたキス。

 自分の想いが報われないことを思い知らされたみたいで、無性に苦しくなる。

 七夕の曲をつくらなくてはいけないのに、ちっとも集中できそうにない。

 今夜は商工会の会合らしく、大輔はいつも以上に帰宅が遅くなるのだという。ウチに預けてくれてもよかったのに、『作曲に専念しろ』といって、彼は太一を実家に預けた。

「太一がいないと、妙に静かだな」

 ここのところ三人で過ごすことが日常化していて、ひとりきりの部屋がなんだかとても味気なく感じられる。

 こんな夢のような日々、永遠に続くわけがないのに。ずっと続けばいいなんて思い始めている自分がいる。

『ゆう』

 あんな声で呼ぶのだ。いまもまだ奥さんのことを愛しているのだろう。一度は愛し合って結婚した相手。もしかしたらヨリを戻すことだってあるのかもしれない。

「太一からしたらその方がいいんだろうな」

 大輔は太一に、『お前の母親は病気で死んだんだ』と嘘をついているようだ。

「生きてるって知ったら、会いたいだろうな」

 テレビで見たことのある美しい彼の前妻と、彼らが幸せそうに連れ添っているところを思い浮かべる。

 あまりにも似合いのその姿に、具合が悪くなってしまいそうだ。

 ぐったりと作業机にうなだれたそのとき、スマートフォンの着信音が響いた。

「あ、篠崎さんからだ」

 篠崎というのは弁護士法人の代表で、以前、彼の事務所のCMを作らせてもらったのが縁で、それ以来、時折食事に誘ってくれたりしているひとだ。

 弁護士という仕事柄、地元企業とのつながりも強いのだろう。彼の紹介でいくつか別の仕事も回してもらうことができた。

 四十代半ばくらいだろうか。温厚でとても紳士的なひとだ。

「もしもし、黒瀬です」

「ああ、黒瀬くんかい。悪いね、突然電話してしまって。仕事中かい?」

「いえ大丈夫です」

 穏やかな声音に、ささくれだった気持ちがじんわりと癒されてゆく。

 駅前のバーで呑んでいるらしく、今から来ないか、と誘ってくれた。

 あまり酒には強くないけれど、正直、きょうは呑みたい気分だ。友哉は二つ返事で頷いて、彼の待つバーヘと向かった。

 

「やあ、ひさしぶりだね」

 カウンター席に座り、軽く手をあげる彼は、今夜もとても上品な装いをしている。

 サーフィンをしているらしく、背が高くがっちりとした身体つきをしており、日に焼けたその顔だちは、ほんのすこしだけ大輔に似ている。――そのせいもあって、友哉は彼と食事をしたり、酒を呑んだりするのが好きだ。

 さりげなく椅子を引いてくれた彼に「ありがとうございます」と頭をさげ、隣の席に座る。ふわりと微かな香水が漂い、肩が触れ合うほどちかい場所に彼の熱を感じた。

 普段ひたすら引きこもって仕事をしているから、こうして外の世界のひとと接するのはよい刺激になる。

 篠崎はとても話がうまく、口下手な友哉の言葉もうまく掬い上げてくれる。

「きみの作る曲は本当にいいね。――あのCMのおかげで、たくさんのひとがウチに依頼をしてくれたんだよ」

 そんなふうにいわれると、お世辞だとわかっていてもなんだか嬉しい気持ちになる。

 呑みすぎないようにと思っていながらも、うっかり何杯もグラスをあけてしまった。

 

 店を出るころには足元がふらついていた。

「大丈夫かい、黒瀬くん」

 篠崎に支えられ、かろうじて身を保つ。

「だいじょ……ぶです」

 そう答えたものの、ふらぁっと視界が揺らいでしまう。気づけば彼の胸にぐったりと身を預け、肩を抱かれるようにして歩いていた。

「すこし休もうか。このままじゃタクシーで帰るにしたって危ないよ」

 篠崎の声が身体に響く。深みのある香水の匂いに、意識が溶けてしまいそうだ。

「そこのホテルでいいかな」

 路地裏に建つラブホテルの前で、彼は囁く。

「ぇ、あ、あのっ……」

 慌てて逃れようとしたそのとき、聞き覚えのある怒声が響いた。

「なにしてんだ、友哉!」

 振り返ると、そこには鬼のような形相をした大輔の姿があった。

「や、えっと、これは……っ」

「きょうは大人しく家で曲作るんじゃなかったのか。え?」

 険しい声音で問い詰められ、思わず後ずさる。

「なんだね、きみは。こんなところで突然大きな声をあげて。黒瀬くん、嫌がってるじゃないか」

「嫌がってるじゃないか、じゃない。大体オッサン年甲斐もなく、なにウチの友哉に手ぇ出してんだ。え? アンタ、既婚者じゃないのか?」

 篠崎の左手首を掴むと、大輔は彼の薬指にはまる指輪が見えるよう、友哉の顔に近づけた。

 ラブホテルやキャバクラ、スナックの立ち並ぶいかがわしい裏通り。突如起こった騒ぎに、やじ馬たちが集まりはじめる。

「おい、ちょっと待て、友哉!」

 待てといわれて待てる筈がない。友哉は大輔の制止を振り切り、全速力で逃げ出した。

 酔いのせいでふらつく足元。バクバクと暴れる心臓。それでも止まるわけにはいかない。

「こら、友哉、待てっていってるのが聞こえないのかっ」

 どんなに必死で走っても、元アスリートの大輔に敵うはずがない。あっというまに追いつかれ、腕を掴んで引き留められた。

「離せっ……離せよっ!」

「離せよ、じゃない。あの男はなんだ。お前、まさか不倫してるんじゃないだろうなっ」

 物凄い形相で睨みつけられ、友哉はぶんぶんと首を振った。

「じゃあ、なんであんなオッサンとラブホテルに入ろうとしてたんだ」

 腕を掴んだまま問い詰められ、どうしていいのかわからなくなる。 

 どうしよう。同性愛者だってことがバレてしまった。気持ち悪いって思われる。ヘンタイだって思われる。――もう、二度とふつうに接して貰えなくなる。

 追い詰められた友哉はパニック状態に陥り、あろうことか、とんでもない嘘を吐いてしまった。

「なにいってんだ。お前が俺を襲ったくせに」

「なに……?」

 大輔の顔から血の気がひいてゆく。友哉は愕然とした表情の彼に、こう続けた。

「覚えてないのかよ。太一の誕生日の夜だよ。大輔、酒に酔っぱらって俺のこと犯しただろ」

 ほんとうはキスされただけだ。それなのに友哉はでたらめな嘘をでっちあげた。

「お前にレイプされてから、男に抱かれないと眠れない身体になっちまったんだ」

 我ながら拙い嘘だと思う。すぐにバレるような馬鹿げた嘘だ。――それなのに大輔は、その嘘を信じてしまった。

 突然アスファルトに額を擦りつけるようにして彼は土下座をする。

「すまないっ……友哉、俺はとんでもないことをっ……!」

 金曜の夜。繁華街はたくさんのひとたちで溢れかえっている。大柄な男が地べたに這いつくばって土下座をする姿に、またもやギャラリーが集まりはじめた。

「い、いいから、恥ずかしいからやめろよっ」

 その腕を掴んで引きあげようとすると、逆に思い切り引っ張られた。

「わ、ちょ、なにっ……!」

 なにがなんだかわからないうちに、引きずられるようにして先刻のホテルの前まで連れて行かれる。そして気づけば抱きかかえるようにして部屋に連れ込まれていた。

「な、なに考えてんだっ、男同士でっ」

 地元のラブホテルに男同士で入るなんて、どう考えたって常軌を逸している。おまけに二人はいとこ同士で、大輔はノンケなのだ。

 部屋に入るなりベッドに押し倒され、顎を掴んで上向かされる。

「あの男と寝たのか」

 噛みつかんばかりの勢いで問いただされ、友哉は言葉に詰まった。ほんとうは寝たことなんて一度もないけれど、先刻の話の流れだと、寝たことにした方が自然だろう。

「妻帯者と寝たのか、と聞いてるんだ。――お前は相手の奥さんや子供のこと、考えたことがあるのかっ!」

「――大輔には、関係ない」

「関係なくないっ。俺のせいなんだろうが。お前がそんなふしだらなことをしたのは、俺がお前を犯したせいなんだろっ」

 あまりにも凄い形相で睨まれ、いまさら嘘だとはいえそうにない。

 いたたまれなくなって目を伏せた友哉に、大輔は噛みつくようなキスをした。

 この間、『ゆう』と呼んだときとは比べ物にならないくらい荒々しくて、乱暴極まりないキスだ。

 顎を掴まれたまま、逃れられないようにベッドに押さえつけられ、熱い舌で口内を激しく蹂躙される。

「んっ……ぁ、ぅっ……」

 なにもかも奪い尽くす暴風のようなキスに、ベッドに横たわっているのにどこかに吹き飛ばされてしまいそうな錯覚に陥る。

 友哉は大輔の背中に抱き縋ってその嵐が去るのを待った。

 けれどもどんなに待っても、嵐は収まる気配がない。それどころか友哉の服を剥ぎ取り、丸裸にしてしまう。

「や、め、ちょっと待って、大輔。お前、酔っぱらってんのか。ふざけん……ぁっ……!」

 首筋に喰らいつくようにして片膝を高く上げさせられる。熱い昂ぶりを押し当てられ、それが冗談ではないのだということを今更のように思い知らされた。

「二度と逢わないと誓えよ。あの男と、二度と逢わないと誓え」

 ぬらりと先端で乾いた窄まりをなぞるようにして凄まれる。

「あの人は仕事のクライアントだか……ぁっ!」

 ぐっと圧し掛かられ、引き裂かれそうな痛みが走った。

「お前は仕事の相手なら仕方なく股を開くってのか。え? いつからそんな下種な男になった」

 ぐいぐいと押し付けられ、焼けるような痛みに苛まれる。

「む、り。ローション、つけないとっ。このままじゃ無理だからっ……」

 叫ぶようにいうと、大輔が動きを止める。

「なんだ、ローションって」

「この間もつけただろ」

 友哉はドキドキしながら嘘を吐き、室内に備え付けられた自販機でローションの小瓶を購入した。そしてそれを自分で塗ったくり、ベッドに横になる。

 中断されれば冷静になってやめるだろう。そんな友哉の予想は外れ、大輔は勢いよく圧し掛かってきた。

 愛撫もなしに宛がわれたモノ。あまりの巨大さに背筋が震え、友哉は心にもない悪態を吐いた。

「愛撫もなしにツッこむなんて、よくそんなセックスで奥さん、満足してたね。――あ、そっか満足できないから別れたのか」

 なんて醜い言葉を吐いているのだろう。自分でも自分が嫌になるけど、止まらなかった。

「あのひと、もっと優しいんだけど。思いっきり蕩かせて気持ちよくしてくれ……んっ」

 汚い煽り文句をキスで塞ぎこまれ、熱く猛ったモノで乱暴に擦り上げられる。

 酒臭い吐息。酔っているからこそ、こんなバカげたことをするのだろうか。

 従弟同士。おまけに、大輔にはあんなにも大切にしている可愛い太一がいる。

 勢いで寝てしまえば、絶対に後悔することになるだろう。

 だけど……ごめん。止められない。

 どんな理由でもいい。

 どんな理由でもいいから……大輔に抱かれたい。

 キスが激しくなる。脳天まで痺れるような激しいキスだ。何度も口づけられ、掠れた声で名前を呼ばれた。

「友哉……っ」

 ちょっとだけ似ている。

 あの日、『ゆう』と呼んだあの声と。

 友哉は目を閉じ、荒々しく息を弾ませながら激情をぶつけてくる大輔の乱暴な愛撫に身を任せてしまった。

 

 翌朝、目覚めると大輔の姿はなかった。

 枕元にホテル代と思しきお金と、『二度とあの男とは逢うな。ヤリたくなったら俺にいえ!』と書かれたメモが置かれている。

「ヤリたくなったら俺にいえ、って。ばか、いえるわけないだろっ……」

 置手紙をくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に放り投げる。

 全身に激しい痛みと気怠さを感じながら友哉はベッドから這い出し、シャワーを浴びてホテルを後にした。

 

 それ以来、大輔は毎晩のように友哉を求めてくるようになった。

『あの男と逢ってないだろうな』と念を押し、太一が寝静まったあと、友哉を抱く。

 酔っぱらっていないせいか、最初の夜ほど乱暴にはしてこなかった。むしろ照れくさくなってしまいそうなくらいに、やさしく抱いてくれる。

「ゆうや、痛く、ないか」

 繋がったままギュッと抱きしめられ、胸が張り裂けそうになる。

 ただ単に、不倫をやめさせたいから抱いてくれているだけ。

 そこには何の感情もない。

 そのことがわかっていても、逞しいその胸に抱かれると、胸を焦がさずにはいられない。

「ん、へいき……だけど明日も朝練……ぁっ」

 奥さんと別れてから、よっぽど飢えていたのだろうか。

 リビングの床に敷いた布団の上で、大輔はじっくりと時間をかけ、執拗に友哉を責めつづける。

「んっ……ぁ、もっと、痛く、していいよ」

 はやくフィニッシュさせて眠らせてあげたい。朝練の指導をするため、大輔は明日の朝も五時半には起きなくてはならないのだ。

「痛くなんか、してたまるかよ。いいからじっくり味わわせろ……っ」

 大輔は友哉の頬を大きな手のひらで包みこみ、掠れた声でささやく。

 頬に、唇に額に、首筋に数えきれないくらいたくさんキスをしながら、ゆっくりと貫き続ける。

「ぁっ……だめ、もぅっ……!」

 続けざまに絶頂を与えられ、友哉は堪えきれず意識を手放してしまった。

 最後までしっかり覚えていたいのに、気づけば大輔は朝練に出かけていて、布団のなかには一人きりだ。裸のまま眠ったはずなのに、全身をきれいに拭き清められ、きっちりとパジャマまで着せられている。

「また途中で寝ちゃった……」

 昨晩の熱の名残を感じながら布団を抜け出し、朝ごはんをつくる。

 出来上がるころには大輔が帰ってきて、太一を起こし、三人で朝ごはんを食べるのが日課だ。

 申し訳ないことをしている。

 太一にも、伯父さん伯母さんにも、誰にも顔向けできない。

 だけど周囲に明かすことのできないその生活が、友哉はすこしでも長くつづけばいいと思った。

 

 大輔にせっつかれながらなんとか七夕の曲を完成させ、無事に応募することができた。

 審査の結果は七夕まつり開催中に発表される。太一のために、自分の持てる力をすべて注ぎ込んで頑張った。

 受賞できる気がしないけれど、出来上がった曲を太一はとても気にいってくれているから、それだけでも十分、作った甲斐があったと友哉は感じている。

「ささのはにーねがいーをこーめーて」

 大きなこえでそのうたを歌う太一に、音楽教室の先生が「それ、誰のうた?」と尋ねる。

「んとねー、にーちゃんがつくったうた!」

 太一は満面の笑みでそう答えた。

「わ、ばかっ、恥ずかしいよっ」

「もしかして『七夕のうたコンテスト』に応募されたんですか?」

 先生に尋ねられ、友哉が答える前に太一が暴露してしまう。

「うん。一等賞になるの!」

「ならないよっ、太一、いいから静かにしなよっ。レッスンはじまっちゃうだろっ」

 慌てて太一の口をふさぎ、席に座らせる。

「はーい、じゃあきょうは、まず『七夕のうた』をうたいましょうねー」

 よその地域ではどうなのかわからないが、この地では『七夕』はクリスマスの次くらいに特別なイベントだ。

 六月も半ばになると町じゅうに七夕まつりのポスターが貼られ、駅前の商店街には笹飾りを立てるための支柱が立ち、誰もがソワソワしはじめる。

 そんな子供たちの心理を汲んでいるのだろう。先生はテキストには載っていない七夕のうたをレッスンで取り上げた。

 そしてレッスンの最後に、生徒たちひとりひとりに短冊を配る。

「七夕当日のレッスンはお休みになります。来週のレッスンまでにこの短冊に願いごとを書いて持ってきてくださいね」

 手渡された短冊を電子オルガンのうえに置き、太一はエンピツを握りしめてなにかを書いている。

 友哉が幼稚園のころなんて自分の名前くらいしか書けなかったけれど、太一はぎこちないながらもひらがなで文章をつづることができるようだ。

『ままにあえますように』

 記された文字を目で追い、友哉はギュッと心臓を鷲掴みにされたような気分になった。

「太一、ママはもう天国に行っちゃったんだよ」

 震える声で、友哉はいった。

 次のレッスンの子たちが教室に入ってきてしまう。はやく教室を出なくてはいけない。

 椅子から立ち上がらせようとして、太一は火がついたように泣きだしてしまった。

 どんなに抱きしめても、なだめても泣き止まない。困惑する友哉と泣き叫ぶ太一の元に、音楽教室の受付の女性が駆けつけてきた。

 四十代後半と思しきその女性は子供の扱いにとても慣れているのだろう。彼女にあやされ、太一はすこしずつ大人しくなりはじめる。

 ショックだった。

 血の繋がりもあるし、自分に懐いてくれているとばかり思っていたのに。

 普段、出席カードを出すときに顔をあわせるだけの受付の女性のほうが、友哉より上手に太一をなだめることができるなんて。

 太一は手足をばたつかせて泣きじゃくり、その女性に抱き縋るようにして眠ってしまった。

「仕方がないわ。どんなにお父さんやまわりのひとたちがよくしてくれても、おさない子供にとってどうしても『お母さん』は特別なものだからね」

 涙とよだれでぐちゃぐちゃになった短冊を友哉に手渡し、彼女はいった。

 その言葉に他意がないことはわかっている。

 わかっているけれど、どうしても指先の震えが止まらなかった。

 

『ママに会いたい』

 それ以来、太一はうわごとのようにそういい続けるようになった。

 大輔がいるときには、決していわない。

 友哉とふたりきりのときだけ、そう繰り返すのだ。

「ママはもう天国に……」

「うそだよ、知ってるもん。幼稚園でほかのおうちのママたちがいってた。ママはフリンして、おうちを追い出されたんだよっ」

 誰が四歳の子供に、そんな残酷なことを告げたというのだろう。友哉はあまりの怒りに指先が震えるのを感じた。

「それにね、ぼく、見たよ。テレビで見たもん。ママ、テレビに出てた!」

 彼の母親は元シンクロナイズドスイミング日本代表。テレビ番組に解説者として出演しているのを見てしまったようだ。

「サイタマって遠い?」

「遠いよ。どうして」 

 唐突に脈絡のない地名を出され、友哉は首を傾げる。

「サイタマに行く!」

「はっ?!」

「サイタマに行くもんっ!」

 そう叫ぶと、太一は音楽教室のレッスンバッグにお気に入りのぬいぐるみやグチャグチャになった短冊を詰めはじめる。

「ちょっと待て、太一」

「やだ! 行くもん! サイタマに行くっ」

 埼玉に彼の母親がいるのだろうか。友哉は暴れ狂う太一を抱きしめたまま、スマホで大輔の元妻に関する情報を検索した。

 Wikiの彼女のページに、現在、埼玉県内の大学で指導者として働いていることが記されている。

「とーちゃんが悲しむぞ」

 友哉の言葉に、太一は「ぼくはもっとかなしい!」と叫んだ。

 もっとも過ぎる言葉に、なにも返せなくなる。

 正直、太一の気持ちはわからなくなかった。

 母が亡くなった後も、友哉は何度も彼女の入院していた病院に行った。

 葬式にも出た。お骨も拾った。

 それでもベッドの上で母が出迎えてくれるんじゃないかと思って、何度も、何度も逢いに行ったのだ。

 母のいたベッドには別の女性がいて、彼女が別の子供を抱きしめる姿を見て幾度も涙を流した。声を押し殺して泣いているといつも誰かが頭を撫でてくれて……振り向くとそこには大輔が立っていたのだ。

 友哉が行方をくらませたことを知り、練習を中断して駆けつけてくれたのだろう。短い髪は濡れていて、体からは塩素の匂いがした。

 大輔はいつも友哉の気がすむまでつきあってくれた。

 通い慣れた面会室。病棟の売店。中庭の花壇に、ちいさな噴水のあるエントランス。

 逢えないことがわかっていても、母の姿を探さずにはいられなかった。

 ――ましてや太一の母親は生きているのだ。逢いたくならないわけがない。

「わかったよ、行こう。そのかわり、とーちゃんにはナイショだぞ。それに会えても……すぐ、帰ってこなきゃいけなくなるけど、それでもいいって約束できるか」

 ここから埼玉まで往復で五時間はかかる。保育園を休んで朝イチで移動したとしても、かなりの強行軍になるだろう。

「いいよ。すこしでもいいから会いたい」

「もしかしたら、会えないかもしれないぞ」

「会えなくてもいいから行きたい!」

 太一はレッスンバッグをギュッと握りしめたまま、「サイタマ、サイタマ」とうわごとのように繰り返し続ける。

 友哉はいまにも泣きだしそうな彼の姿を幼いころの自分自身と重ね合わせ、無性に息苦しい気持ちになった。

 

 二日後の金曜日、ふたりは手を取り合って高崎行きの電車に乗り込んだ。

 太一の背中には音楽教室のレッスンバッグ。朝から降り続く雨で、はみ出したクマのぬいぐるみが雨に濡れている。

 もしかしたら母親に買ってもらったものなのだろうか。ほかにもたくさんぬいぐるみがあるのに、太一はその薄汚れた古めかしいクマのぬいぐるみをとても大切にしている。

「ささのはにーねがいーをこーめーて」

「こら、太一。電車のなかでは歌っちゃダメ」

 突然うたいだした太一の口をふさぎ、ほっぺたをキュッと摘む。

「電車降りたらうたってもいい?」

「ああ、降りたらいいよ」

「ママにねー、聞かせてあげるの。ぼくがつくった歌詞だよーって教えてあげるんだ」

 無邪気にわらう太一の姿に、友哉は胸が苦しくなった。

 太一がこの曲を好きなのは、友哉がつくった歌だからじゃない。この歌が、会えない母親への太一の想いをつづった歌だからだ。

 途中、何度か大輔から電話があった。もしかしたら保育園を休んだことがバレたのかもしれない。友哉はスマホの電源を切り、ボディバッグの奥底に放り込んだ。

 

 ゆう子の勤める大学は、駅からバスで三十分ほど離れた場所にあった。

 バスの本数がすくなく、思った以上に時間をロスしてしまった。そろそろタイムリミットだ。すこし探してダメなら、きょうは諦めるべきかもしれない。

 大学のキャンパス図のなかからプールの場所を見つけ出し、太一の手を引いて探しに向かう。室内プールのエントランスにさしかかったとき、突然、太一が友哉の手を離して駆け出した。

「ママ!」

 自動ドアを抜け建物の中に飛び込むと、太一はひとりの女性に体当たりするように飛びついた。驚いた顔で彼を抱き留める女性は、鹿島ゆう子、そのひとだった。

 太一を抱きしめ、彼女は不思議そうな顔で友哉を振りかえった。

 すらりとした体躯。思わず息を呑むほど、美しいひとだ。彼女が大輔と抱き合うところを思い浮かべ、胸が張り裂けそうになる。

 友哉は震える拳を握りしめ、ぎこちなく頭をさげた。

 

「なに晒してんだ、貴様ッ!」

 胸ぐらを掴まれ、思いきり捻りあげられる。

『どうしても帰りたくない』と泣きじゃくる太一を残し、ひとりで帰宅した友哉に大輔は烈火のごとく怒りまくった。

「仕方ないだろ。帰りたくないっていうんだからっ」

「仕方ない、じゃない。なに勝手なことしてんだっていってんだろうがっ」

 睨み付けられ、それでも引くことができない。

「なにが勝手なことだよ。勝手はどっちだ。そもそも大輔がゆう子さんと離婚しなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ。大体、不倫ぐらいなんだよ。太一のことを思えばそれくらい大目に見てやりゃいいだろっ」

 埼玉からここまで帰ってくる間に、ネットで彼らの離婚のあらましはざっくりと理解した。どうやら彼女の不倫相手は、元オリンピック競泳日本代表で現在はスポーツキャスターとして活躍している既婚者らしい。

 彼はタレントとしても広く名を知られており、元オリンピック選手同志のW不倫として一時は週刊誌やワイドショーでも話題になったようだ。

「なにも知らないくせに、適当なことをいうなっ」

「大輔こそ太一がどれだけ寂しい想いしてんのかちっともわかってないじゃないかっ。一度や二度の不倫がなんだ。んなもん水に流して復縁すれば……くッ……」

 胸ぐらを掴んだまま、持ち上げるようにしてドスンと壁に打ちつけられる。あまりにも強い衝撃に、一瞬、息が出来なくなった。

 げほげほとむせる友哉を見下ろし、大輔は悲痛そうな声でいう。

「俺が復縁したらお前はどうなるんだよっ」

「は? なんでそこで俺が出てくるわけ?」

「なんでってお前……俺のこと好きなんだろうが。一緒にいたいんじゃないのかよッ」

 大輔の言葉に、頭から血の気が引いてゆく。

 いつ、どうしてバレてしまったのだろう。

 胸ぐらを掴んだままじっと見下ろされ、友哉はギュッと唇を噛みしめた。

 ――太一のことを思えば……よりを戻させてあげるべきだ。復縁して、三人でいっしょに暮らせるようにしてあげるべき。

「はっ……ばっかじゃねーの。なんで俺がお前を好きになんなきゃいけないわけ?」

 胸が苦しい。だけど太一は……もっと苦しいはずだ。もっと辛いはず。

 震える拳を握りしめ、できるかぎり下卑た声をつくってみせる。

「勘違いすんなよ。大輔は俺があのひとと切れたと思ってんのかもしれないけど、ぜんっぜん切れてないから。ていうかお前にレイプされたとか嘘だし。単にカネ持ってそうだから、貢がせてやろうと思っただけ。馬鹿だよな、すっかり信じ込んで。お前みたいなヤツのこと、好きになるわけないだろっ!」

 思い切り頭突きを噛まし、ひるんだ隙に部屋を飛び出す。鍵と財布以外なにも持ってないけど、クレジットカードさえあればきっとなんとでもなる。

 友哉は無我夢中でマンションを飛び出し、バス通りに出てタクシーを捕まえると、隣の市にあるビジネスホテルに逃げ込んだ。

 

 幸いなことに、仕事のスケジュールは七月の二週目まで白紙だ。

 格安ビジネスホテルを根城に、友哉はしばらく日雇いバイトに勤しむことにした。

 一昨年まで作曲だけでは食えなかったため、その手のバイトには慣れている。その日のうちにティッシュ配りのバイトの職を得て、なんとかホテル代と食費をねん出することができた。

 スマホにはありえないくらい沢山の着信と、ショートメールが送られてきている。友哉はそれらをすべて無視して、ひたすら身を隠し続けた。

 

 七夕まつり当日。隣の市にいると、七夕なんて誰も祝っていないことがわかった。

 生まれ育ったあの町では、町をあげて大騒ぎするのに、川を一本挟んだだけでこんなにも違うなんて、なんだかすこし不思議な感じだ。

 こうやってあの町から離れて暮らせば、すこしずつ大輔のことを忘れることができるのだろうか。

 ここのところ、大輔に加えて太一のことまで考えてしまうようになった。

 にこにこ顔で電子ピアノを弾く姿。ゆさゆさと身体をゆすりながら歌う姿。

「ほんとはね、およぐのきらい」

 とーちゃんにはナイショだよ、と打ち明けてくれたときのこと。ママに逢いたいと泣きじゃくったときのこと。

「――ダメだ。忘れなきゃ」

 そう思えば思うほど、無邪気な太一の姿で頭のなかがいっぱいになってしまう。

 ゆう子はこの街に戻ってきただろうか。埼玉の大学でサブコーチをしているとなると、なかなかすぐには難しいかもしれない。

 だけど大輔だって、あんなふうに未練タラタラなのだ。きっと話しあえばうまくいくはずだ。

 

 七夕の翌週、音楽教室のレッスンの日になると、友哉は無性に落ち着かなくなった。

 太一はどうしているのだろう。まだ母親のところにいるのだろうか。それとも一緒にこの町で暮らせているのだろうか。

「宿題、見てやれなかったな。練習できなくて、先生になにかいわれちゃうかもな」

『いつもいっぱい練習してきて偉いね』って褒められているのに。今週は友哉のせいで、ボロボロなはずだ。

「俺が気にしたところで、どうにもなんないだろうけどな……」

 わかってはいるものの、どうしても太一のことが気になってしまう。

「遠くから様子を見るだけなら、いいかな」

 ティッシュ配りを中断し、二週間ぶりに地元へと戻る。

 どちらにしても明日からは作曲の仕事をしなくてはならないのだ。

 いったん部屋に戻るべき時期がきたのだと自分にいいきかせながら、すっかり七夕の名残りの消えた街に戻る。

 音楽教室のあるビルにそっと近づき、出入りする生徒たちの様子を窺う。

 しばらくそうしていると、聞き覚えのある歌声がきこえてきた。

 ほんのすこし聞かなかっただけで、なんだかとても懐かしい気持ちになる。

「ささのはにーねがいーをこーめーて」

 かわいらしい声で、太一は友哉の作ったあの曲をうたっている。

 彼の願いは、無事に叶ったのだろうか。

 物陰からそっと太一の様子を窺うと、彼は母親ではなく、仕事を抜け出してきたと思しきジャージ姿の大輔に手を引かれていた。

「お前、その歌、ホントに好きだな」

「ん、だいすきー。にーちゃんのね、つくってくれたうただよ!」

「ああ、知ってるよ、三人で作ったんだもんな」

 大輔の手にぶら下がるようにして太一は甘えた声を出す。あまりにも愛らしいその姿に、友哉は涙腺が緩んでしまいそうになった。

「にーちゃんのハンバーグ、たべたい」

「ああ、そのうちな」

「たべたい!」

 涙ぐむような声で、太一が叫ぶ。大輔は太一を抱きあげると、「俺だって食いてーよ」と不貞腐れた声でいった。

 そのいい方があまりにも可愛らしくて、思わず吹き出してしまいそうになる。

「お、そうだ。太一、プリン買ってやろっか。駅ビルのプリン好きだろ」

 突然、大輔がくるりと振り返った。

 慌ててビルの陰に隠れたけれど、ひと足遅かったようだ。

「あ、にーちゃん!」

「友哉、お前、そんなとこで何してんだっ」

 二人に発見され、あっという間に捕えられてしまう。

「どこ行ってたのっ。すっごく探したんだよ!」

 いきなり飛び掛かられ、太一にボコボコと殴られた。ちびっことはいえゲンコツで連打されるとさすがに痛い。

「イテテ……っ」

 頭を庇って丸まった友哉の後頭部に、今度は大輔の怒りの鉄槌がゴツンと降ってきた。

「いだっ! なにすんだよっ」

「なにすんだはこっちのセリフだ。なに考えてんだ、表彰式、すっぽかしやがって」

「表彰式……?」

「何度も電話しただろうが。七夕のうたコンテスト。お前のつくった『笹にねがいを』が優勝したんだ」

 思いもよらない言葉に、友哉は耳を疑う。

 あまりにも色々なことがあり過ぎて、すっかりコンテストの存在を忘れていたのだ。

「うそ……」

「うそ、じゃねぇよ。お前なぁ、ジイさんなんて大騒ぎしちまって、親戚じゅうに電話かけまくったんだぞ。社員まで招集してみんなで表彰式に詰めかけてきてやがったし」

 どうやら想像以上にとんでもないことになっていたようだ。

「『友哉はどうした!』って取り乱して大変だったんだからなっ」

 作曲者不在のまま、作詞者として大輔と太一だけがステージにあがったのだという。

「ステージって、あの駅前につくられるでっかいやつ?」

「ああ、あそこでお前の曲が流されたんだよ」

 一族、社員総出で大変な騒ぎだったようだ。

「ジイさん、CDが発売されたら全社員に配るっていってたぞ。あと、不動産屋とスクールの受付で販売するって」

「うわ、なにそれ、恥ずかし過ぎるっ」

 青ざめる友哉のハーフパンツを、太一がムギュッと引っ張る。

「にーちゃんが帰ってきたらお祝いするって、とーちゃんいってた。ね、きょうお祝いだよね」

 つぶらな瞳でじっと見つめられ、「ちょっと様子を見に来ただけだからもう帰るよ」とはいえそうもない。

「よっしゃ、太一。プリンやめてケーキにするぞ。でっかいケーキな」

「やったー! もものケーキがいい!」

「ああ、いいよ。もものタルトをホールで買おうな」

 大はしゃぎする太一を抱きあげ、大輔は頬ずりをする。友哉は戸惑いながらも、彼らのあとに続いた。

 

 太一のリクエストで煮込みハンバーグとオムライスをつくり、もものタルトで受賞を祝った。

 お腹一杯になった太一はすぐに眠ってしまい、大輔は彼を友哉の寝室に連れていった。

 二人きりになるのが気まずくて逃げ出そうとして、玄関前の廊下で捕まってしまう。

「その『逃げぐせ』いつまで続ける気だ」

 険しい声音でいわれ、友哉はなにも答えることが出来なかった。

「太一、母親と暮らしたいって……」

 大輔の手を振り解こうとして、ぐっと引き寄せられる。友哉は勢いあまってふらつき、彼の腕のなかに倒れこんでしまった。

 元アスリート相手とはいえ、いともたやすくこんなふうにされてしまう自分の軟弱さがなんだかとても情けない。

「だからって、うまくいかない両親に育てられることがいいことだとは俺には思えない」

「うまくいかないって……一度は愛しあった仲だろっ」

 そんな言い方はないだろう、と睨みつけると、大輔はちいさく首を振ってみせた。

「元からお互いに恋愛感情はなかったんだ。互いに別の相手に惚れてて、それを承知のうえで想いを断ち切るために結婚したんだ」

 苦しげに眉根を寄せ、大輔はいう。いつになく悲痛なその声に、友哉まで胸が苦しくなった。

「どういう意味だよ」

「そのまんまの意味さ。俺にもアイツにもずっと想い続けている相手がいて、だけどどっちも叶う見込みなんかなくて『だったら叶わない同志、結婚するか』って手ぇ結んだんだ」

「冗談だろ……」

「ホントだよ。ただ結婚する以上、お互い全部忘れて、いい家庭を作ろうと思った」

 すべて忘れて愛情のある家庭をつくる。

 そう約束して結婚したのに、例の不倫騒動が露呈してしまったのだという。

「不倫の一度や二度くらい目を瞑ってあげられないのか」

「俺はそのつもりだった。だけど……アイツに『もうこれ以上は無理だ』って三行半を叩きつけられちまったんだ」

「そんなの勝手すぎる。太一のためを思えば我慢してやり直すべきじゃないのか」

「やり直せないところまで俺がアイツを追い込んだんだ。悪いのはアイツじゃない俺だ」

「まさか。もしかして大輔も不倫してたのか。そのせいでゆう子さんは……」

「不倫はしてねぇけど、それ以上に酷い傷つけ方をしちまった。アイツの存在を全否定するようなことをしちまったんだよ」

 結婚したものの、彼らが『夫婦』を演じられていたのは最初の数か月だけだったのだそうだ。仕事で疲れていることをいいわけに、夫婦の営みも一切なくなっていた。

「うそだろ。あんなにエロなのにっ」

 思わず驚きの声をあげてしまった友哉に、大輔は照れくさそうな顔でつぶやく。

「そりゃ、相手がお前だからだ。お前相手なら、どれだけ疲れてたってシたくなんだよ」

「なにそれ。大輔、もしかしてゲイなの?」

 おそるおそる尋ねると、大輔は首を振った。

「そうかもしれないと思って試したこともある。だけどそういう問題じゃねぇんだ。男ならいいってわけじゃない」

 男が好きなわけじゃないのに、奥さんとはできなくて、友哉とはする。

 わけがわからない、といいかけた友哉の胸ぐらを大輔はぐっと掴み上げた。

「あのとき、お前がキスなんかしやがるから……っ」

「は、なにいってんだ。あれはお前からしたんだろ。酔っぱらって奥さんと間違えて……」

 反論しかけ、ふと、なにかが引っかかる。

「ちょっと待って、大輔。『あのとき』っていつのこといってんの」

「いつのことって、お前、あれ一回きりじゃねぇのか。――あんなこと、しょっちゅうしてやがったのかっ」

 呆れた顔でいわれ、ぶんぶんと首を振る。

「ちがっ……、俺がシたのは一回だけだって。大輔が遠くの会社に就職しちゃうかもしれないって聞いたときに不安になって……」

 最終的には川崎にある実業団の強豪チームに所属することになった大輔だが、当時、東海地方の企業や九州の大学などさまざまな受け入れ先を検討していた。

 だいすきな大輔が手の届かないところにいってしまう。――不安になった友哉は、自分の気持ちを抑えることができず、あんなことをしてしまったのだ。

「相手は中学生のガキで、おまけに同性で、弟みたいに可愛がってた従弟だ。許されるわけない。忘れなくちゃいけない。そう思いながらも、ちっとも頭から離れてくれなかった」

 本家の長男として、いつかは嫁を貰い、家業を継がなくてはならない。

 跡継ぎとして育てられた大輔にとって、年の離れた同性の従弟への恋心は、絶対に許されない禁忌に感じられたのだそうだ。

「あの後も何度かいっしょに雑魚寝したよな。ばあちゃんの葬式に、ジジイの古希祝い。隣で眠るお前の姿を見るたびに気が狂いそうになって……だけどお前はちっともそんな素振りを見せやしない。それどころか昔は『大ちゃん、大ちゃん』って俺の顔見りゃ飛びついてきたのに、成長するたびに素っ気なくなってきやがる。もしかしたら単なる気まぐれだったのかもしれない。――こんなふうに引きずってんのは俺だけで友哉はきれいさっぱり忘れちまってるかもしれない。そう思ってたのに……お前は俺の結婚式を、ドタキャンしやがった」

「べ、別にあれはそういうのじゃなくて、ほんとに腹が痛かったんだ。死ぬほど痛くて……動けなかったんだよっ」

「じゃあ、どうして親戚の集まりに一切顔を出さなくなったんだ。おまえはそんな不義理をするような人間じゃなかっただろう」

 畳みかけるように問い詰められ、なにも答えられなくなる。

「ケータイ番号まで勝手に変えやがって。俺から逃げ回ってたんじゃないのか」

「そ、そんなこと……っ」

 してない、といおうとして、うまく声が出なかった。あまりにも真剣な大輔のようすに、気圧されてなにもいえなくなる。

「どんなに忘れようとしても、忘れられなかったんだ。だからって今更どうなるもんでもない。太一が生まれて、だんだん大きくなって、もう、全部忘れて腹をくくるしかないって思ってた。いい夫に、いい父親になるしかないって……思ってたのに……」

 誰にも明かすことなく、封じ込めた想い。それでも夢の中まではコントロールすることができなかった。

「毎晩、寝言でお前を呼ぶんだと。『ゆうや、ゆうや』って。――最初はライバルの名前かなんかだと思ったってアイツはいってたよ」

 悲痛そうにうなされるそのさまを見て、どうしても勝つこのできない宿敵の名を恨めしそうに呼んでいるのだと思ったそうだ。

「だけどアイツは知っちまったんだ」

 親戚の集まりで、たまたま友哉の話題が出たのだという。大輔の結婚式を腹痛でドタキャンしたこと。それ以来、一度も親戚の集まりに顔を出さないこと。その話を聞き、彼女はすべてを悟ってしまったのだという。

「なまじ名前が似てるぶん、余計に苦しかったっていわれたよ。隣で眠る旦那が、自分にはいっさい手を出さず、毎晩のように自分以外の相手の名前を呼ぶんだ」

 傷ついた彼女は、忘れることのできなかった想い人に気持ちをぶつけた。

 そして路上で抱き合う姿を週刊誌にスクープされてしまったのだという。

「あの日、俺が寝たふりをしてお前の気持ちから逃げたせいで……こんなことになっちまった。アイツだけでなく、太一にまでつらい想いをさせて。――俺は最低な男だよ」

 記事が掲載された翌日、彼女は荷物をまとめて出て行ってしまったのだという。

 大輔そっくりな顔をした太一とも、できればもう逢いたくないといっているそうだ。

「そんな……」

 酷い、といいかけた友哉に、大輔はちいさく首を振った。

「アイツが悪いんじゃない。愛情もないのに見せかけの家庭を作ろうとした俺の責任だ。お腹を痛めて産んだ我が子に二度と逢いたくないと思わせるほどに、俺はあいつを追い詰めちまったんだよ」

 大輔の寝言に苛まれつづけた彼女は情緒不安定になり、精神安定剤を常用していたのだという。そして極限まで追い詰められ、頼ってはいけない相手に縋ってしまった。

「父親として最低だと思う。だけどもう二度と同じ過ちは犯したくないんだ。これ以上、自分の気持ちを偽りたくない」

 苦しげな声でいうと、大輔は手を伸ばし、友哉の頬に触れようとした。

 拒まなくちゃいけない。

 太一のためにも、なんとかゆう子とヨリを戻させなくちゃダメだ。――そう思うのに、身体がいうことをきいてくれない。

 大輔の顔がゆっくりと近づいてくる。

 唇が触れてしまうくらいそばに彼の熱を感じ、友哉はギュッと拳を握りしめた。

 そして精一杯虚勢を張って、こう告げる。

「ばーか。なに勘違いしてんだ。俺、全然、お前のことなんか好きじゃないし。あれは単にからかって遊んでみただけ。そんなんでマジになられても超メイワクなんだけどっ」

 これでいい。

 受け容れてしまえば、太一や伯父さん、伯母さん、みんなを哀しませることになる。そんなの絶対に……許されないんだ。

 震える手のひらで大輔を押し退けると、抵抗ごと強く抱きしめられた。

「ちょっ……待てよっ、俺の言葉、訊いてなかったのかよっ」

 慌てて引き剥がそうとして、けれどもどんなに抗っても大輔は離れようとしない。

 あっという間に壁際に追い込まれ、強引に唇を奪われた。

「んっ……やめっ……」

 熱い舌で絡めとられ、意識が蕩けてゆく。

 膝から力が抜けて、その場にくずおれてしまいそうだ。

 ふらぁっと意識を失いかけた友哉の耳に唇を押し当てるようにして大輔は囁く。

 すこし掠れた男くさいその声に、ぞくりと背筋が震えた。

「あのな、気づいてないみたいだから教えてやる。お前は嘘つくとき、昔から口がへの字にひん曲がるんだ」

「なっ……そ、そんなことないっ……」

 慌てて口元を隠すと、覆い隠した手のひらのうえから唇を押し当てられた。濡れた舌で手の甲をなぞられ、ぞわっと肌が粟立つ。

「なんならもうひとつ教えてやろうか。――ヤッてる最中、お前、感極まると泣くんだよ。ボロボロ涙流して、『好きになってごめんなさい』っていうんだ」

 泣きながら太一に謝り、それでも好きだと大輔に頬を摺り寄せるのだという。

「そ、そんなの……でたらめだっ」

 思い切り大輔の胸を押し、なんとか引き剥がそうとする。けれども逞しいその身体はどんなに突き飛ばしてもびくともせず、逆にその腕に抱え上げられてしまう。

「わ、ちょっと待てっ、離せよっ」

「嘘だと思うなら今から再現してやる。録音してお前にも聞かせてやるよ」

 痩せ形とはいえ、友哉だって決して小柄なわけじゃない。それなのに大輔は友哉を軽々と抱きあげ、リビングに連れてゆく。ソファに押し倒され、ぐっと圧し掛かるようにして口づけられた。

「やめっ……太一、まだ寝たばっかっ……ぁっ……!」

「お前は自分のことより、つねに太一を優先しようとするよな。俺に嫌われようがなんだろうが、太一を哀しませないようにしたいって考える。昔っからいっつもそうだ。自分は貧乏くじ引いてでも、まわりの奴らを笑顔にするために奮闘してる。俺はお前のそういうところにたまらなく惹かれちまうんだよ」

 大輔の舌が、そっと友哉の唇をなぞる。ザラついたその舌の感触に、ゾクゾクと背筋の震えが止まらなくなった。

 唇、閉じなくちゃいけないのに。

 自然と半開きになってしまう。

「ぁっ……んっ」

 受け容れちゃいけない。そう思うのに、差し入れられた舌に、身体が勝手に反応してしまった。

 逞しい背中に手をまわし、おずおずと彼の舌に自分の舌を重ね合わせる。

 くちゅ、と淫靡な水音が響いて、友哉は自分のはしたない行いに頬を染めた。

 慌てて舌をひっこめ、腰を逃そうとする。けれども大輔はやんわりと友哉を抱き止め、さらに深い場所に舌を差し入れてきた。

「んっ……ぅ、ぁっ……!」

 口内をまさぐられ、あっという間に舌を絡めとられる。きつく吸い上げられると、襲いくる酩酊感に目を開けていられなくなった。

 何度も髪を撫でられ、頬を包み込まれ、唇だけでなく手のひらや吐息の熱さに溶かされてゆく。

「友哉」

 掠れた声で友哉を呼ぶと、大輔はするりとTシャツのなかに手を滑り込ませてきた。

「ぁっ……!」

 胸の突起に触れられ、ヒクンと身体が跳ねあがる。手の甲を噛んで声を押し殺そうとして、やんわりと退けられた。

「お前も知ってるだろう。太一は寝つきがいいんだ。一度寝たら、めったなことじゃ起きやしない」

「だ、だけどっ……」

 いやなのだ。これ以上、太一に哀しい思いをさせたくない。自分の父親が男を抱く人間だなんて……思わせたくない。

「お前はホントにあいつのことを大事に想ってくれているんだな」

 大きな手のひらで友哉の頬を包み込み、大輔は慈しむような瞳で友哉を見つめた。

「大事に決まってる。だって太一は……」

 大好きな大輔の子供なのだ。彼を哀しませるようなことだけは絶対にしちゃいけない。

「わかったよ。声が漏れないように、俺がお前の口を塞いでてやる」

 低くて甘い大輔の声に、ジンジンと身体が痺れてゆく。甘ったれた吐息の漏れるその唇を、大輔の唇が力強く塞いでくれた。

「ぁ、んっ……」

 口づけられながら、ふたたび胸の尖りを摘みあげられる。指先で転がすように刺激され、声をあげられないやり場のなさに全身が痺れてしまいそうになった。

 もどかしさにソファの縁を掴むと、その手を引きはがされ、やんわりと彼の背に導かれる。

 ずっと、触れたくてたまらなかったその背中に自由に触れていいのだと思うと、嬉しさに涙が滲んでしまう。

「友哉、好きだ。ずっと、こうしてお前を抱きたかったんだ」

 柔らかな声音で囁かれ、胸がいっぱいになってしまう。その言葉にちゃんと応えたいのに、うまく言葉が出てこない。

 大輔を見上げたまま、必死で言葉を探す友哉に、大輔は愛しげに頬ずりをしてくれた。

「いいんだ。無理に口でいわなくても。お前の気持ちは痛いくらい伝わってくるよ」

 ほんとうの気持ちを知られてしまわないよう、口を開けば憎まれ口ばかり叩いてしまう。自分の想いを表すことのへたくそな友哉のことを、大輔はいつだっていちばん理解してくれていた。

「ほら、こんなにドキドキしてる。俺のことが好きだから、こんなふうになるんだろ」

 胸の鼓動を確かめるように手のひらを宛がわれ、かぁっと頬が火照る。

「あいしてるよ」

 うまれてはじめて耳にした愛の言葉に、たまらず涙が零れた。

 大輔は友哉の頬を拭いながら、やさしく口づけてくれる。武骨な外見からは想像がつかないくらいに、甘くてやさしいキスだ。

 唇を甘噛みされ、条件反射的に口を開くとするりと熱い舌が入り込んでくる。

 舌を絡めあわせるようにして吸い上げられ、意識が朦朧としはじめてしまった。ぐったりと脱力した友哉のTシャツを捲り上げ、大輔は露わになった乳首にむしゃぶりつく。

「ぁ……んっ……」

 堪えきれず溢れた声。大輔は友哉の唇をやんわりと大きな手のひらで塞ぐようにして、声が漏れないようにしてくれた。

「んぅ……」

 ギュッとその手を握りながら、友哉は声を押し殺す。けれどもどんなに声を堪えても、大輔の与える刺激は激しさを増してしまう。

「ぁっ……ぅ、んっ!」

 軽く歯を宛がうようにして乳首を刺激されると、堪えきれずにヒクンと身体が跳ねあがった。

 むずかる友哉をあやすように、大輔は噛んだばかりのそこをやさしく舌先でなぞりはじめる。甘やかな愛撫に浸っていると、今度はちゅぱっと音が響くほど強く吸い上げられた。

「ぁ、ぅ、ん……んぅっ……!」

 ぎゅうぎゅうに大輔の手を握りしめ、大きく身体を仰け反らせる。大輔は友哉の腰を掬い上げるようにして、舌先で友哉の脇腹をなぞった。

「あぁっ……!」

 突然与えられた新しい刺激に、思わず大きな声をあげてしまう。

「ここ、そんなに感じるのか」

 大輔はそういうと、執拗に同じ場所に舌を這わせた。

「ゃ、ぅ、だ、め、そこ、だめっ……」

 必死で逃げようとして、けれども逞しい大輔の身体はどんなに押しのけてもびくともしない。

 声、我慢しなくちゃいけないのに。あまりにも気持ち良すぎておかしくなってしまいそうだ。

「大輔、もう、だめ、無理、だからっ……キス……して」

 お願いだから唇を塞いでいて欲しい。

 めいっぱい手を伸ばし、必死で大輔の身体に抱き縋ると、彼の熱が友哉の下腹に触れた。

「ぁ……」

 口づけられながら、熱く滾ったそれを窄まりに擦りつけられる。まだ挿れられていないのに、ジンっと身体が熱く痺れた。

「だめ、ソファ、汚れちゃ……」

 昂ぶった友哉の中心から、はしたない蜜が溢れ出してしまう。とめどなく溢れ続けるそれがソファを汚してしまいそうで、友哉は不安になった。

 大輔は友哉を抱え上げるようにして、リビングの床に敷いた布団のうえに横たわらせる。ここのところ毎晩大輔がつかっている客用の布団。男らしい彼のにおいが微かに香って、それだけで酔ってしまいそうになった。

「ダメだ。もっとじっくり味わいたいのに……これ以上、我慢できそうにない」

 耳元で囁かれ、友哉はちいさく頷いた。

「俺も……無理。お願いだから、はやく……」

 自分から欲しがるなんて、呆れられてしまうだろうか。

 太一への後ろめたさは消えないけれど、大輔の想いを知った今、一秒でもはやく繋がりたくて、友哉は自分から彼の唇に口づけてしまった。

「あの夜も、お前からキスしてくれたな」

 ギュッと友哉を抱きしめ、大輔は耳殻に唇を押し当てるようにして低い声で囁く。

「あの日以来、俺はお前のことしか考えられなくなっちまったんだ」

 愛しげに唇を啄まれ、友哉はちいさく頷いた。そして震える声で、必死で告げる。

「――好き」

 あいしてるなんて言葉は、つかえなかった。もっと気の利いた言葉、幾らでもあるだろうに。たった二文字『好き』と伝えるだけで、震えが止まらなくなる。

「友哉っ……」

 圧し掛かるようにして口づけられ、意識が朦朧としそうになる。必死になってその舌を求めると、窄まりに濡れた熱を宛がわれた。

 不安になってなにかに縋ろうとして、大輔に手のひらを握りしめられる。 

 ギュッと握りかえしたその瞬間、ずずっと猛々しい熱が割入ってきた。

「ぁ――――っ」

 思わず声が漏れてしまいそうになって、あわてて大輔に口づける。大輔は友哉に応えるようにやさしく舌を吸い上げてくれた。

「ん、ふっ……ぁ、ぅっ……」

 唇を塞がれながら、ゆっくりとなかに押し入られる。ぞわぞわっと全身の肌が粟立って、身体の奥の方がジンジンと火照りはじめた。

 火照った肌にうっすらと汗が滲んで、なんだかとても恥ずかしい。はしたない姿を見せたくないのに、与えられる熱に昂ぶり、自分を抑えきれなくなってしまう。

「大輔っ……」

 息継ぎの狭間にその名を呼び、大輔の身体に抱き縋るようにして深く舌を絡める。

 ぎこちなく彼の舌を吸い上げる友哉の奥深くに、大輔はずくりと彼のすべてを埋めこんできた。

 その禍々しい質量に、ぞわっと背筋がわななく。焼けるような熱と痛みが全身を苛み、けれどもそれを上回る充足感で胸がいっぱいになった。

 みっしりとしたソレで埋め尽くされながら、身体だけでなく心のなかも全部、大輔に埋め尽くされたような気持ちになる。

「ぁふっ……ん、も、動いて、いぃよ」

 誘うように腰を動かすと、ぐっと抑え込まれた。

「無理すんな。いいんだ。こうしてお前と繋がっていられるだけで幸せなんだ。痛みがおさまるまでこうしていよう」

 繋がったまま、口づけられる。何度も、何度も、数えきれないくらいに唇や額、鼻のあたまにキスをされ、やさしく髪や頬を撫でられた。

「大輔がよくても……俺が、だめ」

 もどかしさに、おかしくなってしまいそうだ。自分から腰を揺すると、ニヤリと笑って囁かれた。

「俺のこと、そんなに好きなのか」

「ん、すき。好き、だから……っ」

 もっと、そばにいきたい。

 一ミリでもそばに。

 深く繋がって、混ざりあってしまいたい。

 下半身だけじゃ足りない。舌も、手も、足も、なにもかも。互いの全部で繋がりたい。

「あいしてるよ、友哉」

 友哉の動きに応えるように、大輔がゆっくりと腰を遣いはじめる。

 やさしくて力強いその腰遣いに、友哉は一気に高められてゆく。

「だいすけっ……ぁ、んっ……!」

 声を溢れさせてしまわないように、必死で唇を重ね合わせる。けれども大輔の突き上げが激しくなるうちに、どうしてもうまく重ねられなくなった。

「ぁ、ぅ、だめ、声がっ……」

 キスをねだる友哉に応えるように、大輔はぐっと身体を倒しこむようにして口づけてくれる。

 その拍子にひときわ挿入が深くなって、友哉は声にならない悲鳴をあげて彼の背に縋った。

「ゆうやっ……」

 掠れた声で、何度も名前を呼ばれる。

 再会後、はじめて口づけられたあの夜に『ゆう』と呼ばれた声と、それはまったく同じ声音だ。

 愛しげにその名を呼びながら、大輔は友哉を貫きつづける。

 汗ばんだ肌が、劣情に焼けたその声が、いとしくてたまらない。

「大輔……もぅ、だめっ……っ」

 中心には指一本触れられていないのに、大輔の熱にやられ今にも達してしまいそうだ。

「あぁ、いいよ。友哉、我慢なんかする必要ないんだ。イッちまえ」

 耳朶に唇を押しつけるようにささやかれ、友哉はふるふると首を振った。

「ヤ、だ。いっしょに。いっしょにイキたい」

 かなしいときも、うれしいときも、いつだってそばにいてくれた。

 一度は離してしまったその大きな手を、もう、二度と離したくない。

 誰にも許されなくても、祝福されなくても、ぜったいに……離したくない。

 無意識に大輔の手を探し、その武骨な指に自分の指を絡ませる。口元に引き寄せるようにしてその甲に口づけると、大輔は苦しそうな呻き声を漏らした。

「ダメ、だ、そんなにされたらっ……!」

 友哉のなかの大輔が、ひときわ質量を増す。

 じわりと一気に体温があがったみたいに、互いの身体からたくさんの汗が滲んだ。

「はぁっ……大ちゃ……好き、大好きっ」

 ほかにはなにもいらない。

 なにも、望まない。

 だからどうか、神様、俺に大ちゃんを……。

「友哉ッ……!」

 激しくかき抱かれ、めちゃくちゃに突きあげられる。吹き飛ばされそうになって、友哉は必死で彼の背中にしがみついた。

「ぁっ……ダメ、イく、イッちゃっ……」

 あまりにも激しい突き上げに、いまにも意識をもっていかれそうだ。

「ゆう、やっ……ダメだ、俺もッ……!」

「ん、ゃ、ぁぁっ……イクっ……!」

 友哉の叫び声が、大輔の呻きにかき消される。身体ごと吹き飛ばされてしまったみたいな強烈な絶頂。

 目の前が真っ白になって、手足の感覚がなくなって、ただ、自分のなかを満たしてゆく大輔の熱の感触だけが生々しく伝わってくる。

 ドクン、ドクン、とあふれ出すその熱とともに、自分も達してしまったのだということがわかった。

「ゆうや」

 愛しげに名を呼ばれ、朦朧とする意識のなか、手さぐりに大輔の手を探す。ギュッと手を繋ぎ、指を絡めあうと、友哉は満たされた気持ちで目を閉じた。

「あいしてるよ」

 照れくさそうな、けれども真摯な声で大輔が囁く。その声を子守歌に、友哉は愛しい彼の胸に頬を摺り寄せるようにして深い眠りについた。 

 

 

 翌日、大輔は彼の背丈ほどもある大きな笹を担いで帰ってきた。

「よっしゃ、七夕やり直すぞ!」

 鞄から短冊や折り紙を取り出し、大輔はいう。

「やったっ! にーちゃんと七夕っ」

 太一は嬉しそうに叫ぶと、三人で作った七夕のうたを歌い出した。

「ささのはにーねがいーをこーめーて」

 歌いながら、折り紙であみかざりや星、吹き流しをつくりはじめる。

「うまいもんだな。太一、工作も得意なのか」

 友哉が褒めてやると、太一は得意げに胸をそらした。

「ん。おうたの次に、工作がすき」

「一番目が『おうた』、二番目が『工作』か。水泳は?」

 大輔に尋ねられ、太一は不安げな瞳で、なぜか大輔ではなく友哉の顔を覗き込む。

 ――ほんとは、およぐのすきじゃない。

 ないしょだよ、と打ち明けてくれた言葉。友哉は太一に声には出さず、そっと口の動きだけで『いわないよ』と約束を守る意思があることを告げた。

「にーちゃん、カブトムシつくって」

「えっ。カブトムシ? ちょっと待てよ。ネットで調べてみる」

 スマホを取り出し、折り紙でカブトムシをつくる方法を調べる友哉を眺め、大輔は眉間にしわを寄せる。

「なにかありゃぁスマホスマホって。いまのガキはなんでもネットで調べやがるな」

「わ、またガキっていった。俺、もう二十八なんだけど!」

「うるせーなぁ、二十八なんざガキだ、ガキ!」

「七つしか違わないくせにっ」

「七つの違いはでけぇんだよ!」

 どうでもいいことで言い争う二人の間に、太一が割って入る。

「けんかだめーーーっ」

 四歳児に本気で咎められ、二人はバツの悪さにそろって頭を掻いた。

「笹飾りはそんだけありゃ上等だろ。そろそろ短冊書くぞ」

 机いっぱいに広がる工作の成果を眺め、大輔はいう。

「ん。はい、太一、この鉛筆で書きな」

 太一を膝の上に抱え、友哉は太一がいちばん好きな水色の短冊を手渡してやった。

「えっとねー……」

 真剣な表情で鉛筆を握りしめ、太一はいっしょうけんめい文字を綴る。

「どれどれ。なに書いてんだ、太一」

 短冊を覗き込んだ大輔が、びくっと動きを止める。

「なんて書いてあんの」

 つられるように短冊を眺め、友哉は思わず吹き出した。

『おっきないぬと、ほんとのぴあのがおけるおうちにすめますように』

「凄いな、太一。一戸建てとピアノとデカわんこを同時にねだるなんて、超高額な七夕の願いごとだ」

 茶化す友哉を前に、大輔は頭を抱えて唸っている。

 たいせつな息子のねがい。なんとしてでも叶えてやりたいと思っているのだろう。

「にーちゃんは? にーちゃんも書いて」

 鉛筆を差し出され、友哉はためらった。

「俺? 俺はいいよ……」

 あの日、大輔への恋心を意識して以来、友哉の願いはたったひとつだ。

『大輔と一緒になれますように』

 絶対に誰にも打ち明けられない、自分の胸だけにしまい続けてきた想い。

 誰かを不幸にしてまで叶えるべき願いではない。だからほんとの気持ちは、いつだって短冊に書くことができなかった。

「書けよ、ほら」

 大輔はそういって、友哉のいちばん好きな薄緑色の短冊を差し出してくる。

 二人の見守るなか、友哉は震える指でねがいを綴った。

『来年も、太一と大輔と一緒に七夕を祝えますように』

 やっとのことで書き終えた短冊

 漢字の読めない太一にねだられ、友哉はそれを読み上げた。

 大輔は友哉から鉛筆を奪い取ると、『来年も』にバッテンをつけ、武骨な文字で『ずっと』と書き直した。

 その荒々しくもやさしい文字に、堪らず、涙が溢れてくる。

「わ、たいへん。にーちゃん、泣いてるっ」

 太一はレッスンバッグからくしゃくしゃのハンカチを引っ張りだし、友哉の顔をごしごしと拭う。そのやさしさが嬉しくて、友哉はギュッと太一の身体を抱き締めた。

「あいかわらず俺より先に『太一』なのな」

 大輔はむくれたような顔で短冊を眺めながらも、友哉の髪をくしゃくしゃに撫でまわし、ギュっと太一ごと抱きしめる。

「ねがいごと、かなう?」

 真顔で尋ねる太一に、大輔は力強く頷いた。

「ああ、太一の願いごとも、友哉の願いごとも、俺がぜったいに叶えてやる!」

 ゆう子にはすでに新しい家庭があり、彼女が別の赤ちゃんの母親になったことを知った太一は、気丈にも『ママはあたらしい赤ちゃんの。僕はとーちゃんとにーちゃんで我慢する』といいだし、それ以来、母親に会いたいとはいわなくなった。

 とはいえボロボロのクマのぬいぐるみを手放せないところを見ると、やはり母恋しさは拭えないのだろう。

 そんな太一を不憫に思うのか、伯母は大輔に『息子のためにもはやく再婚しなさい』と繰り返し言い続けている。

 家業の関係で今後も本家と近い場所に住み続けなくてはならないだろうし、古い土地だから男同士で暮らしてゆくのは容易なことではないはずだ。

 クリアしなくちゃいけない課題は山積みだけれど、太一や大輔がそれを望んでくれるのなら、友哉はいっしょに頑張っていきたいと思う。

「やったー。にーちゃんのハンバーグ、これからもずっと食べれるってことだよねっ」

 嬉しそうに友哉に飛びつき、太一がはしゃぐ。

「ああ、ずーっと食えるぞ。ハンバーグもナポリタンも喰い放題だ!」

 太一の髪をくしゃくしゃにして大輔が笑う。その笑顔にまた涙腺が緩みそうになって、友哉はあわててギュッと目を瞑った。

 

「ささのはにーねがいーをこーめーて」

 太一の歌声がリビングをやさしく包み込み、ベランダでは願いをしたためた短冊や笹飾りが風に揺れている。

 様々な想いがこみあげてきて、色とりどりの短冊が涙に滲んでしまいそうになる。 

「おお、そうだ。来年の七夕まつり、『笹にねがいを』のお披露目コンサートがあるらしいぞ。今度こそ絶対にバックレは許さんからな」

 市内の小学生たちが合唱形式でこの歌を披露するのだという。作曲者の友哉は指揮者をつとめなくてはならないようだ。

「うわ、いまからキンチョーして胃が痛くなってきたっ……」

 思わず胃のあたりを押さえた友哉に、太一がニッコリと微笑む。

「だいじょぶ。ぼくがついてるよ!」

「おお。俺もついてるぞ」

 ちいさな太一の手のひらと、大きな大輔の手のひら。二つの手のひらにくしゃくしゃに髪を撫でられ、友哉はまた、ほんのすこしだけ泣いてしまった。

 

【完】

2015.7.27