放課後、美準で。
「げんぱつせい こつしゅよう……?」
「ええ、骨にできる腫瘍です。おそらく悪性の可能性が高い」
「悪性の腫瘍って……ガンってことですか?」
「わかりやすくいえばそうです。早い段階で適切な治療を行えば、悪性であっても五年生存率は80%を超えますから。まずは生体検査を受け、すみやかに治療を始めるべきで
す」
隣に座る母親が、突然泣き崩れる。けたたましいその泣き声に、ようやく医師の言葉を現実味のものとして捉えることができた。
翌日から生活が激変するかと思ったけれど、そうでもなかった。一刻を争う状態だといわれたけれど、すぐに手術してもらえるわけではないようだ。
「手術は数か月先になるんだって? 悠長なもんだな」
息子が病気だとわかったせいか、朝食を一緒に摂ってから出かけることにしたようだ。 朝刊を片手に、父親が眉を吊り上げる。
「どこかよその病院を当たったほうがいいんじゃないかしら。ねえ、あなた、知り合いのお医者さまにお願いして、もっとはやく手術して貰える病院を紹介して貰えないかしら
」
昨日から母は、あやしげな宗教の勧誘を受けたらうっかり入信してしまいそうなくらいに憔悴している。なんとなく居づらくて、俺は朝飯を掻きこんで家を飛び出した。
学校に着くなり、担任の洋子先生に呼ばれ、部活や進学をどうするのか訊ねられた。
部活特待で進学先が決まっていたけれど、このままでは白紙に戻されてしまうだろう。
「特待の件は先方の判断にお任せします。受験に関しては、今からじゃ難しいかな、と」
率直に答えると、彼女は泣き崩れてしまった。
膝の痛みや手術への恐怖以上に、周囲の重苦しい反応が、たまらなく辛い。
授業中はいつも居眠りしていたから、教科書やノートを開いて板書をとるのは新鮮だった。だけど半日もすると板書をするのにも飽きはじめて、午後はぼんやりと窓の外を眺
めて過ごした。
まぶしいくらいに空が青い。体育館の窓枠が作り出す光と影の鮮烈なコントラストを想い、胸の端っこをジリッと焼かれたような錯覚に陥った。
もう二度とバスケをすることが出来ないかもしれない。ジワジワと沁みてくるその現実に、押し潰されてしまいそうだ。
部活がないと放課後なにもすることがない。かといってまっすぐ家に帰る気にもならない。
どこか時間を潰すことのできる場所はないだろうか。
野球部の暑苦しい掛け声、吹奏楽部のたどたどしい演奏。楽しそうにはしゃぐ女子の声。あらゆる音が、俺の苛立ちを加速させてゆく。
できるだけ静かな場所を探し求め、旧校舎に足が向いた。壁面に幾筋もひびが走る、古ぼけた二階建ての建物だ。以前は普通教室として使っていたようだが、いまは美術室や
家庭科室、情報実習室など特別教室として使われている。
校庭の片隅に立つそれらの教室は、放課後のいま、ひっそりと静まりかえっている。
「誰もいねぇのか」
どこかひと部屋くらい、鍵の開いている部屋はないだろうか。視線を巡らせていると、視界の隅でなにかが動いた。
「なんだ……?」
揺れるカーテンの向こうに誰かが立っている。窓に押し付けられるようにしてキスをされているその姿を目にした瞬間、ドクンと心臓が跳ねあがった。
(どっちも男、か……?)
キスされているのも男なら、覆い被さっているのも男だ。あまりにも奇異なその光景に、目が離せなくなった。
長い、長いキスだ。されている側の男の姿はよく見えないけれど、している側の男のほうは顔まではっきり見える。
「中崎――って、妻子持ちじゃねぇか」
かなり強引に迫っているようだ。女房も子どももいるやつが、いったいなにを考えているのだろう。気づけば無意識のうちに校舎に駆け込んでいた。膝に激痛が走ったけれど
、止まることができない。
「おい、なにやってんだ!」
勢いよく扉をひらくと、そこには向かい合って立つ男の姿があった。
中崎と――もう一人は見たことのない顔だ。二十代半ばくらいだろうか。すらりと背が高く、女子が大騒ぎしそうな整った顔立ちをしている。こんな教師、うちの学校にいた
だろうか。やわらかそうな素材のシャツを着崩し、細身のパンツを腰ばきしている。髪の色も少し明るめの栗色で、小洒落たその雰囲気は、あまり教員には見えそうになかった
。
「じゃあ、また」
軽く手をあげ、中崎は立ち去ろうとする。
「おい、ちょっと待てよ!」
引き留めようとして、その見慣れない男に邪魔をされた。
「なにか用? 用もないのに勝手に立ち入られても迷惑なんだけど」
「迷惑って……アンタ、いまあの男に……」
無理やりキスされてたんじゃないのか。と尋ねかけ、ぞくっと背筋につめたいものが走る。俺を見あげるその男の目が、なぜだかとてつもなく得体の知れないものに思えた。
なにかが違うと思った。やたらと顔立ちが整っているせいもあると思う。だけど、そんなことじゃない。なんだろう、これは――。
腰の奥が、じわりと熱くなるのがわかる。体温が一気に上昇したみたいに、手のひらに汗がにじむ。どんなに頑張っても、視線をそらせなくなった。
きれいな弧を描く眉に、切れ長の目を縁取る長くて濃い睫、すっと通った鼻筋と、少し潤んだような薄茶色の瞳。全体的に肉の薄い感じのする男の顔だちのなかで、淡く色づ
いた唇だけが妙に肉感的な存在感を放っている。
やわらかそうなその唇を、先刻まで中崎が貪っていた。脳裏に甦った光景に、ぶわりと全身の血液が沸騰しそうになる。
「ガキがいっちょ前に恫喝か。周囲に黙っていてほしかったら、金を払えって?」
「べ、べつに俺は……っ」
強請るつもりで駆け込んできたわけじゃない。この男が中崎に襲われているんじゃないかと思って助けに来ただけだ。だけどこの男のようすから考えて、『無理やり』じゃな
かったのだろう。二人はデキていて、合意のもとでしていた。そう考えるのが自然だ。
「金なんかいらない。ただ――」
「ただ……?」
ぐっと顔を近づけられ、ドクンと心臓が跳ねあがる。遠目に見ても恐ろしく整っているけれど、間近で見るとさらに迫力を感じる。
凛々しい顔立ちなのに、どうしてこんなにも艶っぽく感じられるのだろう。思わず見惚れてしまいそうになって、俺は慌てて目をそらした。
「場所が……欲しい」
「場所?」
「ああ。放課後、時間を潰せる場所。ここに匿ってくれたら、黙っていてやってもいい」
「馬鹿いうな。冗談じゃない」
「――じゃあ、さっき見たことを校長と中崎の奥さんにぶちまける」
払いのけた男の腕が思ったよりも細くて、その細さにぞくっと寒気が走った。
いったいなんだろう。この落ち着かない感じは。自分でもなにがしたいのかわからない。だけど、この男が中崎とキスするのを止めなくちゃいけない、と思った。
ガキのころのトラウマのせいかもしれない。小学生のころ、家の前に停まっている車のなかで、父親が見知らぬ若い女と抱き合っているのを目撃してしまったのだ。
ショックだった。裏切られたこと以上に、自分や母が捨てられてしまうのではないかと不安でたまらなかった。幸いなことに父は離婚を切り出すことなく、いまだに家族関係
は平穏なままだ。あのときの恐怖を中崎の子どもも味わうのだと思うと耐えられなかった。
「別に、アンタの邪魔はしない。ただ、その辺に寝転がらせてくれればいいんだ」
「寝転がるスペースなんかない」
「あるだろ。そこに椅子も机もたくさんある」
「お前……放課後に遊びに行く場所くらいないのか。彼女の家とか」
「うるさい。アンタに選択権はない。バラされたくないんだろ、中崎とのこと」
薄茶色の目を眇め、男は深く大きなため息を吐く。
「いつまで場所を貸してやればいいんだ」
「そんなに長くないと思う。きっと何週間とか、そのくらい」
いくらなんでも命にかかわる状態で、手術が何か月も先ということはないだろう。
「――勝手にしろ。そのかわり、騒がしくしたら即刻追い出すからな」
男はそういうと、俺に背を向けイーゼルの前に置かれた椅子に腰を下ろした。
「それ、アンタが書いたのか?」
「ガキにアンタ呼ばわりされる覚えはない」
「――それ、先生が書かれたんですか」
いい直すと、男は振りかえり、口の端だけで微かに笑った。肉感的な唇の口角が上がるさまに、思わず視線が吸い寄せられる。
「だったら、なんだ」
「凄いなぁって、思っただけです」
思ったままの言葉を口にすると、男の頬が微かに赤く染まった。
「お世辞とか、要らないから」
照れ臭そうに顔を背けるその姿が、なぜだか少し幼く見える。教師をしているということは大卒なのだろうが、学生かと思うような初々しさだ。
「お世辞じゃない。本当に凄い」
「絵のことなんか、なにもわからないくせに」
「わからない俺が見ても凄いと思う。それって、めちゃめちゃ凄いことじゃないですか」
カンバスに描かれているのは、夕やけだった。青と朱の混じりあうその空の下に、校舎と思しき建物のシルエットが浮かぶ。幾重にもつらなる雲と空のグラデーションに、胸
が締めつけられた。
そういえば、夕やけ空を最後に見上げたのは、いつだっただろうか。
いつだって部活が終わるころには、空には星が瞬いている。それ以前に、空を見上げる余裕なんて、まったくなかったように思う
無性に見たいと思った。きれいな夕空が見たい。夕空だけじゃない。青い空も星空も、海や山も、もう見えなくなるかもしれないと思うと、いろんなものが無性に見たくなる
。
「これ、ウチの学校じゃない」
「ああ、ここじゃないよ」
いったいどこの学校を描いたものなのだろう。どこにもなにも書いてないのに、なぜか学校だということだけはわかった。
「先生の母校?」
訊ねたけれど、返事はかえってこなかった。
「邪魔するなら、出ていけ」
振り返りもせず、男はそっけない声でいう。
「――おとなしく見学してます」
「見るな、ばか」
嫌そうにいいながらも、黙って見ているぶんには追い出されずに済んだ。
時折、先生の腰かけた椅子がみしっと音をたてる。それ以外には、ほとんどなんの音もしない静まりかえった美術準備室。絵の具の匂いだろうか。油と据えたような埃っぽい
匂いが入り混じったその香りが、なぜだかとても心地よく感じられた。
「恵吾、お前、骨腫瘍って本当なのか?」
翌朝、教室に行くと、クラスメイトが身を乗り出すようにしてそう尋ねてきた。
そのうちバレるだろうとは思っていたが、まさかたった一日で広まるとは思わなかった。
「誰がそんなこと……」
「洋子先生がいってたぞ。『大野くんは大変な病気だから、ふざけて飛びついたりしちゃダメですよ』って」
「恵吾くん、立ったままじゃ辛いんじゃない? ほら、はやく座って」
男子だけでなく女子まで集まってきて、そのうちの一人が突然泣きはじめてしまう。
鳩尾のあたりが、かっと熱くなる。悪気があってしていることじゃない。わかっていても、平静ではいられなかった。
「――サンキュ」
ぎこちなく笑顔を作りながらも、指先の震えを抑えることができなかった。
周囲にひたすら気を遣われ、あまりの息苦しさに窒息してしまいそうになった。向けられる笑顔もやさしい言葉も、なにもかもが俺を追い詰める。
まだ悪性と決まったわけじゃないのに、みんなのなかで自分はもう故人になってしまったのかもしれない。
終業のチャイムと同時に教室を飛び出す。誰かに呼び止められたけれど、聞こえないふりをした。
『なにかあったら心配だから、一緒に帰ろ』
にっこり微笑んでそんなことをいう女子に、いったいどんな言葉をかえせというのだろう。
思わず駆け出しそうになって、痛みに眉をしかめる。膝に抱えた爆弾は、自分の身体を蝕む猛毒かもしれない。そう思うと、ただ歩くだけでも不安でたまらなくなった。
家に帰れば、母からさらに重たい憐憫の目を向けられる。足は自然と旧校舎に向かった。
「こんにちは」
美術準備室の扉を開けると、あからさまに嫌そうな顔をした先生が立っていた。Tシャツにきれいな色味の半袖シャツを羽織ったその姿は、相変わらず教員には見えそうにな
い。
「なにしに来た」
「そんな嫌そうな顔、しないでくださいよ。ちゃんと差し入れも持ってきたんです」
薄茶色の瞳を不快げに細めた先生に、家から持参したチョコレートを差し出す。
「これは……」
有名なショコラティエのものらしい。先生はパッケージを見ただけで、それが希少なものだということがわかったようだ。
「なんで、チョコ?」
目を輝かせたあと、取り繕うように不愉快そうな顔に戻る。なんだかその姿が可愛らしくて、一瞬、吹き出してしまいそうになった。
「くずかごにチョコのごみが捨ててあったから。チョコ、好きなのかなぁと思って」
先生の目許に、さっと赤みがさす。
「別に――好きじゃない」
「そーですか。ま、好きでも嫌いでもいいんで。適当に喰っちゃってください」
「適当に喰っちゃえって、お前、こんな高価なもの、誰かからのプレゼントなんじゃないのか」
「や、単に、家に転がっていただけです」
嘘ではない。母が買ってきたものだ。
『ガッコに持ってっていい?』と訊いたら、母は『恵ちゃんが甘いものを欲しがるなんて珍しいわねぇ』と驚いた顔をして、『恋人が出来たのならちゃんとママに紹介しなさい
ね』と見当違いなことを呟いていた。
「家に転がってるって……お前の家、いったいどんな家だよ」
そんなに高価なものなのだろうか。先生はまだ受け取るのを躊躇っているけれど、そわそわしたそのようすから、相当チョコレートが好きなのだということが伝わってきた。
「俺も喰うんで。一緒に喰いません?」
そういって箱を開けると、ふたたび薄茶色の瞳に歓喜の色が浮かぶ。あわてて表情をあらためるその姿に、今度こそ吹き出さずにはいられなかった。
「な、なんだよっ」
「なんでもないです。このチョコも、そんなにチョコが好きなひとに喰ってもらえて本望だろうなぁと思って。先生、どれにします?」
「お、おれは別にチョコなんて……っ」
頬を赤らめるその姿に、さらに笑いがこみあげてくる。
「おま、なに笑って……」
トリュフをひとつつまみあげ、いつまで経っても食べようとしない先生の口内にぽいっと放り込む。すると先生の端正な顔が、まるでやわらかなトリュフが口のなかで蕩ける
みたいに、へにゃんと愛らしく緩んだ。
「ほら、やっぱりチョコ、好きなんじゃん」
「うるさいなぁ、だったらなんだってんだよ。――キモイ、とでもいいたいのか。ホモだから女々しい、とか思ってんだろう」
やっぱりそこをコンプレックスに思っているのか。不機嫌そうな顔をつくる先生に、俺は首を振ってみせた。
「そんなの全然思わないし。てか、俺も甘いもの、好きですよ。チョコはそんなでもないけど、焼き菓子とか結構好き」
「焼き菓子?」
「レモンケーキとか。甘酸っぱい系」
「レモンケーキ。渋いところつくなぁ。そんなもの、いまどきどこにも売ってないだろ」
今度は先生がおかしそうに吹き出す。笑うと片頬にえくぼができるようだ。余計に学生っぽい雰囲気になる。
「ンなことないですよ、おかんがよく買ってきます」
「おかんって。――お前、あれだよね。わざと汚い言葉、使ってるだろ」
「なにが」
「家ではちゃんと『母さん』っていってそう」
図星をさされ、思わず咳き込みそうになる。
「ち、違ぇよ。家でもおかんって……」
「はいはい。こんなチョコレートがおうちに転がっているようなご令息が、そんな言葉使うわけありません」
「てっめ……」
手首を掴んで睨みつけようとして、視線が重なりあった途端、ぶわりと身体中の血が沸騰したような錯覚に陥った。まっすぐ向けられた瞳から目がそらせなくなる。
脳裏に中崎と彼がキスしている光景が浮かびあがった。先生は、男とそういうことができるひとなんだ。そう思うと、頭のなかがぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくな
る。
「なに?」
不思議そうに俺を見あげる先生の、唇に視線が吸い寄せられた。ほんのりと色づいた唇は、そこだけが肉感的で妙に艶っぽく見える。
「な、なんでも……ねぇよ。てか、先生、なんでいつも独りでここにいんの。ウチ、美術部とかなかったっけ」
「ああ、昔あったみたいだけど。何年か前に当時顧問だった先生が女子生徒を妊娠させちゃったらしくて、廃部になったらしいよ」
「じゃあ、なんで先生は――」
尋ねかけ、中崎の姿が脳裏をよぎった。中崎と密会するために、ここにいるのだろうか。
「借りてるんだよ。ここ、わりと広いし。アトリエとして使わせてもらってる」
やんわりと俺の手を退け、先生は微笑んだ。
「チョコ、ありがとな。めちゃくちゃうまい」
俺に背を向け、カンバスに向かってしまう。
なんとなく手持無沙汰になって一粒チョコを食べてみたけれど、俺には甘いだけでどこが旨いのか、いまいちよくわからなかった。
翌日も、その翌日も、俺は授業を終えると真っ先に美術準備室に向かった。
さすがに毎回チョコレートを持っていくのも芸がない。二日目は紅茶を、三日目はシナモンスティックを土産に持って行った。
「なんなの、お前。おれを餌付けしても、なにもいいことないぞ」
不機嫌そうな顔をしながらも、先生は少しだけ嬉しそうだ。
「この店のセカンドフラッシュとか。お前のお袋さんはこんなものを日常遣いしてるのか」
「はあ、普通に飲んでますね」
小型冷蔵庫から牛乳を取り出し、先生はミルクティを淹れてくれた。濃いめに淹れて、シナモンスティックでかき混ぜる。甘さ控えめで薫り高いそれは、いままで飲んだどん
な紅茶よりもずっとおいしく感じられた。
「意外と甘いもの平気なんだな」
「いったじゃないですか。わりと好きだって」
そう答えると、無造作になにかを投げつけられる。慌ててキャッチしたそれは、愛らしい黄色い包み紙に包まれたレモンケーキだった。
「これでチャラな。なにを企んでるのか知らないけど、お前に借りをつくる気はない」
「別に、なにも企んでませんって」
答えながら、思わず少し笑ってしまった。この部屋にお邪魔させてもらっているから手土産を持ってきているだけなのに。ひとに親切にされることに慣れていないのだろうか
。
「さって、取り掛かるか」
あの夕焼けの絵は完成したのだろうか。カンバスには青い空と海が描かれている。
「それ、えぼし岩?」
「ああ、知り合いが店に飾りたいらしくてな。頼まれて描いてる」
学校の授業とはまったく関係のない絵を、ここで描いているようだ。
「校長や上の先生たちになにかいわれないの。教室を私用で使うな、とか」
「お前、ここの理事長の名前知ってる?」
入学式のときに一度だけ見たことがある。背の高い白髪の老紳士。確か名前は……。
「もしかして中崎って、理事長の息子?」
「そういうこと」
理事長の息子とデキているから、特別待遇なのだろうか。もしかしたらそのコネで、ここの先生になったのだろうか。私立だからそういうことも、あり得るのかもしれない。
「そろそろ集中したいんだけど。静かにしてられないなら、出てけよ」
先生は俺に背を向け、イーゼルの前の椅子に腰を下ろした。その薄い背中を眺めつつ、冷めかけたミルクティをひとくち飲む。とろんと濃厚なそれは、なぜだかさっき飲んだ
ときほどおいしく感じられなかった。
毎日押しかけ続ければ、二人の密会を阻止できるかもしれない。そう思い、俺はますます美術準備室に固執するようになった。
中崎の奥さんとガキが可哀想だから。ただ、それだけの理由だ。
家も学校も、どこにいても同情的な視線を投げかけられる。だけど美術準備室にいるときだけは、なにも考えずに寛ぐことができた。
午前中の授業が終わるのと同時に、教室を飛び出す。
早足で購買に向かい、人気のチョコチップメロンパンと焼きそばパン、カツサンドやハムサンドを入手する。先生が好きかもしれないと思い、チョココロネも買った。
パンのつまった袋を手に旧校舎に急ぐ。美準のカーテンがかすかに風に揺れ、その狭間から楽しそうに微笑む先生の姿が見えた。
「センセ――」
呼びかけたそのとき、ふいに、先生の向かいに座る男の姿が目に飛び込んできた。先生が蕩けそうな笑顔を向けている相手。それは中崎だった。
先生の手作りだろうか。弁当を広げ、二人で楽しそうに笑いあっている。カッと鳩尾のあたりが熱くなった。怒鳴りこんでやりたいけれど、教員同士でいっしょに昼食を摂る
のは、決しておかしな行為ではない。
「くっそ――」
理由の分からない怒りが腹の中を渦巻いて、無性に息苦しい気持ちになる。
大量に買い込んだパン。結局、先生に渡すことはできずに、俺はひとり、中庭のベンチでヤケクソになって平らげた。
翌日から、俺は昼休みも美術準備室に行くようになった。
「いったいなにしに来た」
授業終了後、大急ぎで駆けつけた俺に、先生はあからさまに嫌そうな顔を向ける。
「おかんが昨日、並ばないと買えないチョコブレットっての買ってきたから、センセーにおすそ分けしようと思って」
パン屋の袋を取り出すと、先生の表情がわずかに緩んだ。けれどもすぐに元の険しい顔に戻り、「おすそ分けなんていらないから、出てけ!」と俺の身体を押し退けようとす
る。
「今日の昼はここで食べるって決めたんです」
「そんなの勝手に――」
残念ながら俺の身長は187センチだ。先生も決して背が低いほうではないが、華奢なその身で俺を押し退けられるはずがない。
「軽くトーストすると、チョコが蕩けてめちゃめちゃうまいらしいですよ」
拒絶の意志表示を完全に無視して、勝手に机と椅子をひっぱり出してきて弁当を広げる。
「――ふざけるな」
不快げに眉を顰め、先生はスマホを取り出した。中崎に連絡しているのだろうか。きれいな指が液晶を辿ってゆく。寂しげなその横顔に、なぜだかギュッと胸が締め付けられ
た。
俺は、酷いことをしているのだろうか。
だけど俺が邪魔しなかったら、先生はどうなるというのだろう。中崎との愛が本物だとして、その関係に未来はあるのだろうか。理事長の息子ってことは、いつかこの学校の
理事に就任する可能性が高いということだ。そんな男が嫁や子どもを捨て、男の愛人といっしょになるなんてことがありえるだろうか。
「その弁当、中崎のために作って来たの?」
「別に、そんなのじゃない」
「じゃあ、俺にちょうだい」
「なんでお前なんかにっ……」
「だってそのままだと、捨てることになるんだろ。っていうか、差し入れてやれば。職員室に。先生だって教員なんだから、職員室に自由に入れるんだろ」
「そんなことしたら、ほかの先生方におかしいと思われるだろ」
「そのおかしいことを先生はしてるんだよね」
なめらかな先生の頬が、かっと赤く染まる。
「『男同士』ってとこじゃねぇよ。そこを差別してるわけじゃない。俺がおかしいっていってるのは、相手が『既婚者』ってとこだ」
俺の言葉に、先生はなんの反論もしない。ただじっと押し黙って靴先を見つめている。
「オレさ、ガキのころ親父の不倫現場を目撃して以来、ショックで親父に逆らうことができなくなったんだ。どんなときも顔色うかがって、精いっぱい頑張って嫌われないよう
に、捨てられないように生きてきた。ガキって、そういうのわかるんだよ。大人が思ってるほど鈍感じゃないんだ」
先生の細い肩が小刻みに震えはじめる。俺は二つ並んだ弁当の大きい方に手を伸ばした。
「捨てるくらいなら、俺にちょうだい」
なにかいいたげに口をひらく先生に、先手を打って告げる。
「中崎ンちのガキも、凄く苦しいと思う。俺、死ぬほど苦しかったから。親父のこと、いまだに心のどこかで信用できねぇんだ」
端正な先生の顔が悲痛げに歪んだ。いい過ぎただろうか。だけどきっと、どこかで止めなくちゃ先生はずっと苦しいままだ。
「勝手に……しろ」
俺に背を向け、先生はひとりで弁当を食べはじめる。
弁当箱を開けると、母がつくる弁当に負けないくらい手の込んだおかずが並んでいた。きんぴらや高野豆腐の煮物に、出し巻き卵に鶏の松風焼き、いんげんの胡麻和えにきの
この炊き込みご飯。あの男のために、わざわざ毎日早起きして作っているのだろうか。
出し巻きをほおばってみると、ふわりと柔らかく絶妙な塩加減でとても美味しかった。
「この出し巻き卵、ふわっふわでめちゃめちゃ美味しい!」
黙々と箸を動かしていた先生が、びくっと動きを止める。まだ怒っているみたいだ。俺は無視されつづけながらも、おかずを食べるたびに感想をいいつづけた。
それ以来、俺は放課後だけでなく昼休みにも美準に通うようになった。俺に襲撃されることがわかっているだろうに、先生は中崎のために弁当を作り続けている。周囲にバレ
ないようこっそりと手渡す器用さは持ち合わせていないようだ。精魂込めて作ったその弁当は、毎回、俺に平らげられてしまっている。
「先生、怒ってる?」
「怒ったらやめてくれるのか」
せめてものお詫びに、俺は先生の好きそうなおやつを買っていった。どんなに不機嫌そうな顔をしていても、先生は美味しいものを食べると少し表情がやわらかくなる。その
微かな笑顔を見るのが、なによりの楽しみになった。先生のことを考えているときだけ、病気に対する不安を忘れていられる。
「これ、明日の分のおやつ」
「明日は来ないのか」
俺の不在を喜ぶかと思ったのに。意外にも先生は浮かない顔をしたままだった。
「ちょっと用事があって明日は学校休むんだ」
「これ、またお袋さんが買ってきたやつか」
「いや、それは俺が選んで買ってきたやつ。先生が好きそうだなぁって思って」
ここ最近は、家から持ち出したおやつではなく、自分で探して買ってきたおやつを持参している。先生が好きそうなお菓子を探すのも、楽しみのひとつなのだ。
「わざわざ大船まで行ったのか」
「この前、先生ここのクッキー喰ったとき、すっげぇしあわせそうな顔してただろ。だから、ここのマドレーヌも好きかもなぁって思って」
先生は何かいいたげに俺を見あげ、何もいわずにふわりと笑った。その笑顔が普段俺に向けるそっけない顔とは全然違う顔で、思わず息をのむ。
「ありがたく受け取っとく。だけど無駄遣いするなよ。こんなもの持ってこなくたって、出て行けなんていわないから」
マドレーヌをそっと両手で包み込み、先生はまっすぐ俺を見つめた。その視線に、いつもの険しさはない。
その白い頬に触れそうになって、くるりと背を向けられた。触れそこなった手のひらが中途半端に中空をさまよう。
「んー」と猫のように、先生はしなやかな伸びをした。その細い腰に、自然と目が釘付けになる。
「そろそろ昼休み、終わるぞ」
「え、あ、ああ……えっと、先生。もしかしたら、俺、明後日も来れないかもしれないけど。しあさってとか、その先になるかもしれないけど。またここに来てもいい?」
「来るなっていったって、勝手に来るんだろ」
振り返らず、先生はそっけなく答える。耳触りのいい先生の声に、予鈴が重なった。
「さっさと行けよ。授業はじまる」
「ああ、行くよ」
教室を出て行こうとしたそのとき、先生が不意打ちのようになにかを投げつけてきた。
「お礼にやる。もってけ」
受け止めたそれは、レモンケーキだった。前に買ってきてくれたのとは別の店のやつだ。
俺のために買ってきてくれたのだろうか。そう思うと、なんだかとても嬉しい。
先生は俺に背を向けたまま、カンバスに筆を走らせている。その背中に一礼して、俺は美術準備室を後にした。
翌日、俺は川崎の総合病院で生体検査前の精密検査を受けた。骨シンチグラフィーや造影MRI、何本も注射を打たれ、ほぼ一日がかりだった。
結果がわかるまで一週間以上かかるようだ。膝に負担をかけないよう、今後は松葉づえを使わなくてはならないのだという。
「学校、しばらくお休みしたほうがいいんじゃない?」
母にはそういわれたけれど、一日じゅう家のなかでじっとしているなんて耐えられそうにない。
松葉づえをついた俺を見て、教室内が騒然となった。啜り泣く声まで聞こえてきて、居心地の悪さがさらに加速する。
「先生に、なんていおうかな」
階段から足を踏み外して足をひねった、とでもいおうか。嘘を吐く後ろめたさを感じながらも、美準に行かずにはいられなかった。
自立でおやつを探しに行けず、家にあったラスクを手に先生の元へ向かう。松葉づえをついた俺に一瞬ぎょっとしながらも、先生はすぐにいつも通りの飄々とした顔に戻った
。無言のまま弁当箱を差し出してくる。
「あれ……」
おかずのラインナップがいつもと違う。チューリップの唐揚げに煮込みハンバーグ。ごはんの部分はおいしそうなオムライスだ。
「どうせお前に喰われるんだから、『ガキの餌』仕様にしておいてやった」
言葉は乱暴だけれど、照れくさそうなその表情がなんだかとても可愛らしい。
「あ、ありがとうございますっ……」
学生向けを通り越してお子さまランチのようになってしまっているけれど、それでも自分のために作ってくれたのだと思うと嬉しくてたまらない。検査結果に対する不安と、
周囲から向けられる憐憫の眼差し。すっかりこわばっていた心が、先生のおかげでやわらかくほどけてゆく。
「今日のデザートなに」
「ラスク。ホワイトチョコかかってるやつ」
「おお、そうか、もう十月か。っていうかお前のお袋さんの食べ物の趣味は本当にいいな」
冬季限定商品なのだそうだ。先生は嬉しそうに顔をほころばせる。なぜだか先生は、松葉づえについて触れてはこなかった。
「サイズ的には決して大きくないのですが、おそらく悪性とみて間違いないでしょう。一週間後、切開手術による生体検査を行います。入院が必要になりますから、カウンセリ
ング室で説明を受けて帰ってください」
医師からそう告げられ、いまいち実感がわかないまま、診察室を後にする。
院内では気丈に振舞っていた母が、タクシーに乗り込んだ途端、声を殺して泣きはじめた。
「単なる検査入院だ。心配することないって」
そういいながらも、『悪性とみて間違いないでしょう』という医師の言葉に、俺自身も落ち込まずにはいられなかった。
自宅に着くなり、その足で学校へと向かう。表向きは、心配してくれている担任の先生に病状を報告するため。だけど実際には、単に美準に行きたいだけだ。
いつのまにか日が暮れるのが早くなった。そういえば毎年月見団子をつくる母が、今年は作らなかった。藍色の空に浮かぶまぁるい月を見上げ、少し苦い気持ちになる。
職員室に行くと、洋子先生はもう帰ったあとだった。
「大丈夫か、お前も早く帰れよ」
隣のクラスの先生にいわれ、職員室をあとにする。旧校舎まではいくつかの階段と渡り廊下を超えてゆかなくてはならない。薄暗いなか、松葉づえを使って移動するのは大変
だったけれど、俺はまっすぐ美準を目指した。
カーテンの隙間から灯りが漏れている。
よかった、まだいるんだ。――嬉しくて駆け出してしまいそうになった。危うく転びそうになり、慌てて体勢を立て直す。ゆっくり、一歩一歩旧校舎の廊下を進むと、ふいに
ミシミシとなにかが軋むような音が聞こえてきた。
「ぁっ……はぁっ……ゃ……ぁ」
かすかに響く艶めかしい吐息。気配を殺し、そっと扉に手をかける。顔をくっつけるようにしてなかを覗きこむと、とんでもない光景が視界に飛び込んできた。
机につっぷした先生を、中崎が背後から貫いている。押し殺したような先生の喘ぎ声と、机の軋む音。リズミカルに響く肉を打つ音が行為の激しさを物語っている。
「真斗(まなと)、出すぞ」
低い声で囁き、中崎はさらに激しく腰を打ちつけた。上体を机に押しつけられ、めちゃくちゃに貫かれながらも、先生は必死で声を押し殺している。
永遠に続くかと思われた長い突き上げが、唐突に終わりを遂げる。中崎は低く呻くと、先生から身体を離した。くつろげていたズボンの前を正し、手早く身支度を整える。ま
だ先生がぐったりと倒れ込んでいる状態だというのに、教室の外に出てこようとした。
「まずいっ……」
廊下の片隅に置かれた掃除用具入れのなかに飛び込んで身を隠す。足音が消えるまで待って俺は外に出た。
もしかしたら、先生ももう行ってしまっただろうか。そっと美準の扉をひらくと、先生は先刻と同じ体勢のまま、ぐったりと机に倒れていた。ズボンも下着も引き下ろされ、
下半身はむき出しのままだ。白くなめらかな内腿に、中崎のものと思しき白濁が伝っている。
(あの野郎、後始末もせずに出ていきやがったのか)
「先生……」
見て見ぬふりをしなくちゃいけない。そのことがわかっていながらも、止まらなかった。
ぎょっとした顔で振りかえり、先生は身体を起こそうとする。力が入らないらしく、ふらりと倒れて机に顔をぶつけてしまった。松葉づえを放り投げ、俺は先生に駆け寄る。
「大丈夫か、先生っ」
抱き起そうとして、その手を振り払われた。
「触るなっ……」
俺を睨みつける先生の目が、真っ赤に充血していた。潤んだその瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「フリンでも、ちゃんと愛し合ってるなら、仕方ねぇのかもなって思った。だけどあんなの、おかしいだろ。先生、あの男に遊ばれてるんじゃないのか」
こんな状態の恋人を残し、そそくさと立ち去ってしまうなんて。どう考えたって相手を大切にしているようには思えそうになかった。
「別に――遊びでも、いい」
掠れた声で、先生はそういった。まだうまく呼吸ができないみたいだ。ぜぇぜぇと肩を大きく上下させている。華奢な喉仏が震えるさまに、無性に胸が苦しくなった。
「嘘ばっか。そんなつらそうな顔して、なにが遊びでもいいだ。馬鹿じゃないのか、先生」
「うるさい。ガキになにがわかる」
「ガキでもわかることすら見えなくなっちまってんだろうが。冷静に考えてみろよ。先生が辛そうにしてるのにひとりで帰っちまうなんて。あんなのどう考えたっておかしいだ
ろ」
先生はよろめきながら立ち上がると、俺の頬に思いきり平手打ちをした。
「殴って気が済むなら、いくらでも殴れよ。だけどちゃんと、目ぇ覚ましたほうがいい。あんなのは、絶対におかしい」
俺だったら、絶対にこんな酷いことしない。汚してしまった先生の身体をきれいに拭き清め、辛そうな身体を抱きあげて、ちゃんと落ち着くまでそばにいてあげる。
(って、俺、なにを考えてるんだ――)
頭のなかで思い描いたこと。気づけば実際に行動に移してしまっていた。先生の身体を抱き上げ、その首筋に唇を埋める。かすかな汗の匂いに涙腺が緩んでしまいそうになっ
た。
「俺なら、もっと先生を大切にする。絶対に泣かせたりしない。だから――」
自分でも、なにがしたいのかわからなかった。その先につづく言葉が思いつかない。無意識のうちに先生の顎を掴み、頬を濡らす涙を舐めとってその唇を塞ぐ。
「――っ」
思いきり胸を突き飛ばされ、それでも止まらない。抵抗ごと封じ込め、先生の唇に自分の唇を押し当て続ける。しばらくそうしていると、唐突に唇を噛まれた。
「いてっ……」
怯んだ隙に、ふたたび突き飛ばされる。不意打ちをくらってよろめいた俺の腕から逃れると、先生は教室を飛び出して行ってしまった。
ひとり残された美術準備室。先生と中崎の行為を見てしまったショック以上に、自分のしてしまったとんでもない行動に、俺は呆然とその場にへたり込んでしまった。
『俺ならもっと先生を大切にする』って――。
あれじゃ、まるで愛の告白だ。俺はいったいなにを考えているのだろう。ホモなんかじゃないのに、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
ホモじゃない。ホモじゃない。何度も繰りかえし唱え続け、気づけば心のなかで呟いているつもりが、声に出してしまっていた。
電車内で知らないおっさんにぎょっとした顔をされ、慌てて咳払いをする。
(そうだ。俺は、ホモなんかじゃない……)
だけど先生が中崎に抱かれるのは耐えられないし、大事に扱われていないのはもっと腹が立つ。手の込んだ弁当を作り、あの部屋でひとり、中崎が来るのを待ち続けている先
生。それなのに、どうしてあの男はあんな酷いことをするのだろう。
未来の理事長。きっと奥さんや子供と別れる気など毛頭ないのだろう。それなのに先生の心を独り占めして、身体まであんなふうに踏みにじる。
「先生は、アレでいいのか」
先生がしあわせなら、周囲が口を出すことではないのかもしれない。だけどどこからどう見たって、しあわせそうには見えなかった。
「どのツラ下げてきた」
翌日、美術準備室に向かうと思いきり嫌そうな顔でいわれた。
「このツラです。そこそこ男前だと思いませんか」
勝手に机と椅子を引っ張り出して腰を下ろす。さすがに今日は弁当をもらえないだろうと思ったのに、なぜかちゃんと用意されていた。おまけに生姜焼きと焼きうどんという
、どう考えてもガッツリな俺向けの献立だ。
「めっちゃうまい。先生、やっぱ料理上手いですよね。料理上手だし、見た目もいいし、普通にモテそうなのに……なんで不倫なんかしてるんですか」
ずっと聞きたかったこと。ついでのようにさりげなくつけ加え、先生のようすを窺う。
「別に、最初から不倫だったわけじゃない」
目も合わせず、面倒くさそうにいわれてしまった。
「長いんですか、中崎先生と」
「なぜそんなことを、お前に話さなくちゃならないんだ」
「なぜって、聞いて欲しそうな顔してるから」
「べ、べつにそんな顔、してない」
そっぽを向いたその頬が、かぁっと赤く染まる。もしかしたら中崎先生への想いを誰にも明かせず、苦しんでいるのだろうか。
「俺が先生の恋人なら、先生を残して結婚したりしないし、哀しそうな顔なんかさせない」
ひと晩じゅう考え続けてわかったこと。俺はまっすぐ薄茶色の瞳を見つめて伝えた。
「俺は、真斗先生のことが好きです。先生は俺みたいなガキ、眼中にないかもしれないけど。あんなやつより、絶対に先生を大切にする自信がある」
「馬鹿じゃないのか。お前が、おれのなにを知ってるっていうんだ。大人をからかうのもいい加減にしろ」
「からかってなんかない。本気です」
手首を掴み引き寄せる。唇を重ね合わせると、びくんと先生の身体が跳ねあがった。俺の身体を払いのけかけ、その手が止まる。受け容れて貰えたのだろうか。そっと唇に舌
を這わせると、思いきり突き飛ばされた。不意打ちの抵抗に思わずよろめく。転んでしまった俺の脇に、先生は血相を変えて駆けつけた。
「大丈夫か、大野っ」
「――先生、俺の名前、知ってんの……?」
怪我のことを知られてしまうのではないかと不安だったから、あえて名乗らなかったのに。いつのまに知られていたのだろう。
「もしかして病気のことも、知ってるとか?」
愕然とした俺に先生はなにも答えなかった。
「同情して、ここにいさせてくれただけだったの? 弁当作ってくれたのも、俺が近々死ぬかもしれないから?」
「違う。同情なんかじゃなくて――」
「いいよ、同情でも。同情でもいいから、先生、俺に先生を抱かせてよ」
その腕を掴み、もう一度引き寄せる。そっと唇を重ね合わせると、先生は身体をこわばらせ、俺の胸を押し退けようとした。抵抗を封じ込めるように強く抱きこむと、その腕
から力が抜けてゆく。きつく閉ざされていた先生の唇が、かすかにひらく。おそるおそる舌を這わせると、今度は抵抗されなかった。
(俺が転ぶと危ないと思ってるせいかな……)
先生にだけは、病気のことを知られたくなかった。向けられる優しさが全部、同情によるものだとわかってショックだったけれど、それでも構わないと思ってしまうくらいに
先生とキスしたいと思った。キスして、抱きしめて、少しでも先生のなかの中崎への想いが薄らいでくれたらいい。
「――っ」
未経験者の俺と違って、きっと先生は数えきれないくらいたくさんキスしてるんだと思う。それなのになぜか真斗先生の身体は、ふるふると小刻みに震えていた。
(好きじゃない相手との、キスだからかな)
そんなふうに思いながらも止まらなかった。ゆっくりと舌を差し入れると、濡れた口内は驚くほど熱く柔らかかった。唇も柔らかいけれど、なかはもっと蕩けるように柔らか
い。
「せ、んせ……っ」
ぶわりとなにかが弾け飛んだ。先生を床に押し倒し、その上に馬乗りになる。
「ばか……膝に負担をかけたらダメだろ」
先生は俺の膝の下に自分の手のひらを差し入れようとした。硬い床に直接当たると危ないと思ったのかもしれない。俺の体重なんか支えきれるはずがないのに。それでも必死
で俺を庇おうとするその姿に、今度こそ完全に理性がぶっ飛んだ。
「ダメだ、もう、先生。好き過ぎる。真斗先生、お願いだから、俺の恋人になって!」
片膝を浮かせ、勢いよくそのまま先生の上に覆い被さる。
「よせ、なに考えてんだっ。未成年者の分際で、こんな……」
「なに。未成年者じゃなかったら、俺と付き合ってくれるの?」
「ち、ちが、そういう意味じゃなくてっ……」
先生の頬が、ふたたび真っ赤に染まった。
「大体付き合うって、男同志だぞ。異性とは違うんだ。そんな簡単にいうな」
「変わんないでしょ。男同士だろうが異性だろうが。お互いに好きあって、デートしたり、キスして抱きあったり。なにが違うの?」
薄茶色の瞳が躊躇うように揺れる。先生は俺の手のひらを退け、ため息交じりにいった。
「全然違う。異性の恋人と違って結婚できないし、誰からも祝福されない。親にも友たちにも明かせないし、手を繋いで街を歩くことさえできない」
「そんなの、人によるんじゃねぇの。結婚はできないかもしれないけど、親や友達には紹介しようと思えば出来ると思うし、それに、手なんか人前で繋がなくたって、二人きり
のときにいっぱい繋げばいい。っていうか、俺ならどんなにまわりから変な目で見られても、先生と手を繋いで歩きたいって思うけどね」
「お前はガキだから、そういうことがいえるんだ。親に同性の恋人なんか会わせてみろ。発狂されるに決まってるだろ。大体、お前、いいとこの坊ちゃんなんだろ」
「別にそんなことない」
「嘘つくな。親父さん、なにしてる人だ」
父親は弁護士だ。一般的に考えたら『いい家柄』って思われるのかもしれないけれど、俺自身が弁護士なわけではないし関係ない。
「あー、もういいよ。そういうまどろっこしいのいいから。先生はどうなの。俺にキスされて嫌なの。いつ死ぬかわかんない可哀そうなガキだから、仕方なくさせてくれてんの
」
「ち、ちがっ……人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。同情でキスなんかできるかっ」
「じゃあ、なに。俺のこと少しは好いてくれてるってこと? キスを許す程度には」
膝をついて身を乗り出そうとして、さっと俺の膝の下に先生が自分の両手を挟み込んだ。そんなことをしたら痛いだろうに。どうしても俺の膝が心配で仕方がないみたいだ。
「あのさ、先生のそういう仕草ひとつひとつが、俺の理性をブチ壊しちまうんだけど」
耳元に唇を押し当てるようにして囁くと、先生の顔がこれ以上ないくらいに真っ赤に染まった。
「だって、お前になにかあったらって思うと」
先生のポケットから、ぽろりとスマホが転げ落ちる。床の上で振動するスマホ。液晶画面には中崎の名前が表示されていた。
「電話かかってきてるよ。出なくていいの」
「――いい」
「どうして。恋人からの電話なのに?」
俺の問いかけに、先生はなにも答えようとしなかった。どんなに無視しつづけても、スマホは震えつづける。
「出なよ、先生」
「出ない」
「俺のいないところで、かけ直したいから?」
そう訊ねると、先生は不快げに眉間にしわを寄せた。そしておもむろにスマホを掴み、応答拒否ボタンを押す。通話画面を閉じると、ブラウザが表示された。『骨腫瘍の諸症
状』。画面に表示された文字に、思わず目を見張る。
「先生、ちょっと、それ貸して」
「わ、ばか、触るなっ……」
素早く先生のスマホを奪い、ブラウザのタブをざっと見渡すと、そのどれもが骨腫瘍に関するページだった。
「なんで……」
「なんでって……おれだって教師の端くれなんだ。たいせつな生徒さんをお預かりしている以上、なにかあったら親御さんにしめしがつかないだろう」
先生はもっともらしい口調でそういった。だけどいつもどおりロンTにカーデを羽織っただけのラフな服装だし、顔立ちもきれいすぎて先生の威厳が感じられない。いまにも
泣き出しそうなその顔は、どこからどう見ても生徒の心配をする先生の顔には見えなかった。
「もしかしてずっと……俺の病気のこと知ってて、気づかないふりしてくれてたの……?」
「――どうしてこんな場所に入り浸るのか気になったんだ。お前が学校を休んだあの日、お前のクラスのようすを見に行って、すぐに理由がわかったよ」
俺が検査のために休んだあの日、クラスの女子たちが集まって泣いていたのだという。
『大野くん、死んじゃうの?』
『まだ悪性って決まったわけじゃないよ』
『でも、おっきな病院に精密検査に行ったんでしょ。それってヤバいってことじゃ……』
教室の外まで聞こえてくる彼女たちの声に、すべてを理解したのだそうだ。
「同情なんて欠片もしてない。そういうことじゃないんだ。ただ――お前にとって、ここを気張らずに過ごせる快適な場所にしてやりたかっただけだ」
「どうして……?」
「どうしてって……」
照れくさそうに、先生の頬が染まる。
「俺のことが、好きだから?」
「ば、ばかっ……ちが、未成年者のお前なんか……好きになったりしないっ」
慌てふためく先生の姿があまりにも可愛らしくて、思わず吹き出してしまいそうになる。
「センセ、さっきからそればっかだね。俺のことを拒絶する一番の理由は、そこ?」
「あ、当たり前だっ……未成年者なんかと、付き合えるわけないだろっ」
「なんか勘違いしてない? 俺、確かにいまは未成年者だけど。来年は十九だし、再来年はハタチだよ。すぐに成人して大人になる」
「馬鹿だろ。お前が大人になるぶん、おれはおっさんになるんだぞ」
「おっさんって。先生、幾つ。二十三とか、四とか、そんくらいでしょ」
「――二十八」
「えっ?! マジ?」
「ほら、引いたじゃないか。しかも誕生日が来ると二十九。お前より十一個も上だ」
「全然引かない。や、全然平気だって。それにほら、俺のが先に髪なくなると思うし」
悪性だと確定すれば、すぐに抗がん剤投与がはじまる。さらりといったつもりだったけれど、先生は真剣な顔で首を振った。
「そんなの一時的なものだ。すぐにちゃんと生えてくるから、心配する必要ない」
「だけどたぶん、そんな状態でガッコきたら、また同情の嵐だよね」
「同情したい奴にはさせておけ。つらかったら、いつだってここに逃げてくればいいんだ」
「ありがとう。だけど正直、帰ってこれるかどうか怪しいっぽいよ。悪性だったら、何か月も入院しなくちゃいけないみたいなんだ。手術の前に抗がん剤投与があって、手術の
あともまた何か月か投与して……最短で半年以上、最長で一年半くらいかかるって」
「大人の縮尺舐めんな。半年も一年半も、二十八から見たら一瞬だ。幾らだって待っててやるから、じっくり治して来い」
くしゃりと俺の髪を撫で、先生はいった。
「ガッコ、やめなくていいのかな」
「親御さんに相談して、経済的に許されるのなら休学にして貰え。大丈夫、お前のことを悪くいう奴なんて絶対にいない。一個下の奴らと机ならべるの嫌だって思うかもしれな
いけど、高校卒業したらそんなの全然普通のことになるから。大学なんて一浪二浪は当たり前だし、十歳くらい年違うのもいたりする。だからなにも気にする必要なんかないん
だ」
ゆるゆると俺の髪を撫でながら、先生はそういった。誰かに髪を撫でられるなんて物心がついて以来初めてで、なんだかちょっと照れくさい。
「覚えといてよ、先生。俺の髪の感触。抜けてなくなっちゃうかもしれないから」
「抜けたって、すぐに生えてくるよ。大丈夫、すぐに生えてくる」
誰にも弱音を吐かないようにしていたのに。ひとたび口をついて出ると、止まらなかった。
「正直にいえば、怖い。死ぬかも、足なくなっちゃうかもって思うと……頭がおかしくなりそうなんだ」
「怖くて当然だ。だけど大丈夫。ちゃんと大きな病院で診てもらえるんだろ。お前みたいに運の強そうなやつ、絶対にどうかなったりしないよ。それにもし仮に足がなくなった
としても――俺は絶対にそのことで大野のことを嫌いになったりしない」
「先生……やっぱ俺のこと、好きなんだ」
「ちがっ……いまのは言葉のあやで……」
慌てふためく先生を、そっと抱きしめる。
「いいよ、返事はいまじゃなくていい。病院から帰ってきたら告白するから。そのときはもう、俺、十八歳未満とかじゃないし。ちゃんと先生の気持ちを訊かせて」
先生の頬を手のひらで包み込むと、くすぐったそうに薄茶色の瞳が細められた。その仕草の愛らしさに、ぎゅっと胸が苦しくなる。
「先生、キスしてもいい?」
「駄目っていったらしないのか」
「ううん、する」
顔を見合わせあって、少し笑った。先生の笑顔をしばらく眺めたあと、そっと唇を重ね合わせる。先生は俺のキスを受け容れながら、やさしく髪を撫で続けてくれた。
「ほら、予鈴が鳴った。もう帰らなくちゃ駄目だ」
名残惜しさを感じながら、先生の身体から手を離す。最後にちゅ、と額にくちづけて、俺は立ち上がった。
「じゃあ、放課後」
「ああ、気をつけてな」
先生に見送られ、美術準備室を後にする。すると、旧校舎の入り口に中崎が立っていた。
「校内で教師を口説くとは、いい度胸だな」
低い声で囁かれ、胸倉を掴まれる。引きずるようにして情報実習室に連れ込まれた。
「きょうび、美術講師志望者なんて掃いて捨てるほどいるんだ。不祥事が発覚すれば、一瞬でお払い箱だよ」
中崎はそういって、スマホの画面を俺の目の前にかざして見せた。あの部屋に監視カメラでもつけているのだろうか。そこには俺と抱きあう先生の姿が映し出されていた。
「お前が二度とあれに手を出さないと誓うなら、見逃してやってもいい 」
「自分の不貞を棚上げして、脅迫ですか」
「なんとでもいうがいいさ。この学校から排除するだけじゃない。私の采配ひとつで真斗を社会的に抹殺することだってできるんだ。知っているか。あれは最近、少しずつだが
名が売れ始めているところなんだ。教え子への淫行。芸術家としての未来をこんな馬鹿なことで断たれることになるとはな」
「――っ、どうすれば……いいんですか」
「簡単なことだ。二度と真斗に手を出すな。お前、骨腫瘍なんだってな。このままじゃ高校卒業だって難しいんじゃないのか。芸術家にはパトロンが必要なんだ。自分のことさ
えままならないようなお前に、真斗を養うことなんかできやしないよ」
冷ややかな声音でいうと、中崎は俺の顎を掴み、ぐっと押し上げた。
「いいな、金輪際、真斗には近づくな。今度手を出したら、真斗だけでなく、お前自身もこの学校にいられないようにしてやる」
掴まれた顎に、鈍い痛みが走る。物理的な痛み以上に、中崎にいわれた言葉が重くのしかかってきた。
自分のことさえままならない。
確かにそうだ。この先、病に打ち勝ったとしてもハンディキャップを抱えて生きていくことになる。切断した場合は勿論、人工関節置換後も状態によっては障害等級がつくのだ
。
「就職も不利になるってことだよな」
低学歴なうえに障がいを抱えていたら、働き口を見つけるのも大変ではないだろうか。
「諦めなくちゃ、いけないのかな」
自分さえ身を引けば、真斗先生はこれからもこの学校で働き続けることができる。中崎の庇護のもと、創作活動に打ち込むことができるだろう。
「名が売れ始めてきてるって、いってたもんな。きっと、いまが大切なときなんだよな」
そういえば何年か前に、未成年者に手を出して芸能界を追放されたお笑い芸人がいた。あんなふうに、先生も芸術の世界から追放されてしまったりするのだろうか。
真斗先生のことが好きだ。だからこそ――先生には、幸せになってもらいたい。
自分が身を引くことで先生が幸せになれるのなら、そうするべきではないだろうか。
胸が堪らなく痛い。あまりの息苦しさに、俺はその日、はじめて早退してしまった。
翌日、俺は学校を休んだ。その次の日も、さらに次の日も休んだ。結局、入院の日まで一度も学校には顔を出さなかった。
家で引きこもっているあいだ、ベッドに寝転がって真斗先生のことばかり考えていた。
先生に逢いたい。
だけど、そうすることで先生の未来や今の生活を壊してしまうことが堪らなく怖い。
「先生……」
はつ恋は実らないという。この想いは、忘れてしまう以外、道がないのだろうか。
ふと窓の外に目を向けると、空がすっかり茜色に染まっていた。はじめて美術準備室に行ったとき、カンバスに描かれていた先生の絵みたいに、きれいな夕焼けだ。思わず窓
を開き、身を乗り出すようにして空を見上げる。
「すっげぇ綺麗」
こんな夕空を、先生といっしょに見上げてみたかった。夕空だけじゃない。入道雲の浮かぶ真っ青な夏空も、満天の星空も、先生といっしょに見てみたかった。
「結局、あの部屋のなかでしか逢えなかったな」
監視カメラのついた、檻のような場所。
あんな場所に囲われて、一方的に身体を踏み躙られて――真斗先生は本当にしあわせなのだろうか。
「やっぱり駄目だ。諦められるわけがない」
退学になったって構わない。なんとかして、真斗先生に目を覚まして貰いたかった。
「中崎のような身勝手な野郎より、絶対に俺のほうが先生を幸せにできる」
学校を休んでいるあいだ、色々と考え続けた。どうしたら先生を幸せに出来るか。どうすれば障がいがあっても、健常者と同じように安定した収入を得ることができるか。
「障がいがあったって、ちゃんと自立しているひとは沢山いるんだ」
父の知人で、車いすの弁護士がいる。交通事故で両足を失った彼は、同じように事故に遭い苦しんでいる人や、障がいや病気を抱えて大変な思いをしている人たちの弁護を中
心に活躍しているようだ。
「中学受験以降、まともに勉強なんてしてないけど……元々は勉強が嫌いだったわけじゃないんだよな」
バスケにぶつけていた情熱をすべて勉強に向ければ、司法試験を突破することだってできるかもしれない。
「っていうか、先生のことを諦めるより、絶対、そっちのほうが楽勝だ」
もし先生が中崎を選ぶのなら、その選択を受け入れるしかない。だけど俺はまだ一度も先生の気持ちを聞いていないのだ。怖くて逢うことができないまま、逃げ出してしまっ
た。
「行かなくちゃ」
手術の前に、逢わなくちゃいけないと思った。逢って、先生の想いを確かめたい。
松葉杖を手に、部屋の外に飛び出す。
「ちょっと恵ちゃん、どこに行くの。明日は入院の日なのよ。安静にしてなくちゃ駄目」
母の制止を振り切り外に出ると、すっかり日が落ち、日中の温かさが嘘のように寒かった。
「さっむ……」
こんなとき、以前なら駆け足で移動したけれど、いまは走ることさえできない。一歩、一歩、松葉杖をついて進んでゆく。向かった先は学校だ。駅のエスカレーター、ホーム
の段差、さまざまな場所に苦戦しながら、ひたすら美術準備室を目指す。
すでに十八時半を回っている。もしかしたら、先生は中崎に抱かれている最中だろうか。それでも構わない。どうしても、入院前に先生に逢いたかった。
北風にぶるりと身を震わせながら、電車を待つ。車内に乗り込むのもひと苦労だ。
やっとのことで学校の最寄り駅にたどり着くと、バスケ部の連中と遭遇してしまった。
「恵吾、どうした。お前、もう入院してるんじゃなかったのか」
「いや、入院は明日からだよ」
「なんか……ごめんな。俺らが騒いだせいで、恵吾、ガッコ来づらくなったんじゃないか。俺たちお前が病気だって知って、すげぇショックで。だけど冷静に考えたら、一番シ
ョックなのは恵吾自身なんだよな。そんなこともわからずに……本当にごめん」
とつぜん頭を下げられ、慌てて首を振る。
「別に、ガッコ休んだのはお前らのせいとかそんなのじゃないし。っていうか――寧ろなんか、俺のほうこそ気ぃ遣わせて悪ぃ」
もし自分が彼らの側だったら、どうだっただろう。クラスメイト、しかも仲のいい友人が、いきなり命に係わる病気にかかっても平静でいられただろうか。
「お見舞いも、すげぇみんな行きたがってるけど、俺らバスケ部の人間で止めようと思ってるから。なんかお前を余計に苦しめるんじゃないかって、心配になって……」
きっと気づかれていたのだろう。俺がつらそうにしていることも、彼らのことを避けていたことも。全部わかっていて、見守ろうとしてくれていた。
「別に止めなくていい。っていうか、来てくれよ。髪とか抜けちまって、みっともねぇかもしれないけど。ベッドの上で一人で寝てたら退屈で死んじまいそうだから。頼むから
、一度くらいは顔出してくれ」
「恵吾……」
「んじゃな、俺、ガッコに忘れ物したから。ちょっと取りにいってくる」
「一人で大丈夫なのか。いっしょに行こうか」
「いいよ、一人で平気。つーか無理なときはちゃんというから。そのときは助けてくれ」
そういうと、彼らの顔がいまにも泣きだしそうなへんてこな笑顔に変わる。
「お前の頼みならなんでも頼まれてやるから。手術、頑張って来いよ」
「ああ、頑張るわ。――サンキュ」
みんなの笑顔があまりにも不格好過ぎて、俺もつられて笑えてきた。真斗先生以外の前で作り笑い以外の笑顔を浮かべるのは、多分、病気になって以来はじめてだ。
彼らと別れ学校へと向かう。真っ暗な通学路は、下校する生徒こそちらほらいるものの、学校に向かう生徒の姿は誰一人としていない。街灯の光だけでは足元がよく見えず、
時折転びそうになりながら、俺は美準を目指した。
校庭の最奥に向かうと、旧校舎は完全に闇に包まれていた。普段ならカーテンから灯りの漏れている美術準備室も真っ暗だ。
「電気を消してヤッてんのか……?」
息を殺し、そっと昇降口の扉に手をかける。鍵がかかっているようだ。どんなに頑張っても扉は開かなかった。窓側に回り込み、ガラスに顔をくっつけるようにしてカーテン
の隙間から覗き込もうとしたけれど、室内の様子はまったくわからなかった。
「先生、いないのかな」
ラインのIDくらい聞いておけばよかった。先生の連絡先を、俺はなにひとつ知らない。
職員室にも行ってみたけれど、真斗先生も中崎もいなかった。もう一度美準に戻り、しばらく様子を窺っていたけれど、まったく人の気配がない。見回りの先生に見つかり、
早く帰宅するよう叱られてしまった。
結局、先生に逢えないまま入院当日を迎えてしまった。母に付き添われ、タクシーで川崎の病院へと向かう。小高い丘の上にある病院だ。坂道を昇ってゆくとゲートのところ
に見覚えのある人影があった。
「すみません、ちょっと止めてください」
慌てて運転手さんに声をかける。
「なに、恵ちゃん、どうかしたの?」
「ごめん、すぐに行くから。母さん、先に行って入院手続き済ませておいて」
母にそう告げ、俺はタクシーの外に飛び出した。
「先生、どうしてここに……?」
「どうしてって、手術前でビビってるお前の顔、見てみたかったから」
先生はそういって、ふわりと笑った。その笑顔に、堪えていたものが全部溢れ出してしまいそうになる。その場にくずおれそうになった俺の頭に、先生はなにかを乗っけた。
「やるよ。オーガニックコットンでできてるから、一日中被ってても蒸れづらいって」
俺が髪のことを気にしていたから、医療用の帽子を買ってきてくれたようだ。その優しさに、涙腺が緩んでしまいそうになる。
「ごめんな。あの場所で待っててやるって約束したのに。約束、守ってやれなくなった」
おだやかな声音で、先生はいった。
ある程度、覚悟していたことだった。それでも実際に言葉に出していわれると、ショックを受けずにはいられない。
中崎と先生のあいだにあるもの。俺にはわからないけれど、きっと簡単に切れる絆ではないのだと思う。
「そっか……わかった。平気だよ。俺、全然、平気だから――」
情けないと思う。最後くらい、かっこよく強がって別れたかったのに。声がうわずって涙が溢れてきた。
「おい、なにか勘違いしてないか、大野」
先生はそういうと、ポケットからハンカチを取り出し、俺の頬を拭ってくれた。
「おれ、ガッコ辞めることにしたんだ」
「えっ……?!」
予想外の言葉に、思わず目を見開く。
「お前のおかげで、ようやく踏ん切りがついた。――中崎とは縁を切る」
「ちょ、ちょっと待って。中崎と縁を切るって……そんなことしたらあの動画、拡散されちゃうだろ」
「動画?」
不思議そうな顔をする真斗先生に、俺はあの部屋に監視カメラがつけられており、二人でキスしていた場面を撮られてしまったことを告げた。
「監視カメラ――あの男のしそうなことだな」
「中崎は先生がガッコ辞めること知ってんのか。あいつに逆らったら、先生、大変な目に遭わされるんじゃないのか」
「別に、大変なことなんてない。っていうか、あいつにそんなこと、できるわけないだろう。あいつのほうが、もっとバラされたら困るもの、たくさん抱えているんだから」
なにかあったときのために、先生は中崎との関係に関する記録を残しつづけていたのだという。
「あいつが送ってきたメールも、それこそ公にされたらとんでもないことになるであろう画像や動画も、全部保存してある」
いったいどんな動画なのか、考えたくもないけれど……先生の毅然とした態度に、俺はほんの少しほっとした気分になった。
「じゃあ、俺のせいで先生が芸術界から追放されたり、しない?」
「あの男は、そんなことをいったのか」
「生徒にキスをしている動画を拡散されれば、真斗先生の未来は完全に閉ざされるって」
「著名な芸術家でもあるまいし。おれみたいな底辺作家のスキャンダルなんか流出させたところで、誰も相手にしたりしない。そもそも単なるキス動画だろ。男同士のキスシー
ンなんか、悪ふざけしてるとしか思わないよ」
「そ、そうかな……」
「そうだよ。っていうか、もし仮に『淫行』の疑いがかけられたとしても、警察でお前が『ふざけてしただけです』ってひと言いってくれたら終わりだろ。セックスしてるわけ
でも、裸で抱き合ってるわけでもないんだから」
「せ、セック……」
あまりにもあけすけな物言いに、かぁぁっと頬が熱くなる。
「もしかしてお前、そのことを気にしてガッコ来なくなったのか」
「だって、俺のせいで先生が大変な目に遭うって思って……」
「おれはてっきり、お前が体調崩したのかもしれない、嫌われることしちまったかもしれないってめちゃめちゃ悩んでたのに……」
「それで、わざわざ病院まで来てくれたの?」
「ああ、お前の連絡先知らないし。さすがにガッコのやつらに訊くのもまずいだろ。病院名は聞いていたし、入院の日も知ってたから――とりあえずここで待っていれば、逢え
るかもしれないって思って……」
最後まで聞き終わる前に、抱きしめていた。誰かに見られてしまうかも、とか、もうそんなことはどうでもよかった。思いきり先生を抱きしめ、その頬に頬をすり寄せる。
「わ、こら、ばかっ……松葉づえ。なに松葉づえ捨ててんだっ……」
「ごめん。いまだけ。いまだけだから。だから――ほんの少しだけ、このままでいさせて」
涙が溢れてきた。もう二度と触れることができないと思っていた真斗先生の身体。ぎゅうぎゅうに抱きしめても、先生は俺を突き飛ばしたりしない。俺の背に手を回してきつ
く抱き締めかえしてくれた。
「先生、好き。凄い好き。退院してから伝えようって思ったけど、ごめん、我慢できない。――俺、頑張るから。頑張って病気治すし、高校もあのガッコ退学になったとしても
、絶対に卒業して、大学も行って、きちんとした職に就いて、ちゃんと自立して見せるから。だから真斗先生、俺の恋人になって」
先生の手のひらが、俺の髪に触れる。やわやわと撫でられ、心地よさに目を細めた。
「お前を退学になんか、絶対にさせない。おれが守るから。なにがあっても、絶対にお前があの学校に戻れるようにしてみせるから。だから、安心して治療に専念して来いよ」
料理上手で、見惚れるくらいきれいで可愛くて、だけどやっぱり先生は大人で、男らしくて。俺が『守ろう』なんて思うのは、全然見当違いなことだったんだなぁって、いま
さらのように思い知らされた。
先生を抱きしめているつもりが、いつのまにか俺が抱きしめられていて、ちいさな子どもにするみたいにやわやわと髪を撫でられる。
「いまは病室でスマホ使ってもいいんだろ」
「うん、大丈夫みたい」
「そばにいてやれないけど、スマホの向こう側で、ちゃんと応援しててやるから。だから辛くなったらすぐに連絡して来るんだぞ」
先生はそういって、俺に携帯番号やラインのID、メールアドレスを記した紙を手渡してくれた。
「辛くないと、しちゃだめ?」
「別に辛くなくてもいいよ。っていうか、ほっとくとお前、一日中メッセージ送りつづけてきそう」
「だめ?」
「いいよ。返せないときもあるかもしれないけど、できるだけ返すようにするから。頼むからもう、ひとりで溜め込むなよ」
「――うん。ありがと」
目が合うと、どちらからともなく自然と唇が近づいてゆく。
「誰かに見られたら、まずいかな」
「いまさら、遅くないか」
先生はちいさく笑って、俺の唇に、ちゅ、と軽くキスをした。それだけじゃ足りるはずがなくて、俺は離れてゆく唇を追いかけるように、先生の唇に自分の唇を重ね合わせる
。
大きな総合病院のゲート前。車の往来もあるし、たぶん病院の建物からも丸見えた。それでも止まらなくて、俺たちはきつく抱きしめあったまま、キスを交わしつづけた。
名残惜しさを感じながら、先生に見送られて病院のゲートを抜ける。エントランス前に、母が佇んでいた。
(まずい、見られた――)
ヒステリックな母のことだ。発狂されてしまうかもしれない。そう思い身構えた俺に、母は予想と全然ちがう言葉を投げかけてきた。
「パパに似てこんなにもイケメンさんなのに、幾つになっても彼女を連れてこない。おかしいわってずっと思っていたけど――やっぱりそういうことだったのね」
「や、やっぱりって……」
「だって、そうじゃない。どんなにお掃除しても、えっちな本の一冊も見つからないし、お部屋はバスケットボール選手のポスターや雑誌の切り抜きばかり。いつ打ち明けてく
れるのかしらって、ずっと待ち構えていたのに――酷いわ、ママになにもいってくれないんだもの――」
「や、っていうか、なに、母さん俺のこと……ホモだと思って疑ってたの?」
「だって、それ以外考えられないじゃない。お隣の孝くんだって、中学三年の夏には彼女ができたのよ」
怒るポイントがずれているような気もしないけれど、母はほっぺたを膨らませて大人げなく拗ねてしまった。
「息子がホモでショック受けたりしないの」
「ホモ、ホモって、あなた、そういう自虐的な言葉を使ってはダメよ。いまはゲイっていうんでしょう」
息子が同性愛者かもしれないと悩んで、色々と勉強を重ねていたようだ。母は気遣うような声で、そんなことをいってくる。
「隠されていたことのほうがショックよ。あんなに、『恋人ができたらいいなさいね』っていってあったのに」
恋人。そうだ、母はいつも俺に対し、『彼女ができたら』といういい方はしなかった。同性愛者かもしれない息子のことを気遣い、あえて『彼女』という言葉を使わないでく
れていたのかもしれない。そんなことにさえ気づけなかった自分を、俺は少し情けなく思った。
「それにしても、うっとりするほどイケメンさんね。あなたの病気のこと、知っているの?」
「知ってるよ。全部話した。一年半くらい入院しなくちゃいけなくなるかもしれないってことも、足を切断しなくちゃいけなくなるかもしれないってことも。それでもいいって
。待ってるって、いってくれてる」
「そう――」
母は先生が去って行ったゲートの向こうを見やり、神妙な顔つきで頷いた。
「それ、彼からのプレゼント?」
「抗がん剤のせいで髪が抜けるの俺が不安がってたから、わざわざ探してきてくれたんだ」
ふわりとやわらかなそれを差し出すと、母はそっと指先でなぞり、微笑んだ。
「やさしいひとなのね」
「やさしいよ。だから迷惑かけたくないし、哀しませたくない。絶対に病気治すし、ガッコも辞めないし、俺、法学部行って弁護士になるから」
最後の言葉に、母の目が見開かれる。
『弁護士にだけは、絶対にならない』
父の不倫現場を目撃するまで、『将来は弁護士になる』といっていた俺が、突然そういいだしたことを、母は心の底から心配していた。
父の存在自体を否定するかのようなその言葉に、いつもさびしげな顔をしていた。
もしかしたら母も気づいていたのかもしれない。父が不貞を働いていることに。そのことに気づいた俺が、父を軽蔑していることに。
「そんなふうに思えるようになったのは、彼のおかげなの?」
「そうだよ。あのひとのおかげだ」
先生のくれた帽子は鮮やかなオレンジ色をしていた。俺に似合うかどうかわからないけれど、白い壁に囲まれた無機質な病棟に、そこだけ花が咲いたみたいな華やかさだ。
俺にはないセンスだけど。そんな先生の感性がとても好きだ。オレンジ色のキャップを被った俺に、母はやわらかな笑顔を向ける。
「今度はちゃんと紹介しなさいね。パパがなにかいっても、私がちゃんと守ってあげるから。だからきちんと紹介してちょうだい」
「わかったよ。ちゃんと紹介する」
母の選んだお菓子や紅茶を、いつも『センスがいい』といって褒めてくれていた先生。きっと先生と母なら、色々と話が合うだろう。
悪性かどうかを確定させる生体検査前だというのに、なぜだか心がポカポカと温かくて、恐怖も不安も少しも湧いてこなかった。
「そろそろ行かなくちゃ、看護師さんに探されちゃうわ」
「ああ、わかった。行こう。母さんもあんまり無理しないで。俺は大丈夫だから。心配しすぎて倒れないでよ」
そっとその背中に手をやると、うれしそうな笑顔がかえってくる。母の背を抱いたまま、俺はナースステーションに向かった。
生体検査の結果、俺の病気は悪性骨形成性腫瘍、いわゆる骨肉腫であることがわかった。
診断後、すぐに抗がん剤投与が始まり、俺は副作用に苦しめられることになった。
『体調、どう?』
先生からのメッセージに、なんとか強がって元気なふりをしつづける。
『全然平気。思ったより大丈夫だよ』
そんな短いメッセージを打つのさえ辛いくらいに、強い吐き気に苛まれる。
『先生に、逢いたい』
面会に来てほしいと頼んだけれど、さすがに親のいる病室に来るのは気がひけるようだ。
クラスの連中や部活の連中は来てくれたけれど、先生は顔を出してくれる気配がない。
そうしているうちに、骨髄抑制という副作用のせいで、病室の扉に『面会制限』の札が貼られてしまった。同居家族以外、面会禁止の合図だ。食べ物も制限され、味気ない減
菌食が出されるようになった。
強烈な抗がん剤を投与して、それを身体から排出するための輸液を流し込んで、少し休んでまた違う薬を入れて……。そんな日々をくり返すうちに、季節は十二月になってい
た。
「クリスマスイブに手術なんて。先生方も大変ねぇ」
最上階にある個室の病室。カレンダーに丸をつけながら母はのんびりした口調でいった。病気発覚時はあんなにもオロオロしていたのに、いまではすっかり落ち着きを取り戻
している。今日なんて『可愛かったから買っちゃった』といって、鼻歌混じりにちいさなクリスマスツリーをサイドボードに飾っている。
「クリスマスくらい、父さんとデートしてきてもいいよ」
「馬鹿いわないでちょうだい。ちゃんと恵ちゃんが戻ってくるまで、ここで待ってるわよ」
母が不在のあいだに、また父がよからぬことをするのではないかと思うと心配だ。クリスマスイブなんて、不倫していたら特に怪しい行動を取りやすい日ではないだろうか。
「彼にもちゃんと伝えなさいね。きっと心配してくれているでしょうから」
「うん、わかってる」
先生からは毎日連絡が来るけれど、正直不安だ。もう一か月以上、先生に逢えていない。そのあいだに中崎とよりが戻ってしまっているなんてことはないだろうか。
どんなに誘っても面会に来てくれないのも、不安を煽る一因だ。親と対面するのは勇気がいるかもしれない。だけど、できれば一度でいいから逢いに来てほしかった。無様な
姿を見せるのは嫌だけれど、それでも逢いたい。
「そうそう、またお手紙、来ていたわよ」
面会に来ない代わりに、先生はちいさなプレゼントや手紙を送ってきてくれる。帽子の替えやガーゼのハンカチ、肌触りのいいタオルなど、入院中に使える便利なものばかり
だ。
「またプレゼント?」
「――うん。なんかお礼しないとな」
夏空を思わせるような鮮やかな水色の帽子。髪の毛はすっかり抜け落ちてしまったけれど、明るい水色の帽子をかぶると晴れやかな気持ちになった。
手術の日はあっという間にやってきた。病巣の摘出と人工関節への置換。一日がかりの大手術になるのだという。
「んじゃ、行ってくる」
車いすに乗せられ、オペ室まで移動する。麻酔科の先生が来て注射を打たれると、腕がジンジン痺れて、すぅっと意識が遠ざかった。
目覚めたとき、真っ先に真斗先生の顔が視界に飛び込んできた。また幻影だ。生検のときも全身麻酔がなかなか抜けず、紫色の毛むくじゃらのネコが山のように飛び回る謎の
幻影を見たのだ。
「今度の幻影は先生か。こういう幻影ならいくらでも見てたいなぁ」
手を伸ばし、その幻影を抱きしめる。幻なのに、その幻影はちゃんとあたたかく感じられた。
次に目を覚ましたとき、窓の外が明るくなっていた。夜が明けたのだ。さすがにそろそろ幻影も収まったかもしれない。そう思ったのに、また先生の幻影が見えた。今度は頬
ずりして、キスまでした。ふわりとやわらかな先生の唇の感触までしっかり再現されている。なかなかいい幻影だなぁと思いながら、俺はふたたび意識を失った。
もういちど目覚めたときには、ごおんごおんとカートが移動する音が響き渡っていた。
「大野くん、お昼だけど少しは食べられそう?」
看護師さんに声をかけられ、「ぬう」とよくわからない返事をする。喉がカラカラに乾いて、たまらなく辛かった。
「飲み物――欲しい、です」
そういうと、すっと青いパックのなにかが差し出された。受け取ってストローを咥えると、じんわりと舌の渇きが癒されてゆく。節ばったつめたい手のひら。母でも看護師さ
んでもないようだ。
「ありがと」
顔をあげると、視界にまた先生の幻影が飛び込んできた。紫ネコに襲われつづけた前回と違って、今回はパラダイスだ。思わずその幻影に飛びつき、頬ずりをする。
「あらあら、お母さまの前でもイチャついちゃうのねぇ。若いわー」
看護師さんにからかわれ、ふと我にかえる。
「も、もしかして……幻影じゃない……?」
手を伸ばし、恐るおそるその頬に触れると、つるんと滑らかな肌の感触が指先に触れた。
「なにいってるの、恵ちゃん、あなた大丈夫?」
心配そうな母の声に、慌てて先生から手を離す。
「うわっ……ぇ、ぇと、これは、そのっ……」
慌てふためく俺に、母はやんわりとした声でいった。
「真斗さん、昨夜から一睡もせずに、ずっとついていてくださったのよ。あなたもちゃんとお礼いいなさい」
いわれてみれば、先生の端正な顔にかすかにクマができている。俺のせいで徹夜させてしまったのだ。そう思うとたまらなく申し訳ない気持ちになった。
「せ、先生、ごめん。俺……」
お礼の言葉をいいかけ、ふわりと抱きしめられる。ああ、ダメだ。そういえば帽子をかぶってない。いまの俺、きっとめちゃめちゃカッコ悪いのに、先生はそんな俺をやさし
く抱きしめて、まだらに髪の抜け落ちた醜い頭皮に、そっとくちづけてくれた。
「無事でよかった。よく頑張ったな」
俺を抱く先生の腕が、ふるふると震えている。ぽつりと温かな雫が降ってきて、先生が泣いているのだということがわかった。
「先生にキスして貰ったら、痛いの一気に吹っ飛んだ。こっちにしてもらったら、もっとつらいのなくなるかも」
唇を突き出すと、むいっと頬を抓られた。
「ばか。親御さんの前で妙なことをいうな」
「あら、いいのよ。恵ちゃん、ママ、向こう向いてましょうか」
「なに、その中途半端な気遣い。っていうか、気を遣うならちょっと部屋出て売店行ってくるとかさ、二人きりにしてくれればいいだろ」
「なにいってんだ。亜佐美さんだってお前のことが心配で一睡もできなかったんだぞ。お前を置いて売店に行けるわけがないだろう」
知らない間に先生が母を名前で呼ぶようになっている。いつのまに打ち解けたのだろう。「親心の判らない子で困るわ」なんて、母は親しげな口調で先生に話しかけている。
「――すみません。ちょっとだけいいですか」
先生は許可を取ると、彼女が背を向けるのを見届けてから、俺の頬に手をやり、そっとくちづけた。すぐに離れて行ってしまう唇。その腕を捕まえて、深くくちづける。唇の
狭間を舌でなぞると、びくんと身体をこわばらせながらも、先生は俺の舌を受け容れてくれた。やわらかくて温かな先生の舌。ゆるく絡めとると、『あぁ、俺、生きてるんだな
ぁ』って心の底から実感することができた。
先生のことが好きだ。こうしてふたたび抱きしめることができて本当に嬉しい。
すっかり夢中になって、先生の舌を貪りつづけた。先生の吐息が怪しくなってきて、俺自身も息が上がってしまう。
「なにを……しているんだ……」
だから気づけなかったのだ。病室の扉が開き、そこに顔面蒼白状態の父が立っていることに。
手術早々、父親にゲイバレし、痛みに苦しむどころの騒ぎではなくなってしまった。ふだんは寡黙で落ち着き払った父が、母以上に取り乱して大騒ぎになった。
「あなたに恵ちゃんを責める資格はないわ」
母は父の過去の不倫を持ち出し、俺を徹底的に庇ってくれた。
「この子はまだ物心もつかないうちに、あなたの不貞を目撃して、すっかり恋愛不振になってしまったのよ。バレンタインにどんなにチョコレートを貰ってきても、誰ともおつ
きあいをしようとしなかった。――一生、誰のことも好きになれずに寂しい思いをして過ごすんじゃないかと心配していたこの子に、ようやく好きなひとができたの。性別がど
うこうなんて、いってる場合じゃないでしょう」
毅然とした態度で主張する母に、父はそれ以上、なにもいい返すことができなくなってしまった。
俺が『弁護士になる』といって勉強を頑張りはじめたことも、よいほうに働いてくれたのだと思う。手術後のどさくさに紛れ、俺と先生の交際は、両親の認めるところとなっ
た。
◇
「やっぱり真斗さんがいてくださると、家のなかが華やぐわねぇ」
機嫌よく鼻歌をうたう母と、彼女といっしょに台所に立つ真斗さん。謎の光景に、父が腕組みをしたまま、白目を剥いている。
「ごめん、やっぱり怒ってるよね」
おそるおそるそう訊ねると、父は深く大きなため息を吐いた。
「だからって――別れろといっても、別れないのだろう」
あれから二年。術後の化学療法やリハビリに苦しむ俺に寄り添い、真斗さんが献身的に支えてくれたことを父もよく知っている。
「別れるのは絶対に無理だよ。それ以外のことは完璧に頑張るから。だから――孫の顔を見るのだけは、諦めてほしい」
抗がん剤の副作用や術後の痛みと闘いながら必死で勉強をつづけ、俺は九か月の入院生活の後、一年遅れで高校を卒業し、父の母校である難関私大の法学部に入学した。法科
大学院入学に向け、いまも猛勉強を継続中だ。
「お前に出て行かれたりしたら、母さんがどうにかなってしまいそうだからな――認める以外、ないのだろう?」
「ごめん……」
「謝るな。どうしても己の道を貫き通すというのなら、自分の選んだその生き方で、どうしたら最大限幸せになれるか、しっかり考えて最善を尽くしなさい」
父らしい言葉に思わず頬が緩む。厳しいことをいうのは、俺の人生を心配してくれているからだ。絶対に幸せにならなくちゃいけない、と俺は思った。自分自身も真斗さんも
、母さんも父さんも、みんなが笑顔でいられるよう、頑張らなくちゃいけない。
子どものころから毎年飾りつづけている大きなツリー。昔からあるオーナメントに混じって、真斗さんお手製のものも飾られおり、テーブルの上には創作活動の傍らカフェ併
設の画廊で働き、さらに料理の腕を上げた真斗さんと、料理自慢の母が協力して作ったおいしそうなごちそうが並んでいる。
「どうでもいいけど、クリスマスケーキがレモンケーキっておかしくない?」
「だって、恵ちゃん普通のケーキだと全然食べないじゃない。真斗さんがレモンケーキなら食べるからって工夫してくださったのよ」
クリスマスリースをかたどったレモンピールたっぷりの甘さ控えめな焼き菓子に、レモン果汁の爽やかな酸味が際立つアイシングが雪のように施されている。ひとくち頬ばる
と、確かに生クリームの苦手な俺にとってどんなクリスマスケーキよりも美味しく感じられた。
「あなたは本当に幸せな子ね。こんなに素敵なひとに愛されて」
母の言葉に、くすぐったさを感じながら頷いてみせる。最高の恋人に、その関係を認めてくれる両親。こんなに幸せな男は、世の中にそうはいないだろう。
母と真斗さんにはリビングで休んでもらって、父と二人で片づけをする。
「今夜は遅いから、泊まっていってね」
母は部活の友達が遊びにきたときと同じように、俺の部屋に客用布団を敷いた。
「これは……『まだそういうことをするには早いわよ』って、牽制されているのかな」
その布団を見て、真斗さんは苦笑いを零す。
「そういうわけじゃないと思うけど。っていうか、そろそろキス以外も許してくれてもいい頃合いだと思うんだけど……ダメ……?」
「ばか、親御さんもいるのに……そんなこと、できるわけがないだろ」
「大丈夫だよ。この部屋、割と壁が厚いし」
「そういう問題じゃ……ぁっ……」
びくんと身体をこわばらせた真斗さんを背後から抱きしめ、首筋に顔を埋める。相変わらず彼の肌はすべすべて、ボディソープのいい匂いがした。
「うちの家のボディソープの匂いがする」
「あ、当たり前だろ。風呂借りたんだから……んっ……」
ほんの少し触れただけで、真斗さんはびくびくと身体を震わせる。
「手術から二年、無事に過ごせた。だからご褒美に、真斗さんをちょうだい」
なめらかな頬を手のひらで包み込み、そっと口づける。舌が絡み合うと、真斗さんの身体から力が抜けてゆく。くちづけながら、俺はパジャマのなかに手を滑り込ませた。
「ぁっ……だめ、だって……恵吾」
「だめ? そのわりにここ、こんなにぷっくりしてるけど?」
肌を撫であげそっと胸の尖りに指を這わす。
「んっ……ばか、さわんな……ぁっ……」
左右の尖りを同時に摘みあげると、真斗さんの身体がびくんと弓なりになった。
「おっきくなってきたね。ここも勃つんだ」
耳朶に軽く歯を宛がいながら囁くと、真斗さんは甘やかな吐息を漏らし、ぎゅっと俺の腕にしがみついた。
「立ってるの辛そうだね。ベッド、行こうか」
「お前、まだ膝つくと痛むんじゃないのか」
「もう大丈夫だよ」
そう答えたけれど、それでも心配なようだ。真斗さんは俺をベッドに横たわらせ、その上に覆い被さる。やさしくくちづけられ、髪を撫でられた。抗がん剤治療を終えたばか
りのころ、なかなか髪が生えてこないことに悩んでいた俺を心配して、真斗さんはいつも頭皮のマッサージをしてくれていた。そのときのことを思い出し、無性に愛しさがこみ
上げてくる。ぎゅっと抱きしめ、首筋に唇を埋めると彼はくすぐったそうに身をよじった。
「寒くない?」
訊ねながら、真斗さんのパジャマを脱がす。
「寒い。はやく、温めて」
少し甘えたような声でいわれ、ぷつんと音をたてて理性がぶっ飛んだ。じっとしていられなくて、真斗さんを抱きしめたまま半身を起こす。
「こら、じっとしてろって」
「無理。これ以上我慢できないよ」
最初くらい、がっつかずに紳士的に振舞いたかったのに。気づけば真斗さんの首筋に喰らいついていた。
「こら、あんまりしたら……痕、残る」
「残したい。真斗さんは俺のだ、ってみんなにわかるようにしたいんだ」
珈琲とスイーツが美味しいと評判のカフェ。時折俺も遊びに行くけれど、真斗さん目当てに通いつめている常連客が多いようだ。
「だめ、だって、こら……ぁっ……」
首筋から鎖骨を辿り、胸へと舌を這わす。乳首を口に含んだ途端、真斗さんは甘やかな吐息を漏らした。
「ここ、やっぱり感じるんだ」
口に含んだまま舌先で転がすように刺激すると、俺の背にしがみつく彼の手に力が籠った。
「んっ……だめ、けい、ご、ぁっ……」
「だめ? こんなに濡れてるのに? 感じてるんだよね」
すっかり天を仰いだ彼の尖端から止め処なく蜜が溢れている。そっと指先で掬い取ると、「んあぁっ」と今まで以上に甘い声で啼いた。
「いっぱい焦らしてあげたかったのに。真斗さんの声聞いてたら、それだけでイっちゃいそうだよ。もう――限界。真斗さんのここ、触ってもいい?」
「ば、ばかっ……や、め、ぁっ……」
いつか抱きあうときのために備えておいたものをサイドボードから取り出す。手のひらにたっぷりと出して濡れた指でそっと尻を撫でると、真斗さんはぎゅっと俺の首にしが
みついてきた。全体的に痩せているのに、尻だけはむっちりと柔らかい。弾力を味わうように揉みしだき、そっと窄まりに指を這わせる。
「やわらかいね。ここ、すべすべしてる」
囁くと、真斗さんの顔が真っ赤に染まった。耳まで染めた愛らしい姿に、いますぐ貫いてしまいたい欲求に駆られる。
「――きつい。指、喰いちぎられちゃいそう」
ゆっくりと指を埋めると、いまにも引きちぎりそうなほどきつく喰い締めてきた。
「だって……もう、ずっとシてない……」
入院中は離れ離れだったけれど、誰ともしないでいてくれたのだろうか。
「ちょっとくらい、浮気してもよかったのに」
心にもない強がりを口にした俺に、真斗さんはふて腐れたように唇を尖らせる。
「お前以外となんか、手を繋ぐのだって無理」
「真斗さん……好き。めちゃめちゃ好き」
ぎゅっと抱きしめた拍子に、挿入が深くなった。
「んっ……ゃ、あんま、奥、だめっ……」
ぎゅうぎゅうに喰らいついてくる入口とは対照的に、なかは柔らかくて、あたたかくて指先が蕩けてしまいそうに心地よい。あまりの気持ちよさに、吸いこまれるように奥深
い場所まで指を進めてしまった。
「痛い?」
「痛く……ない、けど……」
「けど?」
「い、いわせるな……っ」
感じてくれているのだろうか。真斗さんは頬を真っ赤に染め、ふるふると震えている。いつもの凛とした姿も好きだけれど、そんな愛らしい姿もたまらなく好きだ。
額にちゅ、とくちづけると、真斗さんはくすぐったそうに身をよじって、俺の唇に唇を近づけてくれた。触れ合った瞬間、真斗さんのそこがキュンと蠢く。その仕草に、心臓
まで締め付けられたみたいな気分になった。
「真斗さんのここ、凄いね。きゅう、きゅう、って俺の指を喰い締めてくるよ」
たっぷりと潤滑剤を足したせいか、先刻より少しだけ柔らかくなってきている。それでもまだかなりキツくて、とてもではないけれど、俺のモノを挿れられるとは思えなかっ
た。
「キスしたら、ちょっとは……平気になる、かも……。お前のキス、えっちだから」
真斗さんの呼吸が乱れてくる。少し舌ったらずな声で求められ、今度は深くくちづけた。舌が絡まり合った瞬間、真斗さんのなかが俺の指に絡みつくみたいにいやらしく蠢く
。
(やば、イっちゃいそう……!)
あまりの気持ちよさに、指が射精してしまうかもしれない、と思った。腹にめり込むほど滾った先端から、とぷりと蜜が溢れ出す。
「ここ……苦しそうだな」
真斗さんは心配そうに俺を見あげると、そっと俺の尖端に触れてくれた。
「ここにキス、してやろうか?」
「しなくていい。唇にキス、して」
できることなら真斗さんには苦しそうなことや痛いことはさせたくない。いっぱいキスして抱き合って、めいっぱい蕩かせてあげたいのだ。くちづけながら胸の尖りを指先で
転がすと、彼のなかがさらにいやらしく蠢いた。
(凄い、指、根元まで引きずり込まれてく)
ずっぽりと咥えこまれたそれを、なかをかき混ぜるように動かすと、真斗さんの舌が熱さを増したように感じられた。蕩けそうにやわらかな舌を味わいながら、ゆっくりと二
本目の指を埋めこむ。
「んあぁっ……ぅ、ん……」
真斗さんの指が、俺の背中に食い込む。少し辛そうなその身体を抱きしめ、何度も、何度もくちづけた。しばらくじっとしていると、少しずつキツさが和らいでくる。ゆっく
りとなかをなぞると、先刻以上に甘やかな声で啼いてくれた。あまりにも扇情的なその声に、指一本触れられていない俺のモノがいまにもはちきれそうに脈打つ。
「恵吾、ここ……苦しい……?」
「全然、へいき」
「うそ」
掠れた声でいうと、真斗さんは俺の下唇を軽く噛んだ。
「おれはもう限界。欲しいよ、恵吾が欲しい」
唇が触れ合うほど近い場所で囁かれ、完全に理性がぶっ飛んだ。真斗さんのそこから指を引き抜き、猛った切っ先を宛がう。
「本当はさ、もっと、男らしい姿勢で抱きたかったよ」
バックから荒々しく貫いていた中崎の姿が脳裏をよぎる。膝をつく姿勢がとれないわけじゃないけれど、長時間そのままでいるのは俺には難しいのだ。正常位もバックもでき
なくて、結局、こんなふうに半身を起こしたまま、真斗さんに上になって貰う形になる。
「おれはそういうの嫌い。ちゃんと対等に愛し合うみたいなセックスがしたいよ。だから……このまま抱き合いたい」
薄茶色の瞳でじっと見つめられ、胸が張り裂けそうになった。気を遣っていってくれている。そのことがわかっていながらも、やっぱりそれでも嬉しくてたまらない。
「恵吾の顔、見ていたいし。それに……この体勢なら、いっぱいキス、できる」
ちゅ、と俺にくちづけ、真斗さんは微笑んだ。その蕩けそうにやさしい笑顔に、涙腺が崩壊してしまいそうになる。情けない、と思う。こんな場面で泣くなんてありえない。
カッコ悪さもここまで極まると、失望されるレベルだ。それなのに真斗さんはにっこり微笑んで、俺の頭をぐりぐり撫でてくれた。
「どうしよう、恵吾のことが好き過ぎておかしくなりそう」
「それは俺の台詞だって。もう、しあわせ過ぎてどうにかなりそうだ」
真斗さんの指が、いつの間にか濡れていた。潤滑剤に濡れた手のひらで中心を撫でさすられ、それだけで暴発してしまいそうになる。
「真斗さん、挿れても、いい?」
訊ねると、照れくさそうに頷いてくれた。ぎゅっとしがみついてくるその姿が、無性にいとおしい。やわらかな髪に唇を埋めながら、俺はゆっくりと真斗さんのなかに割り入
った。
「――っ」
あまりにもきつい締め付けに、半分も埋める前に暴発してしまった。
「ご、ごめん……っ」
慌てて引き抜こうとして、引き留められる。
「大丈夫。だいじょうぶ、だから……このまま、繋がっていよう」
真斗さんはそういって、俺にくちづけてくれた。互いの舌を絡めあううちに再び昂ぶり、彼のなかを俺のモノが埋め尽くしてしまう。
「もっと……奥、来ても、いい、よ」
「痛いの、平気?」
「へいき……恵吾の、全部、ちょうだい」
甘やかな声で囁かれ、またもや達してしまいそうになった。奥歯を噛みしめて必死で耐え、ゆっくりと貫いてゆく。
「んあぁっ……ぁ、ぅ……恵吾……」
根元まで埋めこむと、ぎゅっときつく抱きしめられた。繋がったまま、キスを交わしあう。互いの吐息が荒く乱れ、絡めあった舌も火傷しそうなほど火照って、熱く濡れたそ
の感触に脳みそまで蕩けてしまいそうになった。
「また……イっちゃいそう」
「いいよ、イって」
「嫌だ。――真斗さんも、気持ちよくしたい」
「おれも……きもちいい、よ、恵吾に抱きしめられているだけで……イっちゃいそう」
照れくさそうにいうと、彼は俺の唇に、ちゅ、とくちづけてくれた。その仕草の愛らしさに、ふたたび高みへと追い詰められてゆく。
「ああ、もう、限界。ほんと、好き過ぎてどうにかなりそう」
くちづけながら、ゆっくりと腰を揺すると、真斗さんがいままでにないくらい愛らしい声で啼いた。
「あぁっ……ん、はぁっ……」
なにもかも初めて尽くしで、どこをどうしたらよくなって貰えるのかなんてわからない。真斗さんは照れくさそうに頬を染めながらも、ぎこちなく腰を遣う俺に合わせ、身体
を揺すってくれた。
「キス……したい、恵吾、キス、しよ」
唇を軽く突き出され、そっとくちづける。キスしながら互いの身体を抱きしめあい、腰を遣いつづけた。ゆったりとした突き上げが、段々と激しさを増してゆく。互いの呼吸
が激しく乱れて、それでもキスをやめられない。
抱きしめあい、キスしあったまま、互いに求めつづける。
「――ぁっ、恵吾、ごめん、おれ、もうっ……だめ、も、イっちゃ……っ」
腰の動きを止め、真斗さんが俺にぎゅっとしがみついてくる。
「いい、よ、真斗さん……イって、俺も、もう……イくよっ……」
その腰を掴み、ひと息に最奥まで埋めこむ。
「んあぁああっ……!」
その瞬間、びゅるりと真斗さんの熱が迸った。白い肢体が仰け反り、真斗さんのなかが大きく脈打つ。ギュッと締め付けられ、俺もあっという間に絶頂へと追いやられた。
「好き、真斗さん、好き。ずっと――そばに、いよう。絶対に、誰よりしあわせにしてみせる、からっ……」
最奥まで埋めこみ、その精を放つ。真斗さんはふらふらになりながらも、俺をぎゅっと抱きしめ頬ずりしてくれた。
「恵吾……よかった、恵吾が無事でよかった……」
めったに涙を見せることのない真斗さんの、久々の涙。俺まで涙腺を刺激されて、止まらなくなってしまった。
初めての夜くらい、カッコつけたかったのに。二人そろって号泣し、泣きじゃくりながら涙の味のするキスを交わしあった。
どんなにくちづけあっても離れがたくて、俺たちは空が白むまできつく抱きしめあい、キスを交わしあいつづけた。
◇
手術から五年目の冬。俺はバスケットボールのコートにいた。視点が低い。リングが果てしなく遠く感じられる。普通にドリブルしたら絶対に負けないのに、自分より障がい
の重い選手にあっさりとカットされてしまう。華麗なホイールさばきで展開するゲームにどんなに頑張ってもついていくことができない。
「くっそ――」
大学入学後、塾講師のアルバイトで貯めたお金で入手した競技用車いす。勉強の合間にトレーニングに励んでいるけれど、まだちっとも思うように操ることができない。
「焦ることないって。お前はそこさえクリアできれば、それ以外の部分は完璧なんだから」
そういっておおらかな笑顔を向けてくるのは、パラリンピックに四大会連続で出場経験のある四十代のベテラン選手、川上さんだ。
「――おつかれ」
タオルを差し出され顔をあげると、真斗さんのやさしい笑顔が視界に飛び込んできた。
「無事に五年、乗り越えたな」
「うん――」
多くの癌では、腫瘍摘出後、五年後までに再発がなければ、「治癒」と見做すのだという。再発の可能性が皆無ではないけれど、五年後以降は、その確率がぐっと減るのだそ
うだ。
「よく頑張った」
わしわしと髪を撫でられ、目を細める。
「まだまだ頑張らないといけないこと山盛りだけどね」
俺はチームメイトたちを眺め、そう答えた。
『コートのなかだけで戦うわけじゃないんだ』と、川上さんは口癖のようにいっている。社会的に自立していなければ、競技を継続することは難しい。ただでさえ大学院進学の
せいで社会に出るのが遅くなる俺は、そのぶんしっかり勉強して、真斗さんや両親に恩返しができるようにならなくちゃいけない。
「なに、きょうもこの後、デート?」
「宮が瀬のイルミネーション見に行くんです」
そう答えると、一斉にヤジが飛んだ。
「お前ら、ホント仲いいなぁ」
練習や試合だけでなく、家族ぐるみの付き合いの多いチーム。もしかしたら心のどこかで不快に思っているひともいるかもしれないけれど――みんな俺たちのことを普通に受
け入れてくれている。
「気をつけて行ってこいよ」
笑顔で見送られ、体育館を後にする。
車いすを運ばなくちゃいけないから、愛車はボックスタイプの軽自動車だ。真斗さんは相変わらずお洒落で、本当はもっとカッコイイ車の助手席が似合うんじゃないかなぁっ
て思うけれど。それでも嫌な顔ひとつせずデートに付き合ってくれる。
「男同士でイルミネーションとか、相当アレな目で見られそうだな」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。――堂々とそういうところに行けちゃう、お前が好き」
さらっといわれた言葉に、思いきり頬が火照る。ふたりで宮が瀬のイルミネーションに行くのは三回目だけれど、今日は特別な夜だ。
会場内の中央にある巨大なクリスマスツリー。きらびやかな光に見惚れる真斗さんの手のひらに、そっと四角い箱を握らせる。
「なに?」
「エンゲージリング。無事に五年経ったから」
バイト代から少しずつ貯めつづけたお金。大した金額にならなくて安物だけれど、真斗さんは思いきり俺に飛びついて喜んでくれた。彼の涙を見るのは何度目だろう。五年も
一緒にいるのに、まだ片手で足りるくらいだ。
「すごい、ちゃんとサイズもぴったりだな」
「うん、寝てる間にこっそり測ったからね」
真新しい指輪を嵌めて、ふたり揃ってツリーの光にかざしてみる。周りからひそひそ声が聞こえたけれど、気にしないことにした。
「ずっと、いっしょにいような」
「ずっと、いっしょにいよう」
人工関節には寿命がある。この先も手術やリハビリで迷惑をかけることもあるかもしれないけれど、それでもこの手を絶対に離さないでいようと思う。
ぎゅっと互いの手を握りあい、俺たちはツリーの下で長い、長い誓いのキスを交わしあった。
おしまい