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*

半径一メートル内の憂鬱

 自動ドアが開くのと同時に、かすかな汐の香に包まれる。あの町を離れたことを、あらためて実感する瞬間だ。

 見知らぬ町ではじめる、あたらしい暮らし。はらりと舞う桜の花びらを摘みあげ、まばゆい朝の空を見あげる。

 生まれ育った猥雑な街よりずっと空の色が濃く、日差しの強いこの町を、健成(けんせい)はとても気に入っている。海が近くて公営プールも多く、駅前に二十四時間営業のスポーツクラブがあるのもいい。

 プールからあがったばかりでかすかに塩素の匂いの残る肌。心地よさに目を細めた健成の耳に、聞きなれたしゃがれ声が飛び込んできた。

「坊(ボン)、乗ってください」

 せっかく今日からあたらしい生活がはじまるというのに。結局、この男からは逃れられないのだ。

「うるさい、電車で行く」

 黒塗りの高級外車。声をかけてきた運転席の大男にすかさずそう答える。

「いえ、そういうわけには。坊をお守りすることが自分の仕事ですから」

 真面目くさった顔でそう主張する男は、大曽根馨(おおぞね かおる)。二メートル近い長身に、背広の上からでもわかる鍛え抜かれた体躯。幼い子どもが見たら一瞬で泣き出してしまいそうな厳めしい雰囲気をした男だ。

 けれどもよく見ればその顔だちは息を呑むほど整っており、男くささのなかにもかすかな甘さを漂わせている。夜の街の女たちを虜にしてやまない、東海地区随一の『女衒(ぜげん)』だ。

 運転席から降り立ち、大曽根は後部座席のドアを開ける。乗ってください、と目線で促され、健成は眉間にしわを寄せた。

「『坊』じゃねぇって何度いえばわかる」

 精いっぱい凄んでみるものの、頭ひとつぶん以上大きな大曽根にはなんの効果もない。

「何度いわれましても、坊は坊ですよ。自分から見たらガキ以外の何者でもない。ほら、ネクタイ曲がってますよ。せっかくの男前が台無しだ」

 かがみこむようにしてネクタイを直され、大曽根のまとう香水の匂いが鼻をかすめる。深みのあるマリンノート。その匂いを嗅いだだけで、かぁっと身体の芯が熱くなった。

「なぁ」

「はい?」

 怪訝そうな眼差しで見下ろされ、慌てて目をそらす。

「キス……しろよ」

 ぶっきらぼうに発した言葉。大曽根は健成の耳元に唇を寄せると、からかうような声音で囁いた。

「ここに触れられただけで、欲情しちまったんですか」

 ネクタイの上から胸の中心をなぞられ、ゾクッと背筋が震える。

「う、うるさいなぁっ……いいから、さっさとしろっ」

 不機嫌さの滲む声で命じると、抱きすくめるようにして後部座席に押し倒された。大曽根の香りに包まれ、トクンと心臓が跳ね上がる。

「んっ……」

 唇が触れ合った瞬間、理性が弾け飛んだ。ギュっと抱き寄せ、自分からその舌を求める。

「そんなんじゃなくて……っ、もっと、ちゃんとしたやつ、しろっ」

 かすかなキスがもどかしくて、大曽根の後頭部を引き寄せて口内に割り入ってゆく。熱くざらついた舌に絡めとられると、意識が朦朧としはじめた。

「んぅ……はぁっ……」

 くちゅりと響く淫靡な水音にさえ高められ、脳みそがジンと痺れてしまう。なにもかも考えられなくなって、健成は夢中で彼の舌を求めつづけた。

 

「すこしは落ち着きましたか」

 耳元で囁かれ、ぽーっと頬が火照る。武骨な彼の手のひらを自分の股間に導こうとして、やんわりと退けられた。

「こっちは帰るまでおあずけです。入学式くらい遅刻せずに行かなくちゃダメですよ」

 耳殻に軽くくちづけられ、じわりと先端に蜜が滲む。

「ゃ、だ、こっちも……」

 ふたたびその手を引き寄せようとしたそのとき、誰かの悲鳴が耳を劈いた。

「なんだ?」

 せわしなく人々の行き交う駅前通り。朝の通勤時間帯にそぐわない不穏な声だ。大曽根の身体を押し退け、健成は声のするほうに向かった。

「や、めてくださいっ……それがないと電車に乗れなくなっちゃうっ……」

 線路脇の駐輪場。七五三かと突っ込んでやりたくなるほど似合わないスーツを纏った少年が、制服姿の高校生に取り囲まれて震えている。

「新学期そうそうカツアゲかよ。なにやっちゃってんだ、朝っぱらから」

 おもむろにジャケットを脱いだ健成を、大曽根がやんわりと引き留めた。

「ここは自分が」

「素人のガキ相手に極道(てめぇ)が出張っちゃまずいだろうが」

「――いや、坊のほうがマズいと思いますがね。自分が鈴川(すずかわ)組の跡継ぎだって自覚、いい加減きっちり持ってくれんと困りますよ」

「うるさい、黙っとけ。誰がなんといおうが、いまのオレはカタギ。『フツーの大学生』だっ」

 いい終わるや否や高校生たちの輪のなかに突っ込み、主犯格と思しき少年の手から財布を奪い取る。

「なんだ、てめぇ」

 振り返った少年の顔面にすばやく拳を叩き込み、健成は左右から飛びかかってきた少年たちに回し蹴りを喰らわせた。

「坊、やり過ぎは厳禁です」

「わかっとるって。ちゃんと手加減する、よっ!」

 新調したばかりの革靴が思いきり少年の頬にめり込む。少しくらい抵抗されるかと思ったが、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。

「お前の見てくれが物騒なせいだな」

「――違いますよ。坊がワヤな暴れ方するからです。ほら、またネクタイが曲がってます」

 大柄な身体をかがめこむようにして健成にジャケットを羽織らせ、大曽根はネクタイのゆがみを正してくれる。

「ほらよ、少年。財布取り返してやったぞ」

 まだ中学生くらいだろうか。情けなくへたり込む小柄な少年に、健成は財布を放り投げてやった。

「ふぁっ……ぁ、ぁ、ありがとうございますっ……あ、ぁのっ……これ、お礼にっ……っ」

 財布から千円札を数枚抜き出し、少年は健成に差しだす。

「アホか。礼が欲しくてやったんじゃねぇよ」

「で、でもっ……」

 震えながら必死で札を差し出す彼の頬は腫れあがり、唇には血が滲んでいる。

「ンなことよりお前、そんなカッコして大事な用事があるんじゃねぇのか」

 砂ぼこりに汚れたジャケットを軽く叩いてやると、少年ははっとしたように目を見開いた。派手さはないが、よく見ると端正な顔立ちをしている。くりっと大きな二重の目、色素の薄いサラサラの髪、線が細く色白なその姿は、小動物のような愛らしさだ。

「わ、にゅ、入学式っ……遅刻するっ」

 慌てふためき、少年は飛びあがる。どこか怪我をしているのかもしれない。その立ち姿は少しぎこちなかった。

「入学式? お前、高一か」

「ゃ、大学生ですっ……湘南音楽大学。わ、どうしよう、もう間に合わないっ」

「なんだ。同じガッコか。おい、大曽根、車まわせ。こいつも乗せて行ってくれ」

「――かしこまりました」

 厳つい大男を前に、少年は不安げな顔で目を瞬かせている。

「ああ、安心しろ。コイツ見た目は怖ぇけど、カタギに手ぇ出すような外道じゃねぇから」

 いってしまったあと、ふと我にかえる。

 高校卒業後、わざわざ故郷から遠く離れたこの町に出てきた理由。それは自分のことを『鈴川組の跡継ぎ息子』だと知らないひとたちのなかで暮らしてみたかったからだ。

『鈴川ってさ、やくざの子どもらしいよ』

『あそこの家は特殊だからねぇ』

 常に聞こえてくるそんな囁き声。学校にいても近所を歩いていても、奇異の目で見られつづける。そんな生活から逃げ出したかったのだ。

「しまった。自分からいっちまった――」

 目の前の少年に目を向けると、彼はびくっと身体をこわばらせ、おそるおそる大曽根と健成を見上げた。

「いやならタクシー使えよ」

 見ず知らずの、いかにもカタギではない男の車に乗るなんて不安だろうか。

「や……まだ、お礼できてないしっ……ご迷惑でなければ、ご一緒させてくださいっ」

 震える声でいうと、彼はぺこりと大げさなお辞儀をした。

「坊、あと十分で式はじまりますよ」

「ん、ああ。――急ぐぞ、来い」

 少年を連れ、健成は大曽根の車に乗り込んだ。

 

 

 初日くらい電車やバスを使おうと思ったのに。結局、黒塗りの厳つい車で通学することになってしまった。

 箱根駅伝で有名な海沿いを走る134号線。そこからほど近い場所に建つ真新しいキャンパスに、大曽根は車を横付けした。

「おい、すこし離れた場所に停めろって何度いえばわかる」

 いきどおる健成を無視してすばやく降り立つと、大曽根はうやうやしい仕草で後部座席のドアをひらく。

「坊、お急ぎください。もう式がはじまっています」

「わかっとるて、うるせぇなあ」

 唇を尖らせ、差し出された手を払いのける。

「いってらっしゃいませ」

 組長を送り出すのと同じように慇懃に頭を下げられ、健成は深いため息を吐いた。幸いなことに時間が遅いせいか、ほかの学生の姿はない。教職員と思しき女性が立っているきりだ。

「なにごとですかっ」

 黒塗りの車と傷だらけの少年を見比べ、彼女は顔をこわばらせる。

「ぁ、あの……っ」 「階段から落ちました。駅の階段で、知らんオッサンにぶつかられて転げ落ちたんです」

 少年に代わり、健成はそう答えてやった。――考えてみれば『少年』というのもおかしな話だ。随分と背が低く幼い顔立ちをしているが、この大学の新入生ということは健成と同い年なのだ。

「おい、お前、名前は」

「ぇ、ぁ、えっと……田宮優(たみや すぐる)ですっ」

「田宮か。オレは――」  鈴川と名乗りかけ、下の名だけを口にする。

「健成(けんせい)だ」

「けんせい、くん? 下の名前……呼んでいいの?」

 不思議そうに目を瞬かせる田宮の背後から、職員の声が響く。

「もう式が始まっていますよ、急いで」

 急かされるようにして入学式の会場である城崎(きのさき)ホールへと向かう。創設者の名が冠されたそのホールは、大学内の一施設とは思えないほど立派なつくりをしていた。

「すげぇな。さすが三流私立音大」

 思わず呟いた健成を、田宮がたしなめる。

「しー、静かに。僕は平気ですけど、他の学生や先生方が聞いたら気分を悪くしますよ」

「ん、ああ……悪ぃ」

 分厚い防音扉を開けると、周囲の視線が一斉に集まってきた。学籍番号順、専攻ごとに着席する決まりのようだが、厳かな式が行われるなか、座席を探しに行くのは難しい。仕方なくいちばん後ろの席に腰かけた二人を、ちらちらとほかの学生たちが覗き見た。

「野郎がそんなに珍しいのかね」

 女子学生たちのあからさまな視線にそう呟くと、田宮がおかしそうに笑う。

「ゃ、たぶん健成くんがかっこいいから、みんな見惚れてるんだと思いますよ」

「オレなんか、べつにカッコよかねぇよ」  格好がいい、というのは大曽根のような男のことをいうのだ。誰よりも背が高くてガタイがよく、男くさくてストイックなのに、むせかえるような色香を纏っている。

 先刻のキスを思い出しただけで、身体の奥底がジワリと濡れるような錯覚に陥った。

(濡れる、って。馬鹿か、オレは……)  男のくせに、どうかしていると思う。だけどダメなのだ。あの男のそばにいると、自分でも自分がよくわからなくなる。  野郎同士のセッ※スなんて、嫌で、嫌でたまらないはずなのに。あの男のキスは無性に心地よくて、その先の快楽を与えて欲しくてどうにもならなくなってしまうのだ。

「健成くん……?」

「ん、あぁ」

 田宮に名前を呼ばれ、ふと我にかえる。頭のなかはあまりにも危険な妄想でいっぱいで、健成は慌てて表情を引き締めた。

「いまから演奏される高野先生って、よくテレビにも出ている有名なピアニストなんですよね」

 入学式のあと、講師や在校生による新入生歓迎コンサートが行われる。トップバッターとして著名なジャズピアニストがステージにあがった。

「有名なのかもしれねぇけど。オレはジャズとかよくわか……」

 ホール内に重厚なピアノの音色が響きわたる。今までに聴いたことがない濃密なその音の塊に、健成は思わず言葉を失った。

 どうしたら、あんな音を奏でられるというのだろう。耳障りなはずの不協和音に胸を鷲掴みにされ、瞬きをすることさえできなくなった。スポットライトの下、紡ぎ出されるその旋律は刃のように鋭く健成の心を切り裂いてゆく。

「健成くん、どうしたの?」

 気づけば立ちあがっていた。呆然と立ち尽くし、荒々しくも甘美な音の渦に心を揺さぶられる。彼の演奏が終わってからも、健成はしばらくその残響に浸りつづけた。

 

 

 入学式が終わると、案の定、校門前に黒塗りの車が横付けされていた。どんなにやめろと命じても、あの男は聞き入れないのだ。

「じゃあ、また明日ね」

 大曽根の姿に気づいた田宮が、ぺこんとお辞儀をして去ってゆく。

「坊」

 うやうやしく後部座席のドアを開かれ、健成は眉を顰めた。

 朝と違ってキャンパス周辺にはたくさんの学生たちが溢れている。ただでさえ先刻から痛いほど視線を感じているのに、この男には『空気を読む』という能力が備わっていないのだろうか。無視して通り過ぎようとして、腕を掴んで引き寄せられた。

「乗ってください。帰りますよ」

 耳元で囁かれ、ぞくっと背筋が震える。その腕を振りほどきたいのに、はむかうことができなくなった。

「ほら、帰りますよ。練習しなくちゃいけないんでしょう。今夜は坊の好きなオムライス作りますから。早く乗ってください」

「なっ……べ、べつにオレはオムライスなんてっ……」

 頬を赤らめた健成を無理やり後部座席に押し込み、大曽根はドアを閉める。ご丁寧に逃げられないようチャイルドロックまでかける始末だ。

「ちゃんとシートベルト締めてくださいね」

「うるさいなぁ、わかっとるって!」

 どこまでも子ども扱いしつづける大曽根に悪態を吐きながら、健成は座り心地のよいシートにふんぞり返った。

 

 学校から車で五分。駅から徒歩圏内に建つ健成の下宿は、全室防音完備、音大生専用のスタジオタイプのマンションだ。

「なあ、大曽根。お前、ジャズってわかるか」

 ダブルベッドとグランドピアノに占拠された室内。ピアノ椅子に腰かけたまま、大曽根に声をかける。

「――自分にそんな高尚なモンがわかると思いますか」

 ノートパソコンのキーボードを叩く手を止めることなく、彼はそう答えた。

「いや、思わん」

「じゃあ、訊かんでくださいよ」

 画面に目を向けたまま素っ気ない口調でいわれ、なんだかすこし腹が立った。大切な仕事の最中なのはわかるが、会話をするときくらい、できれば顔をあげて欲しい。その背中に思いきりダイブすると、「なにしてんですか」と呆れた顔で頭を小突かれた。

 組長の息子である健成に、こんなことをするのは大曽根くらいのものだ。幼いころから、悪いことをすれば容赦なく鉄槌を喰らわせ、ぴしゃりと叱ってくれた。

母亡き後、後妻の取り仕切る家のなかに居場所を見つけられないまま、肩身のせまい思いをしてきた健成だけれど、大曽根に対してだけは、いつだって気を遣うことなく素の自分を晒すことができた。

「駅ビルにCD屋あったよな。ちょっとCD買いに行ってくる」

「もう夜も遅いですし、車で送りますよ」

 メタルフレームの眼鏡をかけ、小難しい顔でメールを打っていた大曽根がようやく顔をあげる。目力の強い瞳で見据えられ、トクンと心臓が跳ねあがった。

「まだ十九時前だぞ。こっちにはオレのこと知っとるやつおらんし。別に危なくない」

 立ちあがろうとして、手首を掴んで引き寄せられる。

「ダメです。そんなことをしたら組長が自分をここに寄越した意味がなくなります」  

 鈴川組の組長である健勇(けんゆう)が過剰なまでに息子の健成を心配する理由――それは小学生のころ、健成は誘拐されたことがあるからだ。

 覚せい剤の密売絡みで鈴川組と揉めた不良在日中国人グループによる報復目的の誘拐だった。そこで健成は男たちから凌辱されてしまったのだ。

 それ以来、健勇はどんなに些細な外出にも用心棒をつけるようになった。いかめしい黒塗りの車に押し込まれ、学校と家を往復するだけの日々。それ以外の外出はいっさい許されなかった。

 やっと自由になれたのだ。地元から遠く離れたこの地で、健成のことを知る者は誰もいない。できることなら、ふつうの生活を送りたかった。

「ひとりで電車に乗ってみたい」

 大曽根の手を払いのけようとして、強く引き寄せられた。抱き込むようにホールドされ、身動きが取れなくなる。

「ダメです。どうしても電車に乗りたいのなら、自分も一緒に行きます」

「ヤだよ、お前目立つし」

 周囲より頭ふたつぶん大きな長身で、あからさまにカタギではないオーラを発した大曽根。こんな男を連れて電車に乗れば、自分がヤクザの息子であることを宣伝して歩いているようなものだ。

「おかしな輩に声をかけられたらどうするんですか。それに、坊ひとりのときにいつもの発作が起きたら困ります」

 監禁され、三日間にわたって凌辱の限りを尽くされた。覚え込まされた快楽。それ以来、己の意志とは裏腹に身体が疼いてしまうようになった。

 どんなに抗おうとしても、忘れようとしても、身体が勝手に暴走してしまう。相手を求めて彷徨おうとして、そのたびに大曽根に阻止された。

「ほら、さっきだって発情しちまってたんでしょうが」

 耳元で囁かれ、ぞくっと背筋が震える。

「そ、それはお前がっ……」

 大曽根の吐息が耳殻をかすめるだけで呼吸が乱れ、身体の疼きが止まらなくなってしまった。

「キ、ス……大曽根、キス、しろ」

 唇を突き出し、大曽根のキスをねだる。互いの唇が重なり合った瞬間、身体じゅうの血液が沸騰したかのような錯覚に陥った。

 なにもかも考えられなくなって、必死でその舌を求める。大曽根は健成を抱き上げると、やさしくベッドに横たえてくれた。くちづけられながら、シャツのボタンを外される。首筋のやわらかな部分を甘噛みされると、じわりと中心から蜜が溢れた。

「んっ……おお、ぞねっ……ゃだ、もっと、キスっ……」

 愛※撫してもらいたいけれど、キスもしたい。わがままな主張をする健成に呆れながらも、大曽根は望みどおり唇にくちづけてくれた。

「坊、ここ噛まれるの好きでしょう」

 濡れた指でうなじを撫でられ、ぞわっと肌が粟立つ。

「すき……だけど、こっちのが……んっ!」

 くちづけながら耳殻を指で弄ばれ、思わず身体が跳ねあがった。

「はぁっ……ん、ぅっ……」

 溢れてしまう嬌声を堪えようと手の甲を噛むと、やんわりと退けられる。

「これだけ防音しっかりしてんです。声、我慢する必要なんかないでしょうが」

「ちがっ……よそのひと、とかじゃなくてっ……」

 ――お前に聞かれたくないんだ。

 口にしかけた言葉、大曽根の肉厚な唇に塞がれ、最後までいうことができない。熱い舌に絡め取られ、ゆるく吸い上げられると、意識が朦朧としはじめてしまった。

いつの間にかシャツを脱がされ、ズボンのバックルまで外されている。

「はぁっ……大曽根、も、服、汚れちゃうからっ……」

 大曽根の服を脱がそうとして、両手を頭の上で縫い止められる。ズボンを引き抜かれ、自分だけがあられもない姿にされてしまった。

 元々は色白で線が細く、母親譲りの中性的な容姿をしていた健成。あの事件以来、必死で男らしくなろうと頑張っているけれど、どんなにトレーニングを重ねても大曽根のように逞しくなることができない。

 うっすらとした筋肉に覆われた引き締まった体躯。透き通るように白いその肌を、ざらついた大曽根の舌が辿ってゆく。

「ぁっ……も、大曽根っ、胸、ちゃんと胸……舐めろっ」

 首筋や鎖骨ばかりを丹念に舐られ、健成はこらえきれずにそう叫んだ。

「ここ、ですか」

 じっと健成の目を見つめたまま、大曽根は胸筋の境目を舐めあげる。

「ち、が、そこじゃなくてっ……」

「そこじゃなくて?」

「ぅ……わ、わかってて訊くなっ」

 枕元のボックスティッシュを掴んで投げつけると、からかうような笑みを向けられた。

「大事なティッシュを粗末に扱っていいんですか。このあと散々お世話になるんでしょうが」

 そんなふうにいわれ、照れくささにどうにもできなくなる。

「ちゃんと言葉に出していわなくちゃわかりませんよ、坊。どこをどうされたいんです」

 唇が触れ合うほど近い場所で囁かれ、ぞくぞくと背筋が震える。

「だからっ……舐めろっていってるだろっ」

「それが人にものを頼むときの態度ですか。もっといいかたってモンがあるでしょうに」

 呆れたようにため息をつくと、大曽根はベッドサイドに退避させていた眼鏡をかけなおした。

「まぁ、してほしくないならそれでも構いませんよ。――仕事に戻っていいですか」

「なっ……ちゃんというっ、いえばいいんだろ!」

 涙目になって叫ぶ健成を見遣り、大曽根はふたたび眼鏡を外す。ただそれだけの仕草が妙に艶っぽく見えて、健成は我慢できなくなってしまった。

 飛びつくように彼の背にすがり、そのキスを求める。熱いキスで蕩かされながら下着を脱がされた。

「まだ何もしていないのにこんなに濡らして。もうぐちょぐちょじゃないですか」

「っ――」

 あからさまな言葉で煽られ、健成は羞恥に頬が熱くなる。

「いいから、舐めろ」

「あれだけいってもまだわからないと?」

「舐めて――ください」

 慣れない敬語でぎこちなくねだると、やんわりとベッドに押し倒された。

「どこを」

「だから――胸っ」

 わざとらしく胸の中央にちゅ、とくちづけられ、健成は唇を尖らせる。

「わかっててそういうこと……ぁっ……!」

 胸の尖りのすぐ脇を舐められ、思わず甘ったれた声が漏れた。

「ぁ……ん、そこ、じゃなくてっ……ちゃんと……っ」

「だから、どこを?」

 あと数ミリずれれば、舐めてもらえるのに。ちゃんというまで、そこには触れてくれないのだろう。じれったさに身悶える健成の肌を、大曽根はねっとりと舐ってゆく。

「ち……※くび……舐めて、ください……」

 消え入りそうな声でいうと、ようやくそこにキスしてもらえた。

 やっとのことで与えられた胸への愛撫。嬉しさに身悶え、ちいさくその背をのけぞらせたそのとき、大曽根スマートフォンが鳴り響いた。

「この着信音、組長(オヤジ)からですね」

 ちゅ、と健成のこめかみにキスを落とし、彼はズボンのポケットからスマホを取り出す。

『おう、大曽根。そっちはどうだ』

 漏れ聞こえてきた健勇の声に、びくっと身体をこわばらせる。そのことに気づいたのだろう。大曽根は片手でスマホを耳に押し当てながら、もう片方の手で健成をやさしく抱き寄せてくれた。

「なかなかよい町で。健成さんも気に入ったようです。いま代わりますね」

『いや、いい。そんなことより、お前が不在の間、こっちのシノギはきっちり廻るようになっとるんだろうな』

「ぬかりありません。現場は棚橋に任せてありますし、できるかぎり自分も手を尽くすつもりでおりますから」

『そっちのオンナを引っ張ってくるつもりらしいな。無茶したらいかんぞ』

「わかっております。こちらの方たちの顔を潰すようなことのないよう、細心の注意を払うつもりです」

 大曽根の指が、健成の耳朶に触れる。くすぐったさに身をよじりながらも、耳をそば立てずにはいられない。けれども、どんなに彼らの会話に耳を澄ませても、とうとう最後まで自分の話題が出てくることはなかった。

(仕方ないよな。オレなんか所詮、死んだ女の子どもだし――)

 ふて腐れかけた健成を、大曽根はギュッと抱きしめる。スマホをベッドの端に放り投げ、のしかかるようにしてくちづけてくれた。

「んっ……ゃ、おおぞねっ……大曽根も、脱いでっ……」

 自分はシャツのボタン一つ外さないまま、大曽根は健成を極限まで乱してゆく。濡れた指で窄まりをなぞられ、健成はギュッと目を閉じた。

「坊、組長は坊のことを心配してないわけじゃないんですよ。もしどうでもいいなんて思っていたら、自分をコッチに派遣したりしません」

「ぅ、うるさいっ……オレは別にっ……」

 真っ赤になって悪態を吐く健成の唇を、大曽根は野太い親指でなぞってゆく。かすかに煙草の香りの残る指先に弄ばれ、身体の奥底が熱く蕩け、呼吸が乱れはじめた。

「ウチの仕事のことなんか、あの人はなんにも心配しちゃいない。電話をかける口実が欲しかった。それだけのことです」

 ガキのアンタにはわかんないかもしれないですけどね、と大曽根は健成の耳殻を軽く甘噛みする。

「ぁっ……も、オヤジのことなんかどうでもいいから、はやくっ……」

 やわやわと周辺ばかりをなぞられ、肝心な核心には触れてもらえない。もどかしさに瞳を潤ませてせがむと、なんの前触れもなく唐突に指を埋めこまれた。

「ゆび、ヤだ。そっち……そっちが、いい。大曽根、挿れて」

「ダメですよ。セッ※スは気楽にしていいもんじゃないんです」  

「よくいうよ……東海一の女衒のくせにっ」

 この男のシノギは、女を転がすことだ。名古屋市内だけでなく、東海地方全域に膨大な数の箱ヘルやイメ※クラ、デリ※ヘルやデート※クラブを所有している。

 風俗だけではない。キャバクラにホストクラブ、ハプニング※バーなど、ナイトレジャー産業全般を手広く手がけ、それらの資金を元手にアダ※ルト動画配信や出会い※系サイト、A※Vプロダクションまで多肢にわたる事業で成功を収めている。実質上彼が代表を務める『東新企画』は、鈴川組のフロント企業のなかでも抜群の収益を誇る稼ぎ頭だ。

「自分は『商品』に手をつけないことで有名なんです。だからこそ、この世界で常にトップを張れてる。坊に対してだって、手を出す気はありません。坊がよそでオイタをしないよう、その身体を鎮めてやるだけだ」

 きっぱりといい切られ、息苦しい気持ちになる。健成を抱きしめると、大曽根はあっというまに弱い場所を探り当て、なかで指を折るようにして執拗に責め立てた。

「ぁっ……ん、ぅ、キス……大曽根っ」

 必死になってキスをせがむと、くちづけながら二本目の指を埋めこまれる。

「んぁっ……ぅ、はぁっ……やっ……」

 膨れ上がったそこを二本の指で擦りあげられ、健成はこらえきれず大きく身体をのけぞらせた。

「ゃ、も、無理、も、だめだからっ……!」

 もっと、ずっと抱きしめていてもらいたいのに。あっという間に絶頂に追いやられてしまう。

「我慢なんかする必要ない。坊、ほら、イっちまえばいいんです」

 潤滑剤を足され、ぐちゅぐちゅと泡立つほど激しく掻き混ぜられる。いまにも達してしまいそうになって、健成は大曽根の肩に噛みついて必死で耐えた。

「坊、そんなとこを噛んじゃダメだ。噛みつくならこっちです」

 顎を掴んで強引にくちづけられ、さらに奥深い場所を抉られる。最奥まで貫かれ、熱く爛れたそこを巧みに擦りあげられた。

「ゃ、も、だめ、も、ぁ、イ※ク、ぁ、ぁ、んあぁああっ……!」

 大きく身体をのけぞらせた瞬間、びゅるりと劣情が迸った。熱い雫が弾け飛び、健成の腹や大曽根のズボンを濡らしてゆく。

 あまりにも凄絶な快楽に耐えきれず泣きじゃくる健成を抱き寄せ、大曽根は涙を舐めとってくれた。やさしい抱擁も、とろけるような愛撫も、なにもかも全部。単に聞き分けのない子どもを鎮めるためのものでしかないのだ。

「お、ぞね……キス……しろ」

 かすれた声でねだると、大きな手のひらで頬を包み込まれる。

「まだ足りないんですか。――しょうもない子ですね」

 呆れた顔でいうと、大曽根はそっとくちづけてくれた。熱いその舌の感触を味わいながら、たくましい背中に手を廻しきつく抱きしめる。

 大曽根が少しも服を脱いでくれないのがもどかしいけれど、それでもワイシャツの布地越しに彼の体温を感じることができた。

 プライベートでは絶対に商品に手を付けない彼だけれど、今でも各店舗のナンバーワンクラスの女性たちは、彼が直々に『仕込んで』いるのだという。ただ単に、仕事でしていること。わかっていても、できることなら誰とも肌を合わせて欲しくなかった。

「オレが組を継いだら、お前はオレの片腕だ」

 女衒の仕事なんか、やめさせる。そばに置いて、自分だけのものにする。

 健成は大曽根の身体を抱く腕にギュッと力を籠めた。

「継ぐかどうかは、まだわからんでしょうが。一年間、外の世界で自由に生きて、それから決めるんでしょう」

 汗で張り付いた健成の前髪をそっとかきあげ、大曽根はそう囁いた。

 鈴川組には代々、成人前の決まりごとがある。一年間、極道の世界から離れて外の世界で暮らし、その後の己の生きざまを決めるのだ。

『やる気のねぇモンに継がせたって、ロクなこたぁないでな』

 祖父も曾祖父も、そういって跡継ぎ息子を一年間、親元から離れた外界に旅立たせた。そのならわしに従い、現組長である健勇も息子に一年間の自由な暮らしを与えたのだ。

「来年以降も、大学に残るって選択肢もあるんですよ」

 大曽根の指が、やわやわと髪を撫でる。その心地よさに、健成は思わず目を細めた。

 外の世界。憧れてはいたけれど、正直よくわからない。

 大好きなピアノを極めたくて音楽大学まで来たけれど、コンクールや演奏会など、表舞台に立つことは健勇からきつく禁じられている。目立つことは絶対にしてはいけない。ピアニストを目指すなんてもってのほかだ。そんな状態で音大に通って、いったいなんになるというのだろう。意味がないとわかっているけれど――それでも通いたかった。なんのしがらみもなく、ただピアノだけに打ち込める環境に身を置いてみたかったのだ。

「駅ビル、確か二十二時まででしたよね。急げば間に合います。CD、買いに行きますか」

 普段より幾分甘やかな大曽根の声が、ジンと身体に響く。

「――めんどくさい。通販でいいや」

 大曽根の胸に頬を摺り寄せ、健成はそう答えた。

「まったく。いつまで経っても「坊や」ですね、アンタは」

 くしゃりと健成の髪を撫で、大曽根は呆れたようなため息を吐く。

 単に子どもが甘えてるだけだと思っているようだ。

 それでもいい。どんなカタチだって、この男に触れられていたら、それでいいのだ。

「重い?」

 たくましいその胸に頬をくっつけたまま、健成は彼を見あげた。

「坊なんか、重いわけないでしょう」

 健成の髪を指先で弄びながら、大曽根はちいさく笑う。

 ほかの誰かをこんなふうに腕枕したり、胸に抱いてまどろむことがあるのだろうか。想像しただけで、心が押しつぶされてしまいそうだ。

「オレも、お前みたいにたくましくなりたい」

 頭だけでなく、上半身まるごと彼に預けるようにして、健成はため息交じりにつぶやく。

「ないものねだりせんでください。坊はそのままが一番です。マッチョな坊なんて、想像もつきませんよ」

 やわやわと髪を撫でられ、まぶたがとろんと重くなった。

 行為のあと、普段なら大曽根はそそくさと仕事に戻ってしまう。こんなふうにゆっくり過ごすのは、今夜がはじめてだ。

 ずっと起きていたいのに。どんなに頑張っても眠気には抗うことが出来なかった。ギュッと大曽根のワイシャツを掴み、その胸に頬を摺り寄せたまま、健成は深い眠りについた。

 

 

「おお、見事に女子ばっかだな」

 器楽科ピアノ専攻の生徒だけを集めたオリエンテーション。思わずそう呟いた健成に、田宮がちいさな声でささやく。

「創立十年の新設校だしね。男でこの学校の器楽科に入ろうっていう人はあまりいないんじゃないかな。ジャズ専攻や作曲学科なんかは、それなりに男子もいるみたいだけど」

 できたばかりで実績のない音楽大学。卒業後の保証は皆無に等しい。

「なるほどな。それで、お嬢さまっぽい女子だらけなのか」

 講義室内の女子は誰もがきれいに着飾り、ブランドもののバッグを手にしている。

「学費も高いしね。就職のことを考えなくていい裕福なおうちの子が多いと思うよ」

「お前ンちもそうなのか?」

「僕? とんでもない! ウチは貧乏だよ。全額給費生に選んでもらえたから通えているだけで……私立の音大に進学するお金なんて、ウチにはとても……」

 ぶんぶんと首を振る田宮に、周囲の視線が一身に集まった。

「すごい、あなたが一学年に一人しかいない全額給費生なのね」

 女子の黄色い歓声に、田宮は真っ赤になって俯いてしまう。

「ゃっ……全然っ……そんなっ、全然凄くないからっ……単に家の貧しさを考慮してくれたっていうか……」

 ふるふると震える田宮に、周りの女子学生たちがわらわらと集まってきた。

「田宮くんは、地元なんだっけ」

「う、うんっ……僕は茅ヶ崎

「鈴川くんは?」

 鈴川くん。唐突に名字を呼ばれ、ひくんと身体をこわばらせる。

「えっと、『健成』くんは、東海地方だよね」

「ぇ、あ、ああ……」

 ぼんやりしていそうな雰囲気の田宮だけれど、実際には空気を読むのがとても巧いようだ。健成が名字で呼ばれるのを嫌がっていることや、具体的な出身地を隠したがっていることを敏感に感じ取り、うまく助け船を出してくれる。

「じゃあ、ひとり暮らししてるの?」

「一人暮らしっていうか……親戚と。ルームシェア、みたいな」

「自炊してるの?」

「え、や、コンビニとか……」

 似合わないエプロンをつけて朝ごはんをつくってくれた大曽根の姿が浮かび、慌ててその映像を脳裏から追い払う。

「毎日コンビニじゃ栄養偏っちゃうよー。今度、みんなでホームパーティーしない?」

 ホームパーティー。周囲から恐れられ、遠巻きに見られるだけの暮らしをしていた健成にとって、思いもよらない言葉だった。

 主科の先生を囲んで、門下生同士の飲み会なども行われるらしい。誰かに遊びに誘われるなんて物心がついて以来初めてで、健成は無性にくすぐったい気持ちになった。

 

「よかったね。みんないい人そうだ。給費生なのがバレていじめられるかと思ったけど……健成くんのおかげで助かったよ」

 貸し切り状態の男子トイレ。ホッとした顔で田宮は笑いかけてくる。

「別に俺のおかげとかじゃねぇだろ」

 むしろこっちのほうが、助けてもらえた気分だ。愛玩動物のように愛くるしい田宮と一緒にいると、健成まで話しかけやすく見えるのかもしれない。あんなふうに大勢の人間と言葉を交わしたのは、本当に久しぶりだ。

 流しで手を洗い、適当に水滴を振り払おうとして、田宮がにこやかな笑顔でハンカチを差し出してきた。

「いいよ。お前が使えよ」

「だいじょぶ。僕は健成くんがつかったあとで十分」

 引き下がろうとしない田宮からハンカチを受け取り、そっと隅のほうで手を拭いて返す。

「しっかし、いろんな講義があるんだなぁ。西洋音楽史とか和声、ソルフェ、まさか必須科目がこんなにもたくさんあるとは思わなかったぜ」

 スマートフォンシラバスを眺めながら、思わずそう呟く。一日中ピアノだけを弾いていられるわけではないとわかっていたけれど、思っていた以上に大変そうだ。

「一、二年のうちは特に忙しいだろうね。音楽とは関係ない一般教養の講義もとらなくちゃいけないし。そういえば健成くんは教職とらないの?」

「ん、ああ。面倒くさい」

 本当はとってみたいけれど、どう考えたってヤクザの息子を雇ってくれる学校はないだろう。履修したところで、実習先を見つけられずに途方に暮れるのがオチだ。

 この大学では、専攻外の講義も選択し、受講することができるようだ。あのジャズピアノの先生が気になり、健成は検索画面に彼の名を入力した。

『ジャズピアノ実技 講師 高野晴久(たかの はるひさ)』

 ジャズ科以外の生徒も、彼の実技レッスンを副科として履修することができるようだ。希望者多数の場合はオーディションによる選考を行う、と書かれている。

「健成くんも、ジャズピのオーディション受けるの?」

「『も』って。お前、受けるのか?」

「ん。自信ないけど、受けてみたいなぁって思ってる」

 つやつやのほっぺたを赤く染め、田宮は照れくさそうな顔で健成を見あげた。

「お前、ジャズなんか興味あんのか」

「ジャズに興味があるっていうか、演奏の幅を広げたいなぁって思うし。それに……高野先生、すっごくかっこいいよね」 

 胸の前で両手を組み、うっとりしたような声で田宮はいう。

「かっこいいか? アレ」

 イケメンジャズピアニストとして、テレビや雑誌にひっぱりだこのようだ。たしかに整った顔立ちをしているが、細身で優男ふうの高野より、健成には男くさい大曽根のほうがよっぽどか男前に感じられた。昨夜のことを思い出し、かぁっと頬が熱くなる。

「健成くん……?」

「ん、あ、ああ」

「だいじょぶ? ほっぺ赤いよ?」

 心配そうに覗きこまれ、健成は慌てて表情をあらためた。

「で、なんの話してたんだっけ」

「オーディションだよ。ジャズピのオーディション、どうする? 受けるなら明日までに申し込みしないとダメみたいだけど」

「――一応、受けてみようかな」

 ジャズピアノなんて弾いたことがないし、受かるとは思えないけれど。挑戦するだけしてみても損はないだろう。

「じゃ、いっしょに申し込みにいこう! ジャズ棟ってはじめて入るんだよね。高野先生に遭遇しちゃったりするかな」

 よほど高野のことが好きなのだろう。嬉しそうに声を弾ませる田宮とともに、健成はジャズ科の生徒たちが利用している別棟へと向かった。

 

 創立十年と歴史の浅いこの大学のなかでも、ジャズ専攻は四年前に創設されたばかりの新しい専攻だ。校舎も真新しく斬新で前衛的な作りをしている。ガラス張りのエントランス。空を仰ぎ見ることのできる開放的な吹き抜け。高い天井を見上げ、田宮が感嘆のため息を漏らす。

「すごいね。リゾートホテルみたいだ!」

 白を基調としたモダンな空間に、高そうな観葉植物や難解なオブジェが置かれている。

(もう少し簡素な校舎にして学費を下げるっつー発想はねぇのか……?)

 無邪気に手を叩いて喜ぶ田宮とは対照的に、健成は心の中でそうぼやかずにはいられなかった。

「えっと……講師室は二階か」

 緊張した面持ちで、田宮はらせん階段を昇ってゆく。あまりにも緊張しすぎて手と足を同時に動かすその姿に、健成は吹き出してしまいそうになった。

 正午を廻ったばかり。ジャズ専攻の学生たちもオリエンを終えたのだろう。講義室を出てくる彼らはいかにもジャズや軽音楽を好みそうなカジュアルないでたちで、クラシック系の生徒とは異なる雰囲気を醸し出していた。

「わ、やっぱり男子が多いんだね」

 姉や妹に囲まれて育ったのだという。田宮は見知らぬ同性を見ると怖くなってしまうようだ。健成の背後に隠れ、挙動不審な動きをしはじめる。

「おお、あそこだな。講師室」

 二階の最奥に、ジャズ専攻の講師たちの部屋があった。

「ぇ、ぁ、どうしようっ……高野先生に逢っちゃったら……ぁっ……!」

 ただでさえおかしな動きをしていた田宮が、とつぜん健成のシャツをぎゅっと掴んでくっついてくる。

「た、高野せんせいだっ……!」

 これから門下に入れてもらおうというのに、こんな調子で大丈夫なのだろうか。田宮は健成の後ろに隠れたまま、ふるふると震えはじめた。

「きみたち、見慣れない顔だね。副科希望かい?」

「はっ……はいっ。せ、先生の副科ジャズピアノを受講させていただきたくて……。お、お、おーでぃしょんをっ……」

 健成の背中にしがみついたまま、田宮はうわずった声で叫ぶ。健成はその手をやんわりと引き剥がし、彼を高野の目の前に立たせてやった。

「ふぁっ……ぁ、はぅ……っ」

 高野と目が合った途端、田宮は謎のうめき声をあげて倒れてしまった。

「お、おいっ、田宮っ!」

 慌ててその小柄な身体を抱き留め、軽く頬を叩く。どうやら完全に意識を失ってしまっているようだ。

「大丈夫かい。この子」

「ん、ああ。まあ……大丈夫だと思います」

 憧れのアイドルを前にした途端、失神してしまうファンのようなものだろうか。まさか本当にそんな輩がいるとは思わなかった。

「新一年生かい?」

「はい。器楽科ピアノ専攻の、こいつが田宮優、オレは……」

 名乗ろうとして、言葉に詰まる。鈴川なんて名字の人間は、きっとそこらじゅうにいるだろう。名字だけでバレたりしない。そう思いながらも、不安で指先がつめたくなってゆく。

「鈴川――健成、です」

 掠れた声で名乗ると、高野はかすかに目を細めた。

「健成くんか。いい名前だね」

 深くて甘みのある声でいうと、彼は手を差し出してくる。

「ん――?」

「握手。嫌かい?」

「え、ぁ、ああ……」

 ぎこちなく手を差しだすと、健成の手のひらにつめたい手のひらが重ねられた。軽やかで、肉の薄いすらりとした手だ。ごつごつと武骨で肉厚な大曽根の手のひらとは随分触り心地が違う。

「指……長い、ですね」

 思わずそう呟くと、手をひろげて健成の手のひらに自分の手のひらをくっつけてきた。

「きみもすごく長いよね。きれいな指だ。いいね。すてきな音色を奏でてくれそうだ」

『すてき』って。そんな言葉を日常的につかう男を、健成はいままで一度も見たことがない。しばらく手のひらをくっつけつづけたあと、高野は健成の指に、自分の指を絡ませてきた。その絡ませかたが妙に性的で、ぞわっと全身の肌が粟立つ。

「ピアノ専攻かい」

「ぇ、ああ……」

 頷くと、きゅ、と手を握られた。しっかりと指を絡めたまま、じっと見つめられる。

 こうして間近で見ると、確かに整った顔立ちをした男だ。すらりとした長身に、繊細で甘みのある顔立ち。柔らかそうな栗色の髪に、透き通るような肌。こじゃれた服装をしており、女子学生から熱烈な支持を受けそうな雰囲気だ。

「きみの弾くピアノ、聴いてみたいな」

 高野の声がさらに甘さを増してゆく。まるでベッドに誘っているかのような、しっとりと濡れた声だ。

「ふぁ……っ……ぅ、あれ、ここはっ……うわぁああああっ!」

 ぱちりと目を開けた田宮が、謎の叫び声をあげる。

「お、目ぇ覚めたか、田宮」

 やんわりと高野の手を払いのけ、健成は田宮の頬を軽く叩いた。

「ぇ、ん、ぁ、あれっ……僕……っ」

「大丈夫かい?」

 高野から心配そうに見つめられ、田宮は真っ赤になって飛び上がった。気を失ったり叫んだり、普段はおっとりしているのに今日はなんだかとても忙しない。

「オーディションの申し込み、したいんですけど」

 田宮のかわりに、健成はそう切り出した。

「講師室に応募用紙があるから記入していきなよ。鈴川くんと……田宮くん、だったね?」

 高野に名前を呼ばれ、感極まった田宮はふたたび意識を失ってしまう。健成は彼の分も、代わりに応募用紙を記入する羽目になった。

 

「うぅ……ご、ごめんね、健成くん」

 本校舎一階のラウンジ。ようやく目を覚ました田宮は、申し訳なさそうな顔で健成を見あげた。

「別に平気だ。ンなことより、昼メシ喰いそこなったな。ほれ、同門の子が心配してメロンパン買ってきてくれたぞ」

 ラウンジのソファで意識を失ったままの田宮と、彼に付き添う健成。ふたりを心配して、同じ専攻の女子が学食のパンを買ってきてくれたのだ。

「わ、チョコチップメロンパンだ。これって人気があってなかなか買えないっていう噂のやつだよね――って、ごめん、もう夕方?」

 すっかり茜色に染まった窓の外に目を遣り、田宮はふたたび頭を下げる。

「気にするな。和声の予習、してたところだし」

 買えるものは早めに買ってしまおうと、必須科目の教科書を購買で購入してきたところだ。講義についていけるかどうか一番不安な和声のテキスト。赤い表紙のそれと格闘していたら、時間が経つのなんてあっという間だった。

「ンなことより、お前、家に帰らなくていいのか。もう十七時過ぎてんぞ。大曽根に送らせようか」

「ゃ、だいじょぶ。これ以上、迷惑かけるわけには……」

 起き上がろうとして、田宮はふらぁと体勢を崩してしまう。

「ちっとも大丈夫じゃないじゃねぇか」

 おでこを軽く叩いてやると、大きな瞳を潤ませ健成を見あげた。

「ぅ……」

「ほれ、行くぞ。家、茅ヶ崎のどこだ」

「えっと……わ、ちょっと待って、自分で歩けるよっ」

「いいから大人しくしとけ」

 田宮を姫抱きにしたまま、大曽根に電話をかける。

「――おう、大曽根。近くにいるんだろ」

 こんなときばかり頼るのもどうかと思うが、この状態の田宮をひとりで帰すわけにはいかないだろう。

『正門前、五分以内に向かいます』

 大曽根の低いしゃがれ声。用件だけいうと、電話は切れた。

 そしてきっちり五分後、正門前に黒塗りの車があらわれる。

「こいつを家まで送って行ってくれ」

 田宮の家の住所を告げ、健成は彼を抱いたまま後部座席に乗り込んだ。

 

 カタギの家の前に黒塗りの車を横付けするわけにはいかない。近くのコンビニに止めさせると、健成は田宮を家まで歩いて送っていった。

「なんか……本当にごめんね……」

「気にすんな。無事にオーディション、申し込めたからな」

「一週間後だっけ。いそいで曲決めて練習しなくちゃね」

「ああ。ほら、これ食えよ」

「ん、ありがとう。パンの代金、健成くんが立て替えてくれたんだよね?」

 メロンパンを手渡してやると、田宮はごそごそと財布を取り出そうとした。

「ンなもんいいから。とりあえずゆっくり休んで、明日学食でなんか奢ってくれ」

 くしゃっと田宮の髪を撫で、そういってやる。

「うぅ、あ、ありがとっ……」

 唐突にしゃくりあげ、田宮は声を押し殺して泣き出してしまった。

 

 泣きやむまで見守ったあと、大曽根の元へと戻る。助手席に乗り込むと、かすかに女性ものの香水の匂いが香った。

「――なんだよ、どっかの女とヤッてきたのか」

「『面接』しただけですよ。刈谷の箱ヘルの看板にしようかと思って」

『看板』にするほどいい女。つまり――大曽根自ら手取り足取り『講習』し、性戯を仕込んできたということだろう。

「ばっかじゃねぇの。こっちの女に手ぇつけて。地元の組の人間、刺激しても知らんぞ」

 川一本挟んだ向こう側には、つい最近も暴力団絡みで発砲事件のあった平塚があり、湘南地域随一の夜の街、藤沢からも近い。複数の勢力に囲まれたこの地域は、決して安全な土地とは言い難いのだ。

「坊こそ、可愛らしい女子大生に囲まれてきたんでしょうが。『姐さん候補』の一人や二人、向こうに連れ帰るくらいのつもりで励んだらどうですか」

 そんなふうに返され、胸ぐらを掴みあげる。大曽根は健成にぐっと顔を寄せると、唇が触れるか触れないかのところで囁いた。

「坊のコレは、一時的なモンです。そのうち紗有里(さゆり)さんのような、いいひとが現れますよ」

 大曽根の頬に思いきり張り手をかませ、喰らいつくようなキスをする。首根っこを掴んで引き剥がされ、唇をきつく摘みあげられた。その指からかすかに嗅ぎ慣れないボディソープの匂いがして、無性に胸が苦しくなる。

「帰りますよ。練習せなかんのでしょう」

 どんなに窘められても、止まらなかった。大曽根に飛びかかるようにして、無理やり唇を重ね合わせる。

「――相変わらず、聞き分けのないお子さまですね」

 窒息しそうなほど濃厚なキスの狭間。すっかり息が上がった健成とは対照的に、大曽根の声はいやになるほど冷静だ。自分だけが滾っている――そのことがたまらなく悔しい。

「う、るせぇっ……はやく、部屋、連れてけっ」

 いますぐここで襲ってしまいたいけれど、さすがに公然わい※せつを理由に通報されたら、大曽根の顔に泥を塗ることになる。

「まったく。ほら――」

 顎を掴まれ、やんわりと上向かされる。与えられたのは、蕩けるように甘やかなキス。ぐったりと脱力した健成の耳朶に唇を押し当て、大曽根は囁いた。

「坊、いざってときのために学習してください。キスってのはこうやるもんですよ。ムリくり舌を挿れて弄ったって、オンナを蕩かすことは出来ません」

「っ――」

 すっかり火照った身体。腰が抜けたように脱力し、ぐったりとシートに沈み込む。

「さて。大人しくなったところで、帰りますか」

 涼やかな顔で健成にシートベルトをすると、大曽根はゆっくりとアクセルを踏みこんだ。

 

 

 家に帰ると、すぐに練習に取りかかるよういわれた。かすかに大曽根の余韻の残る唇。ベッドに連れ込んでめちゃくちゃに乱してほしいのに、強引にピアノの前に座らされる。

「二十二時以降は音出し厳禁でしょう。いまのうちに練習しなくてはダメです」

 組長の金で大学に通う以上、絶対によい成績を収めなくてはいけませんよ、と大曽根は険しい顔を向けてくる。

「うるせぇな。いわれなくたってやるよっ」

 結局はいつもどおりの子ども扱いをされてしまうのだ。健成は悪態を吐きながらも、姿勢を正して指練習をはじめた。

 

 しばらくすると、台所からいい匂いが漂ってきた。まろやかで芳醇な香り。デミグラスソースの匂いだ。その匂いに誘われるように指が止まる。

「いったん休憩して、メシにしますか」

 大柄な身体にオレンジ色の可愛らしいエプロンを纏った大曽根が顔をのぞかせた。そんな珍妙な格好をしていても相変わらず男前に見えるのだから、同じ男としてなんだか無性に腹が立つ。

「なあ、メシの前に……」

 背伸びをするようにしてキスをせがむと、思いきり呆れた顔をされた。

「まったく。どれだけ盛ってんですか。坊は」

 面倒くさそうにため息をつきながらも、彼は健成を抱き寄せ、くちづけてくれる。

「んっ……ぅ……」

 いったい自分のキスと、なにが違うというのだろう。

 唇を重ねあわされた瞬間から蕩かされ、あっという間に膝から力が抜けてしまう。脱力した健成をたくましい腕で抱き留めると、大曽根はねっとりとした濃厚なキスを与えてくれた。

「さめる前にメシ喰いますよ」

 耳元で囁かれ、折り畳み式のちゃぶ台の前に座らされる。ちゃぶ台の上では、おいしそうなオムライスが湯気をたてていた。

「昨日は夕飯喰わせる前に寝ちまいましたからね。きょうこそちゃんと喰ってくださいよ。ただでさえ、坊は食が細くて身体もほそっこいんですから」

「いちいちうるせぇなぁ、お前基準で見たら、誰だってほそっこく見えちまうよッ」

 悪態を吐いてはみるものの、頬を緩ませずにはいられない。

 とろとろふわふわの卵に、じっくり煮込んだビーフストロガノフソース。中身はチキンライスではなく、粗挽きコショウとパセリを効かせたバターライスだ。

 幼いころ、母がよく連れて行ってくれた喫茶店。そこで食べるオムライスが健成はなにより好きだった。

 母が亡くなったあとも、大曽根にせがんで時折食べさせてもらいに行っていたが、誘拐事件以降、むやみに外に出ることを禁じられ、それも叶わなくなった。

『あの店のオムライスが食べたい!』

 駄々をこねる健成のために、お手伝いさんが真似て作ってくれたが、ちっともあの店の味とは似ていなかった。すでに店は閉店してしまっているため、味を確かめにいくことも叶わない。

『こんなの、違う』

 やさしかった母のことを想い出してぐずる健成のために、唯一その店のオムライスの味を知る大曽根が、自ら再現を買って出てくれた。

 慣れない包丁やフライパンと格闘し、やけどや切り傷で指をばんそうこうだらけにした彼がこしらえたオムライスは、見た目も拙く、けっして美味しいとはいえないものだった。

 けれども、自分のために苦手な料理に取り組んでくれた彼のやさしさが、健成にはたまらなくうれしかったのだ。

『あんまり似てないけど……おいし』

 そう告げると、大曽根は心底嬉しそうな顔で笑い、健成を抱きしめてくれた。

 家の外に出ることを禁じられた健成を不憫に思ったのだろう。大曽根は板前出身の新入りに料理を教わり、健成のためにわざわざ、その店でコックをしていた男を探し出して作り方を教わってきてくれた。

 徐々に進化を遂げた大曽根のオムライスは、当時喫茶店で食べた記憶のなかのオムライス以上に、健成にとって大好きな味になった。

「んまい」

 オムライスが好きなんて、ガキくさいと思われてしまいそうで嫌だけれど、大曽根の作るこのオムライスは格別なのだ。数少ない母との想い出とともに、健成の心をいやしてくれる。

「ほら、坊、ソースついてますよ」

 口元を拭われ、野太いその指をぱくりと咥える。口※淫するようにねっとりとしゃぶると、呆れた顔をされた。

「坊、コッチに来て、向こうにいたとき以上にタガが外れてませんか」

「ん。だって夜ンなっても、お前、おらんくならんし」

 向こうで暮らしていたころは、夜になると大曽根は仕事でどこかに行ってしまうことが多かった。朝夕の送り迎えは絶対にほかの者には任せず彼本人がしてくれるのに、夜になると弟分に任せてどこかにいってしまうのだ。

「そりゃあ、自分のシノギがありますからね。坊だけに構っとくわけにはいかんのですよ」

 ねっとりと指の腹で口内を撫でられながら、やさしく髪を梳かれる。あまりの心地よさに、それだけで蜜が潤んでしまった。

「信用できる人間だけを置いたつもりでしたが、シゲにまで手ぇ出されたときには、どうしようかと思いましたよ」

 若気の至り。やきもちをやいてもらいたくて、彼の弟分を片っ端からベッドに誘ったのだ。大半の人間は慌てふためいて大曽根に連絡を入れたが、何人かは誘いに乗り、健成に飛びかかってきた。彼が当時いちばん可愛がっていた弟分、シゲもそのうちのひとりだ。

 すっかり本気になったシゲに服を脱がされ、挿入されそうになったところに大曽根が乗り込んできて激怒された。

「ケツの青いお子さまとはいえ、坊は見てくれだけは紗有里さん譲りで極上なんです。組のモンのなかには、ムショで男の味しめてんのも少なくない。むやみやたらに誘ったらダメですよ」

 いつかは組を率いる立場になるってこと、ちゃんと自覚してください、といつもの小言がはじまってしまう。

「じゃあ、誰と寝ればいいんだよっ」

 組の人間と寝てはだめ。どこの馬の骨ともわからない外の男ともダメ。大曽根も最後まではしてくれない。いったい誰が相手なら許してもらえるというのだろう。

「何度もいうように、坊のそれは、心の病みたいなモンです。本当に男が好きなわけじゃない。いつか心から愛することのできる女性に出会えたら、きっと直ります。紗有里さんみたいな女神が、必ず坊にも現れますよ」

 大曽根が健成に優しくしてくれる理由――それはこの男が健成の母親であるに紗有里に惚れていたからだ。

『姐さんは、自分らの女神だった』

 口癖のように、大曽根がくり返す言葉だ。その言葉を耳にするたびに健成は『自分ら』じゃなくて『お前の』だろ、とツッコミを入れてやりたい気分になる。

「練習するんでしょう。早せんと、22時なんてあっという間ですよ」

 急かすようにしてピアノの前に戻らされた。健成が曲を奏で始めると、大曽根はベッドに背を預け、心地よさそうに目を閉じる。

 紗有里がピアノを弾くあいだ、大曽根はよくこうして心地よさそうに目を細めていた。

(母さんのこと、想い出しているのかもしれない――)

 そのようすに、ギュっと胸が締め付けられた。

 

 きっちり二十二時まで練習し、ピアノを磨き終えたら大曽根のもとに向かう。

 ノートパソコンを広げて仕事をしている彼の正面にしゃがみこみ、じっとその姿を観察したけれど、健成が目の前にいることがわかっていながら、彼はちっとも顔をあげようとしない。

「なあ、大曽根

 痺れを切らして声をかけると「仕事中です」とぴしゃりと遮断されてしまった。

「あとどんくらいかかんの」

「そうですね。四時間くらいですかね」

「マジか!」

 四時間後。午前二時過ぎだ。しょんぼりと肩を落とす健成を抱き寄せ、大曽根はそのこめかみにちいさくキスを落とす。

「嘘です。――あと三十分。おりこうさんにしとれますか」

「っ――」

 相変わらずの子ども扱い。腹立たしい気持ちになるけれど、なだめるように髪を撫でられると、大人しくいうことを訊こうという気分になる。

「先、風呂入って、歯ぁ磨いときなさい」

「ん……あぁ」

 素直にうなずき、立ちあがろうとして、腕を掴んで引き寄せられた。

「坊のピアノは本当にいいですね。クサクサした気分が、一気に吹き飛びましたよ」

 与えられたのは、唇を重ねあわせるだけのかすかなキス。

 ずるい――と思う。こんなの、惚れるなというほうが無理な話だ。飛びかかるようにしてキスの続きを求めようとして、首根っこを掴んで引き剥がされる。

「先に風呂と歯磨き。ちゃんと寝る準備してからです!」

「わかったよ。うるせぇなぁっ」

 不満そうな顔を作りながらも、健成は頬が緩むのを止められなかった。

 

 三十分後、風呂から上がってパジャマに着替えた健成を、大曽根は約束どおりベッドに連れて行ってくれた。

「まったく。ひとり寝も満足にできないなんて。坊はいつまで経っても子どもですね」

 健成の身体に掛布団をかけ、大曽根はごろんとその隣に横になる。健成はかけてもらったばかりの布団を捲り上げ、大曽根をなかに誘った。

「坊みたいなタイプは、年上の姐さんがいいでしょうね。しっかり者で、気立てがよくて……っ」

 耳障りな言葉を塞ぐように、強引に唇を重ね合わせる。

「相変わらず、がっついてばかりだ。すこしは相手のことを思いやったキスの仕方を、覚えるべきです」

 いったん引き剥がされ、唇にそっと舌を這わされる。

「ぁっ……」

 びくんと身体をこわばらせた健成の顎を掴み、大曽根は蕩けるように甘いキスを与えてくれた。

「はぁっ……ぅ……っ、大曽根も、脱いで……っ」

 シャツのボタンに手を伸ばそうとして、やんわりと引き剥がされる。

「坊こそ早いとこ脱がなくちゃ、またパンツを穿いたまま粗相をしてしまいますよ」 

 からかうように囁かれ、かぁっと頬が熱くなった。大曽根は健成のズボンを脱がせると、あえて下着はそのままで、さらに深くくちづけてくる。

 ――ゃ、も、おかしくなるっ……。

 指一本核心に触れられる前から、健成はその熱を爆ぜさせ、彼の腕のなかで意識を失ってしまった。

 

 

「健成くん、だいじょぶ?」

 顔を覗きこまれ、ふと我にかえる。

「ん、ああ。大丈夫」

 昨夜のことを思い出し、うっかりトリップしていた。――駄目だ。最近、気を抜くと大曽根のことばかり考えてしまう。ぶんぶんと頭を振って妄想を追い払う健成に、田宮がにこやかな笑顔を向けてきた。

「昨日のメロンパンのお礼がしたいんだ。いっしょに学食いこ」

 健成の腕をつかみ、田宮は引っ張るようにして学食へと連れて行く。どうしてもお礼がしたいといって張り切るその姿は、なんだかとても愛らしく感じられた。

「すげぇな。ガッコのなかにこんな場所があるなんて」

 ガラス張りの明るい店内。そこは学食というより、おしゃれなカフェのような場所だった。女子学生の多い大学だから、彼女たちの好みに合わせているのだろう。洗練された雰囲気のその店は、メニューも若い女性が好みそうな小洒落たものばかりだ。

「学食っつったら、カレーとかカツ丼とか、激盛りの飯が安く食えるのかと思ってたんだけどな」

 一般的なカフェよりは価格が抑えられているようだが、ランチセットはいちばん手ごろなものでも580円。あまり財布には優しくなさそうだ。

「健成くんっておしゃれだし、地元でも­こういう場所、よく通ってたんじゃないの?」

「いや。あんま外食とか、したことねぇし」

 最後に外で飯を食べたのは、いったいいつだっただろうか。誘拐される前、大曽根と行った喫茶店の記憶くらいしか健成には思い浮かばない。

「おいしそうだね。健成くんにはちょっと量が少ないかもだけど。あ、足りなかったら追加でいろいろ頼んでね」

 本当に奢る気でいるようだ。財布を握りしめ、にこにこ微笑む田宮には悪いが、苦学生の彼に奢られるつもりはない。

「田宮、悪いが驕りはまた今度な。学食以外の場所で奢ってくれ」

「えっ……そんなっ……」

「安心しろよ。そんな高いモンねだらないから。ただ、いまはまだ懐に余裕があるから。仕送り前ピンチなときに助けてくれよ」

 さりげなくそう付け加えると、田宮は「大変なときは遠慮なくいってね」と笑顔を向けてきた。

「あんまりきれいなとこじゃないけど、僕んちでよかったらいつだってご飯食べに来てね。大家族だから、ひとりぐらい増えてもきっと全然変わんないよ」

 田宮の家は定食屋をしており、祖父母、両親、姉と妹がそれぞれ二人ずつ。姉の旦那や甥っ子、姪っ子までいっしょに暮らしているのだという。

「賑やかそうでいいな。だけど、練習どうしてんだ」

「ん。受験前はずっと学校のピアノ借りてた。あとは公民館とかね」

 家には古いアップライトピアノしかないのだそうだ。

「たまにならいいけど、毎日この値段出すのはキツいよな。昼、弁当かなんかにすっか」

 田宮の懐具合が気になって、健成はさりげなくそう提案してみた。

「弁当! いいね。芝生で弁当広げたりとか、楽しそうだよね。あ、健成くんのぶんも持ってこよっか?」

「いいよ。オレはオレで持ってくっから、おかず交換しよーぜ」

 できるだけ負担をかけずに済むよう、そういってやる。屋外で昼を食べられるのがよっぽど嬉しいのだろう。田宮は遠足前の子どものように目を輝かせた。

「そういや、オーディション何で受けるつもりなんだ。お前、ジャズの曲とか弾けるのか」

 悩みながら一番お手頃なAセットの食券を買い、カウンターに出す。田宮も迷わず一緒のボタンを押した。

「ゃ、ジャズ弾けないし、いまから手を付けても厳しいだろうから、クラシックでそれっぽく聴こえるものを弾いたほうがいいかなって思うんだよね。近現代の曲とか」

「たとえば?」

カプースチンの『8つの演奏会用エチュード』とか、それっぽいかなって思うんだけど」

「お前、カプースチンなんて弾けるの?」

「ん。近現代好きだから。健成くんは?」

 近現代。嫌いではないけれど、まだ早いといって、先生になかなか取り組ませて貰えなかった。

「もっと古い作曲家だと、ドビュッシーはどうかな。『ロマンティックなワルツ』とか、ポピュラーのひとが好きそうな音遣いじゃない? ジャズにもワルツって多いし」

ドビュッシーか。その曲、譜面はさらったことある。人前で弾けるような状態じゃないけど」

「そんなにきっちり完成してなくても大丈夫だと思うよ。どちらかというと、適性を見極めたいんだろうし」

 どれくらい指が動くのか、どんな音色を奏でるのか。楽曲の完成度以上に、そういった部分を見たいのだろう、と田宮はいった。

「ご飯食べたら、いっしょに曲選びする? レッスン室、無料で使わせて貰えるみたいだし。図書館に行けば、譜面も揃ってるよね」

「ああ、いいよ」

 昼食後、図書館で何曲かピックアップし、練習室の貸し出し窓口へと向かった。生徒に無料で開放されている練習室。予約不可、早い者勝ちらしく、グランドピアノの部屋はすべて埋まってしまっていた。

「タダで使わせてくれるのはありがたいけど、マジで狭いな」

 アップライトピアノ一台がちょうど収まる、長細くちいさな部屋。ピアノ椅子に腰かけると、背後の壁まで十センチほどしか余裕がない。

「狭いらしいとは聞いていたけど、本当に凄いね。なんか近くで見ると……健成くん、ますますカッコよくてドキドキしちゃうな……」

 ほっぺたを真っ赤に染めて、田宮は落ち着かなさげに視線を泳がせた。

「ばーか。オレなんかちっともカッコよくねぇって」

 カッコイイってのは大曽根みたいなやつのことをいうんだぜ、と­いいそうになって、慌てて口をつぐむ。

「っつーか、田宮ってよく男の容姿褒めるよな。もしかして、男が好き、なのか?」

「ぇっ……ぁ、いやっ……そのっ……ご、ごめん、ぁ、あのっ……き、気持ち悪いよね……っ」

 いまにも泣き出しそうな顔で、田宮は謝りはじめた。耳まで真っ赤に染め、ふるふると小柄な身体を震わせている。

「別に、謝る必要ねぇよ。オレ、そういうの偏見ないし」

 というか――自分自身だって、たぶん、そうだ。大曽根は一時のものだというけれど、いつかは治るなんて、そんなふうに思うことは出来そうになかった。

「僕ね……そのことが原因で、ずっといじめられてて。ゃ、それだけじゃないんだけど……っ、小学校のころとか、お姉ちゃんのおさがりの服とか着てて。あ、スカート穿いたりするわけじゃないよ。だけど男っぽい色の服より、きれいな色のTシャツとか好きだったりして。男の子が相手だと、ちゃんと目を合わせたりできなくって……意識しちゃダメだって思えば思うほど、うまく話せなくなっちゃって……」

 気持ち悪いといわれ、苛められてばかりだったのだという。

「ごめんね。だから友だちとかできるの、健成くんがはじめてなんだ。すっごく嬉しくて……ごめん、ほんと、気持ち悪いよね……」

 こんなだからいじめられるんだね、と、田宮は唇を噛みしめて俯いてしまった。

「別に気持ち悪くなんかねぇし。それに……オレも友だちなんて、いままで全然おらんかったし。ピアノの先生以外でピアノの話なんかできるやつ、お前がはじめてだ」

 普段は控えめな田宮も、大好きなピアノのこととなると、とても雄弁になる。こんなふうに音楽に対する熱意にあふれた男と友だちになれるなんて、それだけでこの学校に来た価値があると思えるくらいだ。

「別に、オレはそういうの、全然気にしねぇから。これからも仲良くしような」

 そういってやると、田宮は大きな瞳からポロポロと涙を溢れさせた。

「うぅ、健成くんに出逢えてホントによかった!」

 嬉しそうな顔で泣きじゃくる田宮を前に、健成まで自然と頬が緩む。

 組を離れて暮らせば、こういう普通の生活を送れるようになるのだ。友を得たり、自分の好きなことに打ち込む時間を持てたりする。――けれども、そんな日常を選べば、大曽根を失うことになる。

 いつだってそばにいて、自分を助けてくれていた大曽根。彼は健成の恋人でなければ、友人でもない。単に組長の命令で、跡継ぎ候補の世話をしているだけだ。健成が鈴川の家を離れれば、二度と逢うことさえ叶わなくなるのだろう。

 大曽根のいない生活。想像してみようとして、どんなに頑張っても思い浮べることができなかった。

 

 

 オーディションには、五十人を超える学生が参加することになった。

「うわぁ、どうしようっ……この中から五人しか選ばれないんだよねっ」

 真新しいジャズ棟のホール。天井が高く広々としたそこに集う面々を見渡し、田宮は不安そうに震えあがった。

「わ、あの子、JECでグランプリ獲った子だ」

「JEC?」

「電子オルガンの演奏能力を競う全国大会だよ。わ、あの人も見たことある。えっと……確か、有名なボカロPだよね。すっごく人気のある人だ」

 健成にはなんのことだかさっぱりわからないが、ネット上で有名なクリエイターらしい。

「そっか。ウチってLM系はレベル高い子、揃ってるんだよね」

 歴史の浅い大学だが、創立者が著名な作曲家で講師陣や設備も豪華なため、作曲学科やポピュラー系の学科を中心に有望な学生が集まっているようだ。

「それにしても、高野先生、本当にかっこいいよね。先生とふたりきりでレッスン室に入るなんて、想像しただけでドキドキして死んじゃいそうっ」

 ほっぺたを真っ赤に染めて、田宮は健成の背後に隠れてしまう。田宮だけでなく、その場にいる女子学生の大半が、高野の容姿に目を奪われているようだ。グランドピアノの前に立つ彼に、うっとりとした眼差しを注いでいる。

 カジュアルなジャケットに細身のパンツ。華美な服装をしているわけでもないのに、確かにとても小洒落た雰囲気を漂わせている。

「それじゃ、公開オーディションを始めるよ。学籍番号順に行こう。まずは器楽科、ピアノ専攻の鈴川健成くん」

「はっ……?!」

「わ、凄いね。健成くん、トップバッターだ」

 頑張ってねー、と田宮に笑顔を向けられ、健成は困惑した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ……」

 心の準備が、といいかけた健成に、高野はやんわりとした笑顔を向ける。

「きみたちクラッシック系の学生にとって人前で演奏するのは特別なことかもしれないけれど、僕らジャズの人間からしたら、オーディエンスの前で演奏するのが基本だからね。そのことに慣れてもらうための公開オーディションでもあるんだよ。さあ、きみの奏でる音を聴かせてごらん」

 そんなふうに煽られ、ますます心臓が暴れだした。発表会すら出たことのない健成にとって、誰かにピアノを聴かれる機会は、いままでほとんどなかった。

「だいじょぶ。健成くんならいけるよ!」

 田宮に励まされながら、ぎこちない足取りでホール中央に置かれたグランドピアノに向かう。周囲の視線が、一斉に自分に注がれるのがわかった。

(くっそ……指が震えちまうっ……)

 ギュっと拳を握りしめたそのとき、ふと懐かしい記憶が頭をよぎった。

 幼稚園のお遊戯会。身体が弱く床に伏しがちな母が、その日は珍しく見に来てくれたのだ。うさぎのお面を被って、みんなで歌をうたう。大好きな母に見てもらえるのだと思うと、緊張して、どうしていいのかわからなくなってしまった。

『坊、手ぇ貸してください』

 ちいさな拳を握りしめ、ふるふると震える健成に、節ばった大きな手のひらが差し出される。

『ほら、手ぇ広げて。そう、人って字を書くんですよ。こうです』

『く、くすぐったいよっ……』

『逃げたらダメです。三回書くんですよ、三回。人を書いて、それを呑みこんで、はい、ちゃんと自分で書いてください』

 大柄な身体を屈ませて健成の目線の高さにあわせ、大曽根はそういってくれた。

『そ、そんなの書けんし。漢字なんて、わからんよっ』

『じゃあ、代わりに自分が書きますから。だからほら、ちゃんと呑んでくださいね』

 健成の背後に回り込み、抱きかかえるようにして、大曽根はちいさな手のひらに真面目くさった顔で『人』の字を書き、その手を口元に運んでゆく。

『ほら、震えが収まった』

 ニッと笑うその笑顔に、健成はぽーっと頬が熱くなるのを感じた。

 健成にこんな笑顔を向けてくれる相手。母以外には、この図体の大きな男以外、誰ひとりとしていない。

『最後まで泣かんと頑張ってくださいね。紗有里さん、楽しみにしてんですから』

 もう十年以上前のことなのに。手のひらに人の字を書かれたときの感覚がとてもリアルによみがえった。

「――学籍番号、1A16017番、器楽科ピアノ専攻、鈴川健成、ドビュッシーのロマンティックなワルツ、弾きます」

 学籍番号と曲名を告げ、椅子の高さを調整して腰かける。脳裏によみがえるのは、いまより随分若々しかった当時の大曽根の姿だ。

(よぉ考えたら、あのころの大曽根、いまの俺らとそう変わらん年齢だったんだな)

 いまさらのように、そんなことを思い出す。

『坊のピアノは、本当にいいですね』

 甘やかな声で囁かれた昨夜のことが脳裏をよぎり、胸が張り裂けそうになった。

大曽根にだけ、聴かせると思えばいいんだ)

『いいですか。客席におんのは、全部石っころです。紗有里さん以外のひとらなんか、全部、石だと思えばいいんですよ』

 当時から健成は、自分が周囲から『ヤクザの子ども』として蔑まれていることを、なんとなく肌で感じ取っていた。漏れ聞こえてくる噂話。母を侮蔑する言葉。それらに苛まれながら、ずっと暮らしてきた。

 みんなといっしょに可愛らしいウサギのお面をつけていても、自分だけが汚いものを見る目で見られるのではないかと、不安でたまらなかった。

大曽根、だけ)

 大曽根と――田宮になら、聴かれてもいい。あとの人たちは、全部石ころだ。

 ちいさく深呼吸して、はじめの音を響かせる。軽やかなワルツ。けれども、音遣いはどこかいびつで、うつくしいだけではない危うげな魅力がある。

 ワンフレーズ奏で終わるころには、心は落ち着いていた。音数も少なく、余裕を持って響かせることができる。よい造りをしたホールなのだろう。室内を満たす音色は、自分自身が奏でている音とは思えないくらい、心地よく感じられた。

「――はい、ありがとう。そこまでで結構です」

 曲の途中でさえぎり、高野は書類になにかを書き込む。不安だったけれど、生徒たちのなかから、ぱらぱらと拍手が起こった。

 当然のことだけれど、その場では合否は教えてもらえないようだ。落ち着かない気持ちのまま、次は田宮の番になった。

 健成に軽くハイタッチしたあと、田宮は照れくさそうな顔でひょこひょことピアノの前に歩いてゆく。ぺこりと頭を下げて曲名を告げると、彼は自信のなさそうなその佇まいからは想像もつかないほど堂々たる音色を響かせた。

 学生たちの間から、感嘆のため息が漏れる。書類に目を向けていた高野も、手を止めて顔を上げた。

(すげぇ――なんだコイツ……)

 練習室で音をさらっていたときからその音色はずば抜けていたし、全額給費生なのだから相当巧いのだろうな、とは思っていたが――この演奏力は、もはやそういう次元ではない。学生たちのため息が、ざわめきに変わる。

 高野の眼差しが、まっすぐ田宮に注がれるのがわかった。

(あぁ――俺、ダメだ……)

 あまりにも、格が違いすぎる。いったいなぜ田宮は、この大学に入ってきたのだろう。プロの演奏家と並んだって、きっと遜色がない。うまい下手の問題ではなく、存在感が違うのだ。奏でる音の輝きが、圧倒的に違う。

「ふあぁあー……緊張したぁっ……」

 喝采の拍手を浴びて帰ってきた田宮が、いつもどおりの情けない表情で脱力する。

「お前……すげぇんだな、マジで」

 思わずそう呟くと、彼は「とんでもないっ」とふるふると首を振った。

「きっともっとみんな巧いよ」

 田宮はそんなふうにいったけれど、ほかの学生たちの演奏は、彼の名演の後で聴くと残念ながら誰もが凡庸にしか聞こえなかった。

 

「お前は確実に『合格』だな。オレは……どう考えても不合格だよなぁ」

 田宮と比べれば目立ったところはなかったものの、他の学生たちもそれぞれ皆、巧みな演奏をしていた。あのなかから健成が選ばれる可能性は、残念ながらとても低いだろう。

「そんなことないよ。健成くんの演奏、先生、すっごく真剣な表情で見てたもん」

 慰めようとしてくれているのだろうか。田宮の言葉に、健成は思わず苦笑いを零した。

「いや、どう考えても無理だろ。ほかの奴ら、めっちゃ巧かったし」

「確かに技巧的で聴き映えのする曲を持ってきた子が多かったよね。だけど、電オル専攻や作曲学科の子が多かったからかな。残念ながら、ピアノの音色自体は、健成くんがダントツにきれいだったよ」

「いや、慰めてくれなくてもいいから」

「ううん、慰めとかじゃなくて。結果を見ればわかるよ。僕なんかにもわかったくらいだから、高野先生ほどのひとが、気づかないわけないもん」

 いつになく自信ありげな口調で、田宮はいってみせる。ピアノのことになると、本当に人が変わったかのように饒舌だ。

「結果発表、明後日だっけ」

「うん。ジャズ棟の掲示板に貼り出されるって」

「マジか。容赦ねぇな……」

 合格者だけにこっそり伝えてくれればいいのに、わざわざ公開されてしまうようだ。

「難易度の低い大学とはいえ、ここは音楽大学だよ。演奏家になるために切磋琢磨し、自己研さんを積む場所だ。これからもっと、僕らは厳しい思いをすることになるんだよ」

 学内演奏会だって、オーディションを突破しなければ舞台に立つことさえ叶わない。ふるいにかけられ、それでもしがみついて上を目指す気概がなければやっていけないよ、と田宮は当然のことのようにいった。

「まあ、そうなんだけどな」

 ただ単に、好きなピアノに打ち込みたいから入学した。そんな健成と違い、皆、真剣に上を目指しているのだ。

 

 入学早々、厳しい現実を思い知らされることになるかもしれない。

 そんな健成の予想は外れ、掲示板に貼り出された合格者一覧、田宮の隣に並んで健成の名前も記されていた。

「う、受かった……まぐれだ……っ」

「ううん。まぐれじゃないよ。健成くんのピアノ、本当にきれいだったもん。よかったね、今日は祝杯をあげられるよっ」

 大学入学後、はじめての飲み会。きょうは主科の先生を囲んで行われる門下の新入生歓迎会だ。

「つーか、酒、ダメだろ。未成年なんだから」

 自分自身は未成年のころから酒もタバコもやっていただろうに、大曽根は健成に対してとても厳しいのだ。飲酒なんてバレた日には、どんな目に遭わされるかわからない。台所の梅酒をこっそり拝借し、思いきりお尻をひっぱたかれたときのことを思い出し、ぞくっと背筋が寒くなった。

『ガキが酒なんぞ飲んだら脳みそワヤんなるって、そんなこともわからんのですかっ!』

 椅子に座るのが辛くなるほどお尻を叩かれたアレは、いくつのときだっただろうか。

「まあ、ホントはダメだけど……大学生だしね」

 駅前のバールの個室を貸し切った宴席。なごやかにグラスを傾ける女子学生たちを眺め、田宮自身も乾杯用のスパークリングワインを手にしている。

「あ、そっか。健成くんは、お酒を飲むと大曽根さんに怒られちゃうんだね」

 田宮はそう囁くと、「健成くん、原付で来ちゃったみたいで。きょうはソフトドリンクです!」と、角がたたないよう、周囲に宣言してくれた。

 最初のうちは行儀のよかった彼女たちも、酔いがまわりはじめ、段々と大胆になる。

「健成くん、LINEのID教えて!」

「私もー。ね、健成くん、インスタやってる?」

「ごめん、どっちもやってない」

「えー、アカウント作ろうよー。簡単だよ?」

 スマホを奪われ、勝手にアプリをインストールされてしまった。

「凄いね、健成くん、大人気」

「あ、田宮くんもついでに教えて」

「はーい、『ついで』にお教えしまーす」

 酒の席でも田宮は皆のマスコット的存在だ。男子のいない場所でなら、のびのび自然体でいることができるらしい。

「じゃあ、二次会はカラオケね!」

 クラシックピアノを専攻する音大生。カラオケなど無縁かと思ったが、どうやらそうでもないようだ。熱心に誘う彼女たちと店の外に出ると、いつの間にか道路のわきに黒塗りの車が停まっていた。行先などいっさい告げていないのに、いつものことながら健成の行動は筒抜けのようだ。

「あ、ごめんなさい。僕たち、この後予定があって……」

 大曽根の姿に気づいた田宮が、気をきかせてそういってくれた。

「えー、帰っちゃうの?」

「ごめんなさい。どうしてもパスできない用事で……」

 残念そうな顔をしていた彼女たちも、ぺこぺこと一生懸命頭を下げる田宮を前に、「仕方ないわねぇ」と解放してくれた。

「じゃあ、明日からもよろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる田宮に続き、健成も頭を下げて皆を見送る。

「――サンキュ。助かった」

「ううん。実をいうと、僕もカラオケとか、すっごく苦手だから」

 逃げちゃいたかったんだよ、といって、田宮は無邪気な顔で笑った。

 本当に、いい友だちを持ったと思う。はじめての友人が、この男でよかった。

大曽根に送らせるから、いっしょに来いよ」

 手を掴んで引き寄せると、田宮は遠慮したような顔で首をふる。

「だいじょぶだよ。まだバス動いてるし」

「もうちょっと話してぇんだよ。あんま二人で話せなかったし」

「ぇっ……ぁ、ぁ……う、うんっ」

 なぜかほっぺたを真っ赤に染めて、田宮は突然大粒の涙を溢れさせてしまった。

「なんだ、どうしたっ」

「ゃ、うん……なんか、僕、本当に友だちが出来たんだなぁって……思ったら涙でてきちゃった」

 いったい、いままでどれだけ寂しい生活を送ってきたのだろう。

 えぐえぐとしゃくりあげる田宮の肩を抱いて、健成は大曽根の待つ車に乗り込んだ。

 

 

 グランドピアノが二台並んで置かれたレッスン室。たどたどしくコード譜を辿る健成のピアノに、包み込むような高野の伴奏が重なる。

 ただ構成音を奏で、時折アドリブを混ぜるだけなのに。彼の紡ぎ出す音は魔法のように健成の音色をひきたて、昇華させてくれる。

 ピアノという楽器をここまで巧みに操る男を、健成はいままで一度も見たことがなかった。彼の奏でる音は、楽譜からも鍵盤の物理的な並び位置からも、自由に羽ばたいているように感じられる。躍動するリズム、独創的な音遣い。なにもかもが新鮮で、うっとりと聴き惚れてしまいそうになる。

 彼のレッスンは思っていた以上に素晴らしく、健成にとって宝物のような時間になった。

「凄いです。どうしたらそんなふうに奏でられるのか、オレにはさっぱりわからない」

 感嘆のため息を漏らす健成に、高野はにっこりと笑顔を向ける。

「大丈夫。みっちり基礎を身につければ、自由に奏でられるようになる。まずは徹底的にコードの響きを身体に叩き込んで。そうすれば頭で考えなくても、身体が自然とあるべき音を辿るようになるから」

 自由に歌うように奏でられるようになる。まずはそこを目標にすべきだと彼はいう。

「それにしても、健成くんはいいね。グルーヴが違う。ジャズをはじめたばかりとは思えないな。今までにも、なにかクラシック以外の音楽を聴いていたのかい」

「ゃ……特には」

「そう? そのわりにはリズム感が素晴らしいよ。なにかヒップホップとかファンクみたいな、黒っぽい音楽でも好きなのかと思ったよ」

 黒っぽい音楽。そういえば送迎の車のなかで、いつも音楽が流れていた。古いブルースやファンク。大曽根は泥臭い音楽が大好きなのだ。健成にはよくわからないけれど、彼の聴く音楽が、知らないあいだに健成の身体に沁みこんでいるのかもしれない。

「一番いいのはね、生で本物の演奏に触れることだよ。今週末、ライブをするんだ。勉強のために観に来ないか」

 高野はそういって、財布からライブのチケットを取り出した。

「ぇ、あ……はい。えと、代金お支払します」

「いいよ、お金なんて。観てほしいんだ。せっかくの有望な学生。きちんと育ててあげたいんだよ」

 有望だなんて。どう考えても周囲と比べて大したことのない自分を、そんなふうにいってもらえることが何だかとてもくすぐったかった。

「えっと……あ、田宮も誘っていいですか」

「え?」

「あいつ、ジャズのライブ観てみたいって、ずっといってて」

「あ、ああ……いいよ。彼の分もチケットをあげよう」

 二人分のチケット。ありがたく受け取り、健成は田宮を誘って高野のライブを観に行くことにした。

 

「ふあぁー……高野せんせいのライブが観れるなんて、しあわせ過ぎるーっ」

 祈るように胸の前で手を組み、田宮がうっとりとした声をあげる。

 横浜市内のライブハウス。はじめて訪れたその場所は、健成が思っていたよりずっと大人っぽく、落ち着いた空間だった。金曜の夜。照明を落とした店内には、会社帰りと思しきスーツ姿の客が多い。年齢層は高く、学生風の客は健成と田宮だけだった。

「――で、なんでお前までいっしょに来るんだよっ」

 背後にぴったりと控えた大柄な男を睨みつけると、しれっとした顔で流された。

「なにか間違いがあってからでは、遅いですから」

 あからさまにヤクザな格好をするな、と常々注意しているからダークスーツではないものの、Vネックのカットソーにジャケットを羽織った大曽根は、隆々としたその体型や眼光の鋭すぎる顔だちのせいで、どこからどう見てもカタギには見えない。

 おまけにずば抜けて背が高いせいで、どうしたって周囲の視線を集めてしまうのだ。

「お前、目立ち過ぎっ」

 ただ単に視線を集めるだけならまだしも、女性客の熱っぽい視線を独占している。しっとりした雰囲気の美女から熱い眼差しを注がれ、なんでもないことのようにやり過ごす大曽根の姿が、無性に腹立たしく感じられた。

大曽根さんだけじゃないよ。健成くんも視線を集めてるんだ。なんか二人が並ぶとこう……すっごく『特別』な感じがするっていうか」

 なぜだか頬を赤らめ、田宮はそんなことをいう。

「お、はじまるぞ」

 ステージに高野たちが現れ、客席から拍手が沸き起こった。ピアノの高野と、ドラマーとベーシスト。トリオ編成でのライブのようだ。

 最初に演奏されたのはジャズのスタンダードナンバー『ビリーズバウンス』だった。ちょうど健成がレッスンで演奏している曲だ。

 軽やかなリズムを刻むドラムに、ズンと響くウッドベースの低音。彼らの上でのびやかに躍動する、高野のピアノ。

 生まれてはじめて生で感じる、極上のグルーヴ。紡ぎだされる音の世界に、健成は言葉を失い、ただ呆然と聴き惚れつづけた。

 

「――最高でしたっ!」

 もっとまともな語彙があればいいのに。興奮した健成はそう叫ぶことしかできなかった。

「そう? ありがとう。この後、打ち上げがあるんだ。健成くんたちもどうかな」

 せっかく高野が打ち上げに誘ってくれたのに、大曽根が険しい顔で止めに入ってくる。

「ダメですよ。未成年者なんですから」

「大丈夫ですよ、ソフトドリンクもあるお店ですから。仮にも私は教職者です。未成年の彼にお酒を呑ませるようなことはしませんよ」 

 やんわりと微笑む高野を無視し、大曽根は無理やり健成をライブハウスの外に引き摺り出そうとする。

「ちょっと待て、大曽根。こいつ、あの先生の大ファンなんだって」

 行かせてやりたいんだよ、と訴えると、『田宮くんだけ行ってもらえばいいでしょう』と返されてしまった。

「そういうわけにはっ……」

 頼りない田宮をひとりで行かせるなんて、心配過ぎる。

「あの男は『教職者』なんでしょう。なにかあっても彼が守ってくれますよ」

「じゃあオレも……」

「坊はダメですっ!」

 首根っこを引っ掴まれ、結局、健成は無理やり車のなかに押し込まれてしまった。

 

 よっぽど行きたかったのだろう。申し訳なさそうな顔をしながらも、田宮は高野に連れられ、打ち上げの席へと向かった。

「くっそ。ライブの打ち上げくらい、参加したっていいだろ」

 せっかくの素晴らしいライブ。彼らから音楽に関する興味深い話を訊くことができたかもしれないのに。

「ダメです。気づいてないんですか、あの男の坊を見る目。アレはどう考えたってよからぬことを企んでる目です」

「はぁっ? バカじゃねぇの? 高野先生はそういうんじゃねぇし」

 最初はいけすかない気取った雰囲気の男だと思っていたけれど、彼の才能に触れ、熱心に指導してもらううちに、段々と高野に対する印象は変わっていった。

 音楽に対し、とても真摯で、学生ひとりひとりを大切にしてくれる最高の先生。そんな高野を侮辱され、健成は無性に腹立たしい気持ちになった。

「やっぱり打ち上げ行く。下ろせ、バカ曽根ッ」

 車を降りようとして、強引にシートに押さえこまれた。

「ダメですッ。こんな商いしてんだ。人を見る眼だけは、自信があるんですよ。あの男だけは絶対にダメです」

 強い声音でいわれ、健成は大曽根に頭突きをかませた。思いきり喰らわせたはずなのに、屈強な大曽根はびくともしない。顎を掴まれ、ぐっと顔を寄せられた。

大曽根のいうことが、信用できないんですか」

「――うるっせぇっ……お前のいうことなんかっ……んっ……!」

 唐突に唇を塞がれ、舌を絡めとられる。

「んーーっ、ゃ、めっ……」

 こんなの、嫌だ。そこには愛情も劣情も存在しない。ただ世話の焼ける子どもを黙らせるためだけの、口封じのキスだ。

 そんなキスなのに。それでも大曽根の熱に絡めとられると、身体だけでなく、心まで蕩けてしまいそうになった。

「はぁっ……ん、ぅっ……」

 どちらのものともわからぬ唾液が、つぅ、と健成の細い顎を伝う。大曽根は野太い指でそっとそれを拭い、濡れた指先を健成の唇に宛がった。

「いいですね、家に帰るんです。明日も早いんです。帰って寝ますよ」

 すっかり火照った身体。健成は大曽根の後頭部を鷲掴みにして、喰らいつくようなキスを繰り出した。大曽根はそれに応じ、健成をさらに蕩けさせてゆく。ぐったり脱力したところでシートベルトを締められ、家に連れ帰られてしまった。

 

「はぁっ……ゃ、んっ……!」

 部屋にたどり着くなり、抱きすくめるようにしてベッドに連れて行かれた。

 いうことを訊いて、ちゃんと帰ってきたご褒美なのだろうか。それにしては、なぜだかとても乱暴に感じられる。

 まだシャワーも浴びていないのに、ベッドに引きずり込まれ、あっという間に一糸まとわぬ姿にされてしまった。

「ゃっ……ちょっと、大曽根、なにっ……ぁっ……」

 首筋に歯を宛がわれ、軽く甘噛みされる。吸いつかれ、舐られ、執拗に首筋ばかりを責めたてられた。

「だ、め、大曽根っ……痕、ついちゃうからっ……」

 慌てて引き剥がそうとしたけれど、どんなに拒んでもやめてくれない。

「痕、つけるんですよ。あの男が坊は『手を出しちゃいけない男』だってわかるように、マーキングするんです」

「な、なにわけわかんないことっ……」

 高野は生徒に手を出すような男ではない。そもそも女子学生たちに爽やかな笑顔を振りまく彼が、ゲイであるわけがないのだ。

「ぁっ……ちょ、なにし……ぁっ!」

 突然、たっぷりと潤滑剤を垂らしこまれ、太ももに猛ったモノを擦りつけられた。

「ゃ、大曽根、なに、ね、ちょっと待てって……んあぁっ……!」

 ベッドにうつぶせに寝かされ、股を閉じさせられる。太腿の狭間に突き刺すようにして、大曽根は猛々しい己の怒※張を埋めこんできた。

「ひぁっ……んっ、ぁ、ぁっ……!」

 荒々しく腰を遣われ、犯※されているかのような錯覚に陥る。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 獣の咆哮のような、低いうなり声。尻たぶをきつく鷲掴みにされ、貫くように雄々しい昂ぶりを擦りつけられた。

「やぁっ……も、だめ、おかしくなる、からっ……!」

 これじゃまるで、レ※プそのものだ。窄まりには直接触れられていないのに、大曽根の腰遣いに、滴り落ちてくる汗に、しゃぶりついてくる舌の熱さに、本当に犯※されているかのような錯覚に陥ってしまう。

「ぁ、ぁ、ゃ、イく、イっちゃ……んあぁっ!」

 ガクガクと揺さぶられ、指一本触れられていないはずの健成の先端から熱い飛沫が迸る。大曽根はそれでも、健成を解放してはくれなかった。

「ゃ、も、ヘンになるっ……それ、ダメだからっ……!」

 達したばかりの身体をめちゃくちゃに突きあげられ、健成は凄絶な快楽に耐えきれず泣きじゃくった。

「っ――、坊っ……」

 ギュッと抱きしめられ、首筋に喰らいつかれる。深々と突きたてられたそこで、どくりと大曽根の牡が脈動した。

「ぁ――」

 蕩けそうに熱い迸りが健成の肌を打つ。股のあいだに注ぎ込まれる感覚に、なぜだか涙が溢れた。

「坊……?」

 肩を震わせる健成に気づき、大曽根が心配そうに健成の頬を撫でる。

「なにしてんだよっ……バカ曽根っ……重いだろっ。どけっ!」

 感じ過ぎて泣けてしまったなんて。

 恥ずかしくて大曽根の顔をまともに見ることができない。

 その身体を押し退けようとして、逆に抱きすくめられ、彼のほうに向きなおらされた。与えられたのは、唇が触れるだけのかすかなキス。そっとくちづけられ、抱きしめられる。

「わけ、わからんしっ……」

 悪態を吐きながらも、健成は与えられるキスに溺れ、ふたたび快楽の渦に呑みこまれてしまった。

 

 翌朝目覚めると、大曽根はすでにベッドのなかにいなかった。汚れていたはずの身体は拭き清められ、パジャマまで着せられている。

「なんだってんだよ。あんな……」

 あれじゃまるで、セッ※スみたいじゃないか。

 首筋や肩、うなじ、身体じゅうに喰らいつかれ、猛ったモノを突きたてられて荒々しく擦りつけられてしまった。吐き出された大曽根の熱さを思い出し、思わず顔が火照る。

「坊、いつまで寝とるんですか。遅刻しますよ!」

 エプロン姿の大曽根が顔を出し、いつもの仏頂面で健成を急かした。

「わかっとるて。起きればいいんだろ、起きればっ」

 渋々ベッドから這い出すと、唐突に抱きすくめられ、耳朶を甘噛みされる。

「坊――あの男には絶対に気ぃ許したらダメですよ」

「う、うるせぇなぁ……ンなことお前にいわれる筋合い……ぁっ……!」

 昨晩散々擦りあげられた内股に指を這わされ、ビクンと身体が跳ねあがった。

「坊の欲求不満の相手なら、幾らだって自分がつとめます。阿呆な男にひっかかるようなことだけは、せんでください」

 ちゅぷり、とうなじに吸いつかれ、その身体を全力で押し退ける。どんなに抗っても、大柄な大曽根を引き剥がすことはできなかった。

 

 

「すみません、レッスン時間、またオーバーしてしまってる」

 一コマ三十分の副科実技レッスン。熱心な高野は、いつも規定時間より長めに指導してくれる。

「大丈夫だよ。きみが最後だから、すこしくらい押しても構わないんだ」

 自分よりひとつ前のコマの田宮は、いつも三十分ちょうどでレッスンを終えている。自分だけおまけをしてもらうのは、なんだかとても申し訳ない気がした。

「ああ、そうだ。健成くん、この曲のCD、聴いたことがあるかい?」

「いえ……ないです。YouTubeでちょこっと聴いたくらいで」

「名盤といわれる類の音源は、ひととおり聴いたほうがいいよ。このあと、すこし時間あるかい?」

 ちかくにジャズのレコードをたくさん保有している喫茶店があるのだという。

「夕飯がてら、聴きに行かないか」

 お勧めのアルバムを教えてくれるのだそうだ。

「ありがとうございます。じゃあ、田宮も……」

「田宮くんも誘ったんだけど、きょうはおうちの手伝いがあるそうなんだ」

 田宮の家は定食屋だ。ときおり店の仕事を手伝っているのだという。ここのところ姉が二人そろって臨月に突入し、人手が足りていないのだそうだ。

 ふと、大曽根の顔が脳裏に浮かぶ。

『あの男を信用してはダメです!』

 高野を勝手に悪人だと決めつけ、酷い言葉を吐いていた。そんな大曽根に対する反発心もあったのだと思う。健成は大曽根に隠れて、高野と食事に行くことに決めた。

 

 こっそりと裏口から抜け出し、高野の車に乗り込む。

「すみません、お待たせして」

「いや、大丈夫だよ。じゃあ、行こうか」

 高野の車は大曽根のいかつい車とはちがい、ちいさめの旧い外車だった。アンティークな内装が、洗練された高野の容貌とよく似合っている。

 車内にはちいさな音量でジャズのCDが流れていた。

「いい曲ですね」

「貸そうか。これもなかなかの名盤だ」

 旧いアルバムのようだ。差し出されたジャケット。モノクロ写真のなかに咥え煙草でピアノを弾く白人男性がうつしだされている。

 高野のレッスンを受けるようになって、健成の世界は一気に広がった。いままで知らなかった音楽や行ったことのなかった場所。彼のおかげで、毎日があらたな発見の連続だ。

 

「いいお店ですね」

 彼が連れていってくれたのは、茅ヶ崎駅から徒歩数分ほどの場所にある、珈琲専門店だった。高野よりすこし年上だろうか。褐色の肌をした長身のマスターと、アルバイトと思しき学生ふうの青年が二人で切り盛りしている店だ。

 注文を受けてから一杯ずつ豆を挽き、ネルドリップしているようだ。店内は香ばしい珈琲の匂いで満たされている。

「なにを食べてもおいしいけど、いちばんのお勧めはナポリタンだよ。ホットケーキと並んで、この店の名物なんだ」

 ナポリタン。小洒落た雰囲気の高野にはすこし似合わない気もしたが、なんだか逆に親近感が湧いた。

「いいですね、ナポリタン。食べてみたいです」

 ナポリタンは大曽根の好物のひとつだ。いつも喫茶店に行くと、ナポリタンとあんかけスパとどちらにするか、真剣な顔で悩んでいた。

(って、なんでこんな時に大曽根のことなんか……っ)

 ぶんぶんと頭を振って彼の残像を追い払い、店内に目を向ける。CDではなく、本当にレコードを流しているようだ。棚にはぎっしりとアナログ盤が並び、カウンターには現在流れているアルバムのジャケットがディスプレイされている。

「マスター、このアルバムが終わったら、いくつかリクエストしてもいいかな」

「ええ、構いませんよ。彼に伝えていただければ、なんでもおかけします」

 バイト風の店員を視線でさし示し、マスターはいう。

「ええと、じゃあね……」

 食事の注文とともに、高野はリクエストを伝えた。

 その店は雰囲気だけでなく、音楽も料理も、飲み物も極上だった。食後の珈琲のあと、高野はカクテルを注文した。自家製ジンジャーシロップを使用したモスコミュールだ。

「ひとくち飲んでみるかい」

 新生姜と国産ライムを漬けこんだというシロップはとてもおいしそうで、どうしても飲みたい衝動にかられた。

「じゃあ、ひとくちだけ」

 すこし舐めるくらいなら、きっと大曽根にバレることもないだろう。そう思いグラスを口に運ぶと、舌のうえでパチパチと炭酸が弾け、爽やかなライムの酸味が口いっぱいに広がった。

「おいしい……!」

 はじめて飲んだカクテルは、今までに飲んだことのあるどんな飲み物よりも、美味しく感じられた。

「気に入ったかい。じゃあ、もっと飲むといい」

「でも……」

「大丈夫だよ。モスコミュールはアルコール度数が低いお酒だから、ジュースみたいなものなんだ。口当たりがいいだろう?」

 確かに炭酸の爽やかさが際立ち、あまりお酒のような感じがしない。健成は高野の言葉を信じ、残りのカクテルをすべて飲み干してしまった。

 

「大丈夫かい、健成くん」

 高野に抱き支えられ、ふらふらと歩く。

「だいじょ……ぶです…すみません、なんだかご迷惑を……」

 どうしよう。こんな状態で帰ったら、大曽根に激怒されてしまう。不安になる健成に、高野はやさしい声でいってくれた。

「すこし酔いをさまして帰ろうか」

「でも、先生、明日も仕事で早いのでは……」

「大丈夫だよ。すこしドライブしよう。夜風に当たれば酔いもさめるよ」

 高野はそういって、健成を助手席に乗せ、江ノ島方面に車を走らせてくれた。

 開け放った窓から、湿り気を含んだ汐風が吹き込んでくる。雨が降りだす直前みたいに潤んだ空。防砂林越しにも、海の気配を濃厚に感じることができる。

「じきに夏だね。夏の湘南は凄いよ。134号線は連日渋滞しているし、海も人で溢れてる。実は混みあう直前、いまくらいの夏の気配が濃厚な時期が、いちばん魅力的なんだ」

 彼が連れていってくれたのは、片瀬の浜辺だった。夏は海水浴場になるそこは、江ノ島の入り口として有名な場所だ。

 梅雨の晴れ間。平日の夜ということもあって、ひとの姿は殆んどない。むっと立ち込める熱気。見上げると江ノ島の展望灯台の青いひかりが、飽和寸前の夜気に滲んでいる。その光景はとても幻想的で、健成は大曽根にも見せてやりたいと思った。

「夏のあいだはね、江の島中が灯籠でライトアップされるんだ」

「灯籠?」

「ノスタルジックでね、とっても素敵なんだよ」

 ふと、隣を歩く高野の手のひらが、健成の指に触れたような気がした。気のせいだろうか。そう思った瞬間――手首を掴まれ、引き寄せられた。

「いっしょに観に来ようか」

「ぇっ……」

 首をかしげたそのとき、ふいに視界が陰った。つめたい唇が、健成の唇に触れる。キスされたのだ、と気づいたときには腰に手を廻され、抱き寄せられていた。

「っ……」

 突き飛ばすことなど、いくらでもできたのだと思う。けれども、あまりにも驚きすぎて、とっさに反応することができなかった。

 唇を重ねあわせるだけのかすかなキスのあと、彼は健成の耳元に唇を寄せるようにして囁いた。

「きみのこと、本気で好きになっちゃったみたいだ」

 好き。そんなこと、誰かにいわれるのは初めてで、いったいどんな反応をしていいのかわからなくなる。 「ぁ、あのっ……あ、明日主科の日でっ……は、はやく帰って練習しないとっ……」  彼の腕から逃れ、とっさにそう叫ぶ。

「健成くん!」

 引き留められたけれど、健成は振り返ることなく、その場を全力で走り去った。

 

 砂浜から車道に戻ると、背後から音もなく大曽根が近づいてきた。

「忠告したとおりだったでしょうが」

「う、うるさいっ……てか、なに覗き見してんだよ」

「坊を守るのが、自分の役目ですから。無理やりホテルに連れ込もうものなら、迷わず海の藻屑にしてやるつもりでした」

「ぶ、物騒なこというな……っ」

「本気ですよ。それが、自分の仕事ですから」

 ほかの男とキスしているところを見られてしまった。ショックで落ち込む健成とは対照的に、大曽根はいつもどおりの飄々とした顔でいってのける。

 単なる子守。当然のことなのだろうけれど、そのことが健成には無性に哀しかった。

 

 

「健成くん、健成くんってば」

 田宮に顔を覗きこまれ、ふと我にかえる。

「ぇ、ああ……」

「にんじん、落ちちゃいそうだよ」

 箸でにんじんを摘んだまま、ぼんやりしてしまっていた。慌ててそれを弁当箱に戻し、はぁ、と深いため息を吐く。

「それにしても、すごいにんじん尽くしだね。どうしたの。大曽根さん、にんじん買いすぎちゃったの?」

 にんじんのきんぴらに、にんじんのグラッセ、にんじんのサラダ、にんじんの炊き込みご飯……ひたすらにんじんに埋めつくされた弁当箱を眺め、田宮は不思議そうな顔をする。

「いや……たぶん、お仕置きだ。ああ見えてあいつ、根に持つタイプなんだよなぁ」

 車に乗り込んだ途端、吐く息のにおいで酒を飲んだことまでバレてしまった。子供のころのように尻を叩かれることはなかったが、『欲求不満のせいで、あんなくだらない男に色目を遣うんですね』と、気を失うまで徹底的にイかされてしまった。

 どんなにイかせたところで、罰にはならないということに気づいたのだろう。こうして健成の苦手なにんじん尽くしの弁当を持たせるあたり、本気で怒っているようだ。

「あー、もう、にんじん嫌だっ!」

 思わず弁当箱を投げ捨てそうになった健成を、田宮が慌てて引き留める。

「僕、にんじん好きだよ。お弁当、交換しようか」

「や、悪いから」

「いいのいいの。大曽根さんの料理、美味しいし。羨ましいよ、健成くん。あんなに優しくてすてきな人と、いっしょに暮らせるなんてさ」

 なぜだかほっぺたを赤くしながら、田宮はそんなことをいう。

「別によかねぇよ。あんな野郎、ちっとも優しくないし、図体がでかいだけのクソ野郎だ」

「はいはい。大曽根さんのことになると、健成くん、急に子供っぽくなるよね」

 おかしそうに笑われ、無性に照れくさい気持ちになった。

「べ、別に子どもっぽくなんてっ……」

 正直にいえば、自分でも自覚はある。あの男に対しては、どうしても際限なく甘えてしまうのだ。もっと大人なふるまいをして、一人前の男として扱って貰いたいのに。気を抜くとすぐに、出会ったころの甘ったれな子どもの自分が顔を出してしまう。

「なんかいいなぁって思うよ。僕も……高野先生と、ちょっとでいいから仲良しになりたいなぁ……」

 高野の写真を待ち受け画面にしたスマホを握りしめ、田宮は夢見る乙女のようにうっとりとした声音でつぶやく。そんな彼を前に、健成は昨夜の高野とのキスを思い出し、無性に申し訳ない気持ちになった。

 

 講義を終えて校門を出ると、いつもどおり迎えの車が来ていた。健成が黒塗りはダメだといい続けたから、わざわざ白い車に買い変えたようだ。車を降りて扉を開けようとする大曽根を制し、すばやく助手席に乗り込む。

「車横付けにすんなって何度いえばわかる」

「黒塗りじゃないですよ」

「阿呆。こんなクソ高そうな車、白でフルスモークのほうが、よっぽどかタチが悪いわっ」

 運転席の大曽根を怒鳴り散らす健成に、ふいに後部座席から声がかけられる。

「相変わらず二人とも仲良しさんですね」

「わ、シゲ!」

 振り返るとそこには、大曽根の弟分のひとり、重田(しげた)の姿があった。

「お久しぶりです、健成さん。しばらく見ないあいだに、また随分と色っぽくなって」

「てめぇ、次、坊に手ぇ出したら、チ※コ引っこ抜くぞッ」

 大曽根に睨みつけられ、重田は苦笑いを零す。

「わかってますって。二度とあんなバカな真似はしません。それにオレ、彼女が出来たんですよ」

 近々結婚するつもりなのだと、彼はいった。

「兄貴もそろそろ、身ぃ固めたらどうですか。このままじゃ本当に舞花ちゃんと結婚させられちまいますよ」

「なんだ、それ」

 首を傾げた健成に、重田は真面目くさった顔で答える。

「組長(オヤジ)、舞花ちゃんと大曽根の兄貴を結婚させようとしてんですよ」

 舞花というのは、健成の腹違いの妹のことだ。組長である健勇と、後妻のあいだに生まれた子ども。再婚後にできたのではない。母が亡くなる四年も前に、外で孕ませた子だ。

「舞花って。あいつ、まだ中学生だぞ」

「ええ、ですが四年もすれば十八です」

「四年……四年もしたらコイツがジジイになっちまうだろうが」

「んなことありません。ジャスト四十。ちょうどいいって組長は思ってるみたいですよ」

 もし万が一、健成が組を継がないという選択をした場合、大曽根を婿養子にして組を継がせるつもりでいるようだ。

「おい、シゲ、余計なことをいうな」

 険しい声音で遮られ、重田は頭を掻く。

「スミマセン。つい……」

 舞花と大曽根が結婚する。予想だにしていなかったその事実に、打ちのめされたような気分になる。

「そっか。だからお前は、オレが組、継がないほうがいいって思ってたんだ」

 健成の将来を考え、いってくれているのだとばかり思っていた。だけど実際には、そうではなかったのだ。健成が組を離れれば、自分が跡を継ぐことができる。一番の稼ぎ頭でありながら、いまは組のなかでもなんの役職も持たず、資金作りに徹している陰の立役者大曽根。無欲な男だとばかり思っていたが、実際には虎視眈々と、玉座を目指していたのかもしれない。

「よかったな。そうしたら、お前は二まわりちかく年下の若いオンナを手に入れられて、俺のお守りからも解放されるってわけだ」

 頭からすぅっと血の気が引いてゆく。指先が震えて、どうにもできなくなった。

「坊っ!」

 気づけば、飛び出していた。車を降り、全速力で駆け抜ける。通りに出てタクシーを捕まえ、健成はひたすら逃げつづけた。

「駅までお願いします」

 車に乗りつづけていては、絶対にどこかで捕まってしまう。駅に横づけして貰い、改札に駆け込んでいちばん最初に目に入った電車に飛び乗った。

「坊!」

 大曽根の叫び声が扉の向こうに消えてゆく。ゆっくりと動き出した電車。ぜぇぜぇと肩で息をしながら、健成はその場にしゃがみ込んだ。

 

 電車に乗ったからといって油断は出来ない。横浜駅で東急に乗り換え、渋谷駅でさらに地下鉄に乗り換えた。行くあてなんて、どこにもなかった。ただ、ひとの多い場所に紛れ込めば、あの男をまけると思ったのだ。

「舞花と、大曽根……」

 親子ほど年の離れた二人が寄り添う姿は、とてもではないが想像できなかった。後妻の唯花(ゆいか)は、ひと目を惹く華やかな美人だ。ひっそりとしとやかで穏やかな印象だった健成の母とは対照的に、勝ち気でいつも自信に満ち溢れている。

「舞花も……きれいになるんだろうな」

 母が闘病中によそで生まれてきた舞花や彼女の妹たちを、健成は正直、あまり好きになれそうになかった。彼女たちも、その母の唯花も、前妻の息子である健成を疎ましく思っている。

 ひとり寂しく病院で死んでいった母。子どもじみていると思われるかもしれないけれど、彼女たちを『家族』として受け入れることは、母に対する裏切りのように感じられるのだ。

大曽根も、あっち側の人間になるわけだ」

 唯花を『姐さん』『姐さん』と慕い、すっかり紗有里の存在などないものとして扱っている他の組員たちと違い、大曽根だけはずっと母の紗有里のことを、慕ってくれているのだとばかり思っていた。自分と同じように唯花たちに対し違和感を抱き、紗有里との想い出を大切にしてくれているのだと信じていたのに――。

「くそっ――」

 もしかしたら熱心に自分の世話を焼いてくれていたのも、単に組長の信頼を経て、婿養子になるための作戦だったのかもしれない。そんなふうに思うと、なにもかもが馬鹿らしく思えてきた。

「もう……嫌だ。全部、ヤだ……っ」

 堪えきれず、涙が溢れてきた。こんなところで泣いたらいけない。そう思うのに、止まらない。混みあう車内。あまりにも恥ずかしくて、健成は逃げ出すように次の駅で降りた。

 

「ここ、どこだ……?」

 見慣れない駅名。階段を昇って地上に出ると、スマートフォンが震えた。

 大曽根からの電話なら無視してやろう。そう思いつつポケットからスマホを取り出すと、液晶画面に高野の名前が表示されていた。

「――もしもし」

 通話ボタンを押すと、やわらかな彼の声が聞こえてくる。

「このあいだはすまなかったね。どうしても謝りたくて。いま、電話いいかな」

 スマホから聞こえてくる声に、なぜだかもうひとつ声が重なった。振り返ると、そこには高野が立っている。

「高野、先生……?」

「車内で偶然見かけてね。泣いているみたいだったから、気になって追いかけてきたんだ」

 高野はそういうと、ハンカチを取り出し、健成の頬を拭ってくれた。

「僕でよかったら、話を聞くよ。なにか、つらいことでもあったのかい」

「――なんでもないです。なんでも……っ」

 大曽根以外の誰かに優しくされるなんて、母の死後、ほとんどなかったから。気づけば健成は声を押し殺して泣きじゃくっていた。

「どこか、ゆっくり話せる場所に行こうか」

 周囲から注がれる好奇の視線から守るように、高野は健成の肩を抱き寄せる。ビルの狭間のちいさな公園のベンチに座らせ、飲み物を買ってきてくれた。

「ありがと……ございます」

 ぺこりと頭を下げた健成に、高野はやわらかな笑顔を向ける。

「落ち着くまで、ここにいよう。いいたくなかったら、なにもいわなくていいからね」

「でも、先生、この後、なにか用事があるのでは……」

「大丈夫だよ。僕のことは気にしないで」

「だけど、練習とか……」

「いいから気にしない。あんまりしつこいと、唇を塞いで黙らせるよ」

 耳元で囁かれ、ぞくっと背筋が震えた。視線をそらした健成の腕に、そっと高野の指が触れる。

「心配なんだよ。きみのことが好きだから、こんなふうに泣かせるやつが許せないんだ」

 周囲の視線を気にしながらも、彼はさりげなく健成の手を握りしめる。つめたい手のひら。なぜだかわからないけれど、振り払うことができなかった。

 

 しばらくそうしていると、ぎゅるぎゅる、と情けない腹の音が響いてしまった。

「わ、す、すみませんっ……」

 にんじんだらけの弁当を残したせいだ。田宮の弁当はちいさく、健成の腹を満たすには足りなかった。恥ずかしさに頬を染めた健成に、高野はやさしく笑いかけてくる。

「泣くとお腹がすくよね。ちかくにね、いい店があるんだ。毎晩ジャズのライブをしていて、料理もとても美味しいんだよ」

 いっしょに行こう、と誘われ、健成は戸惑った。

「なにか先約でもあるのかな」

「ぇ、ぁ……いや……」

「じゃあ、行こうか」

 耳触りのよい声で囁かれ、健成は無言のまま、ちいさく頷いた。

 

「すごい……こんな場所があるんですね」

 高野が連れて行ってくれた店は、雑居ビルの一角にあるライブハウスだった。落ち着いた雰囲気の店内。一階がバーで、地下はライブスペースを備えたレストランになっている。彼のいうとおり何を食べても美味しく、演奏もとても素晴らしかった。

「いつかこんな場所で演りたいなって思った?」

 思い浮べていたことをそのままいい当てられ、すこし照れくさい気持ちになる。

「――はい」

 発表会の舞台に立つことさえ、許されていなかったけれど。もしかしたらジャズのライブなら、小規模だし、本名を明かさず芸名で活動しているひともいるから、家庭に事情のある健成でも演奏家の道を目指すことができるかもしれない。

「自分の演奏力じゃ、無理ですよね。始めるのが遅かったし」

「そんなことないよ。ジャズはね、むしろ十代で始めるひとのほうが少ないんだ。ロックやクラシック、別の畑から流れてくるひとが殆どだ。きみはクラッシクの素地があるうえに、リズム感もよく、音選びのセンスもいい。いまからだって、ちっとも遅くないよ」

「本当ですか……?」

「ああ、本当だよ。それには本物の演奏をすこしでもたくさん聴く必要がある。生で聴くのがいちばんだけれど、CDも勉強になる。いい機会だ。いくつか貸してあげるよ。僕の家、すぐ近くなんだ。寄っていかないか」

「え、そんな。悪いですよっ」

「鉄は熱いうちに打ったほうがいいからね。よいライブを体感した直後、きみの心が熱いうちに、もっとたくさん、極上の演奏を聴かせてあげたいんだよ」

 熱っぽい声で力説され、健成は彼の家にCDを貸してもらいに行くことにした。

 

「きれいなところですね」

 彼の暮らすマンションは、店からタクシーで十分ほどの場所にあった。

「散らかってるけど、気にしないでくつろいでいて。いま、CDを探してくるからね」

 誰かの家に招かれるなんて、はじめての経験だ。革張りのソファに案内され、緊張しつつ腰を下ろす。

 何畳くらいあるのだろうか。広いリビングの壁際にグランドピアノが置かれ、その隣にはリアルブックやジャズの理論書がぎっしり詰まった書架がある。勝手に見てはいけない。そう思いながらも、健成は食い入るようにそれらの本を眺めてしまった。

「なにか気になるものがあれば、手に取って見てごらん」

「わっ!」

 背後から突然声をかけられ、思わず飛び上がる。

「す、すみません。勝手に……」

「気にしないで。僕も若いころは、先輩のミュージシャンのおうちにお邪魔してレコードを貸して貰ったり、リアルブックや理論書を見せてもらったりしていたよ」

「色んなテキストがあるんですね……」

「ああ、そっちはね、大学の教科書だ。アメリカに留学していたころのやつだね」

 ジャズで有名なアメリカの音楽大学で、みっちり四年間修業を積んできたのだという。

「弾いてみたい曲があったらいって。よかったら見てあげるよ」

 防音完備の部屋だから、夜でも気兼ねなくピアノを弾くことができるのだそうだ。

「レッスン外で見ていただくなんて、申し訳ないです」

「いや、きみは筋がいいからね。すこしでも育ててあげたいって思うんだよ。ほら、この曲なんかどうかな。このあいだまでやっていたあの曲とね、コード進行が似ているんだけれど……おいで。すこし譜面をさらってごらん」

 腕を掴まれ、引き寄せられる。ピアノの前に二人で並んで座り、レッスンをしてもらうことになった。

「なんか、色々と申し訳ないです。あの、謝礼を……」

 大学の先生に学外でレッスンしてもらうときには、それ相応の謝礼を包まなくてはならない。ジャズの相場がわからず、健成は失礼かもしれないと思いながらも、どれくらい包めばいいのか訊ねてしまった。

「謝礼なんて要らないよ。そんなことより、喉、乾いただろう。いま弾いた曲のCDを探してくるから、ジュースでも飲んで待っていてよ」

 オレンジジュースを差し出され、ぺこりと頭を下げる。

「なにからなにまで、すみません」

 キリリと冷えたオレンジジュース。緊張して喉が渇いていたのだと思う。健成は一気に飲み干してしまった。

 

「健成くん、大丈夫かい」

 誰かの声がきこえる。重たい瞼をひらくと、すぐそばに高野の顔があった。

「先生……?」

 ああ、そうだ。高野の部屋でレッスンをして貰っていたのだ。CDを探してもらっている間に、眠くなってうたた寝をしてしまった。

「ぁ……すみません、オレ……」

 起き上がろうとして、ぐらりと視界が揺らいだ。

「具合が悪そうだね。こんなところで横にならずに、ベッドに行こうか。明日の朝、車で送ってあげるからゆっくり休むといい」

「ゃ、そういうわけには……」

 姿勢を正そうとして、どんなに頑張っても力が入らない。ふらりとソファに倒れ込んだ健成の頬に、つめたい手のひらが触れた。そっと撫でられ、くすぐったさに目を閉じる。

「このあいだの話、考えてくれたかな」

 唇をそっと撫でられ、健成はびくんと身体をこわばらせた。

「ゃ、ぁ、ぁのっ……」

「健成くんは、僕のことが嫌いかい? それとも、誰か別に、好きなひとがいるのかな」

 下唇をなぞっていた彼の指が、顎へと滑り落ちてゆく。喉仏をそっとなぞられ、ぞくっと背筋が震えた。

「そ、そういうわけじゃ……っ」

 好きなひと。大曽根の顔が浮かび、ふるふると頭を振ってその姿を追い払う。

(アイツは単に、組長の座が欲しくてオレに優しくしているだけだ)

 舞花と大曽根が寄り添う姿を想像し、無性に胸が苦しくなった。

 所詮、自分のことなんか、誰もなんとも思っていないのだ。父も、組の皆も、大曽根でさえも――自分を邪魔者だと思っている。

 気づけば、頬を涙が伝っていた。人前で情けないって思うのに。それでも止まらない。

「健成くん……?」

 高野の手のひらが、健成の頬を拭う。やさしく髪を撫でられ、抱きしめられた。

「僕なら絶対に、きみを泣かせるようなことはしない。誰よりも大切にする。だから……僕と付き合おう」

 頭がぼんやりして、目を開けているのさえ億劫になってしまう。拒まなくちゃ。そう思うのに、思うように身体が動かなかった。

 与えられたのは、微かなキス。唇が触れ合うだけのやさしいキスだ。健成の髪や頬を撫で、高野はたくさんのキスを繰りかえしてゆく。

 気づけばシャツのボタンを外されていた。首筋に顔を埋められ、脇腹にそっと指を這わされる。ズボンの布地越しに股間に触れられた瞬間、健成は彼を蹴り飛ばしていた。

「ご、ごめんなさいっ……」

 高野が嫌なわけじゃない。だけど――やっぱりダメだ。大曽根以外に触れられるのも、キスをされるのも、耐えられそうにない。

 絶対に手に入らない。そのことがわかっていても、その虚しさを他の相手で埋めるなんて、できそうになかった。

「乱暴してすみませんっ、今日は帰りますっ!」

 痛そうに床に転がっている高野には申し訳ないけれど、これ以上、この場所にいるわけにはいかない。健成はぺこりと頭を下げ、彼の部屋を飛び出した。

 エレベーターに駆け込み、急いでシャツのボタンを留める。マンションの外に駆け出すと、そこにはフルスモークの白い車が停まっていた。車の脇には苛立たしげに煙草を咥える大曽根の姿。いつからそこにいたのだろう。足元にはたくさんの吸い殻が転がっている。

「お前、ポイ捨てダメだって普段は自分でいって……」

 吸殻を拾おうとして、思いっきり首根っこを引っ掴まれた。

「あの男とヤったんですか」

 クン、と健成の首筋に鼻をこすりつけるようにして匂いを嗅ぎ、大曽根はそう凄む。

「――お前には関係ない」

「関係なくありません。坊は鈴川組の大切な跡取り息子ですっ」

「うるさい。自分が継ぐつもりのくせに。オレなんか邪魔だと思ってんだろ、お前はっ」

 あまりの腹立たしさに頭突きをかますと、思いきり胸倉を掴みあげられた。

「殴れよ。ほら、殴れるもんなら殴ってみやがれッ!」  

 精いっぱい虚勢を張る健成に、大曽根は苦々しげに眉を顰める。

「組長の息子だから、殴れないんだろうが。そうだよな――お前は、あのクソ野郎の機嫌を取るためにオレの世話してんだもんなッ」 

 考えてみれば当然のことだ。大曽根だって極道者なのだ。組のために金を稼ぎ、上納金をおさめるだけで満足するはずがない。すべてはその先にある、出世のため。誰よりも金を稼ぐこの男は、出世欲だって人一倍大きいはずだ。

「どんなに世話したってムダだぞ。オレ、継がないから。決めた。こっちに残る。だから……お前は舞花と結婚して、組継げよッ!」

 すばやく大曽根のポケットに手を突っ込み車の鍵を奪い取る。その鍵を高い塀に覆われた民家に投げ入れ、健成は彼の急所に蹴りを喰らわせて全力で逃走した。

「坊ッ!」

 苦しげな叫び声が聞こえたけれど、振りかえることなく走りつづける。

 通りに出てタクシーを拾い、駅まで向かったけれど、もう終電が出てしまった後だった。タクシーで下宿まで帰ることもできなくはないけれど、一体いくらかかるのかわからない。さすがに親のクレジットカードでそんな散財をするわけにはいかないだろう。

「ちっくしょう」

 結局、自分はひとりではなにもできないただの子どもなのだ。そう思い知らされたみたいで、無性に情けない気持ちになった。

 途方に暮れていると、突然背後から抱きすくめられた。振りかえらなくてもわかる。大曽根の匂いだ。

「帰りますよ、坊」

「――やだ」

 その手を振りほどこうとして、ますます強く抱きこまれる。

「自分は坊を邪魔者だなんて思ったことは一度もありません。ただ、坊があまりにもまっさらだから、この稼業に向いているとは思えんのです。もちろん、どうしても継ぎたい、いうなら止めません。坊を全力で、支えるつもりです」

「う、嘘つくなっ……そんな言葉に騙されるわけっ……」

 反論しようとして、顎を掴まれた。ぐっと上向かされ、キスするときのように唇を寄せられる。触れるか触れないかの場所まで顔を近づけ、大曽根は囁いた。

「坊は大曽根より、重田の言葉を信じるんですか」

「そ、それはっ……」

「帰りましょう、坊。明日も学校です」

 涙でカサカサに乾いた頬を、大曽根の野太い指が辿ってゆく。彼の言葉を、心から信じられるわけではない――それでも、その手を振りほどくことはできなかった。

「――大曽根

「はい」

「バナジュー呑みたい」

 ぼそりと呟いた言葉。大曽根はにっこり笑って、健成の頬に頬ずりをした。そんなふうにされるのは小学生のころ以来で、無性に恥ずかしい気持ちになる。

「ば、ばかっ……周りにひとおんぞっ」

 伸びかけの髭がチクチクする、ざらついた肌。本当はいとおしくて、自分から頬ずりをしてしまいたい気分だ。けれども周りから向けられる奇異な眼差しが気になって、健成は頬を真っ赤に染めて大曽根を突き飛ばした。

「それでこそ坊です。坊には酒なんかより、大曽根のつくったバナナジュースのほうが似合います」

 母に連れられて通った病院近くの喫茶店で、オムライスといっしょにいつも頼んでいたバナナジュース。大曽根は閉店してしまったその店の料理人に、バナナジュースのつくりかたも、ちゃんと教えてもらってきてくれたのだ。

「ば、馬鹿にしとんのかっ」

「――いえ。可愛いなぁ思っただけです」

 真顔でいわれ、ますます頬が熱くなる。

「し、死ねっ! ばかっ」

 大曽根の身体を払いのけ、健成は駅前ロータリーに行儀悪く横付けされたフルスモークの白い外車に乗り込んだ。

「しっかし趣味の悪ぃ車だな。もうすこしまともなの、選べんのか」

「坊の好みにあわせてやりたいのは山々ですが、メンツいうもんがありますからね。組長(オヤジ)に恥かかせるような車に、乗るわけにはいきません」

 真面目くさった顔で答える大曽根の横顔は、先刻とは打って変わって、見るからに極道者のソレだ。

「オヤジオヤジって。お前はそればっかだな」

「そういう生業ですからね。自分らの仕事は」

 座り心地のよい助手席にふんぞりかえった健成にシートベルトを締めさせると、大曽根はいつになく真面目な声音でいった。

「正直にいえば坊には――いまのまま、清いままでおって欲しいのです」

「『清い』だ? 誰に向かって口きいとんだ。――鈴川組の跡取り息子捕まえて『清い』て。笑わせんなや」

 正直にいえば、まだ迷っている。

 自分が跡を継ぐことを決めたところで、組長の健勇が大曽根と舞花の結婚を推し進めないとは限らないのだ。娘を嫁がせ、血縁で縛りつける。稼ぎ頭の大曽根を繋ぎ止めるには、きっといちばんの良作だ。

「なあ、大曽根

「なんですか」

「――なんでもないわ。はよ家まで連れて行け」

「いわれんでも、向かってます」

 真面目くさった顔で答え、ハンドルを握る大曽根の横顔。ぼんやりと眺めながら、健成は何故だか無性に息苦しい気持ちになった。

 

 

「このあいだは、本当にごめん。きみがあまりにも魅力的で、自分の気持ちを抑えることができなくなってしまったんだ」

 副科のレッスン室。ピアノ椅子に座る健成の肩を抱き、高野はそんなふうに囁く。

「ぇ、ぁ、いえ……自分こそ、乱暴してすみませんでした。あのっ……」

 先生の気持ちには、応えることができません――そう告げようとした瞬間、抱きすくめられ、唇を奪われた。突き飛ばそうとして、唐突に喉仏を押さえつけられる。

「っ――」

 ひるんだ隙に椅子ごと壁に追い込まれ、ねっとりと舌を絡めとられた。意識を持っていかれそうなほど、濃厚なキスだ。朦朧としながらも彼の身体を払いのけようとしたそのとき、分厚い防音扉が開いた。

「ぁ……っ!」

 扉の向こうの誰かが、ちいさく悲鳴をあげる。少年のような愛くるしい声。田宮だ。

「ち、ちがっ……田宮、これはっ……」

 誤解だ、と健成が叫ぶ前に、田宮は扉を閉め、その場から消えてしまった。

「すみません、オレ、帰りますっ」

 まだレッスン中だけれど、そんなことに構っている場合ではない。テキストを引っ掴み、健成はレッスン室を飛び出した。

 

「田宮、田宮ーっ」

 どんなに探しても彼を見つけることはできなかった。電話をかけても全く応答がない。

「くっそ、どこ行ったんだっ」

 普段なら講義の真っ最中。そのせいか、校門の前に大曽根の車は停まっていなかった。

「田宮ンち、行くしかねぇか」

 健成はいったん学内に引きかえし、駅直行のスクールバスを使って彼の家に向かった。

 

「まだ帰ってきてない?」

「普段なら講義が終わればまっすぐ帰ってくるのにねぇ。まったく、どこをほっつき歩いているんだか」

 田宮によく似た、小柄な母親。そんなふうにいわれ、健成は無性に心配になった。

(どうしよう、オレのせいだ……)

 どこかを探そうにも、田宮の行きそうな場所がわからない。健成は当てもなく、ひたすら学校や駅、彼の家のまわりを探しつづけた。

 

 どんなに探しても、田宮を見つけることはできなかった。駅前で途方に暮れていると、大曽根の白い車が視界に入る。

「また『かくれんぼ』ですか」

 音もなく背後に忍び寄り、大曽根は健成の首根っこを掴みあげる。

「違う。田宮がおらんくなった。普段はまっすぐ帰るのに、家にも帰っとらんって」

「田宮くんが?」

「ああ。オレはもう少し探す。お前、先に帰れ」

「坊を置いて帰れるわけないでしょうが。いっしょに探します」

 大曽根もつきあってくれたけれど、どこをどれだけ探しても、田宮は見つからなかった。

 

 翌日、必須科目の『西洋音楽史』にも、田宮は顔を出さなかった。スマホに電話をかけても、まったく応答がない。LINEもDMも無視され、連絡がつかないまま、一日が終わってしまった。

「もしもし、あの、優くんと同じ学校の、鈴川という者ですけれど……」

 実家に電話をかけたけれど、体調が悪いといって取り次いでもらうことはできなかった。

 

 田宮が学校に来なくなって一週間が経った。きょうは副科実技の日だ。私情でレッスンを休むのはよくないけれど、こんな状態で高野と顔を合わせる気にはなれない。

『申し訳ありません。体調が優れないので本日のレッスンを欠席させていただきます』

 高野にメールを送り、田宮の家へと向かう。

「折角来てくれたのに悪いね。具合が悪いから誰とも会いたくないっていってるんだよ」

 申し訳なさそうな顔で田宮の母親にいわれ、健成はそれでも引き下がらなかった。

「優くんの体調不良、オレのせいなんです。勝手してすみません、ちょっとあがらせてもらいます!」

 彼女に手土産の菓子を押しつけ、健成は強引に食堂の奥にある階段を昇った。

「おい、田宮、田宮っ」

 居住スペースである二階に乗り込み、ひと部屋ずつ探してゆく。すると彼は一番奥の部屋の押し入れに、ちんまりと隠れていた。

「け、健成くんっ……」

 真っ赤に泣きはらした目。一週間、ずっと泣き続けていたというのだろうか。ふだんはつやつやのほっぺたが血色を失い、心なしかやつれて見える。

「ごめん、田宮。あれは――」

 誤解なんだと、いいかけ、遮られてしまう。

「いいんだ。全然へいき。っていうか、健成くん、水臭いよ。先生のこと、好きなら好きって教えてくれればいいのに。僕、てっきり健成くんは大曽根さんと付き合ってるんだとばっかり思ってて……」

 最後まで言い終わる前に、彼はえぐえぐと泣き出してしまった。

「違う、ホントに誤解なんだ。先生とはなんでもない」

「なんでもなくて……あんなこと、するの……?」

 しゃくりあげながら、田宮はじっと健成を見つめる。

「ゃ、あれは事故っつーか……」

「嘘。健成くんが先生と一緒にいるところを見たって、門下の子たちがいってたよ。仲良さそうに喫茶店でお話してたって」

「あぁ、それは、近くにジャズの名盤が揃ってる店があるから勉強のために行かないかって誘われて……ほら、オレ、レッスン最後だから。ついでにメシでもって話になって」

「それで、ちゅーするの……? つきあってないのに?」

「そ、それは……っ」

 非難めいた目で見つめられ、健成は口ごもる。いままで一度も『友だち』のできたことのなかった健成にとって、こんなとき、どうしたらいいのかよく判らなかった。だからといって高野だけのせいにするのも、男らしくない。

「ごめん、大曽根のことで色々あって。それで、なんていうか……ヤケんなっちまってたっていうか。高野先生へのお前の気持ち、わかっていながらメシについていったり、本当に最低だって思う。――つーか、オレ、マジ最低だ。殴れ、田宮。オレを殴ってくれ!」

 レッスン時間をおまけしてもらったり、学校の外で色々とレクチャーしてもらったり。本当はあんなことは、して貰うべきではなかったのだ。フェアじゃないし、それを受け容れたからこそ、こっちも気があると思われてしまったのかもしれない。

 すべてを打ち明け頬を突きだした健成を、田宮はじっと見つめた。

「ほんとに、先生のこと、好きじゃない……?」

「――大曽根以外のこと、考えられそうにない」

 思わず本音を漏らしてしまった健成に、田宮は口元を緩める。

「やっぱり大曽根さんのこと、好きなんだね」

「わ、ゃ、ちがっ……い、いまのはっ……」

 慌てふためく健成を眺め、田宮はおかしそうに笑った。

「あんなに素敵なひとがいるのに、よそにフラフラしたらダメだよ」

「うぅ、だから、違うっ、いまのは間違いでっ……」

 真っ赤になって否定する健成に、田宮はぐっと顔を近づける。

「じゃあ、高野先生のこと、好きなの?」

「す、好きじゃないっ。それだけは信じてくれっ。オレはお前の恋を全力で応援してるからっ」

「ふーん。それなのに、二人っきりで喫茶店に行ったり、ライブハウスや海に行ったり、先生の部屋にまでついて行って、ちゅーまでしちゃうんだ」

「――すまん!」

 なんの言い逃れもできない。床に額を擦りつけて土下座する健成を、田宮はふてくされたような声で責めた。

「ずるいよ。ほかにはどこにいったの?」

「それで全部」

「ほんとにぃ?」

 探るような目で見つめられ、健成はこくこくと頷いた。

「誘われたら、またついてっちゃうの?」

「行かないっ。二度と学校の外で逢わない」

「ほんと?」

「ほんと。――マジで誓うからっ」

 ふたたび土下座をはじめた健成に、田宮はちょこんと小指を突きだしてくる。

「じゃあ、指切り。もう、二度としないって誓って」

 おずおずと小指を差し出すと、思いのほか強い力で絡めとられた。

「絶対にしちゃダメ。僕のためっていうより、大曽根さんが可哀想だよ」

大曽根は……関係ない」

「どうして。つきあってるんでしょ。大曽根さんと」

「つきあってなんかない。今後もつきあうことなんかないし、そもそもアイツは――俺の妹と結婚するんだ」

「ぇ……それって、どういう……」

「そのままの意味だよ。オレの親父は、アイツをオレの妹と結婚させようとしてる。絶対に組から離れて行かせないようにするためにな」

「そ、そんなっ……でも、きっと大曽根さんは健成くんのことを……っ」

「いいんだ、もう。そんなことは、どうでもいい」

 どんなに頑張ったって大曽根以外なんか好きになれない。ずっと大曽根のそばにいたい。そんな想いとは裏腹に、彼には誰よりしあわせになって欲しいと思う。

 重田から聞いたことがある。大曽根は親の愛に恵まれず、身よりもないのだそうだ。そんな彼に、どんなカタチでもいいから家族を持たせてやりたい。

 いまは寂しい思いをしている健成だが、母が生きているころには大きな愛に包まれ、たくさん慈しんでもらうことができていた。

 絶対に消えることのない、血縁という絆の安心感。大曽根にもそんな家族のあたたかさを、味わわせてやりたいのだ。

「そんなことより、ジャズピどうしよう。今日もサボっちまったし、気まずいよなぁ……」

 二人きりのレッスン室。またあんな雰囲気にならないとも限らない。相手はカタギだ。本気で拒絶して怪我でも負わせてしまったら、父親にまで迷惑をかけることになってしまうかもしれない。

大曽根さんのためにも、僕が健成くんを守る!」

「は……?」

 ぽかんと口を開けた健成に、田宮は似合わないガッツポーズを作ってみせる。

「僕と健成くん、二人セットでレッスンを見てもらえばいいんだよ。二人きりにならなければ、高野先生だって魔がさしてあんなこと、したりしなくなるよね」

「二人でレッスンって。そんなの、ふつう許されないだろ」

「うーん、確かに理由もなく二人でっていうのは難しそうだけど……ぁ、そうだ!」

 田宮は突然立ちあがり、部屋を飛び出していった。そして騒がしい足音を響かせ、転げるように帰ってくる。

「これだよ、これ。これに出ればいいんだ!」

 息を弾ませながら彼が突きだしたもの。それは湘南音楽大学主催の『定期演奏会』のオーディション参加要項だった。年に一度、外部のホールを貸し切って行われる大規模なコンサート。入場無料、地域のひとたちに広く演奏に触れてもらうための催しだ。

「それって、めちゃめちゃ選抜が厳しいやつだろ?」

 選ばれし学生のみがステージに立つことのできるその演奏会は、各専攻の首席がしのぎを削る一大イベントだ。

「だいじょぶだよ。僕らならできる!」

「僕らって。お前はいいだろうけど、オレはどう考えたって無理だって」

 いくら三流大学とはいえ、四年間音楽だけにすべてを捧げてきたような先輩たちと闘うことになるのだ。どう考えたって入学したばかりの一回生に勝ち目はない。

「ジャズの二台ピアノで挑戦しよう。オーディション対策だっていえば、先生、僕らを二人セットでレッスンせざるを得なくなるよっ」

「阿呆か。定演は四回生の独壇場だって。おまけに副科で挑んで勝てるわけないだろっ」

「勝てるよ。僕と健成くんなら、絶対に大丈夫だ」

「いや、お前のピアノが凄いのはわかるけど、オレは全然凄くないからっ」

 及び腰になる健成の両肩を掴み、田宮はぐっと顔を近づけてくる。

「そんなことない。僕、ピアノに関することだけは自信があるんだ。健成くんのピアノは凄い。僕がいうんだから、間違いないよ!」

 友だちだからっておべっかをいうような人間ではないんだよ、と田宮はいつになく真剣な顔で主張した。

「二台ピアノって……なに弾くつもりだよ」

「二人で選ぼうよ。僕らの魅力が、いちばん活かせる曲。オーディションは十月だ。夏休みを返上して頑張れば、絶対に突破できるよっ」

「つーか……お前、嫌じゃないのか。俺はお前を裏切って、高野先生と……その……」

 みんなよりレッスンを長めに見てもらったり、学外でレクチャーを受けたり。狡いことだとわかっていながら、恩恵を受け続けていた。そのことで田宮が傷つくと知りながらも、音楽的な欲求に勝てなかったのだ。

「正直、腹立ってないっていったら嘘になるけど。でも、ちゃんと全部正直に話してくれたし。もう二度と大曽根さんを哀しませるようなことしないって誓うなら、水に流すよ」

「だから、大曽根は関係ねぇって……」

「関係なくない。ダメだよ、健成くん。自分の気持ちから目をそむけたらダメだ。――僕なんか、一ミリだって勝算ないけど、それでも高野先生のこと好きなんだよ」

「勝算、なくなんか……」

「ないよ。先生は健成くんみたいな、カッコイイ子が好き。僕みたいなちみっこいのは眼中にないんだ」

 それでも諦めないけどね、と田宮は高野を待ち受けにしたスマホを大事そうに胸に抱く。

「お前、ほんとにカワイイやつだな」

 思わずギュッと抱きしめると、田宮は手足をばたつかせて暴れはじめた。

「ふぁっ……だ、ダメだよっ、健成くんっ。そんなことしたら、キュン死しちゃうっ」

 逃れようとする田宮を抵抗ごと封じ込め、ぎゅうぎゅうに抱きしめる。

「あぁ、もうっ。お前が友だちでよかった。お前と、友だちになれてよかった!」

 感極まってそう叫んだ健成の背中を、田宮はきゅっと抱きかえした。

「僕もだよ。健成くんに出逢えてよかった。ねえ、僕を信じて。健成くんのピアノ、本当に凄いよ。だからいっしょに定演、目指そうよ」

 学年トップの実力をもつ、全額給費生。健成など誘わず、自分ひとりでオーディションに出れば勝算は上がるというのに。そんなふうに誘ってくれる田宮が無性に愛おしかった。

「そうと決まれば明日から特訓だな。学校、来いよ」

 自分のせいで、貴重な講義を一週間も休ませてしまった。はやく遅れを取り戻させてやらなくてはならない。

「ぁ、そだ、西洋音楽史どこまで進んだ? 和声は? まずいよね、もうすぐ試験なのに」

「講義のノート、持ってきてやったぞ。文学と経済学、西洋音楽史。あとは由美さんに英会話の課題のプリントも貰ってきた。こっちはイタリア語のノートな」

 いつだって元気一杯な田宮が一週間も学校から姿を消した。専攻内の皆が心配し、健成の受講していない講義の板書も、彼女たちが手分けして用意してくれたのだ。

「うぅ、僕、ガッコ休んで、こんなふうにノート見せて貰うのはじめてだよっ」

 せっかく泣き止んだと思ったのに。田宮は感極まってふたたび泣き出してしまった。

 

 

 翌週、二人そろって現れた健成たちにすこし驚いた顔をしたものの、高野はオーディション終了までの間、二人でレッスンを受けることを承諾してくれた。

 交際を断ったことを根に持たれ、いい加減なレッスンをされてしまうのではないかと不安だったが、彼はいままで通り熱心に指導してくれた。

 オーディション対策と同時に、はじめての定期試験に向けた勉強もはじまった。主科、副科声楽、ジャズピアノなど実技系の科目に加え、和声やソルフェージュ、一般教養のペーパーテストまで、二週間にわたってひたすら試験期間がつづく。

「ぐぁー……もう、わけわかんねぇし。このLM曲線とかいうの、生きてく上でなんかの役に立つのか」

「健成くん、それをいったら大学の勉強なんて、専攻科目以外、基本的にはほとんどなんの役にも立たないよ」

 教養ってそういうものだよ、と諭され、健成は経済学のテキストを放り投げた。

「あー、もう面倒くせぇっ。なんで音大まで来て計算問題しなくちゃいけねぇんだよっ。もー、ピアノ弾きたいっ」

「これが終わったらピアノ弾こうね。とりあえずここまで終わらせちゃおう」

 さりげなくなだめる田宮を眺め、大曽根が嬉しそうに頬を緩める。

「田宮くんみたいにデキた友人がそばにいてくれて、坊は幸せですね」

「とんでもない。いつもは僕がお世話してもらってる側なんですよ。――健成くん、大曽根さんの前だと甘えっこになっちゃうから」

「なっ……わ、わけわかんないこといってんじゃねーよっ。さっさと教えやがれ、田宮っ」

「あー、もう、はいはい。えっとこの問題はねぇ……」

 テスト勉強の追い込みも兼ねて、ここのところ田宮は連日健成の部屋に通ってくれている。ふたりで挑む副科ジャズピアノはもちろんのこと、副科声楽も、健成の試験では田宮が伴奏を、田宮の試験では健成が伴奏をつとめることになっているのだ。

 一心同体。特に田宮は全科目優秀な成績を求められる全額給費生だ。絶対に彼の足を引っ張るようなことをしてはならない。普段以上に真剣に練習にも勉強にも取り組んでいるのだが、こうも連日勉強や練習ばかりがつづくと、いいかげん集中力が途切れてしまう。

 大曽根が作ってくれる食事だけが、日々の癒しになった。

「わー、いつもすみません。いただきますっ」

「坊の勉強見てもらってんですから。こんなんじゃちっともお礼になりませんけどね」

 田宮も含め、三人で囲む食卓。長いこと自室でひとりで食事を摂っていた健成にとって、それはとても新鮮な経験だった。

 

「よい友人に恵まれましたね」

 田宮を家に送り届けた帰り道、しみじみとした口調で大曽根が呟く。

「ああ、そうだな」

「――こっちに残りたくなりましたか」

 長いと思っていた一年間。あっという間に三分の一が終わってしまった。

「お前はその方が、好都合だろぉが」

 軽口をたたく健成に、大曽根はなにも答えない。開け放った窓から、むっとした熱気が吹きこんでくる。エアコン嫌いな健成にあわせ、彼は窓を開けてくれているのだ。

 真夜中の134号線。辻堂より先は、江の島界隈の喧騒が嘘のようにひっそりと静かになる。まっすぐ伸びるその道を、どこまでも進んでいきたい衝動に駆られた。

 カーステレオからは、大曽根の好きな泥臭いソウルがちいさな音量で流れている。

『ジャズは難解すぎて自分にはよぉわかりません』

 なんでも健成にあわせてくれるくせに、そこだけは譲る気がないようだ。もしかしたらまだ、高野とのことを根に持っているのかもしれない。

「なあ」

「なんですか」

「海、見たい。西湘バイパス乗って」

「――明日も学校です」

「いいから、乗れ」

 ほんのすこしでいい。このままでいたかった。

 試験を終え、オーディション対策に明け暮れる夏休みが終われば、一年間の大学生活は折り返し地点を迎えてしまう。もし組を継ぐという決断をしたとしても、今のように大曽根を四六時中独占することは叶わなくなるだろう。

 気づけば頬を涙がつたっていた。どうして泣けるのかなんてわからない。わからないけれど、止まらなかった。

「坊……」

 からかわれるかもしれない。そんな予想は外れ、大曽根は潰れたコンビニの駐車場に車を止めると、なにもいわず健成の涙を舐めとってくれた。

「おおぞね……?」

 くすぐったさに身をよじる健成を抱きしめ、大曽根は唇を重ねあわせてくる。

 理由もなく与えられたキス。心臓がバクバクと暴れて、うまく呼吸ができなくなった。風がやみ、熱気の籠った車内。低く流れる甘やかなソウルに、かすかな潮騒が重なる。健成は汗ばんだ彼のシャツをギュっと握りしめたまま、与えられるキスに蕩かされつづけた。

 

 

 田宮のおかげで学科試験を乗り切り、いよいよ迎えたはじめての実技試験。とても緊張したけれど、全科目なんとか無事に終えることができた。

「ふぁー……なにげに副科声楽の伴奏係が、いちばんプレッシャーかかるねぇ……」

 実技試験は正装必須。似合わないネクタイ姿の田宮が、脱力したように学食のテーブルに突っ伏す。試験最終日ということもあって、がらんとしている。大人気の焼きたてチョコチップメロンパンを手に、田宮はご満悦だ。

「あ、そうだ。オレ、先に守衛室行って、グランドの部屋押さえてくるわ」

 グランドピアノを二台備えたレッスン室はとても少ないため、いつも激しい争奪戦になる。健成は田宮を残し、レッスン室の貸し出し窓口である守衛室へと向かった。

 学食のある本校舎からいちばん離れた場所。敷地内でも最奥に練習棟は建っている。ひと気のない連絡通路を歩いていると、唐突に口を塞がれ、羽交い絞めにされた。

「――っ」

 とっさに肘鉄を繰り出そうとした健成に、スマートフォンが突き出される。

「この動画をばらまかれたくなかったら、いうことをきいてもらうよ」

 液晶画面のなか。映し出されているのは、全裸に剥かれ、泣きじゃくりながら犯される田宮の姿だった。あまりにもむごいその映像に全身の血液がぶわりと怒りに沸騰する。

「酷い男だと思った? 鈴川組のご子息、鈴川健成くん」

「なっ……」

 耳朶を舐められ、ぞわっと鳥肌が立った。

「学校のみんなは知ってるのかな。きみがヤクザの組長の息子だってこと。みんなにいいふらしてあげようか。この動画といっしょにね」

「てめぇっ……」

 スマートフォンを取りあげようとして、からかうような眼差しを向けられる。

「残念だったね。マスターはクラウド上に保存してあるんだよ。ヤクザの息子相手じゃ、なにされるかわかったもんじゃないからね。僕が設定を解除しなければ、自動的に動画投稿サイトにアップロードされるようになってる」

 スマホの画面を見せつけ、高野は健成の頬をねっとりと撫で上げた。

「彼、演奏家志願だってね。こんなものが出回ったらどうなるのかなぁ」

 彼が音量ボタンを操作すると、静まりかえった廊下に悲痛そうに叫ぶ田宮の声が響き渡る。犯している男の顔はうつっていないが、おそらく高野自身だ。

「なにが目的だッ」

 睨みつけると、おかしそうな顔で哂われた。

「なにって、決まってるよ。きみが欲しいんだ。いっしょに来てもらうよ、僕の部屋にね」

 ネクタイを掴まれ、ぐっと引っ張り上げられる。健成はいまにも殴りかかりたい気持ちを押さえこみ、高野のいうとおり彼の車に乗り込んだ。

 

 

「はぁっ――ぅっ……」

 全身から噴き出す汗。手首に食い込む枷。全裸で床に転がされ、前髪を鷲掴みにされた。

「いい眺めだよ、健成くん。想像していた以上に、きみの身体は素晴らしいね」

 下唇を舐めあげられ、いまにも嘔吐してしまいそうになった。止まらない悪寒。嫌悪感ばかりが募るはずなのに、健成の意志とは裏腹に身体は火照り、窄まりがジンジンと熱を帯びて疼いている。

「そろそろ限界なんじゃないのかな。欲しくてたまらないでしょ」

 いったい何を盛られたのだろう。媚薬。いや、そんな生易しいものじゃない。神経が研ぎ澄まされ、ほんのすこしエアコンの風が当たっただけで全身を痺れるような快楽が突き抜けてゆく。

「ほら、ねだってごらんよ。挿れてくださいって、お尻を突きだしておねだりするんだ」

 耳のなかにくちゅり、と舌を這わされ、健成はギュッと唇を噛みしめた。

 いやだ。こんなの、絶対にいやだ。頭ではそう思うのに、身体はいうことをきいてはくれない。極限まで昂ぶった身体。自らの腹にめりこむほど天を仰いだ分身から、止め処なく蜜が溢れ出している。

「こんなに濡らして。はしたないね」

 指先でそっとなぞられ、健成はそれだけで暴発させてしまった。

「んあぁっ!」

 びゅるりと溢れ出したもの。床を汚したソレを、這いつくばって舐めるよう命じられた。後頭部を押さえこまれ、ビデオカメラを向けられる。

「ほら、カメラ目線で舐めてごらん。ちゃんと全部きれいにできたら、ご褒美をあげる」

 とろりと背中につめたいモノを垂らされ、健成は思わず悲鳴をあげた。

「舐めろっていってるのがわからないのかな。それともなに。床に落ちたモノは汚くてダメ? こっちを呑みたいの?」

 後頭部を鷲掴みにされたまま、高野の股間に押さえつけられる。ズボン越しに感じた彼の怒張。監禁され、レイプされたときのことを想い出し、涙が溢れてしまいそうになった。

「仕方がないな。そんなに飲みたいなら、舐めさせてあげる。ほら、手を遣わずにズボンを脱がせてごらん」

 ジッパーを口で開けるよう命じられ、健成は渋々それに従った。現れた高野の雄芯。猛ったソレでぴしゃりと頬を叩かれ、屈辱に唇を噛みしめる。

 そうしているあいだにも身体はジンジンと火照りつづけ、背をつたい尻まで濡らした潤滑剤が身体の疼きをさらに煽っていった。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 鼓動が早い。いますぐこの手枷を引きちぎって、自分の指を突きたててしまいたい衝動に駆られた。焼け爛れそうなほど火照った窄まり。ヒクヒクと蠢き劣情を煽ってゆく。

「そろそろ限界みたいだね。素直にいってごらん。挿れてくださいって」

 潤滑剤を足され、左右の尻たぶを鷲掴みにして押し拡げられた。

「お口とこっち、どっちがいいの。ほら、ちゃんといわなくちゃわからないよ」

 触れるか触れないかの場所を、そっと指で辿られてゆく。あまりのもどかしさに、健成は発※狂してしまいそうになった。

「ゃっ……も、挿……れてっ……お願いだからっ……」

 泣きじゃくり、そうせがんだ健成を抱きすくめ、高野は床に押し倒す。圧し掛かられ、猛々しいモノを宛がわれたそのとき、耳をつんざくような怒声が響き渡った。

「てめぇ、ウチの坊になに晒しとんだッ!」

 高野の重みが一瞬にして消え、壁に叩きつけられた鈍い音が響く。

大曽根、駄目だ。そいつ、田宮のレイプ動画持ってんだっ。予約を解除させないと、動画投稿サイトに自動アップロードされるようになってるんだよっ」

 小曽根は高野の髪を鷲掴みにすると、その口内に銃口を突きたてた。

「健成さん、見ちゃダメです」

 大曽根とともに突入してきた組員たちは、重田をはじめ全部で四人。重田は健成の視界を手のひらで遮り、なにかで包むようにして裸体を覆い隠してくれた。

 高野の悲鳴と、肉を打つ禍々しい音が響く。いったいなにが行われているのかわからない。大の大人が本気で泣きじゃくるほど、とんでもない苦痛を与えているのだろう。

 なにかを引きずる音がして、高野たちの気配が消える。どうやら別室に置かれたPCで動画の削除をさせるつもりのようだ。重田を残し、組員たちも彼らについていった。

 開け放たれた扉の向こう側、大きな打撃音が響き、ドスのきいた大曽根の声が漏れ聞こえてくる。

「いますぐ全部消せ。ハードディスクのなかも、クラウド上も全部だ。ひとつでも残してみろ。切り刻んで相模湾に棄ててやるからな。てめぇだけじゃねぇぞ。万が一流出させやがったら親兄弟全員、命はないと思え」

 こんなふうに本気で大曽根が激怒しているのを見るのは久しぶりだ。そうだ、あのときも大曽根は銃を持っていた。そして――。

 封印していた記憶。脳内に銃声が響きわたり、健成はぶるりと身震いした。

「健成さん、これ着てください」

 どこから持ってきたのだろう。引き裂かれた健成の服の代わりに、重田は高野のものと思しき服を持ってきてくれた。

 服を着るあいだも、震えが止まらない。背筋を走る寒気とは対照的に、身体は熱く火照り、いまにも蕩けてしまいそうだ。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 ぐにゃりと歪む視界。座っていることさえできず、情けなく床に倒れ込む。

「シゲ、これ、外せ。はやく、外せっ……」

 手枷を外して、今すぐ自由にして欲しい。熱く濡れたそこに指を突き立て、楽になりたい。はやく。はやく、もう……これ以上、一秒だって我慢できない……。

 

「坊っ」

 大曽根の野太い声が響く。朦朧とする意識。肉厚な手で頬を叩かれ、重たい瞼をひらく。

「はぁっ……ぞね、シて。死んじゃうっ……はやく、シてっ……」

 枷は外して貰えたようだ。抱き縋り、突き動かされる衝動のまま、その身を擦りつける。

「クソっ……なにを喰わされた」

 忌々しげに眉を顰め、大曽根は健成の腕や舌を確認する。

「そんなの、いいからっ……はやくっ……」

暴れ続ける健成を力任せに引き止め、大曽根はその身体を抱えあげた。

「シゲ、あとのことは頼む。ツラはっきりわかるように撮っておけよ。終わったらPCやスマホは壊さず全回収だ。米須に解析させろ」

「――かしこまりました」

 なにをするつもりなのだろう。重田が姿を消した直後、高野の苦痛に満ちた叫び声が耳を劈いた。激しい物音が事態の深刻さを物語っている。

「坊、行きますよ。ほら」

 ぐるぐるとまわる天井。ようやく開いた瞼が、ふたたび閉じてゆく。大曽根に抱ききかかえられたまま、健成はその部屋を後にした。

 

 

「坊、ほら、飲んでください」

 水の入ったグラスを差し出され、受け取ることさえできずに床にへたり込む。

「ゃだ、も、おかしくなるっ……お前がシてくれんならよそでするっ……」

 むずかる健成を抱きすくめ、大曽根はその首筋に唇を押し当てた。

「阿呆なこといわんでください。またロクでもない男に捕まったらどーすんですかっ」

 シャツ越しに感じる、大曽根の熱。ただでさえ暴走寸前なのに、どうにかなってしまいそうだ。

「別にいいだろ、もう関係ない。お前は舞花と組のことだけ考えとけッ」

 大曽根の腕を振りほどこうとして、骨がきしむほど強く抱きすくめられる。唐突に顎を掴まれ、噛みつくようなキスをされた。

「っ――」

 どこかのホテルだろうか。見慣れないシャワールーム。つめたいタイルの上にへたりこんだ健成を、大曽根は軽々と抱き上げる。

「な、に、大曽根っ……ぁっ……!」

 ベッドに押し倒され、気づけばシャツを脱がされていた。あっという間に自分だけが全裸にされ、圧し掛かるようにしてくちづけられる。

「んっ……ゃ、おぉぞねもっ……脱い、でっ……」

 健成を鎮めるとき、大曽根は決して服を脱ごうとしない。シャツのボタン一つ外すことなく、仕事の顔で健成を抱くのだ。

「――脱いだら、自制が効かんくなっちまう」

 苦しげな声で、大曽根が呻く。

「ジセイ……?」

 首を傾げた健成のうなじに、彼は思いきり喰らいついてきた。

「ふぁっ……ん、ゃ、大曽根っ……そんな、とこ、いい、からっ……はやくっ……」

 自ら腰を浮かせ、触れて欲しいとねだる健成に、大曽根はなかなか触れようとしない。

「はやく、大曽根、もっ……お前が触ってくれんなら、自分でっ……」

 堪えきれず自分で触れようとして、両手首を頭の上で繋ぎ止められてしまった。あっさりと片手で拘束されてしまう自分の非力さが、なんだか無性に恨めしい。

「ダメです。坊のここに触れていいのは、大曽根だけです。それ以外の人間は、たとえ坊であっても許しません」

 くちづけとともに、つめたく濡れた指が健成の窄まりに押し当てられる。あっという間に埋めこまれ、いちばん感じる場所を探り当てられた。

「ふぁっ……んっ……ゃ、ぁ、あぁっ……!」

 びゅるりと劣情を溢れさせた健成を、大曽根はそれでも解放してはくれない。互いの肌を濡らす白濁を拭うことさえせず、巧みな舌と指で健成を蕩かせてゆく。

「はぁっ……ゃ、も、だめっ……おかしくなるっ……」

 高野に盛られた薬のせいだろうか。ほんのすこし触れられただけで、全身がびりびりと痺れ、どうにもできなくなる。

「幾らでも、おかしくなってください。大曽根の腕のなかなら、どれだけ乱れてもいい」

 耳元で囁かれるその低い声にさえ達してしまいそうになって、健成はびくっとその身を震わせた。

「ぁ、ぁ、ゃ、も、イく、またイっちゃっ……」

 どこか。なにもない中空に放り出されてしまうような、不安な感じ。前でイクのとは違う――後ろでの絶頂だ。大曽根に慰めてもらうようになるまで、存在すら知らなかったその凄絶な愉悦に、健成は我を忘れて夢中で耽ってしまう。

「はぁっ……ぁ、イく、ぁ、ぁ、んあぁああっ!」

 大きくその身をのけぞらせ、劣情を迸らせる。ぎゅうっと彼の指を喰い締め、健成は肩を上下させて荒い呼吸を繰りかえした。

「はぁっ……ぁ、んっ……ぞね、お、ぞねっ……」

 足りない。こんなにしっかりと抱きしめ、野太い指を深々と突きたててもらっているのに。それなのに、まだ足りない。

 もっと、もっと深く、貫いてほしいと思った。大曽根のモノでいっぱいにして、一ミリだって隙間がないくらい全部、埋め尽くしてほしい。 

「ゃ、も、欲しいっ。大曽根、ちょうだいっ……」

 彼の指を咥えこんだままの窄まりを、健成は力任せに彼の股間に擦りつけた。自制心なんて、欠片も残っていない。ローションで彼のズボンがべたべたになってしまうとか、そんなことはもうどうでもよかった。自ら唇を重ね合わせ、大曽根の舌に自分の舌を絡めてぎこちなく吸い上げる。彼は健成の舌をとらえると、痺れるほどきつく吸い上げてくれた。

「んぁっ……ぅっ……」

 窒息しそうなほど濃厚なキスに囚われながら、なかを掻き混ぜられてゆく。達したばかりの敏感な身体は、彼の指に擦り上げられるたびにジンと脳天まで狂おしく痺れた。

「もっと。大曽根、もっと奥、突いてっ」

 根元までしっかり埋めてくれている。そのことがわかっていながらも、健成はそうねだらずにはいられなかった。大曽根の頬を、耳朶を、首筋を、こみあげる愛おしさに任せ、手のひらや指の腹で愛撫してゆく。そのカタチを確かめるように、自分を抱いているのが大曽根だと刻み込むように、健成は彼を撫でつづけた。

「お願い、だから……脱いで」

 大曽根の、熱が欲しい。

 頬や首筋だけじゃ足りない。彼の全部に触れていたかった。

「何度いえばわかるんですか。脱いだら自制が効かんくなるっていってんでしょうが」

 反論をキスでふさぎ、ボタンを引きちぎる勢いでシャツの前をはだけさせる。

「肌、重ねるだけでいいから――お前の、熱が欲しい」 

 掠れた声でそう告げた健成の顎を掴み、大曽根はぐっと顔を近づけてきた。

「坊がそれでよくても、自分はそれだけじゃ収まんないんですよっ……」

「わ、ちょ、大曽根っ……?!」

 とつぜんシャツを脱ぎ捨てると、彼はズボンの前をはだけ、健成にのしかかってくる。

「ふぁっ……ぁ、ん―――っ」

 唇を塞がれたのと同時に、熱く猛ったモノを宛がわれた。窄まりを擦り上げられ、ドクンと心臓が跳ねあがる。

 この間のように、スマタをされてしまうのだろうか。身構えた健成の足首を掴み大きく股を開かせると、大曽根はずぶりと先端を埋めこんできた。

「んあぁっ……!」

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。欲しくて、欲しくてたまらなかった大曽根のモノ。どんなに頼んだって、絶対にシてはくれなかったのに。

「ぁ、ぁ、はぁっ……」

 思いきり内側から押し拡げられ、生まれて初めて感じるその感覚に、健成はどうしていいのかわからなくなった。身体だけでなく、頭のなかまで拡げられてしまったみたいな錯覚に陥る。大曽根の引き裂いたそこが、全部、ぽっかりと空洞になってしまうような、そんな錯覚だ。開かれたそこを、ずしりと質量のある熱い楔で埋め尽くされる。

 大曽根のモノでいっぱいにされている――その事実が、いまだに信じられなかった。

「はぁっ……ん、ぅ、ぁ……」

 手を伸ばし、そっと、そこに触れる。すべてを埋めこまれていると思ったのに。健成のなかをみっちりと埋め尽くしたそれは、まだほんの先端しか埋められてはいなかった。

 普段は触れるどころか、目にすることさえ許されない、大曽根の怒※張。禍々しいまでに雄々しく、ところどころにくっきりと血管が浮いている。健成の未成熟なモノとは違う、大人の牡であることを濃厚に感じさせるモノだ。

「全部、挿れて……いい、よ」

 健成が痛い思いをせずにすむよう、気遣ってくれているのだろう。先端だけを埋めたまま動きを止めてくれている大曽根に、健成は掠れた声でそう告げた。

「そんなことしたら、壊れちまいますよ」

 耳元で囁かれ、ぞわっと背筋が震えた。いつも以上に艶っぽい声がジンと身体の芯に響く。セッ※スの最中、大曽根はこんな声で囁くんだ、と思うと、ギュっと胸が苦しくなった。自分以外にも、きっと沢山のひとがこの声を耳にしたことがあるのだろう。

「へい……き、大曽根になら……壊されても、いい」

 照れくささに目を伏せたまま、そう答える。するとふわりとやさしく頬を包みこまれた。大好きな大曽根の手のひら。そっと撫でられ、くちづけられた。

「んっ……はぁっ……ぅっ」

 熱い舌に絡めとられ、蕩かされるうちに、貫かれた窄まりがジンジンと熱を帯びはじめる。繋がったそこがたまらなく疼いて、どうしていいのかわからなくなった。

「好き、大曽根っ……すきっ……」

 堪えきれず溢れた感情。夢中になって、健成は大曽根の名前を叫びつづけた。

「坊っ……」

 いつになく激しいキスだ。骨まで蕩けてしまいそうなキスに自然と腰が浮き上がる。

「んっ……んっ、ぅっ……はぁっ……」

 自ら腰を揺すりはじめた健成を、大曽根はきつく抱きしめ、その首筋に頬を摺り寄せた。

「はぁっ……ダメだ、坊、これ以上は……っ」

 苦しげに呻き、大曽根は健成の両足を左右の肩に担ぎ上げる。大きく足を開かされた状態で身体を倒しこまれ、一気に挿入が深くなった。

「んあぁあっ……!」

 熱くて、熱くて、どうにかなってしまいそうだ。焼け爛れそうな熱に苛まれながらも、身体中を埋め尽くされる悦びに胸がいっぱいになる。

「はぁっ……ぞね、おお、ぞねっ……」

 こんなにも深く繋がっているのに、もっとそばにいきたいと思った。一ミリだって離れていたくない。手も足も胸も、全部の肌を重ねあわせ、深く舌を絡ませあって、なにもかも融けてひとつになりたい。

 唇を突きだしてキスを求める健成をきつく抱きしめ、大曽根はねっとりと舌を絡めとってくれた。彼の熱をダイレクトに感じると、感極まって涙腺が緩んでしまう。

「坊……?」

 心配そうに見つめられ、ふるふると首を振った。

「へい、き、痛く、ない、から、だからっ……もっと、そば、きて……っ」

 目いっぱい手を伸ばし、広く逞しい背中に腕を廻す。

「坊……っ」

 こんなときくらい、名前を呼んでくれたっていいのに。行為の最中までそんな呼び方をしてしまうところが、大曽根らしくていい、とも思う。

 ひとすじ溢れた涙を、彼の武骨な指が拭ってくれる。その指の温かさに、余計に涙が止まらなくなった。

「動いて、いい、よ」

 すべてを呑みこめたのだと思う。大曽根の引き締まった下腹が、健成の肌に触れている。

「ダメです。――ずっと、このままでいたい。永遠に、坊のなかを味わっていたい」

 もしかしたら、誰にだっていう社交辞令的な言葉なのかもしれない。それでも、そんなふうにいってくれることが、嬉しくてたまらなかった。

「お前が……最初だったらよかった……これが、最初だったら……っ」

 ふるふるとその身を震わせる健成をきつく抱きしめ、大曽根はそっと頬を摺り寄せる。

「最初、ですよ。大曽根とするコレが、坊の……はじめてのセッ※スです。あんなモン、カウントに入れるのが馬鹿らしくなるくらい、全部、大曽根が塗り替えてやります」

 涙が溢れてきた。

 ずっと、平気だって。あんなの気にしないって思いつづけてきたのに。犬に食われただけだって思いたかったのに。それなのに健成の心をがんじがらめに絡めとって、ぐちゃぐちゃに壊してしまう。どんなに忘れようとしても身体に沁みついた生々しい記憶が、薄れることなく健成を苛み続けていた。

「ふぁっ……ぅ、うぅっ……」

 唇を噛みしめ、声を押し殺して泣きじゃくる健成を、大曽根は骨が軋むほど強く抱きしめた。頬を伝う涙を舐めとり、髪を撫で、やさしくくちづけてくれる。

 身体だけでなく、心まで全部、開かされてしまった、と思った。誰にも触れられることなく、自分自身でさえ目を向けることなく、抑え続けてきた忌々しい記憶。曝け出され、すべてに舌を這わされてゆく。

「おおぞねっ……好きっ。ずっと、そばにおって。オレの……そばにっ……」

 健成の言葉に、大曽根はなにも答えようとしなかった。健成を抱く腕にさらに力を籠め、繋がったまま首筋に頬を摺り寄せてくる。

 これ以上深い場所なんてないと思っていたのに。身体を倒しこまれ、さらに奥深い場所を貫かれた。

「んあぁあっ!」

 ずっと抱きあっていたかったのに。最奥を突き上げられたその瞬間、健成は意識を手放してしまった。

 

 

 目覚めると、ベッドのなかにひとりきりだった。不安になって飛び起きると、ふわりと抱きしめられる。

「おおぞね……?」

 掠れた声で名前を呼ぶと、そっと頬ずりされた。大好きな大曽根の匂い。心地よさに目を細めた健成の身体に、耳障りのよい低音が響く。

「自分は、坊が鈴川を継ぐことに、賛成出来ません」

 唐突に発された言葉。どう答えていいのかわからず、健成は無言のまま彼を見上げた。

「坊には、穢れて欲しくないんです。せっかく自由になるチャンス、与えてもらえてんですから。血なまぐさいの嫌いでしょう。さっきだって怯えてた。大曽根のこと見て、怖いと思ったでしょう――幻滅、したんでしょう」 

「げ、幻滅なんて……っ」

 極道者だけれど、大曽根はやさしいし、悪いことなんかしない。いままでずっとそう思いこもうとしていた。

 けれども実際には犯罪にだって手を染めるし、必要とあらばどこまでも汚く追い込んでゆく。脅しなんかじゃない、迷うことなく引き金をひける。この男は、そういう男なのだ。

 忘れたくて封じ込めていた記憶。

 健成を監禁して凌辱した少年たちを、彼は迷うことなく全員撃ち殺したのだ。

「まっとうな場所じゃ、自分はもう生きてはいかれんのです。だけど、坊は違う。紗有里さん譲りで、まっさらで――正直、坊には極道、向いてないですよ。ちゃんと陽のあたる場所で、生きて欲しいんです。ここに残るべきです。信用できるのを、つけますから。だから、大学に残ってください」 「信用できるのをつけるって。お前はどうするんだよ」  「自分が名古屋(むこう)を不在にできるのは、一年だけです。さすがにそれ以上は、抑えがきかんくなる」

 一年が限界なんですよ、と大曽根は静かな声でいった。 「いやだ。オレも名古屋に帰る」 「駄目です」 「帰るっ。ガッコ、やめるっ」   「ガキみたいなこと、いわんでください。坊に人が撃てますか。そいつの人生狂うのわかってて、他人の腕にシャブ打てますか。そいつには親兄弟がいて、年老いた親が嘆き悲しむのわかってて、それでもオレらは、平気で地獄に落とすんですよ。そういうことができる人種なんです。――坊にはできないでしょうが」  ぎゅっと抱き締められ、うなじにくちづけられる。 「お願いです。どうか、誰よりもしあわせになってください」

 健成を抱く腕に力を籠めたまま、大曽根は絞り出すような声でそういった。なにも答えることが出来ず、無言のまま、健成はじっとその腕に抱かれつづける。

 たくましい彼の胸に顔を埋め、健成はただその鼓動だけを、聞きつづけた。

 

 

「健成くん、だいじょぶ?」

 自室のベッドの上。心配そうに覗きこまれ、慌てて笑顔をつくる。どんなに頑張っても、ぎこちなく顔を歪めただけの情けない顔になってしまった。

大曽根さんと、なにかあった?」

「なんで」

「ゃ、健成くん、いつも以上に色っぽいっていうか……それに、いっぱいえっちな痕が」

 鬱血や歯形の痕がくっきりと残る健成の首筋。田宮はほっぺたを真っ赤に染めて、視線を泳がせた。

「寝たよ、大曽根と。最初で最後だってさ。なんだろうな。手切れ金みたいなモンかな。なんか――虚しくなってきた」

 あんなにも、抱いてほしくてたまらなかったのに。実際に抱かれたら、こんなにも胸が苦しいなんて。

 健成の前では、決して肌を見せることのなかった大曽根。あんなふうに裸の彼を見るのは、ほんとうに久しぶりだ。幼いころに風呂に入れてもらったとき以来、十年ぶりに目にした彼の背に彫られた龍の彫り物が、鮮やかに脳裏によみがえる。

 極道の世界に、生きる男。組を継ぐ、という選択をしなければ、いっしょにいることは叶わないだろう。そして継ぐという選択をしたとしても……今までのような関係でいられるとは欠片も思えなかった。

 こんな想いをするのなら、いっそ抱かれなければよかった。

 あんな夜を過ごしたら、きっと一生、忘れられない。誰に抱かれたって、何十年経ったって、昨夜のことを思い出してしまう。それどころか、大曽根以外となんて、セッ※スどころかキスを交わしあうことさえ耐えられないだろう。

「あ、そうだ。メロンパン買ってきたんだ。チョコチップメロンパン。いつも争奪戦になるやつね。ちょっと冷めちゃったけど……」

 講義を休んだ健成を心配してくれているのだろう。いそいそと見舞いの品を取り出す田宮を、思わずぎゅっと抱き締める。

「わ、な、なにっ」

「なんでもない。――なんか、ごめん……」

 涙が溢れてしまいそうになった。遠い昔、健成を助けるために大曽根が犯した罪。高野に釘を刺すためにしたであろう恐ろしい行為。

 確かに自分にはそんなことは出来ないし、自分のためとはいえ、大曽根のしたことを肯定することもできない。

『坊は、極道に向いとりません』

 大曽根のいうとおり、自分はあの稼業には向いていないのだ。

 どんなに暴対法が厳しくなり、表向きはまっとうに見えるとしても、暴力団という存在が『善』になることはない。

 法の目をかいくぐり、時には犯し、蔑まれて当然のことをして、金を稼いでいる。そんな集団を束ね、長になる気概が、自分に備わっているだろうか。

 選択の余地なんて、本当は最初からなかった。大曽根はおそらく、自分を旅たたせるために、見送り役として世話係を買って出てくれたのだろう。

「オーディション、頑張ろうな」

 ちゃんと、自分の足で立たなくちゃいけない。健成はそう心に誓いながら、ぎゅっと田宮の華奢な身体を抱き締めつづけた。

 

 

 夏休みが終わっても、高野は学校に姿を現さなかった。

 一身上の都合で急きょ退職することになった彼に代わり、四十代半ばの女の先生がレッスンを担当してくれることになった。まん丸な体型をした、とてもパワフルな先生だ。繊細で洗練された音使いの高野とは真逆の音を奏でる彼女。健成も田宮も一発でダイナミックなその演奏の虜になった。

 高野の教えてくれた、音への向き合い方。彼女が教えてくれた、鍵盤に情熱をぶつけるということ。二人は多忙な講義の合間を縫って、ひたすら二台ピアノの練習に明け暮れた。

「凄いわ、絶対にいける!」

 彼女の言葉通り、健成たちは無事にオーディションを突破することができた。結果発表の翌週、彼女は門下生全員を集め、駅前の焼き鳥屋でお祝いをしてくれた。

「副科で定演に出場できるなんて、前代未聞じゃない?」

 ジャズ科の先輩にいわれ、田宮は照れくさそうに頬を染める。

「主科がおろそかになって、怒られちゃってるんですけど……実は僕、ジャズ専攻に転向したいなって思ってて……」

 高野の講義を受けたいがために、ジャズの世界に飛び込んだはずの田宮。いつのまにか、その魅力にとりつかれ、真剣にその道を究めたいと思っているようだ。

「えぇっ……マジかっ?!」

 驚きのあまりネギマを落っことしてしまった健成に、田宮はぎこちない笑顔を向ける。

「もちろん、簡単なことじゃないってわかってる。大学が僕を給費生にしてくれたのは、主科のクラシックピアノですこしでもいい成績を収めるためだし……」

 優秀な生徒を全額給費生にして囲い込むのは、大学の広告塔の役割をつとめてもらうためだ。在校生が著名なコンクールでよい結果を出せば、大学自体の評価も上がる。そのために迎え入れた田宮がよそごとにかまけ、本分である主科をおろそかにすれば、当然学校側はいい顔をしない。下手をすれば給費を打ち切られる可能性だってあるだろう。

「そのことなんだけどね、今度の定演、ジャズ専攻から、もうひとり出る子がいるでしょ」

「ええ、サックス専攻の先輩が出演されるとか……」

 先生の言葉に相槌を打つと、彼女は興奮したようすで語りはじめた。

「アメリカからね、ジャズ専門の音楽大学の教授が、彼女の演奏を観に来るのよ」

 定期演奏会の演奏が、その大学の奨学生オーディションの実技試験を兼ねているのだという。

「その教授にね、二台ピアノの男の子たちも出るんですよって、健成くんたちの音源を送ったら、『ぜひ彼らの演奏も生で観てみたい』っていってくれたのよ」

「それって……」

「チャンスよ。うまくいけば、あなたたちも奨学生として受け入れてもらうことができるかもしれない」

 高野が卒業したというその大学は、ジャズ教育の聖地。田宮にとって、なによりも憧れの場所のようだ。

 経済的な事情により、私費ではどんなに頑張っても留学することは叶わない。奨学金さえ受けられれば、と彼は考えていたようだ。

「全力で頑張りますっ!」

 瞳をきらきらさせて答える田宮を前に、健成は自分が日本以外の場所で音楽の勉強をする姿を、ぼんやりと思い浮べてみた。

 忘れたくても忘れられない、大曽根のこと。遠く海を離れてしまえば、忘れざるをえなくなるかもしれない。

「どうしよう、いまから緊張してきちゃった」

 ほっぺたを真っ赤に染め、興奮気味に叫ぶ田宮の隣で、健成は、どんなことでも大曽根に結びつけて考えてしまう自分に苦笑いをこぼした。

 砂肝を手になにげなく壁際のテレビに目を向けると、液晶画面のなか、見慣れた物々しい建物がうつしだされていた。某広域指定暴力団の三次団体としては桁外れに巨大な、鈴川組の本部事務所だ。

『分裂抗争激化』というテロップと共に、ニュースキャスターが神妙な面持ちで、事務所の前に停められた車のフロントガラスに銃弾が打ち込まれたのだと告げている。 

「マジか……」

 本家の分裂騒動を発端に、ここのところ全国的に物騒な事件が増加しているらしいというのは、健成も小耳に挟んでいた。本家の現組長は、名古屋の人間だ。当代の出身母体を上部団体に持ち、その組の若頭補佐もつとめている健勇。もしかしたら、なんらかのトラブルに巻き込まれているのかもしれない。

「すみません。ちょっと急用を思い出してっ……」

 オーディション突破の祝杯気分から一転、慌ただしく立ちあがる。

「だいじょぶ、健成くん?」

 心配そうな顔をする田宮を残し、健成は店の外へと飛び出した。

 

 行き先などひとことも告げていないのに、店の前には白いフルスモークの車が停まっていた。

大曽根っ!」

 助手席に飛び乗り、その胸ぐらに掴みかかる。

「なあ、いまニュースでウチの組が襲撃されたってっ……」

「ああ、アレですか」

「アレですかって。お前、なんでそんな大事なこと、オレにいわんのだっ」

 健成が生まれる何年か前に、名古屋で複数の組が争う大規模な抗争があった。

 その抗争の結果、鈴川組を含む名古屋市内のほぼ全ての組が、神戸に本拠地を置く日本最大規模の広域指定暴力団の傘下に納められることになった。

 それ以降、大きないざこざはなく、健成は鈴川組がニュースで取り上げられているところなど一度も見たことがなかった。

「なあ、ウチの組、なんかヤバいことなってんのかっ」

 真剣な表情で訊ねた健成を、大曽根はさらりと受け流す。

「坊には関係ありません」

「関係ないわけないだろっ。事務所に銃弾打ち込まれるって。どう考え……んっ……」

 最後までいい終わる前に、強引に唇を塞がれた。

 あの夜以降、どんなにせがんでも一度もキスなんてしてくれなかったくせに。こういうときばかり、健成を黙らせるために平気で仕掛けてくるのだ。

「そんなモンに、騙されねぇからなっ!」

 その身体を押し退け、ふたたび胸ぐらに掴みかかる。あくまでも黙秘を貫くつもりのようだ。健成がどんなに必死で睨みつけても、大曽根はすこしも相手にしてくれなかった。

「お前が教えてくれんのなら、シゲに訊く」

「無駄ですよ。余計なことをベラベラしゃべるような男は、自分の配下にはおりません」

 ぴしゃりと言い捨てられ、助手席のシートに押さえつけられる。

「帰りますよ、坊」

 一方的にそう告げられ、マンションまで連れ帰られてしまった。

 

 重田や他の組員たちに片っ端から電話をかけたけれど、大曽根のいうとおり誰もなにも教えてくれなかった。健勇や彼らのことが心配でたまらないのに、逆にこちらの心配をされてしまう始末だ。

『くれぐれも大曽根の兄貴の目ぇ盗んでフラフラしたりせんでくださいね』

 釘を刺され、ふてくされた気持ちになる。自分に出来ることなど、なにひとつない。わかっていても、落ち着かなかった。

「なあ、大曽根

 舞花たちは大丈夫なのだろうか。心配になって訊ねようとして、ぐっと両頬を押し潰された。

「坊は余計なこと、考える必要ありません」

 抗おうとして、あっという間に床に組み敷かれてしまう。

「んっ……」 

 仕掛けられたのは、噛みつくようなキス。こんなものに騙されたりしない。そう思いながらも、熱い舌にまさぐられるうちに意識が朦朧としてきてしまった。

大曽根……っ」

 黙らせるためだけに抱かれるなんて、絶対にいやだ。

 そう思うのに、己の意思とは裏腹に身体は火照り、いうことをきかなくなってしまう。

 ベッドに連れ込まれ、乱暴に服を剥ぎ取られた。発砲事件の件でピリピリしているのだろうか。愛撫もなしに宛がい、大曽根はひと息にすべてを埋めこんできた。

「んあぁっ……ゃ、ぞね、大曽根っ……!」

 こんなの、嫌なはずなのに。与えられる快楽に蕩けさせられ、抗う腕から力が抜けてゆく。

「はぁっ……ゃ、だ、めっ……んあぁっ」

 いちばん感じる場所に擦りつけるように腰を遣われ、健成はあっという間に達してしまった。

 

 いったい何度絶頂を迎えたのだろう。

 泣きじゃくり、枯れ果てた声。もう瞼を開けるのさえ億劫だ。手探りに大曽根の手を探すと、背後からぎゅっと抱きしめられた。

 いまだ埋めこまれたままの、大曽根の昂り。健成のなかにたっぷりと子種を注ぎこんだソレか、むくりとカタチを取り戻す。

「わ、も、無理。これ以上したら、死ぬっ」

 かすれた声で告げた健成のうなじに、大曽根はきつく歯を立てた。

 抜かずの三発、なんて言葉があるけれど、すでに三回どころではない。数えきれないくらいたくさん注ぎこまれ、溢れた白濁が股まで濡らしている。

「オレが女なら、確実に孕まされとるな」

 軽口を叩く健成の首筋を、大曽根はねっとりと舐めあげた。

「孕ませれたら、どんなにかいいかって思いますよ」

 ふざけていっているのだと思う。けれどもその声はゾクゾクするほど蠱惑的で、健成は本当に孕まされてしまうかのような錯覚に陥った。

「なあ、もう、ダメだて。これ以上したら。んっ……」

 繋がったままベッドに組み敷かれ、尻だけを突き出させられた四つん這いの姿勢で左右の尻たぶを鷲掴みにされる。

 ゆっくりと味わうように抜き差しされ、注ぎこまれたばかりの大曽根の白濁が、ごぷりといやらしい音をたてて溢れだした。

「んっ……ぁ、ゃ、も、イく、イっちゃっ……んあぁっ!」

 ギシギシと壊れてしまいそうなくらいに激しくベッドが軋む。執拗に突き上げられ、最奥に叩きつけるように吐精された瞬間、健成は意識を手放してしまった。

 

 

「ふぁー、おっきいねぇ……」

 大学の中庭にそびえたつ巨木。きらびやかな電飾に彩られたその樹を見あげ、田宮がうっとりとため息を吐く。湘南音大名物、天然木の豪勢なクリスマスツリーだ。

「ありえんな。こんなモンにオレらの貴重な学費が使われてんだろ」

 ぼそりと呟いた健成に、田宮はおかしそうな笑顔を向ける。

「健成くんって、意外と庶民的だよねぇ」

 あれ以来、テレビでは各地で続発する暴力団関連のニュースが頻繁に放送されている。

 日本最大規模の広域指定暴力団の代替わりを機に勃発した分裂抗争。事務所にダンプカーが突っ込んだ、だの、繁華街で数十名規模の乱闘騒ぎが起こっただのと、物騒な諍いは後を絶たない。

 抗争が原因と見られる死者も四名にのぼり、鈴川組も例の発砲事件の後、組員が襲撃され重傷を負う事件が発生し、本部事務所の映像が繰り返しテレビニュースで放映されてしまった。

「やっぱみんな、気づいてんのかな」

 鈴川という珍しい名字に、フルスモークの厳めしい車。健成が鈴川組の関係者であることに気づいている者も少なくないだろう。

「うーん、気づいてるかもしれないけど……でも、健成くんは健成くんだからね。ヤクザの息子だろうがなんだろうが、健成くんがやさしくて友だち想いのすてきなひとだっていう事実は、揺るがないよ」

 放課後のレッスン室。そんなふうにいわれ、涙腺が緩んでしまいそうになる。田宮は健成の手を握りしめ、にっこりと微笑んだ。

「だいじょぶ。みんな、そんなことで差別したりしないよっ」

 田宮のいうとおり、学校の教職員も学生たちも、誰ひとりとして健成につめたい眼差しを向けてこない。もしかしたら陰でなにかいわれているのかもしれないが、表面上はいままでと変わらず接してくれているのだ。

「そんなことより、大曽根さん、大丈夫かな。名古屋に連れ戻されたりしない?」

「わかんない。なに訊いても、まともに答えてくれねぇし」

 どんなにしつこく訊ねても『坊には関係ありません』の一点張りで、大曽根はなにも答えてくれない。

「そっか。じゃあ、とりあえずイブはいっしょに過ごせるんだね」

 今年のクリスマスイブは土曜日。定期演奏会の翌日だ。

「過ごせるっつったって……別に、なにかするわけでもねぇけどな」

 つきあってるわけじゃないんだ、と口をとがらせた健成を、田宮は慈しむようなやさしい瞳で見上げる。

大曽根さんは、健成くんのことが好きだよ」

「――勝手に決めつけんな」

「ううん、勝手じゃない。見てたらわかるよ。大曽根さんにとって、健成くんはなによりも大切な宝物なんだ」

 田宮の言葉に、健成はギュッと唇を噛みしめる。大曽根が自分のことをどんなふうに思っていたって、世の中にはどうにもならないことがあるのだ。

 今回の抗争に関しなにも教えてくれない彼に業を煮やし、健成はここのところ暴力団関係の記事の掲載された雑誌やニュースサイトに片っ端から目を通している。

 それらの媒体に書かれた記事にどこまで信憑性があるのかわからないが、大曽根に関する記事も幾つか見つけた。

 性風俗産業で築きあげた富を元手に、不動産や金融など手広く事業を展開し、三次団体の一組員としては異例の資産を築き上げているのだという。

『鈴川から独立して自分の組を持とうとしている』『抗争中の対立団体から幹部職として迎え入れたいとのオファーがある』なと、さまざまな噂話が飛び交っているようだ。

「だから余計に、オヤジはアイツのことを必死で囲い込もうとしてんだろうな」

 本家の分裂により、傘下である直参や三次団体内部にも、名古屋と神戸、どちらにつくかで揺れている組もある。鈴川内部で起こる分裂を恐れ、稼ぎ頭である大曽根を押さえこもうとしている可能性も高い。

「ぁ、見て、雪だ!」

 まだ十二月も二十日になったばかりだというのに、窓の外には今年はじめての雪が舞っている。

「こっちのほうは雪、降らないんじゃなかったのか」

「たまーに降るよ。降らない年もあるけどね。ね、健成くん、すっごくきれいだよ。ツリーのひかりがあたって、キラキラしてる」

 レッスン室の窓を開け、田宮は身を乗り出すようにして手を伸ばした。キンと冷えた夜風が頬を掠める。風向きや湿度のせいだろうか。海からの距離は決して変わることがないのに、なぜだか夏に感じるような濃厚な海の香りがすこしも感じられなかった。

「はやく帰ってあげなくちゃ。大曽根さん、待ってる」

 校門の向こう側には、相変わらず白いフルスモークの車が停まっている。ガキのお守など、している場合ではないだろうに。あと二か月とすこしのことだから、我慢してくれているのだろうか。

「帰ろう、健成くん」

「ん、あぁ……」

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、健成はぎこちなく頷いた。

 

 

 日々の練習に追われるうちに、あっという間に定期演奏会本番がやってきた。

「坊、ネクタイ曲がってます」

 大柄な身体をかがめこみ、大曽根は健成のネクタイを直す。

「ぅ、うるさい。今直そうと思ってたとこなんだって」

 唇を尖らせた健成を、彼は無言のままじっと見つめた。

「な、なんだよっ……」

「いえ――こんなに立派なステージで演奏するなんて。紗有里さんが知ったら、きっと泣いて喜びますね」

 文化会館の大ホール。オーケストラ公演にも対応可能な千五百名収容の大きな舞台だ。

母の紗有里はピアノを弾くのが大好きで、床に臥せっているとき以外のほとんどの時間をピアノの前で過ごしていた。幼い健成にピアノを教えてくれたのも、彼女だ。

「お前はいつまで経っても、『紗有里さん』『紗有里さん』て、そればっかだな」

 ふてくされて悪態をつきながらも、正直にいえばすこし嬉しい。やさしかった母との大切な想い出を、この男だけが共有してくれているのだ。

 田宮とともにリハーサルを終え、控室に戻ろうとしたそのとき、舞台脇に控えていた大曽根スマホが鳴り響いた。

「おい、こういう場ではマナーモードにしとけや」

 眉を顰めた健成に軽く手をあげ、大曽根はどこかに離れていこうとする。組からの電話なのだろうか。心配になって、健成は彼の後を追った。

 どうやら電話の主は、重田のようだ。大曽根の声が険しいものに変わる。

「――わかった。すぐに中止させる。そっちもなんとか引き帰させてくれ」

 なにがあったのだろう。通話を終えると、大曽根は唐突に健成の腕を掴んだ。

「帰りますよ、坊。ここにいてはダメです」

「はっ?! なにいってんだ、お前っ」

 いまから待ちに待った本番なのだ。夏前から練習を重ね、ようやく迎えた大舞台。投げ出して帰るなんてどう考えたって出来るはずがない。

「きょうの公演のこと、どこから漏れたのかわからないのですが――組長(オヤジ)がこっちに向かっているようです」

「はっ?!」

 なにかの聞き間違えだろうか。驚いて目を瞬かせた健成に、大曽根は静かな声音でいった。

「田宮くんには申し訳ないですが、出演は取り止めです」

「馬鹿いってんじゃねぇぞっ。アイツがこの定演にどれだけ賭けてると思ってんだ。留学がかかってんだよ。アイツの夢なんだ。絶対に取り止めるわけにはいかない」

「ダメです。いま、どんな状況かわかってんでしょうが。組長がシマを離れてこんな場所に来れば、警護も手薄だと思われるに決まってる」

「だからって、こんなに人の多い場所で襲撃するようなアホ、いるわけないだろ」

「違うんです。マズいのは神戸の連中だけじゃないんですよ」

 大曽根が口にしたのは、近年、急速に勢力を伸ばしているチャイニーズマフィアの名前だった。

「奴らの新しいボスってのが……坊をさらったガキの実兄なんです」

 中華系少年が中心となって形成されていた不良グループ。大曽根や健勇により跡形もなく消された彼らの遺族が、その組織の新しいボスなのだという。

「まさか、お前が標的にされてんのかっ?!」

「――いえ、実行犯までは、特定できていないようです。ただ『鈴川の関係者に消された』と考えているらしく、怒りの矛先をウチの組全体に向けているんですよ」

 チャイニーズマフィアの大半が現地の組織と結託して犯罪に勤しむ。彼らの陰の協力者が、今回の本家分裂で神戸側についた組なのだそうだ。

「向こうの組の人間は、おそらく奴らを煽って、鈴川にダメージを与えようと目論んでいるんだと思います」

 暴対法施行後、けん銃の携行さえ難しくなった日本の極道と違い、彼らは白昼堂々、街中で発砲することさえいとわない。つい最近も、池袋の繁華街でチャイニーズマフィアが日本の暴力団員を二名も射殺する事件が起こったばかりだ。

「おまけに奴らは日本人以上に『血』に拘る。あたらしく組織のトップに立ったばかり。肉親のカタキを取る忠義な男だと下のモンに知らしめるためにも、パフォーマンスでウチに噛みついてきてるんだと思います」

 例の発砲事件も、組員が重傷を負った事件も、彼らが関わっているのだという。

「ンなもん知ったこっちゃない。オレはステージにあがる。止めるならオヤジを止めろよ」

 まだ小学生の子どもをさらって暴行しておいて、忠義もへったくれもない。健成は苦々しい気持ちで吐き捨てた。

 健勇さえここに来なければ、危険なことなどなにもないのだ。自分の家庭の問題で、田宮に迷惑をかけるわけにはいかない。

「ちょっと待ってください、坊っ」

 引き留められ、健成は思いきりその手を払いのけた。

「待たない。本当に大事な演奏会なんだ。オレを説得する暇があったら、オヤジがここに来ないように全力で阻止しろっ」

 そういい放ち、健成は田宮の待つ控室へと戻る。

 控室では、田宮がいつもどおり鼻歌をうたいながらラジオ体操していた。本番前に血行が悪くなるのを防ぐためらしい。きっちりとスーツを着こみ、真顔でラジオ体操に勤しむ姿は、何度見ても笑いを誘う。

 思わず口元を緩めたものの、大曽根に訊かされた話が、どうしても頭の片隅から離れてくれなかった。

「だいじょぶ?」

 心配そうに覗きこまれ、ぎこちなく笑顔をつくる。

「ああ、なんでもない。そんなことより、軽くなんか喰おうぜ。オレらの出番まで、まだ二時間ちかくあるだろ」

 田宮を誘い、館内の喫茶室へと向かう。ショーケースに並ぶ食品サンプルを見つめ、田宮は真剣な表情で悩みはじめた。

「あんまりお腹いっぱい食べると、演奏に支障が出ちゃうよね。しかも結構高いし……」

 どうやらパフェが食べたいようだ。財布をぎゅっと握りしめ、値札とにらめっこしている。

「喰い切れなかったらオレが喰ってやる。ふたりで一個頼めばいいだろ。そしたら半額で済む」

「ぇ、ぁ、いいよっ、そんなのっ……健成くん、甘いのあんまり好きじゃないんじゃ……」

 遠慮する田宮の背中を押し、窓際の席に座らせる。店員さんにパフェを頼むと、とんでもなく巨大な物体が運ばれてきた。そびえたつ生クリームの塔を前に、田宮は嬉しそうに瞳を輝かせる。

「ふぁー……凄いねぇ……健成くんも食べてくれるんだよね」

「ああ、適当につつく。本番前に腹壊したら意味ねぇんだから、別に無理に全部喰わなくていいんだぞ」

 そういってやると、田宮は幼い子どものように無邪気な笑顔で頷いた。その笑顔に、例のレイプ動画での悲痛そうな表情が重なる。

 健成のせいで、大好きだった高野にあんなにも酷い目に遭わされてしまったというのに。田宮は気丈にふるまい、ひとことも健成を責めるような言葉を口にしていない。

「おいしいねぇ、健成くんもちゃんと食べてよ」

「ん、ああ……」

 正直にいえば、あまり生クリームが得意ではない。ちゃんとすくっているふりをしつつ空っぽのスプーンを口に運び、健成は何気なく窓の外に目を遣った。

 全面ガラス張りの店内。ガラスの向こうに広がる光景に思わず言葉を失う。

「どしたの?」

 心配そうに健成の視線を追い、窓の外に目を向けた瞬間、田宮はぼてっと山盛りの生クリームの乗ったスプーンを落としてしまった。

「わわっ……大曽根さんがいっぱい……っ!」

 黒づくめの屈強な男たちに囲まれた壮年男性の姿を前に、田宮は悲鳴をあげる。

「も、もしかして……健成くんの……」

「ああ、ウチのバカオヤジだ」

 まさか本当にこんなところまでやってくるとは思わなかった。いまさらなんの関心もないはずの、前妻とのあいだに生まれてきた息子。そんな息子の演奏会に、わざわざ名古屋から出てくる理由がわからない。

「僕んちはお仕事忙しいから、誰も見に来ないよ。はるばる神奈川まで来てくれるなんて、よっぽど健成くんのことが好きなんだねぇ」

 そんなふうにいわれ、無性に照れくさくなった。

「ちがっ……どーせオレんとこ来るのを口実に、東京の若いねぇちゃんと遊ぼうとかそういう魂胆だろ。別にオレの演奏が見たいわけじゃ……っ」

 健成の存在に気付いたのだろう。黒づくめの男たちが一斉に頭を下げる。彼らの真ん中に立つ健勇の表情は、分厚いサングラスに隠されていてよくわからない。健成はなんとなく落ち着かない気持ちになりながら、軽く頭を下げかえした。

 男たちの輪に、一分の隙もなくダークスーツを着こなした大曽根が加わる。屈強な組員たちのなかに混じってもなお、大曽根は誰よりも背が高くたくましい身体つきをしていた。

「こうしてみると、大曽根さんって本当にかっこいいねぇ」

「べ、別にかっこよくなんかっ……」

 心のなかを見透かされたみたいな気持ちになって、慌てて視線をそらす。

「ねえ、健成くん」

 スプーンを皿に置き、田宮はじっと健成の瞳を覗き込んだ。

「な、なんだよ。あらたまって……」

 出会った頃の気弱さが嘘のような、強い意志を感じさせる瞳だ。あまりにもまっすぐなその視線から、健成は目をそらすことができなくなった。

「やっぱり健成くんは、大曽根さんのそばにいるべきだよ。どんなことがあっても、彼から離れちゃダメだ」

 ここのところ、大曽根はなにかが吹っ切れたかのように、毎晩欠かさず健成を抱く。健成を喰らい尽くすかのようなその行為は、終わりに向けた最後の残り火のように感じられた。

 線香花火が消える瞬間、ボッとつよい光を放つような、そんな刹那的な煌めき。田宮の言葉を訊き流し、健成はぼんやりと大曽根の背中を眺めつづけた。

 

「しっかしありえねぇな。なんだ、ありゃ」

 舞台袖からそっと覗くと、客席中央、しとやかな装いのほかの観客とは明らかに異質な、黒づくめのいかつい集団がひと塊になって占拠していた。

 いったい何人で遠征してきたのだろう。健勇を取り囲むように座る彼らの他に、会場の外や入り口付近で待機している組員たちもいるようだ。

「それだけヤバい状態にあるってことですよ。お願いですから、自重してください」

 本番直前。この期に及んで、まだ舞台に出るのを止めろというつもりのようだ。

「ぜってぇ止めないから。っつーか、あのジジイになんかあったって、オレはなんとも思わんし。大体、いくらなんでもこの状況下で銃をぶっぱなす阿呆はおらんだろ」

 演奏会中の大ホール。いくら中華系の組織が大胆だからといって、こんな場所で健勇を襲撃するとは思えない。

「万が一ということもあります。田宮くん、坊を止めていただけませんか。田宮くんだって、こんな物騒な状態で演奏をするのは嫌でしょう」

「気にならないといったら嘘になりますけど。でも、健成くんにとってはじめての演奏会ですよね。もし名古屋に帰ることになれば、これが最初で最後の舞台になるかもしれない」

「坊は帰りませんよ。ずっとこっちで暮らします」

 大曽根の言葉に、田宮はちいさく首を振った。

「健成くんは、大曽根さんの傍から離れませんよ。なにがあっても、絶対に」

「いえ、そういういわけには……」

 最後まで大曽根の話を訊くことなく、田宮はきゅっと健成の手をつかむ。

「行こう、最初で最後の共演だ。――大曽根さんも心配ならついてきてください。譜めくり係さんとして、健成くんの傍にいてあげたらいい」

「なにいってんだ、田宮。ジャズに譜めくりは必要ないだろ」

「コンクールじゃないから、誰も咎める人なんかいないよ。そうすることで大曽根さんが安心できるなら、いっしょに行けばいいんです」

 健成と大曽根、二人の手を掴み、田宮は舞台へと向かってゆく。

 生まれてはじめてのステージ。ずらりと並ぶ客席に、降り注ぐまばゆい光に、心臓が早鐘のように暴れはじめた。

「おい、大曽根。オレはいいから、万が一に備えて田宮を護れ」

「いえ、ですが……襲われる危険性は坊のほうが明らかに……」

「うるせぇ。二度とカタギのあいつを傷つけるわけにはいかねぇんだ。さっさといけっ」

 大曽根の背中を押し、田宮に視線を送る。客席に向かって二人そろって一礼すると、異様なまでに盛大な拍手に包まれた。黒づくめの集団が、ありえないくらい派手に拍手を送っているのだ。

「――くっそ、台無しにしやがって」

 悪態を吐きつつ、ピアノに向かう。ステージ上に向いあわせに二台並んだピアノ。大曽根はためらうような表情をしながらも、田宮の隣に座った。

 田宮と視線を合わせ、呼吸を整える。目配せしあい、最初の一音を響かせた。

 完全に、シンクする。健成の奏でるピアノと、田宮の奏でるピアノ。ひとつに重なりあった音が、ホールいっぱいに響き渡った。

 手のひらの大きさを活かし、ダイナミックなグルーヴを生み出す健成の音のうねりの上で、田宮がのびやかな旋律を奏でてゆく。ときには重なり、混ざりあい、それぞれ独立した音色で煽りあい、高めあってゆく。

(やっぱり、すげえな、田宮)

 学内でずば抜けているだけじゃない。きっと、この音は世界でだって通用する。絶対に表の世界に出してやりたい。

 自分には田宮ほどの技量も輝きもないけれど。いまだけでいい。いまだけは、彼をより輝かせるための光になりたい。

 田宮の音色に引っ張りあげられるように、健成の心も身体も熱くなってゆく。ラストに向かうころには、額を汗がつたっていた。

 ボルテージは最高潮に達し、感極まって声をあげてしまいそうになった。田宮も同じ気持ちなのかもしれない。笑みを交わしあい、最後の山場をいっしょにかけ上がってゆく。

 こんなにも白熱した演奏は、もう、生涯することができないかもしれない。最後の一音を響かせたそのとき、健成は達してしまったときのように真っ白に燃え尽きた。

 ようやく我にかえったのは、すべての残響が消え去ったあとだ。田宮と共にピアノの前に立ち、客席に向かってお辞儀をすると、割れんばかりに盛大な拍手に包まれた。

(よかった、無事に終わった――)

 どっと力が抜け、その場にへたり込んでしまいそうになる。ふらつく足でなんとか舞台袖まで移動すると、田宮が思いきり飛びついてきた。

 ハイタッチだけじゃ足りず、全身で喜びを表現しているようだ。華奢なその身体を抱きしめ、バックヤードまで連れてゆく。

「やったな!」

「オーディション、ぜったい通るよねっ。いままでで最高の演奏だ!」

 抱きあって喜ぶ二人に、大曽根が低い声音で囁いた。

「終わったらはやく、控室へ。戻りますよ、坊」

「なんだよ、もういいだろ。お前らの心配し過ぎだって。なにもなかったじゃねぇか」

「まだ油断はできません。ほら、はやく」

 大曽根に背中を押されるようにして、控室に詰め込まれる。

「ちょっと待てよ。メシ、オレら昼飯喰ってないんだって」

「出前を取ればいいでしょう。お願いですから、組長が会場を出るまでは、ここでじっとしとってください」

「出前ー? やだよ。ロクなもんねぇだろ」

「あー、はいはい、健成くん。これ見て、美味しそうだよ。ね、たまには奮発してピザ取ろうよっ」

 スマホを取り出し、田宮は一生懸命宅配ピザのサイトを見せようとする。あまりにも懸命なその姿に、健成も渋々引き下がった。

「くっそ。お前のせいだからな。大曽根、ピザ奢れよ」

「どうぞ。好きなだけ注文してください。田宮くんも遠慮しないでたくさん注文してくださいね。甘ったれな坊の世話ぁ焼いてもらってるお礼ですから」

「そんなっ、悪いですよっ……」

「悪ないです。むしろ、ピザなんかじゃ足りないくらい、いつもお世話になりっぱなしですから」

 遠慮する田宮に、大曽根は大柄な身体をかがめこむようにして深々と頭を下げる。ダークスーツに身を包んだ屈強な大男が小柄な田宮に頭を下げる姿は、なんだかとてもおかしかった。

 

「失礼します」

 ノック音が響き、花束を抱えた重田が顔を出す。

「健成さん、演奏会出演、おめでとうございます。これ、自分らからです」

 抱えきれないほど大きな花束を差し出され、健成は無性に照れくさい気持ちになった。

「学校の行事くらいで大袈裟だっつーの」

「坊、こういうときは素直に『ありがとう』ていわな」

 大曽根に頭を小突かれ、健成は唇を尖らせる。

「うるせぇなぁ、いま、いおうとしとったんだって。ありがとな、シゲ。なんか気ぃ遣わせて悪いな。こんな遠くまで」

「いやぁ、組長(オヤジ)、どうしても行きたいってきかなくて。大事な会合あんのに強行軍かましてんですよ。あ、そだ、兄貴、ちょっと話があるそうです。組長ンとこ、行ってあげてください」

 重田の言葉に、大曽根は俄かに眉をしかめた。

「はるばるここまで来て、坊に逢わんで帰る気なんか、あの人」

「ああいう人ですからね。照れくさいんですよ、きっと。安達によると、組長、坊の演奏聴いて涙ぐんどったそうで。紗有里さんのこと、思い出しとったんかもしれんですね」

「退屈であくびかまして、涙腺緩んだだけだろ」

 照れくさ紛れにうそぶいた健成の後頭部を、大曽根が思いきりひっぱたく。

 身体を重ねるようになってからも、大曽根の健成への接し方はまったく変わることがない。間違ったことをすれば容赦なく叱ってくれるし、言葉だけでなく拳も飛んでくる。彼のそんなところが、健成にはとても心地よく感じられた。

「シゲ、俺が戻るまで、坊と田宮くんを頼む」

 飴と鞭、というやつだろうか。引っぱたいた後の健成の後頭部をわしわしと撫でながら、大曽根は重田に向きなおる。

「承知しました。組長、ロビーんとこにおりますんで」

 ぴしりと敬礼し、重田は大曽根を送り出した。

 重田のことが怖いのだろう。田宮は不安げなようすで、健成の後ろに隠れてしまった。

「ああ、安心しろ、田宮。見た目はこんなだが、シゲは悪いヤツじゃない」

 極道を捕まえて『悪いヤツじゃない』なんておかしな話だが、少なくとも彼はカタギに危害を加えるような腐った男ではない。  

「えっと……健成くんのお友だちで、田宮っていいます」

 健成の背後に隠れたまま、ちょこんと顔だけ出して田宮はそう挨拶した。

「坊の『お友だち』ですか。それはそれは。――ごらんのとおり、鈴川はこんな家業ですが、坊は心根ぇのやさしい、いい子ぉですから。これからも頼みますね」

「ぇ、ぁ、はい、知ってます! 健成くんはいっぱいやさしくて、それにっ……」

 真顔で健成のいいところを列挙する田宮を前に、健成は照れくささに頭を掻く。

「ぁ、そだ、お手洗い。ずっと我慢してたんだった。えと、僕、トイレ行ってきますっ」

「ちょぉ待っとってくださいね。ひとりで行かせるわけにはいかんで。誰か呼びます」

 重田は屈強な組員を呼び寄せ、トイレに行く田宮に付き添わせた。

「なんつー厳重さだ」

「しゃあないですよ。相手があいつらじゃ、なにがあるかわかりませんから」

 まだ小学生だった健成を拉致し、暴行した男たちの実兄が率いる組織だ。カタギを傷つけるくらい、なんでもないと思っているかもしれない。

「なあ、そんなことより、組、大丈夫なのか。重傷負ったのも、そいつらの仕業なんか」

「坊はなんも心配せんでいいですよ。春までは大曽根の兄貴がこっちにおりますし。四月からは、安達が引き継ぐことになりますから」

 安達というのは、鈴川のなかでも大曽根に次いで体格のいい、健勇のボディーガードだ。

「安達ってオヤジの盾みたいなモンだろ」

「組長直々の指名です。それだけ大事にしとるんですよ。坊のこと」

 顔を合わせてもロクに話もしないくせに。いまさら大事にしているなんていわれたって、困惑するばかりだ。憎まれ口を叩きかけたそのとき、扉をノックする音が響いた。

「すみませーん、ドレミピザでーす」

「もう来たのか、早いな」

 大曽根から預かっている財布を手に扉を開けようとして、重田に腕を掴まれる。

「待ってください。念のため、自分が開けます。健成さんは後ろに下がって」

 のぞき穴を見るかぎり、扉の向こうにはピザ屋の制服を着た男がひとり立っているだけだ。そこまで警戒する必要があるのかと呆れながらも、健成は重田のいうとおり、壁際に退避した。

 慎重に扉を開けた重田に、突然、何者かが襲い掛かる。ふたりの男に羽交い絞めにされ、口を塞がれた状態で重田は床に引き倒された。

「シゲっ……!」

 真っ白な床の上にみるみるうちに赤い血が広がってゆく。

「刺されたくなかったら、大人しくついてこい」

 呆気にとられる健成の背後をとり、男は首筋にナイフを突き立ててきた。

 目の前に二人。背後にひとり。気合で乗り切れなくもない。裏拳を入れようとしたそのとき、健成の脳裏に田宮の姿が浮かんだ。

(アイツ、こんな場面に出くわしたら、パニック状態に陥っちまうよな……)

 騒げば即、刺されてしまうかもしれない。田宮を護るためには、大人しく従ったほうが得策だろう。

 彼がトイレから帰ってくる前に、この場を立ち去らなくてはならない。いったん心が決まると、不思議なくらい落ち着いて行動することができた。

「なんだ。人質にでもしたいのか。ほら、連れて行けよ。さっさとしねぇと、オヤジ、名古屋に戻っちまうぞ」

 両手を頭の上にあげ、健成は男たちを挑発した。

スマホ取りあげろ。武器を隠しているかもしれん。調べるんだ」

 目の前に立ついちばん小柄な男が指示役らしい。ポケットのなかや全身を探られ、スマホや鍵、財布などをすべて奪われた。ハンカチのようなもので口を塞がれ、意識が遠のいてゆく。

(はやく。田宮が戻ってくる前に、はやく連れ去ってくれ……)

 殺されるかもしれない。そう思いながらも、健成はそう願わずにはいられなかった。

 

 目を覚ますと、ムッとする潮の匂いに包まれた。

 ゆらゆらと揺れている。いったいここはどこだろう。硬い床のようなものに横たわらされているようだ。まっ平らではなく、でこぼこと凹凸がある。暗闇に慣れはじめた視界。寝返りを打つと、漆黒の空に無数の星が瞬いていた。

「っ――」

 身体を起こそうとして、後ろ手に縛られているのだということに気づく。自由がきかないのは手だけじゃない。左右の足首もひとまとめに縛られているようだ。

 縄の食い込む痛みに、思わず眉を顰める。血を流し床に倒れ込む重田の姿を思い出し、ぞわりと背筋が震えた。

 下手に抗うより、気を失っているふりをしていたほうが安全だろうか。周囲のようすからして、船の甲板に転がされているのだと思う。

 耳を澄ましても、聞こえてくるのは波の音だけだ。星のひかり以外、なんの光源もないということは、岸からはかなり離れているのだろうか。

 船の大きさ、乗り込んでいる男たちの数。気になることばかりだけれど、焦って動いたところで、事態が改善するとも思えない。いまは自分の置かれた状況を把握することが先決だろう。

 

 どれくらいそうしていただろうか。ブーンと低い振動音が響いた。誰かのスマホが鳴ったようだ。中国語と思しき、しゃがれた男の声が聞こえてくる。

(くっそ、なにいってんのか、さっぱりわかんねぇ)

 わかったのは、電話に出た男と、それ以外にも何人かの男がいるということだけだ。足音は少なくとも三つ。もしかしたら、それ以上にたくさん乗り込んでいるかもしれない。

 通話を終えると、男たちは低い声でなにかを囁きあった。またもや中国語のようだ。会話の内容は推測することさえできない。不安な気持ちを煽られながら、健成はじっと寝たふりをしつづけた。

 気を抜くと、不安過ぎてどうにかなってしまいそうだ。重田の容体や、田宮の無事が気にかかる。組長の息子である健成を餌に、健勇をおびき出そうとしているのだろうか。

 洋上での犯行。重りをつけて海に棄ててしまえばいくらでも隠ぺいできるし、もしかしたらこのまま、どこかに連れ去られてしまうのかもしれない。

(あの馬鹿ジジイ。オレなんかのために、助けに来ないよな……)

 そう思いながらも、たかだか学校の定期演奏会に、あんなにも沢山のお供を連れてやってきた父の姿が脳裏に浮かぶ。

『坊が思っているよりずっと、組長(オヤジ)は坊のことを大切に思っとります』

 大曽根は健成に、常々そんなふうにいってくれていた。

(って、いまさら、そんなん気づいたって遅いし。つーか、オレなんかいいから、絶対ここに来んなよっ、クソオヤジ)

 正直、死ぬのは嫌だ。

 だけど、大曽根に助けられたからこそ、生きながらえた身なのだ。誘拐され、監禁されたあの夏、殺されていたっておかしくない。

 短い間だったけれど、最後に大曽根と二人きりで暮らすことができた。この先、生きていたところで、こんなふうに一緒に居続けることはできないのだ。それならいっそ――ここで死んでしまうのも悪くないかもしれない。

 重田も田宮も、大曽根も、バカオヤジも。みんなが無事なら、それでいい。

 混乱期のいま、組長である健勇の身になにかあれば、それこそ鈴川はお終いだ。上部組織に吸収されるか、散り散りになるか。明治から続く鈴川の名を、途絶えさせてしまうことになる。

(来るな、来るな。ぜったいに誰も来るなっ)

 そんなことになるくらいなら、自分が犠牲になったほうがずっといい。

 所詮は、失っていたかもしれない命なのだ。ここで捨てたところで、未練なんかない。

 そんなふうに思うと、すぅっと心が穏やかになった。指先の震えが止まり、鼓動も落ち着きはじめる。

 おそらく相手は三人。多くとも、五人くらいか。やってやれない数じゃない。ケンカの仕方は、大曽根仕込みだ。腕っぷしには自信がある。

 最後にひと暴れしてやるのも、悪くないかもしれない。重田を刺しやがった仕返しをして、共倒れしてやればいい。

(銃は持っているのだろうか。ナイフだけなら、うまくやれば返り討ちにできる)

 手も足も縛られているけれど、幸いなことに柱に縛りつけられているわけじゃない。頭突き、噛みつき、捨て身になればいくらだって攻撃することは可能だろう。

 じっと様子をうかがっていると、ふと、遠くから低くうなるエンジン音が聞こえてきた。もしかしたら、ほかの船が来たのかもしれない。漁船か。それとも……。

 段々と近くなって、ふと、音がやんだ。そして、誰かの声が響く。また中国語だ。なにをいっているのかわからないが、険しい口調で言い争っているようだ。

「――仕方がねぇだろうが。お前さんたちから連絡を貰ったときにゃ、組長(オヤジ)はもう、高速に乗っちまった後だったんだ。いまごろニシキで叔父貴たちと会合中だ。逢いたきゃ連れて行ってやってもいいぞ」

 突然、日本語が聞こえてきた。すこししゃがれた、低くて甘い声音、大曽根の声だ。

 最後に、大好きな大曽根の声を聴くことができた。嬉しい反面、こんな危険な場所に乗り込んできた彼の身が無性に心配になった。

 ほかには誰か、いるのだろうか。この船に乗っている奴らはきっと、大した人数じゃない。屈強な安達や柴崎がいれば、もしかしたらなんとかなるかもしれない。

「組長以外に用はない。組長を連れてこなければ、こいつを返すわけにはいかないな」

 健成のすぐちかくで、誰かの声が響いた。ついさっき電話で中国語をしゃべっていた男の声だ。思いのほか流暢な日本語に感心していると、唐突に後頭部の髪を鷲掴みにされる。

「組長の息子とはいえ、カタギのガキ一匹殺したところで、なんの成果にもならんだろうが。そのガキを殺すくらいなら、俺をヤったほうがいいんじゃないのか。――いいことを教えてやろう。八年前、行儀の悪い阿呆ヅラのガキどもをこらしめてやったのは、俺だぜ」

(馬鹿っ……なに挑発してんだよっ……)

 大曽根の言葉に、場の雰囲気が一気に変わった。鋭い中国語が飛び交い、ドンっと船体が大きく揺れる。

 鼻先にかすかに大曽根の匂いが香った。二度と嗅ぐことができないと思っていた彼の匂いに包まれ、幸福に胸が熱くなる。

 だけど、そんなことを喜んでいる場合じゃない。大曽根だけでも助けなくては。犠牲になるのは自分だけでいい。

『この男は関係ない。餌にするならオレだけで十分だ!』

 そう叫びそうになった健成の言葉を、ドスのきいた大曽根の声がさえぎった。

「おい、殺るならもっと沖に出たほうがいいぞ。この時間帯はまだ海保の船が巡回してんだ。ただでさえ二艘も使って目立っちまってるんだ。お前ら、不法滞在者だろう。これ以上悪目立ちすんのは、マズイんじゃねぇの……ぐぅっ……!」

 蹴りでも喰らったのだろうか。苦しそうな大曽根のうめき声に、ギュッと胸が苦しくなる。

「偉そうにべらべら喋りやがって。お前みたいな男、楽に死なせてやるわけがないだろうが。持ち帰ってじっくりいたぶってやる。まずは組長だ。いますぐ組長を呼び戻せよ」

「そんなにオヤジを呼び戻したけりゃ、ここに転がってるガキの声でも訊かせてやれよ。なんで組長がお前らの挑発に乗らなかったかわからねぇのか。信用してねぇんだよ。自分の息子がテメェらなんかにむざむざ捕まるとは、思っちゃいねぇんだ……くッ……」

 肉を打つ鈍い音が響き、ふたたび船体が大きく揺らぐ。吹っ飛ばされた大曽根の身体が、勢いよく健成にぶつかった。その瞬間、耳元を大曽根のささやきがかすめる。

「坊、俺が合図をしたら、海に飛び込め」

 唐突な言葉に、健成は目を瞬かせた。

 飛び込め、だって……? 

 ありえない。いまは真冬だ。おまけに手足を縛られている。こんな状態で海に飛び込めば、むざむざ命を無駄にするようなものだ。

(だけど……)

 大曽根の言葉が間違っていたことなんて、いままで一度だってなかった。

 健成がここに留まったところで、大曽根を助け出せる確率はとても低いだろう。だけど足手まといな健成さえいなければ、大曽根は彼らを殲滅することができるのかもしれない。

 大曽根を、信じよう。

 ひとりで置いていくのは不安だけれど……彼を、信じなくちゃいけない。

 誰かがスマホを操作する音がきこえた。トゥルルル、トゥルルルと、かすかな呼び出し音が響く。腕を掴んで起き上がらされ、頬を叩かれた。

「坊、いまだ! 行けッ」

 健成を掴んでいた男に、大曽根が体当たりをかます。体勢を崩しながらも、健成は必死で海のなかに飛び込んだ。

 乾いた銃声が、静寂を切り裂く。ずぶりと沈み込んだ身体。凍てつくような冷たさに、びりっと肌が痺れる。

 大曽根は無事だろうか。銃口は、自分に向けられているのだろうか。

 ダメだ、ここで死ぬわけにはいかない。

 助けを求めるんだ。大曽根を助けなくちゃいけない。

 後ろ手に縛られ、両足首も拘束されたままの姿。おまけに濡れた服が肌にまとわりついて、動きを阻む。

 だけど、負けちゃいけない。絶対に、負けちゃいけない。

 貧相な自分の身体が嫌で、必死で鍛えつづけてきた。大学に入ってからも、毎朝、ジムで泳いでから学校に行った。そのおかげで、泳ぎは大得意だ。手を封じられたって、足が自由に動かせなくたって、ドルフィンキックで進むことができる。

 はやく、はやく、離れなくちゃ。銃弾から逃れて、とにかく、助けを求めに行かなくちゃいけない。

 ふたたび銃声が鳴り響く。水音に紛れながらも、それは健成の耳に届いた。

 大曽根っ、大曽根。頼むから、無事でいてくれっ――。

 後ろ髪をひかれながらも、振りかえらず必死で泳ぎつづける。つめたい水が体温を奪い、痺れを通り越してジンジンと激しく痛んだ。

 それでも負けない。

 絶対に負けない。

 泳ぎつづけなくちゃ、いけないんだ。

 星のひかり以外、ほとんど光源のない海。だけど遠くに、ぼんやりと光が見える。江の島にある、灯台のひかりだ。いつだったか、田宮から江の島には海上保安署があると訊いたことがある。小学校のころ社会見学で行ったと、彼はいっていた。

(あそこまでいけば、なんとかなるかもしれない)

 光源に向かって泳ぎはじめたそのとき、ふと、目の前でまばゆい光が弾けた。

 真っ暗な海中まで照らす強い光。不思議に思い顔をあげると、何隻もの船が健成たちの乗っていたあの船を取り囲んでいることがわかった。

 白い船体に『JAPAN COAST GUARD』の文字。海上保安庁の巡視船だ。

「助かった……」

 ぐったりと脱力しつつ、大曽根のことが気にかかる。

 無事だろうか。無事だとして、逮捕されてしまったりしないだろうか。もし銃を携行していたら、彼まで掴まってしまうかもしれない。

「健成くんっ!」

 船上から、誰かの声がきこえた。田宮だ。田宮が身を乗り出すようにして、大きく手を振っている。

「大丈夫ですか。いま、向かいますっ」

 田宮の隣に立つ海上保安官と思しき男が、救助用のゴムボートを海上に投げ入れた。

「オレは大丈夫です。それよりあの船をっ」

 立ち泳ぎしながら必死でそう叫んだ健成の声に、野太い声が重なる。

「坊ッ!」

 声のした方向に目を遣ると、そこには大曽根の姿があった。

大曽根っ」

 急いで泳ぎ寄ると、彼は腕から血を流していた。光に照らされた水面に、物々しい血の影が漂う。

「すみません、怪我してるんです。このひとを先に助けてくださいっ!」

 大曽根を先に乗せてくれるよう、健成は制服姿の海上保安官に頼んだ。

 真冬の海に体温を奪われた身体は痛みを通り越して感覚さえ失いはじめているけれど、この際、自分のことなどどうでもいい。大曽根が生きている。そのことだけで、胸がいっぱいになってしまった。

 引き上げられた彼は、苦しそうに呻きながらも健成に笑顔を向けてくる。

「坊、よかった、無事で……」

「よくないっ。なに考えとんだッ、なんでお前がひとりでっ……」

 最後までうまくいうことができず、嗚咽にむせいでしまう。海上保安官に抱えあげられボートに乗せられると、健成は保安官の腕を払いのけ、大曽根に突進してしまった。

「――ッ」

 痛みに眉を顰めながらも、大曽根は健成を抱き留める。

「お前、まさかアレ持っとんじゃないだろうな……っ」

 せっかく救出してもらえたのに、銃なんて持っていたら大曽根まで逮捕されてしまう。

「安心してください。丸腰です。ナイフ一本、持ってませんよ」

 力なく微笑む大曽根の姿に、ふらぁっと立ちくらみを起こしてしまいそうになった。

「阿呆、丸腰であんなとこに乗り込んできたのかっ」

「ええ。田宮くんが、そうしなければ、坊を哀しませることになる、と」

 武装して乗り込もうとした大曽根を、田宮が必死で止めたのだそうだ。そして、あっという間に110番通報され、海上保安庁にまで連絡を入れられたのだという。

 ヤクザの組長の息子ではあるものの、健成自体は組とはなんの関係もない、一市民だ。外国籍のマフィアにさらわれた未成年の学生。「行政に助けを求めるべきでしょ」と田宮は胸をそらす。

「警察に泣きついた、なんてことがバレれば、組長(オヤジ)の顔に泥塗ることンなりますがね」

 申し訳なさそうな顔をする大曽根を前に、健成は涙が止まらなくなってしまった。

「阿呆、あんなクソオヤジ、泥でもなんでも塗ったりゃあいい。お前が無事なら、そんなもん、どうでもいいんだっ」

 皆の見ている前だ。自重しなくてはいけない。

 そう思いながらも、止まらなかった。縄をほどいてもらい、ようやく自由になった身体。大曽根に飛びつくようにして唇を重ねあわせる。

「んっ……ぅ、んっ……」

 夢中になって大曽根の唇を貪る健成をギュっと抱きしめ、彼は痺れるほどきつく、その舌を吸い上げてくれた。すっかり蕩かされ、大曽根の胸にぐったりと身体を預ける。

「ご無事でなによりです」

「無事でよかった」

 長い、長いキスのあと、同時に呟き、思わず顔を見合わせる。

「あの……応急処置を……」

 気まずそうに声をかけられ、ふたりは慌てて身体を離した。遠く、潮風にのって救急車のサイレンの音が耳をかすめる。

 大曽根も、田宮も自分も、みんな助かったのだ。改めて無事を噛みしめ、ホロリとひとすじ涙が零れる。

「ぁ、シゲはっ?!」

「えっとね、出血がひどいけど、命に別状はないって。さっき、組の方から連絡があったよ」

 トイレから帰ってきた田宮が、すぐに救急車を呼んでくれたようだ。幸いなことに、死者は一名も出なかったのだという。

 どこから嗅ぎつけてきたのか、浜辺にはパトカーや救急車とともに、やじ馬やマスコミと思しきカメラを抱えたひとたちの姿があった。

 もう、この街では生きられないかもしれない。そう思いながらも、大曽根や田宮たちが無事ならなんだっていいと、健成は頬を伝う涙をぬぐいながら、心からそう思った。

 

 

「しかし落ち着きませんね、入院するってのは。ここにおるあいだ、坊をお守りすることもできませんし」

 腕や胸を包帯に覆われた大曽根が、申し訳なさそうな顔で肩を落とす。大学からほど近い場所にある総合病院の病室。ホテルのような個室タイプの部屋で、扉の向こう側には制服姿の警察官が待機している。

「なぁ、お前、なんであんな危ないことしたんだっ」

 病衣の胸ぐらを掴みかけ、健成は彼が全治二か月を超える大けがをしているのだということを思い出した。

 被弾した腕以外にも、銃弾を撃ち込まれたようだ。防弾ベストを着ていたから一命を取り留めたものの、至近距離で何発も撃たれ、肋骨にヒビが入ってしまった。

「八年前のあの日のこと、覚えとりますか。あの日、自分が坊の迎えに行くのが遅くなったせいで、坊はアイツらにさらわれたんです」

 振り絞るような大曽根の声に、ギュっと胸をしめつけられる。

「そんな昔のこと、オレはなんとも思っとらんし」

「なんとも思っとらんわけ、ないでしょうが。まだ子どもだったんですよ。あんな……っ」

 ベッドに拳を叩きつけ、大曽根はがっしりとしたその肩を震わせる。健成はマットレスに沈み込んだその拳を、そっと手のひらで包みこんだ。

大曽根が助けてくれた。それで十分だ。それに……お前はあの後もずっと、オレのことを支えつづけてくれた。今回だって、お前がおらんかったら、今頃オレは生きとらん可能性が高いだろ」

 どんな理由であれ、健成の命を彼が救ってくれたのだということにかわりはない。感謝こそすれ、大曽根のせいで酷い目に遭ったなんて思ったことは一度もなかった。

「ですが、坊を助けたい一心で、結局、警察やら海上保安庁やらの世話になってしまった。極道としては、最低の行為です」

『息子を返して欲しければ、組長ひとりで指定する船に乗れ』

 健成を連れ去るとき、彼らはそんなメッセージを残していったのだそうだ。トイレから戻ってきた田宮は、大曽根が組長に報告を入れる前に、すばやく警察に通報してしまった。

「田宮が通報せんかったら、またひとりであいつらを殲滅させるつもりだったんか」

「当然です。坊だけは、なにがあっても守らなくちゃいけない。それが、自分にできる、唯一の罪滅ぼしです」

「罪なんか、ないわ。お前に、罪なんかないっ」

 幼いころに母を失い、家にも学校にも居場所を感じることのできなかった健成にとって、大曽根だけが唯一の救いだった。彼がいなければ、危険な目に遭わずとも、生きることに絶望して自ら命を絶っていたかもしれない。

「責任を感じて、仕方なくオレの世話を焼いとるんなら……もう二度とそんなことする必要ない。オヤジに命じられようがなんだろうが、そんなもん無視しろっ」

 どちらにしたって、春からは大曽根のかわりに安達が健成の世話を焼くことになるのだ。精いっぱい強がり、そう叫んだ健成の頬を、大曽根の大きな手のひらがそっと包み込む。

「坊は、それでいいんですか。大曽根がそばにおらんでも、やっていけるんですか」

 目力の強い瞳でじっと見つめられ、トクンと心臓が跳ねあがる。なんとか平静を保とうとして、どんなに頑張っても、まともに大曽根の顔を見ることができなかった。

「へ、いき……っ」

 目を伏せたまま答えた健成の顎を掴み、大曽根はぐっと上向かせる。

大曽根以外の人間と暮らして……そいつに『慰めて』もらうつもりですか」

 険しい声音で問われ、かぁっと頭に血が上った。

「ンなの、耐えられるわけないだろぉがっ。お前以外なんかっ……なにもいらない……!」

 温かな家族の愛情も、平穏な日々も欲しいと思わない。どんなに危険な目に遭ったって、なにもかも失くしたっていい。それでも、大曽根のそばにいたいのだ。そうすることで世界中の人間を敵に回したって、大曽根の手を離したくない。

「おぉ、ぞねっ……」

 我慢できなかった。飛びかかるようにして抱きつき、唇を重ね合わせる。溢れ出した涙が唇までつたって、しょっぱい味が口内に広がった。

「相変わらず坊のキスは、がっついてばっかですね。こんなキスじゃ、将来嫁さんになるひとは可哀そうだ」

 首ねっこを掴んで健成を引きはがすと、大曽根は肉厚な手のひらで包み込むようにして濡れた頬を拭う。

「ぅ、るせぇっ……嫁さんなんてっ……」

「ダメですよ、坊。坊はひと一倍、寂しがりなんだ。しっかりモンのやさしい嫁さん貰って、たくさん子供をもうけて……」

 これ以上、ひと言だって発させたくなくて、健成は噛みつくように大曽根の唇を塞いだ。がっついてばかりだと呆れられてしまうけれど……仕方がない。余裕なんて一ミリもないのだ。大好きな大曽根を前にして、気遣うとか、いたわるとか、そんな感情は微塵も持てそうになかった。

「はぁっ……はぁっ……すき、大曽根、好きっ」

 ぜぇぜぇと肩で荒く息をしながら、必死で大曽根の唇を貪る。頑丈な歯に阻まれ、その舌に触れることは叶わない。それでも健成は諦められず、大曽根の下唇を噛んだり、きつく吸い上げたりして、すこしでもその熱を貪ろうとした。

「坊、キスってのは、こうやってするもんですよ。何度教えたらわかるんですか」

 顎を掴まれ、ふたたび上向かされる。目を閉じる間もなく、温かな大曽根の唇が健成の唇を包みこんだ。

 やさしいくちづけ。濡れた舌で唇をなぞられ、じわりと先端に蜜が滲む。

「ぁっ……」

 身体をこわばらせ、ギュっと目を閉じた健成の耳朶を軽く摘み、大曽根は骨まで響くような低い声で囁いた。

「目ぇ閉じちゃダメですよ、坊。坊がキスしてる相手は大曽根だって、ちゃんと見てなくちゃダメです」

 射るような視線に見据えられ、どうしていいのかわからなくなる。顔を背け、視線を泳がせた健成の顎をがっしりと捉え、大曽根は目をそらせなくしてしまった。

「坊がほかの組員をベッドに連れ込んだとき、大曽根がどれだけ腹立たしい気持ちになったかわかりますか」

 凄味のある声で訊ねられ、なにも答えることができなくなる。

「組長、四月からは、大曽根の代わりに安達をこっちに寄越すつもりだそうですね。安達が坊と二人きりで暮らして、同じベッドで寝起きする。想像しただけで、あの男を八つ裂きにしてしまいそうです」

 にこりともせず発せられたその言葉に、バクバクと心臓が暴れた。

「べ、つに、お前は、オレなんか……っ」

 なんとも思っとらんのだろ、といいかけた健成の唇を塞ぎ、大曽根はねっとりと舌を絡めあわせてくる。

「ふぁっ……んっ……」

 あっというまに蕩かされ、気づけばベッドに押し倒されていた。

「だ、め、お、ぞね、怪我、酷くなるっ……」

「ほお、坊は大曽根と寝たくないんですか。これからは安達の世話になるからいいと、そういうおつもりで?」

 からかうような声音でいわれ、その額に頭突きをかます。

「ばかっ。あんなヤツと寝るわけないだろっ。オレが寝るのは……っ」

 大曽根、だけだ。

 照れくさくて、うまく言葉に出していうことができなかった。伝えられない言葉のかわりに、大曽根の手を掴んで自分の胸元に引き寄せる。

「オレの身体、ぜんぶ、大曽根のだ。胸も髪も、唇も、ぜんぶ。お前以外には、一ミリも触れさせんっ」

 震える声で告げた健成を、大曽根は骨が軋むほど強く抱きしめてくれた。ギュッと抱きしめ、頬を摺り寄せてくる。伸びかけの髭がじょりじょり痛くて、それでも、愛おしくてたまらなかった。大曽根の熱をじかに感じられることが、嬉しくてたまらない。

「坊。坊が無事でよかった。本当に、よかった」

 健成を抱く大曽根の腕が、かすかに震えているのがわかった。

「お、ぞね……?」

 首筋が、じわりと温かなもので濡れる。そっと触れた背中が燃えるように熱く感じられた。――あの、大曽根が泣いている。その事実に、かぁあっと胸が熱くなった。

 ふだん大曽根がしてくれるように、その頬を拭ってやりたくて、けれども大曽根は健成を抱く腕から、すこしも力を抜いてはくれなかった。健成をきつく抱きしめたまま、声もたてずに泣きつづける。

 ひとしきり泣きつづけた後、彼は健成の首筋に歯を立て、吸いつきはじめた。

「わ、お、ぞね、なにし……ぁっ!」

 齧られ、舐られ、首筋にいくつもの痕を残される。気づけばシャツを脱がされ、鎖骨や胸にも鬱血や噛み痕をつけられてしまった。

「ゃ、大曽根、も、くすぐったいってっ……」

 ズボンまで脱がされ、太ももの内側にきつく吸いつかれる。つぅっと溢れだした蜜が、先端で留まることができずに茎をつたって根元まで濡らしてゆく。大曽根を汚してしまうのではないかと思い、健成は気が気ではなかった。

「坊の身体全部に痕をつけて、自分のモンだってことを知らしめたい。この白い太腿に自分の名前を彫って、二度と誰も触れられんようにしたい。紗有里さんの肌に、組長が彫りモンを彫ったと訊いて、正気の沙汰じゃねぇと心底呆れましたが……いまの自分にはわかります。坊の身体の隅々まで自分のしるしを残して、絶対に、誰にも触れられんようにしたいです」

 彫り物を彫ってくれ、といっているのだろうか。あんなにも『坊は絶対に刺青なんかいれたらダメですよ』といっていたくせに。

「お、お前が、それで気ぃ済むなら……好きにすりゃあいい。お前の名前でも、揃いの龍の絵ぇでも、なんでもいれろ」

 答えると、じゅるっと音をたてて内腿のつけ根に吸いつかれた。

「んあぁっ!」

 唐突に与えられた刺激に、堪えきれず健成の熱が迸る。びくびくと身体を震わせながら白濁を溢れさせた健成を、大曽根は、いままでに見たことがないくらいにおだやかな眼差しで見つめた。

「いっときの感情にまかせてこの肌を穢したら、後々、死ぬほど後悔することになると思います。だからせめて、なかに刻み込みたい。坊の身体のなかに、自分のカタチを刻み込んで、永遠に忘れられんようにしたりたいです」

 腹を汚した白濁をすくいとり、大曽根はそれを健成の尻の割れ目に塗り込める。

「んっ……」

 ローションのぬめりけとはちがう、わずかなぬかるみ。それでも彼に毎晩楔を打ち込まれて熟れきった健成の窄まりは、ぬぷりと彼の指を受け容れ、根元まで引きずり込んでしまった。

「すっかり大曽根のカタチになりましたね。ほら、もう二本目の指も入る」

 ずぶりとあらたな指を埋めこまれ、思わず身体をのけぞらせる。

「あぁっ……ぅ、ぉ、ぞねっ……だ、め、裂けちゃう。なんか、塗らんとっ……」

 潤滑剤の役目を果たすには、健成の白濁はあまりにも心もとなく、普段とはちがうダイレクトな刺激に、どうにかなってしまいそうだった。

「なんかって。ここにはローションもなにもありませんよ」

 そんな会話を交わしているあいだにも、大曽根は健成のなかで指をくの字に曲げ、いちばん感じる場所を探り当ててしまう。

「はぁっ……ゃ、それ、だめっ、ぁ、ん、クリームっ……ハンドクリーム、あるからっ……」

 ベッドのうえに散らばっている脱ぎ捨てた服のポケットから、いつも持ち歩いているハンドクリームを引っ張り出す。

 乾燥肌で荒れがちな手をした健成を心配して、田宮がプレゼントしてくれたものだ。面倒くさがって塗らない健成を窘め、田宮は練習のあと率先して塗ってくれる。

 スマホや財布とともに楽屋に打ち捨てられていたハンドクリームを、田宮はわざわざ回収し、着替えとともに届けてくれたのだ。

「わ、ばか、そんなにいっぱい出したらっ……」

 急激に減ったら、怪しまれてしまう。慌てふためく健成をよそに、大曽根はたっぷりとクリームを捻り出し、健成の窄まりに塗り込める。

「ぁ、ゃ、ん、ちょっと待って、まだ、ゃっ……んあぁあっ!」

 昂ぶりを押し当てると、大曽根はひと息に埋めこんできた。指とは比べ物にならないくらいたくましいモノが、健成のなかをいっぱいに埋め尽くしてゆく。

「も、ばかっ……服、くらい脱……あぁっ……」

 ぐっと奥を擦り上げられ、シーツを掴んで悲鳴をあげる。扉の向こうに警察がいるのを思い出し、健成は慌てて口を塞いだ。

「ダメですよ、坊。ちゃんと声、訊かせてください」

「ゃ、だ、外に警察がっ……」

 ギュッと引き結んだ健成の唇を、大曽根の野太い指が辿ってゆく。

「まだそんなこといえるだけの余裕があるんですね。大曽根の突き上げが足りませんか」

 膝裏を掴まれ、両足を肩に担ぎ上げられる。挿入がさらに深くなって、意識が飛んでしまいそうになった。

「んあぁぁっ……ゃ、お、ぞね、脱い、で。ちゃんと大曽根も、裸ンなって」

 いつも自分だけが服を脱がされ、どこまでも乱されてしまう。大曽根にもちゃんと裸になって、いっしょに気持ちよくなってもらいたかった。

「何度いえばわかるんですか。脱いだら自制がきかんようになるっていってるでしょうが」

 病衣を脱がそうとする健成の手をやんわりと引き剥がし、彼は甘い声で囁く。身体の心を熱くするその声に、まだ指一本触れられていない先端からくぷりと濃密な露が溢れた。

「ぃ、いよ。自制なんか、きかんでいいから。大曽根の、ぜんぶ、ちょうだいっ……」

「は……坊は、天性のタラシですね。そんなこといって、あとで泣いても知りませんよ」

「ば、か。ンなことで、泣くか。――つーか……泣くまで激しく抱いてみろよっ」

 精一杯強がりで発した言葉。大曽根は病衣を脱ぎ捨て、圧し掛かるようにしてくちづけてきた。たくましい彼の身体がぴったりと健成の肌に重なり、それだけで胸がいっぱいになってしまう。大曽根に抱かれているのだ。その事実だけで涙が溢れてくる。

「坊……?」

 泣いても知りませんよ、なんていったくせに。健成がほんとうに泣くと、大曽根はとても心配そうな顔をする。腰を止めてやさしく頬を撫でられ、健成はそっけなくうそぶいた。

「お前の動きがヌルすぎて、あくび、出ただけ。いいからもっと激しく……んっ!」

 荒々しい腰遣いから一転、壊れ物をあつかうようなやさしいキスを繰り出される。繋がったまま、髪を撫でながらくちづけられ、骨まで蕩けてしまいそうになった。

「ぁ、ん、も、いいからっ……激しく、突けっ」

 あまりの心地よさにどうにかなってしまいそうで、健成は慌ててそう叫んだ。

「ダメですよ、坊。坊は激しくされるより、こっちのほうが弱いでしょう」

 根元まで埋めこんだままほとんど腰を遣わず、大曽根は耳朶を甘噛みしたり、乳首をそっと撫でたりする。

「んっ……も、ちがっ……くすぐったい、だけ、だからっ……」

 本気で嫌がっているふりをしたつもりだったのに、実際に出てきたのは、情けなくなるくらいに甘ったれた声だった。

「坊。愛してますよ。坊だけを、一生、愛しつづけます」

 生まれてはじめて耳にする、『愛してる』なんて言葉。

 大曽根の口からそんな言葉が出てきたことが信じられず、健成は何度も目を瞬かせた。

「ば、かっ……そんな言葉、軽々しくいうなっ!」

 セッ※スの最中、誰にでもこんな言葉を吐くのだろうか。腹立たしくなって、その胸を思いきり突き飛ばそうとして、大曽根が大けがを負っているのだということを思い出す。

「怪我、酷くなっても知らんでなっ」

 ふて腐れてそっぽを向く健成の顎を掴み向きなおらせると、彼はそっと唇を重ねあわせた。

「ん、ぅ、はぁっ……」

 こんなキスに流されたりしない。そう思うのに、与えられるやさしいキスに、心も身体も完全に溺れていってしまう。

「お、ぞね、好きっ……」

 もっと、ちゃんと虚勢を張っていたかったのに。気づけば大曽根を抱きしめ、そう叫んでいた。

「えぇ、自分も、坊のことが好きです。坊を、愛してますっ」

 また、だ。愛してる、なんて。あまりにもくすぐったすぎて、どうしていいのかわからなくなる。

「お、ぞね、後ろから挿れるほうが、好き、だよね。いいよ、バックで突いて」

 こうして顔を合わせていたら、大曽根はいつまでたっても健成を激しく突くことができない。確かに繋がったまま、腰を動かさずにキスや愛撫に蕩かされるのも好きだけれど、ずっとこのままでは大曽根が苦しそうで心配だ。

「坊は大曽根の顔、見えるほうが好きでしょう?」

 大きな手のひらで頬を包みこむようにして囁かれ、かぁぁっと頬が熱くなる。

「べ、別にお前の顔なんかっ……」

 そういいながらも、本当はこうして互いの顔を見ながら抱かれるほうが好きだ。

「そうですか。自分は坊の顔が見える体位のほうが、好きですよ」

 さらっと返され、無性に恥ずかしい気持ちになる。

「でもっ……このままだと大曽根、全然気持ちよくなれんだろっ」

 健成ばかり何度もイかされ、大曽根はまだ一度も達していない。不安になってそう告げた健成のこめかみにちゅ、とくちづけ、彼は囁いた。

大曽根は、自分がイクより、坊をイかせるのが好きなんですよ」

「ぅ、うるさいっ。いいから、はやく突けよっ」

 どんなにせがんでも、大曽根はちっとも腰を動かさず、健成の唇や頬にキスを落とし続ける。あまりのもどかしさに、健成は自分から腰を揺さぶらずにはいられなかった。

「坊……?」

 不思議そうに顔を覗きこまれ、照れくさくて消えてしまいたい気持ちになる。

「お前がよくても……オレがヤなの。お前にもちゃんと、イってほしい」

 消え入りそうな声で告げた健成をぎゅうぎゅうに抱きしめ、彼は頬を摺り寄せてきた。

「愛してます、坊。絶対に、誰にも渡したくない」

 挿入がグッと深くなって、大曽根のすべてが健成のなかに埋めこまれた。

「ぁっ……おおぞねっ……すごい……すごく、きもちぃ、んあぁっ……!」

 繋がったまま、さらに深く身体を倒しこまれる。折り曲げられた身体がすこし苦しいけれど、その苦しささえも愛おしく感じられた。ずっしりとした大曽根の重みを感じ、心まで満たされた気持ちになる。

「すきっ……大曽根、大好きっ」 

 何度もその名を呼び、貫かれるたびにその衝撃で離れそうになる唇を、健成は大曽根の唇に必死になって押し当てた。

「そばに……おって。大曽根、ずっと、そばにおって」

 以前、はじめて抱かれたときにも告げた言葉。どんなにせがんでも、絶対に返事をもらえなかったその言葉に、大曽根はようやく答えをくれた。

「おりますよ。どんなことがあっても、ずっと、ずっと坊のそばにおります」

 告げられた途端、ようやく止まりかけた涙が、堰をきったように一気に溢れ出してきた。ぼろぼろと大粒の涙を流す健成を抱きしめ、大曽根は雄々しくその身体を貫いてゆく。

「ぁっ……おお、ぞねっ……!」

 ギシギシと壊れそうなほど激しくベッドが軋む。最奥を貫かれ、手足がしびれるほど凄絶な快楽を与えられたかと思ったら、息つく間もなく引き抜かれ、ふたたび埋めこまれる。

「ぁ、ぁ、も、だめっ……イっちゃぅっ……」

 嗚咽混じりに訴える健成の頬を拭い、大曽根は包み込むようなキスをくれた。

「いいですよ、坊。何度イったっていい。大曽根の腕のなかでなら……どれだけ乱れたって構いません」

 大曽根の声も、かすかに潤んでいるのがわかる。とても興奮してくれているのだと思う。荒く乱れた呼吸が男らしくて、そんなところにさえ、キュンと胸が高鳴ってしまう。

「ん、でも、ゃ、まだ、もっと、大曽根と、いっしょに感じていたいからっ……」

 腰を逃そうとして、がっしりと押さえ込んで一番弱い場所を執拗に擦りあげられた。

「んあぁああっ……ゃ、ぁ、イク、イっちゃ、ぁ、あぁああっ!」

 勢いよく爆ぜたモノが、互いの肌を濡らす。もう、声を我慢するとか、ティッシュで押さえるとか、そんなことは欠片も考えることができなかった。

「ふぁ……ぅ、ん、はぁっ……」

 達したばかりの身体。甘えた吐息を漏らし、健成は大曽根の肩に頬を摺り寄せる。

「お、ぞね……おねがい……」

「なんですか?」

 大きな手のひらで健成の髪を撫で、大曽根は囁く。その低い囁き声にさえ感じてしまい、健成の身体がビクビクとさらに激しく震えた。

「いま……だけで、いぃ、から……坊、ていうの、やめて……」

 掠れた声で途切れ途切れに告げると、顎を掴んで上向かされた。

「健成、さん」

 じっと見つめられ、大好きな大曽根の声で名前を呼ばれる。それだけのことで、堪えきれずふたたび涙が溢れた。頬を拭われ、照れくささに唇を尖らせる。

「『さん』て。――阿呆、こういうときは、呼び捨てだろ」

 せいいっぱい虚勢を張った健成の頬を撫で、大曽根はふたたび囁く。

「健成」

 繋がったまま名前を呼び捨てにされ、胸がいっぱいになってしまった。唇を噛みしめ、泣きじゃくる健成の頬を拭い、大曽根はきつく、きつく抱きしめてくれた。

「健成。もう絶対に離さない。ずっと、ずっといっしょにおろう」

 ちいさく頷いて、大曽根の唇に自分の唇を重ねあわせる。重なりあった瞬間、ふたたび律動がはじまった。

「ぁっ……ぁ、はぁっ……」

 汗ばんだ肌も、雄々しく乱れた呼吸も、大曽根のなにもかもが健成を昂ぶらせてゆく。静まりかえった部屋に淫靡な水音と肉を打つ音が響き、滴り落ちてくる彼の汗にさえ、健成は激しく欲情してしまった。

「ぁっ……だめ、も、イクっ……イっちゃっ……!」

 ふたたび絶頂に追いやられそうになり、腰を逃そうとした健成を抱きあげると、大曽根は対面座位の姿勢で激しく突き上げる。

「んぁっ……ぁ、ぁ、ゃ、イクっ……」

 不安定な姿勢でめちゃくちゃに揺さぶられ、健成は無我夢中で彼の身体にしがみついた。振り落とされそうなほど性急な突き上げに、泣きじゃくりながら劣情を迸らせる。達したばかりの健成の身体を繋がったままベッドに押し倒し、大曽根はさらに突き破らんばかりに激しく貫いた。

「あぁあっ、ゃ、また、だめっ、また、イっちゃっ……」

 すべて出しつくし、もうこれ以上、なにも出るものなんてないはずなのに。それなのに健成の中心はふたたび立ちあがり、白濁交じりの淫らな蜜を溢れさせはじめる。

 もう、なにもかもが真っ白になって、消えてしまうと思った。

 声をこらえることはおろか、目を開けていることさえできず、ただひたすら押し寄せる快楽の激流に翻弄されてゆく。

「坊、何度だって、イっていいですよ」

「ゃ、だ。おおぞね、も。いっしょ、がいい。いっしょに……イきたいっ……」

 嗚咽を噛み殺しながら、掠れた声で必死に訴える健成の濡れた頬にくちづけ、大曽根は囁いた。

「ちゃんとねだってくださいよ、坊。『オレのなかを大曽根のでいっぱいにして』って。ほら、言葉に出してねだるんです」

 下唇を甘噛みされ、毒に侵されてゆくように痺れが広がってゆく。

「ぁっ……んっ……出して、大曽根っ……オレのなか、大曽根ので、いっぱいにしてっ」

 もう、恥じらう気持ちなんて欠片も残っていなかった。大きく足を開き、自ら腰を浮かせて一ミリでも深く貫いて欲しいとねだる。必死になって懇願する健成の頬を愛しげに撫でると、大曽根はさらに激しく腰を遣いはじめた。

「ふぁああっ!」

 ベッドに横たわっているのに、振り落とされてしまうような錯覚に陥る。なにもない中空に放り出されるような、不思議な感覚。

「ぁっ……ぁっ……イク、イっちゃっ……」

 健成が大きく身体をのけぞらせると、大曽根が苦しげな声で呻いた。

「坊、駄目ですよ、そんなに締めたら……っ」

 掠れた声の男らしさに、ぞくぞくと背筋が震える。

「イこ。おおぞね、お願い、いっしょに、イこっ……」

 唇を突きだし、そうねだった健成にキスを落としながら、大曽根は健成をめちゃくちゃに貫いた。

「坊、愛してます、坊っ……!」

 いつのまにか、健成ではなく坊、と呼びはじめている。けれども、そのことを咎められないくらいに健成も昂ぶってしまっていた。

「んぁあっ、だめ、大曽根、も、イく、イっちゃ……ぁ、んあぁあああっ!」

 びゅるりと迸らせたのと同時に、身体の奥底に叩きつけるように吐精された。温かなもので満たされながら、さらに腰を遣われる。

「ぁっ……はぁっ……だ、め、お、ぞね、もっ……しんじゃっ……んっ」

 健成の唇をキスで塞ぎ、大曽根はゆっくりと腰を遣いつづける。あっという間にカタチを取り戻した彼のモノが、白濁で満たされた健成のなかを掻き混ぜてゆく。

「ぁ、ぁっ……ゃ、も、ほんとに、おかしくなるからっ……」

「おかしくなって大丈夫ですよ。大曽根がそばにおりますから。どれだけ乱れたっていいんです」

 身体を倒しこまれ、ぴったりと肌を密着させながらくちづけられる。熱い舌でからめとられながら貫かれると、あっという間に高みへと追いやられてしまった。

「ゃ、イク、大曽根、も、だめっ……」

「いいですよ、坊。いっしょにイきましょう」

 きつく抱きしめられ、逃げ場のない状態で激しく腰を振りたくられる。脳天まで揺さぶられるようなその突き上げに、健成は泣きじゃくりながら大曽根にしがみついた。

「ぁっ、ぁ、ぁっ、イク、イっちゃ、んあぁああああっ!」

 最奥まで貫かれた瞬間、健成は白濁を迸らせながら意識を手放してしまった。

 

 

 目覚めると温かな腕のなかだった。大好きな大曽根の匂い。汗ばんだ肌に鼻先を擦りつけるようにして顔を埋めると、くしゃりと髪を撫でられた。

「身体、つらくないですか」

 低くて甘いその声音に、それだけで胸がいっぱいになってしまう。

「へいき。それより……」

 キスがしたい。――言葉で伝える前に、健成は大曽根に覆い被さり、自分から唇を押し当ててしまっていた。

「ったく、坊はいつまで経っても甘えっ子ですね」

 そんなふうにいいながらも、大曽根は健成を咎めたりしない。髪や頬を撫でながら、健成のしたいようにさせてくれた。

 昨夜のことは夢だったのかもしれない。そう思いかけた健成の耳元で、大曽根は囁く。

「健成、愛しとるよ」

 かぁぁっと頬が火照り、まともに彼の顔を見ることができなくなった。ぎゅっと目を閉じたまま手さぐりに大曽根の唇を探し出し、自分の唇を押し当てる。ぎこちない健成のキスを受け止め、彼は骨まで蕩けてしまうようなキスを与えてくれた。 

「んっ……大曽根、なぁ、こっちもシて」

 大曽根の手を掴み、自分の窄まりへと導いてゆく。健成の耳朶を甘噛みしながら、彼は唾液で濡らした指で健成のなかを刺激してくれた。

「ぁっ……そこ、んっ……ゃっ」

 あっという間に感じる場所を探り当てられ、ぎゅっと大曽根にしがみついて身もだえる。そのとき、とつぜん病室の扉が開いた。

「うわっ……!」

 ベッドから転げ落ちそうになった健成を、大曽根がたくましい腕で抱き留める。なんとか体勢を立て直し、扉の向こうから現れた人物に目を向けた瞬間、健成は思わず叫び声あげてしまった。

「なっ、なんでオトンがここにっ……」

 よりによって全裸で抱きあっているところを、父親に見られてしまった。慌てふためく健成をシーツで包みこみ、大曽根はなんでもないことのように冷静な顔で病衣をまとう。

「怪我の具合はどうだ」

 いつもどおり健成には目もくれず、健勇は大曽根に話しかけた。

「しばらくは入院せんといかんようです。――組長(オヤジ)にまでご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」

 警察沙汰になってしまったことを謝罪しているのだろう。深々と頭をさげた大曽根に、健勇はため息交じりに呟いた。

「まぁええわ。結果的には、うるさい小バエを払い落とすいい機会になった」

 けん銃やナイフだけでなく、彼らは覚せい剤も所持していたようだ。密入国に不法滞在、殺人未遂や未成年者に対する誘拐に加え、それらの入手先や流通経路に関しても徹底的に捜査されることになったのだという。

「お前ンとこも探られるんだろ」

 シーツのなかでもぞもぞと服を着ながら、健成は悪態を吐いた。

「痛い目遭ってすこしは大人しくなるかと思えば、相変わらず減らず口ばかり叩きおって」

 ぬっと健勇の手が伸びてきて、健成は叩かれるのではないかと身構えた。けれども与えられたのは、幼い子どもにするかのような、くしゃくしゃと髪を撫でる行為。

「なっ……」

 予想外の行動に拍子抜けした健成に、健勇は静かな声音でいった。

「また怖い思いをさせて、すまんかったな」

「べ、べつに怖くなんてっ……」

 唐突に抱きしめられ、懐かしい整髪剤の匂いに包まれる。

 御年五十八歳。十八歳の子どもを持つ父親としては、やや年を取り過ぎている健勇だが、いつも小洒落たスーツを着こなし、びしりと髪をセットした父親を、健成もかっこいいと思っていた時期があった。まだ母が生きていた、遠い、遠い昔のことだ。

 母の死や、その後の健勇の再婚。健成のなかでいつのまにか父親は、忌み嫌うべき存在へと変わった。自分が愛されているという実感を、抱くことができなかったのだ。

 健成を抱く健勇の手のひらが、かすかに震えているのがわかった。こんなふうに父親に触れられるのは、おそらく八年前、監禁事件から救出されたとき以来だ。

 話すなら、今がチャンスかもしれない。健成はそう思い、ぎゅっと拳を握りしめた。

「オトン、訊け」

「『訊け』て。坊、親に向かってなんて口のききかたしてんですか!」

 大曽根に後頭部を引っ叩かれ、唇を尖らせる。

「うるせぇ。仕方ねぇだろ。こんな親、尊敬なんかできるわけないしっ」

「坊っ」

 大曽根に思いきり睨み付けられ、健成はそれでも無視してつづけた。

「正直、お前のことこれっぽっちも尊敬してないし、親父の跡なんか継ぎたいとも思わんけど。オレは大曽根やオトンや組のやつらが大変な目に遭っとるのに、自分だけ安全な場所に逃げて暮らすなんて、絶対にできん。足手まといになるだけかもしれんけど、それでもそばにおりたいし、すこしでもいいで、力になりたいんだ」

 黙って訊いていた健勇が顔をあげ、鋭い眼差しを健成に向ける。じっと見据えられ、一瞬、怯んでしまいそうになった。

 だけど、負けない。絶対に、自分の気持ちを伝えなくちゃいけないのだ。

「決めた。学校はやめる。春からは、名古屋に戻って東新企画の仕事を手伝うことにする」

 健成の言葉に、健勇と大曽根はそろって驚きの声をあげる。

「なんだよ、ダメなのかよ」

 健勇は仕方がないとして、大曽根にまでそこまで驚かれるとは思わなかった。不貞腐れて頬を膨らませた健成を、大曽根は忙しなく目を瞬かせながら見下ろした。

「ゃ、ダメってわけじゃないですけど……なんでまたウチの仕事なんかを……」

「なんでって。お前の会社は、鈴川にとって一番の稼ぎ頭だろ。一応は合法な商いをしとるわけだし。そこで働けば、鈴川を支えることにもなるんじゃないのか。イヤなんだよ、オレは。法を犯して稼ぐような仕事は、絶対にしたくねぇんだ」

 東新の収益も最終的には鈴川のもとに流れ、反社会的勢力に加担していることに変わりはない。けれども自分自身が組に身を置き、法を犯すよりはずっといいように感じられるのだ。誰かを騙したり、弱い者から金を毟り取るようなことだけは絶対にしたくない。

「まぁ、そうですけど……」

 伺いをたてるように、大曽根は健勇に視線を向ける。健勇は健成を見遣ると、諦めたような顔で深く大きなため息を吐いた。

「――お前はどこまでも紗有里にそっくりだな」

「なにがだよっ」

 彼女が闘病している最中によそに子どもをつくった健勇のような男に、母、紗有里のことを語られたくなどなかった。眉を吊り上げて食って掛かった健成に、健勇は穏やかな眼差しを向ける。

「お前のしたいようにすればいい。生き方を強要する気はない」

「じゃあ、いいのか。東新で働いて」

「ダメだといったら、やめるのか」

「やめない。絶対に、やめないっ」

 ベッドから身を乗り出すようにして叫んだ健成に、健勇は険しい声音でつけ加えた。

「ただし、働くのは大学を出てからだ。せっかく入った学校を、途中でやめることは許さん。卒業までしっかりピアノに励んで、話はそれからだ」

「ちょっと待てよ。鈴川のしきたりじゃ、『猶予は一年』って決まりなんだろ」

「それは、あくまで『鈴川を継ぐ場合』だ。お前は組を継がんのだろう」

「そうだけど……」

「じゃあ、何年だろうが関係ない。紗有里には最後まで学校に通わせてやることができなんだ。お前は卒業までしっかり励め。たとえそれが身にならんでも『やり遂げた』って想いだけは残るからな」

「しかし、それでは卒業までの間の護衛は……っ」

 心配そうに口を開いた大曽根の顎を掴み、健勇はぐっと上向ける。

大曽根。ワシが気づいてないとでも思っとるのか。本来なら、全指詰めて、目も耳も潰して海の藻屑にしてやりたいくらいだ」

「申し訳ございませんっ。いい加減な気持ちでしたことではありません。一生涯かけて健成くんを愛しつづけると誓います。絶対に幸せにしてみせます。どうか、たいせつな息子さんを私にくださいっ」

 健成の手を掴み、深々と頭をさげた大曽根の後頭部を、健勇は思いきり張り倒す。肉を打つ鋭い音が室内に響き渡った。

「誰が大事なひとり息子を、お前なんぞにやるか。ふざけるなッ」

「オトンっ!」

 大曽根を守るように二人の間に入った健成を押し退け、健勇は大曽根の胸ぐらを掴みあげる。

「お前に健成をくれてやるんじゃない。お前が、鈴川の人間になるんだ。悪いがお前を、今後も解放してやる気はない。鈴川に、このバカ息子に、生涯、忠義を尽くせッ」

 こめかみに血管を浮き上がらせ、健勇は歯をむき出しにして怒鳴った。いつだって表情に乏しい父がこんなにも感情を露呈するさまを、健成はいままで一度も見たことがない。誰もが気圧されそうな迫力の怒声に、大曽根はそれでも怯むことがなかった。

「一生涯、大曽根のすべてをかけて、彼と鈴川を守り、尽くしつづけますッ」

 いつになく真剣な声音でそう答えた大曽根を思い切り突き飛ばし、健勇は再び彼を睨みつける。

「これ以上お前の顔を見続けたら、殴り殺してしまいそうだ。とりあえず、今夜は帰る。安達と小橋をこっちに残す。いいな、名古屋を留守にする間も東新の収益を維持しつづけ、卒業まで絶対にこのバカ息子を守りとおせ」

「――かしこまりましたっ」

 深々と頭を下げた大曽根に張り手をかまし、健勇は肩をいからせて病室を出て行った。

 

 静まりかえった病室内、大曽根と健勇のやり取りを思い出し、かぁぁっと頬が火照る。

「お、お前、ぁ、あれじゃまるでっ……プ、プロポーズじゃないかっ」

 真っ赤になって叫んだ健成を抱き寄せ、大曽根はちゅ、とその頬にキスを落とす。

「まるでもなにも、プロポーズですよ。命がけのプロポーズです。それ以外の何物でもありません」

 しれっとした顔でいわれ、健成はさらに頬が熱くなるのを感じた。

「あ、ぁ、あほっ。男同士でなにをわけわからんことをっ……」

「なにいってんですか。最初にいい出したのは坊のほうじゃないですか。『東新企画で働きたい』て。あれこそ、自分には坊のプロポーズにしか聞こえませんでしたよ」

「ぅ、うるさいなぁ。オレは単にシューカツとかめんどいで、お前ンとこで妥協してやろうと思っただけでっ……」

 反論しようとした健成をギュッと抱きしめ、大曽根は頬を摺り寄せてくる。

「愛してますよ、坊。一生涯、命に代えても、坊を守りつづけます」

 ちゅ、と音をたてて唇を強く吸われ、健成はむいっと大曽根の頬をつねった。

「ばか。命なんかかけんでいいから――お願いだから、ちゃんと、オレが死ぬまでずっとそばにいろ」

「それは……難しい注文ですね。大曽根は坊より十八歳も年寄りなんですよ」

「ダメだ。約束しろ。だってほら……ちゃんと、約束の紙もあるんだ」

「約束の紙……?」

 不思議そうな顔をされ、健成は一枚の紙切れを財布から引っ張り出した。

「なんだよ。覚えてねぇのかよっ」

 ふて腐れつつ健成が差し出したもの。それは、ボロボロになったノートの切れ端だった。色あせたそれを開くと、大曽根の武骨な文字で『ずっといっしょにおる券』と書かれている。十一年前の今日、クリスマスのプレゼントとして大曽根が健成にくれたものだ。

「それは……。坊、そんなモノ、まだ持っとったんですか」

「当然だ。ちゃんと、約束守ってもらうでな」

 得意げにチケットを掲げて見せた健成を、大曽根は慈しむような瞳で見つめる。

 

 あの冬のクリスマスも、紗有里は入院していて不在だった。

『今年のクリスマスプレゼント、坊はなにが欲しいんですか』

 大曽根にそう訊ねられ、健成は正直にいちばん欲しいものを告げた。健勇やまわりの大人たちにはけっして口に出せない本音を、大曽根にだけは打ち明けることができたのだ。

『「かあさんと、ずっといっしょにおれる券」が欲しい』

 溢れ出してしまいそうになる涙を必死でこらえてそう答えた健成を抱き上げると、大曽根は紙とペンを取り出した。

『坊のお気持ちはわかりますが、姐さんはいま、大事な時期なんです。病院で先生の治療を受けな、元気になって坊のことを抱っこすることも出来んのですよ。だから、今は姐さんの代わりに、大曽根がそばにおります。代わりに「大曽根がいっしょにおる券」をあげますから、しばらくはそれで我慢しとってください』

『そんなんいらんわ! かあさんがいいっ』

『わがままいわんでください。春になれば、姐さんの体調もよくなるかもしれません。あと少しの辛抱ですよ』

『いやだ。こんなモン捨てる! 大曽根なんかいらんっ』

 そんなふうに駄々を捏ねながらも、健成は不格好なそのチケットを捨てることができなかった。

 小学生のあいだはランドセルの時間割表を入れるポケットのなかに。中学に入ってからは財布のなかにしのばせ、ずっと、ずっと大切にしつづけてきた。

 母を亡くし、父の愛情も失ってしまった健成だけれど、大曽根だけはずっと自分の味方でいてくれると信じつづけてきたのだ。

 

「まさか、こんなモンを大事にしてくれとるとは……」

「ぅ、うるさいなぁ、大事になんかしとらんわ。たまたま残っとっただけだ」

 大曽根の頬を押し退けようとして、抵抗ごと抱きすくめられてしまう。温かな腕にすっぽりと包まれながら、健成は大曽根を見あげた。

「なぁ、大曽根。お願いだで、絶対、俺より先に死なんで」

「――最善を尽くさせていただきます」

 真面目腐った顔でいうと、大曽根は健成を抱きすくめ、ベッドに押し倒した。

「わ、こら、大曽根、だめだって。そろそろ朝の回診、来ちまうっ……」

 身をよじる健成の動きを封じ込め、大曽根は硬く猛ったモノを押し当ててくる。

「無理ですよ。こんな可愛らしいプロポーズされたら、止まるわけがないです」

 あっという間に服を剥ぎ取られ、全裸にされてしまった。

「もぉ、お前、盛り過ぎっ」

「仕方ないじゃないですか。いままで、どんだけ我慢してきたと思ってんです」

 キスに蕩かされるうちに、段々と健成もその気になってしまう。先端を埋めこまれたそのとき、とつぜん扉が開いた。

「ぅわっ……」

 あわててシーツをたくし上げ、そのなかに身を隠す。

「ふぁっ……わ、ご、ごめんなさいっ」

「うわー、ぁ、兄貴と健成さんがっ!」

 田宮と重田が同時に叫ぶ声が響き、健成は真っ赤になってシーツに包まった。もぞもぞと服をまとい、赤面したまま。シーツの隙間からそっと顔だけを覗かせる。

「ぇっと、ごめん。出直そうか……?」

 おそるおそる田宮に訊ねられ、健成は照れくささに目を伏せたまま、「出直さんでいい」と答えた。

 病衣の前をワイルドにはだけたままの大曽根のようすをちらちらと伺いながら、田宮は健成に笑顔を向ける。

「健成くん、僕たち二人とも無事に実技オーディション受かったよ。これ、二次試験と面談の申込用紙。それからクリスマスケーキと、ちっちゃいけどツリーも持ってきたよ。病院のなかでも少しはクリスマス気分、味わえるといいかなぁって思って」

 ベッド脇のキャビネットにちいさなツリーを設置し、田宮は電飾のスイッチを入れる。きらきらと瞬く電飾のひかりに、殺風景だった病室内が急にクリスマスらしい雰囲気になった。

「健成さん、これは自分らからです。大曽根の兄貴ぃに渡すと受け取って貰えそうもないんで。健成さんが必要そうなモン見繕って、買ってあげてください」

 見舞いの金だろうか。重田から封筒を差し出され、健成は首を振った。

「阿呆、大曽根が受け取らんモン、オレが受け取れるわけないだろうが」

「いや、しかし……」

「そんな余裕があんのなら、下のモンにメシでも奢ってやれ」

 ぴしゃりと大曽根に言い捨てられ、重田は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「どうせそんなことだろうと思って……現物支給も用意してきたんです。こっちは要らんとはいわせませんよ。受け取り拒否られても、自分ら困るだけですから」

 そういって重田が取り出したのは、入院時になにかと入用になるタオル類やアメニティなど身の回りのものや、暇つぶし用のブルーレイやポータブルプレイヤーだった。

「ったく余計なことを……」

 悪態を吐きながらも、大曽根は少し嬉しそうだ。彼が弟分たちから愛されているのを見るのは、健成にとってもなんだか嬉しく感じられた。

「えっと……健成くん、二次試験の日程だけどね」

 控えめな口調で、田宮がそう切り出す。健成はちいさく首を振り、二次試験の申込書を田宮に返した。

「オレは、アメリカには行かない。いまさらだけど、気づいたんだよ。オレにとってのピアノは、不特定多数の誰かに届けるためのものじゃない。どうしても聴かせたい相手がいて、そいつにすこしでも笑顔になってもらいたくて、だから――ずっと頑張ってたんだ」

 普段は仏頂面の大曽根が、紗有里のピアノの音色を聴くときだけ、満たされたようなしあわせな顔をしていた。眉間の皺が消え、口元に笑みをたたえたその姿が見たくて、健成は必死でピアノを頑張ってきたのだ。

「なんて――音大まで来といて『阿呆か』っていわれそうだけどな」

 学費の無駄遣いだと呆れられてしまいそうだけれど、それが親元を離れ、この地で暮らしてようやく気づくことのできたたったひとつの真実だった。

 大曽根といっしょにいたい。

 彼を笑顔にしたい。

 周りからしたら馬鹿みたいだと思われるかもしれない。けれども健成にとってなにより大切なことなのだ。

 大曽根だけじゃない。父や、鈴川組の皆のことも。どんなに客観的に見て『悪』でしかないとわかっていても、健成にとってかけがえのない存在であることに変わりはない。大切な人たちのそばにいて、自分にできる、信念を曲げない範囲で、彼らとともに生きてゆく。それが、ようやく健成の見つけ出した答えなのだ。

「ううん、そんなことないよ。そういうの、大事だと思う。むしろ僕は、そういうのないから、羨ましいなぁって思うよ」

 ほっぺたを赤く染めながら、田宮は健成と大曽根を見比べる。そして二人の手をとると、「しあわせになってね」といって愛らしい笑顔で微笑んだ。

「お前こそ頑張れよ。アメリカ行き、いつだ」

「まだ二次試験と面談があるから本決まりじゃないけど。全部パスしたら、来年の夏には向こうに行くことになるよ」

「そっか。寂しくなるな」

「ん。でも――いつか、また会えるよね」

「ああ、そうだな。お前が凱旋帰国したら、どこまでだって駆けつけるよ」

 そっとその髪を撫でると、田宮は心地よさそうに目を細める。

「健成くんも、ピアノ続けてね。健成くん、自分が思ってるよりずっといいピアニストだよ。きっとこれからもっとよくなると思う。ピアノやギターはひとりだって続けられる楽器だからね。だからどうか、絶対にピアノをやめないで」

「ああ、やめないよ。発表する場がなくても、それを生業にできなくても、絶対にこれからも弾きつづける」

 生まれてはじめてひと前に立つことができた定期演奏会。結局、あんなかたちで学校の皆や会場に多大な迷惑をかけることになってしまったけれど。今後、いっさいひと前で演奏することができなくても、ピアノから逃げることだけは絶対にしたくない。

 たった一瞬のことだったけれど、田宮といっしょに味わったあの感動を、忘れることはできないのだ。一生かかったって田宮のように素晴らしい演奏者にはなれないだろうけれど。これからもずっと、自分の音を究めつづけていきたい。

「発表する場、なくないですよ」

 ぼそりと呟いた大曽根の声に、健成は顔をあげる。

「新栄の交差点とこにあるキャバクラ、あれ、ピアノを入れてもう少し落ち着いた客層に対応できる店に変える予定なんです。シガーとモルトをウリにするつもりですが、ジャズバーにして、ゆくゆくは坊に任せてもいいかな、と思っとるんですよ。幾らなんでも、ウチのシマで東新の店に乗り込んでくる阿呆はおらんでしょうよ」

「そ、それって……」

「東新の仕事をするっちゅうことは、ナイトレジャー産業に携わるってことです。誰が数字に弱い坊なんぞに経営や事務方を任せる、いいましたか。勉強は出来んし、あまり賢いとはいい難い坊ですが、幸いなことに見てくれはいいし、ひと好きのする要素だけはある。自分でピアノも弾けるとなれば、まずは現場でバーテンダー見習い兼、ピアニストとして働かせるのが適材適所っちゅうもんでしょう」

「なんていうか、健成さんのことを貶しているようで、ものすっごいノロケられてる気分になりますよねぇ」

「健成くんのために新しくお店作っちゃうんでしょ? どう考えてもノロケですよね。しかも特大級の」

 顔を見合わせてクスクスと笑いあう重田と田宮を前に、健成は無性に照れくさい気持ちになった。

「ぅ、うるさいなぁっ、そ、そんなんじゃないってっ……」

 真っ赤になって慌てふためく健成を抱き寄せ、大曽根はその頬にキスを落とす。

「わっ、ばかっ、ひと前でっ……んっ……」

 あっという間に舌を絡めとられ、ねっとりと吸い上げられた。身体から力が抜けて、まともに立っていることさえできなくなる。大曽根の胸にぐったりと倒れ込んだ健成の髪を撫で、彼は低い声音で囁いた。

「むやみやたらに他人の前ではできんから、こうして信用できる人間の前でするんですよ。重田も田宮くんも、身内みたいなモンでしょう」

「ま、まぁそうだけど……っ」

 真っ赤になって俯いた健成を抱きしめたまま、大曽根は田宮に頭をさげる。

「わがまま放題な甘ったれですが、これからも坊をよろしくお願いしますね」

「いえいえ、こちらこそ。しばらく遠くに離れちゃいますが、日本に戻ってきたら、必ず逢いに行きますから。健成くんのこと、末長くしあわせにしてくださいね」

 田宮はそういうと、昨日、ステージに向かったときと同じように、右手で健成の手を、左手で大曽根の手を掴んだ。そして二人の手を重ねあわさせ、その上からギュッと握りしめる。

「大変なこともあると思うけど。絶対に、絶対に、この手を離さないでね。ふたりのこと、ずっと応援してるからね」

 瞳を潤ませ、祈るように呟く田宮を、健成は空いている方の手でギュッと抱き寄せた。そんな二人をまとめてすっぽりと抱きこみ、大曽根は健成の頬に頬ずりをしてくれる。

「絶対に、離しません。なにがあっても、一生涯、坊のそばにおりますよ」

 遠くに巣立ってゆく友と、自分を愛してくれる大切なひと。ふたつのぬくもりを感じながら、健成は噛みしめるように呟いた。

大曽根……すき」

 皆の前ではしたない。わかっているけれど、我慢できそうになかった。その胸に背を預け、仰ぎ見るようにしてキスをせがむと、大曽根はギュっと健成を抱きしめ、くちづけてくれた。

大曽根さーん、回診ですよー」

 看護師さんに声をかけられ、ゆっくりと唇を離す。離したあとも、大曽根は健成の手のひらを離さずにいてくれた。

 

 いつだって半径一メートル内に控えつづけていた、健成の『憂鬱』。なによりも愛しい存在になった。

 きっとこの先、いっしょにいつづけることは容易なことではないだろうけれど、これからもずっと、この手を離さず生きて行こうと思う。

 健成はそう誓いながら、愛しい大曽根の手を握る手のひらにぎゅっと力をこめた。

 

【完】

 

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