お金で買える恋
「夢中にさせてくれたら十億円キャッシュで支払う」
福富町にある老舗のホストクラブ。
一見の男性客から突然発せられた言葉に、開店直後の店内が騒然となった。
そんな言葉を発したのは、長身でがっしりとした体躯、切れ長の目が印象的な二十代半ばくらいの男だ。
すこし長めの黒髪を無造作に流し、Vネックのカットソーに細身のパンツというラフな姿。夜の住人独特の擦れた感じも、筋モノと思しき威圧感もない。
だが、男の嵌めている腕時計はロングアイランドの限定モデル。おそらく500万はくだらない高級品だ。
――いったい何者なんだ、この男。
この店のナンバーワンホストである大野 翼(おおの つばさ)は、警戒心を抱きつつ目の前の男を眺めた。
「十億っ……?!」
「冗談だろ……」
口々に囁き合いながら、店じゅうのホストたちが二人のようすを窺っている。
「どうだ。ナンバーワンなら自信があるんじゃないのか」
「いえ、ご覧のとおりウチは基本的に女性のお客さまを対象にしたお店ですから……」
男の申し出を当たり障りのない言葉で流しかけたそのとき、ふだん滅多に一部営業に顔を出すことのない二部のエース、代表の怜哉(れいや)が姿をあらわした。
優美な仕草で男に名刺を手渡し、翼の隣に陣取ってしまう。怜哉は翼以上に装飾品に詳しい。目敏く男の腕時計に目を留め、金の匂いを嗅ぎつけたのだろう。
「こんな場所ではお寛ぎになれないでしょう。よろしければ彼をお貸しいたしますよ」
怜哉から一週間分の貸切り料金としてふっかけられた400万円を、男は何のためらいもなくクレジットカード一括で支払った。
使い込まれたシンプルな皮財布から出てきたのは『ブラックカード』。
ゴールドカードやプラチナカードの上をゆく、世界で最もステイタスが高いとされるA社のセンチュリオンカードだ。
「そそうのないようにな」
耳元で怜哉に囁かれ、翼は眉を顰める。
「そそうのないようにもなにも、俺は男の扱い方なんてわかりませんよ!」
「なにいってんだ。野毛のアイコ、お前の太客だろう」
「や、オカマバーのママとホモじゃ全然違いますって」
「『ホモ』は蔑称だ。言動に気をつけろ」
囁き声で翼を一喝すると、怜哉は目の前の男にニッコリと笑みを向ける。
「お待たせいたしました、水野(みずの)さま。どうぞ当店のナンバーワン大野翼と、おくつろぎの時をお過ごしください」
「ちょっと待ってください。このあと本指のお客さまがっ……」
「いいからさっさと行け。失敗は許さんぞ」
この男が十億円支払えば店側の取り分は4億。怜哉が必死になるのも無理はない。
客用の笑顔のままドスの利いた声で囁かれ、有無をいわさず店の外に追い出された。
「なんだ、不服なのか」
水野と呼ばれたその長身の男に見下ろされ、翼はひきつった笑みを浮かべた。
「いえ、そのようなことは……」
座っているときにもデカイ男だなぁとは思ったが、こうして並んで立つと183センチの翼より十センチ近く背が高いことがわかる。普段、見下ろされることなんてほとんどないから、なんだか少し不思議な感じだ。
「――どこかで呑み直しますか」
金を支払わせてしまった以上、その分の仕事はしなくてはならない。心のなかでちいさくため息を吐きつつ、翼は男にそう尋ねた。
「どこかよい店でも?」
「ちかくに落ち着いて飲めるバーがあるんです。ウチよりずっといい酒を揃えてますよ」
女性客相手なら、みなとみらいの夜景の見えるバーが鉄板だが、野郎同士でそんな場所に行くなんて想像しただけで怖気が走る。
翼は伊勢佐木町の裏通りにある老舗のバーに彼を連れて行った。老マスターがひとりで切り盛りするカウンター席だけのちいさな店だが、酒の品揃えがよく雰囲気もいい。
平日の夜。給料日前ということもあって先客はいなかった。マスターは翼の仕事を知っているから、気兼ねなく過ごせそうだ。
「珍しいものが流れているな」
ちいさく流れるBGMに気づき、男が呟く。
「ジャズ、お好きなんですか」
「特にジャズが好きなわけじゃないが、いいものならなんでも聴く」
やわらかなエレクトリックピアノの音色に、男は心地よさそうに目を細める。
表情が乏しいせいか少しつめたく感じられた男の顔立ちが、やわらかな雰囲気に変わる。口元を和らげたその表情に、なぜだか視線が吸い寄せられた。
「このアルバム、ジャケットもいいんですよね。咥えたばこで片方の手で生ピアノを、もう片方の手でエレピを演奏してる感じが」
「よく知っているな。このアーティストのなかじゃ、あまり評価の高くないアルバムだ」
男はマスターに挨拶をし、スツールに腰を下ろす。翼も足の長さにはそこそこ自信があるが、男の手足の長さは異常だ。並んで座ると、ほとんど目線の高さが同じになった。
「このアルバム、昔、母親と暮らしてた男がよく聴いていたんです」
ぼろアパートの一室を満たす、なめらかなエレクトリックピアノの音色を思い出す。
自称ピアニスト。週に一度、場末のバーでピアノを弾く以外、朝から晩まで飲んだくれているどうしようもない男だったが、母の選ぶ男にしては珍しく翼に暴力を振るわなかった。その男と暮らしていた二年間、翼は痛みを味わうことなく過ごすことができた。
「あの店で働いて長いのか」
尋ねられ、翼は正直に答えた。
「来月で十年になります」
「十年。今、いくつだ?」
低くて甘い声。男の声は、エレクトリックピアノの深みのある低音にすこし似ている。
「二十、八です」
十四歳の夏、母の愛人に殴られ続ける日々に嫌気がさし、着の身着のまま家を飛び出した。それ以来、実年齢より四歳上にサバをよみ、翼は夜の街で暮らしている。
「年下だとばかり思っていたが、意外と大人なんだな」
驚いたような表情で、男は翼を眺めた。
「お幾つなんですか」
若作りも仕事のうちですからねとさりげなくかわし、男の年齢を問う。
「二十五。誕生日がくれば、六だ」
「誕生日、いつなんですか」
「一週間後」
誕生日までにオトせということか。タイムリミットは七日間。期間内に惚れさせれば、十億円即金で支払うと男は提示している。
「いつから『男』を?」
声を潜めて問うと、男は不思議そうな顔をした。どうやら意味が伝わらなかったようだ。
「『男』が好きだと自覚したのは、いくつのときですか」
「――ああ、男が好きなわけじゃないんだ」
「えっ?!」
想像していたのと違う答えに、翼は思わず大きな声をあげてしまった。
マスターは聞こえないふりをして、涼やかな顔で翼の前にモヒートを、男の前に十年物のアードベッグをサーブする。
マスターに軽く頭をさげ、翼は男がグラスを手にするのを待った。そしてちいさく乾杯し、キリリと冷えた爽やかな酒で喉を潤す。
「じゃあ、なぜ?」
男が好きなわけでもないのに、十億もの大金を叩いて『惚れさせてみろ』という。
いったいなにが目的で、そんな馬鹿げたことをするというのだろう。
「『恋愛』をしたことがないんだ。男にも女にも、いままで一度も惚れたことがない」
「はぁ……」
どんな反応をしていいのかわからず、翼は曖昧な相槌をうつ。
「最初は女性で試した。だけど女性にはときめかなかったんだ」
ホストクラブに来る前に、ホステスが接待してくれる高級クラブに出向き、同じ条件で落としてくれるよう頼んだのだという。
「や、ちょっと待ってください。それだけの理由で、自分をホモだと思ったんですかっ?!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口をつぐむ。マスターは相変わらず知らん顔で通してくれている。
「五軒試してダメだった。これ以上、女性で試すのは無駄かもしれないと思ったんだ」
高級クラブのナンバーワンばかり、五人も試してみたらしい。
「ホストクラブは……」
「あの店がはじめてだ」
つまり、自分が男のチャレンジャー第一号というわけか。
「なぜ、ウチの店を?」
「あの界隈では一番良質な店だと聞いた」
男はロックグラスを傾けながら、じっと翼の目を見ていった。
目力の強い男だ。けっして威圧的ではないのに、その目で見据えられるとなぜだか視線を外せなくなる。
「一週間かけてあなたを口説き落としたとして、そのあと、どうなるんですか」
まさか「一生付き合いつづけろ」とでもいうのだろうか。そんなので十億円もらえたって、正直、割に合わない話だ。
「一週間経ったら、それでおしまいだ。期間内だけ楽しませてくれればいい」
男は俄かに口元を緩め、そういった。
このかすかな変化が、この男にとっての笑顔なのだろうか。精悍な顔立ちがすこしやわらかな印象になって、ずいぶん雰囲気が違って感じられる。
それにしたってこんなにおいしい話、普通に考えてありえない。もしかしたら新手の美人局かなにかじゃないだろうか。
訝しむ翼に、男はおだやかな声音でいう。
「よからぬ輩たちと繋がっているかもしれない、とでも思っているのか」
「や、そういうわけでは」
「安心して欲しい。日本に知り合いはいないんだ」
流暢な日本語を話すし、どこからどう見ても日本人にしか見えないけれど、どうやら男は日本人ではないらしい。アメリカ在住の日系人の父親と日本人の母親のあいだに生まれた日系アメリカ人なのだという。
「名刺を渡しておく」
差し出された名刺には、会社名と思しきものとこの男の名、会社の所在地や電話番号が英字で記されていた。名前の脇にはCEOと肩書も付されている。
「二十代でCEO。すごいですね」
思わずそう呟いた翼に男はちいさく首を振る。
「IT系のスタートアップだからな。ウチのような業界では二十代のCEOは決して珍しくはないよ」
スタートアップ。たしかベンチャー企業のことを欧米ではそう呼ぶのだ。IT関連の事業を興している太客がいて、いつだったか寝物語に「ベンチャーって言葉は日本でしか通じないのよ」といわれたことがある。
「そういうひとって、もっとなんかこれみよがしなカッコしてんのかと……」
思わずタメ口になってしまい、慌てて謝罪する。
「堅苦しいのはきらいなんだ。フランクに話してくれて構わない」
そんなふうにいう男に、翼は先刻渡しそびれた名刺を手渡した。大きく顔写真の入った、いかにもホスト然とした派手なやつだ。カウンターの上、シンプルで上品な男の名刺と並ぶと、なんだかすこし恥ずかしい。
「そういえば、どうしてあの店の連中はお前以外みんなおかしな髪形をしているんだ」
「おかしな髪形?」
「ああ、金や茶に染め、昔のロックスターみたいな髪型をしている」
真面目くさった顔でいわれ、翼は思わず吹き出した。
「そういう髪型のほうが、お客さんウケがいいんですよ。それらしく見えるというか」
男は不思議そうな顔で、翼の髪を観察する。
「お前の髪は黒いし、髪形もふつうだ」
「俺は一部営業専属なんで、昼職のお客さまが多いんです」
この一帯では深夜零時から日の出までホストクラブの営業が禁止されており、多くの店が夜間と日の出後にわけ、二部制で営業している。もちろん実際には零時ぴったりに店を閉めるわけではないし、一部のスタッフが二部も兼任していることが多い。
翼も以前は両方に顔を出していたが、いまは一部のみで切り上げることにしている。
「ひるしょく?」
「昼間のお仕事のひと、って意味です。いわゆるカタギ、ですね」
老舗の大箱ということもあって、翼の所属する店には風俗嬢や水商売の女性だけでなく、企業経営者やその奥方など富裕層の来店も多い。そういった女性の場合、いかにもホスト然とした派手な男より、翼のように落ち着きのある容貌の男を好む場合が多いのだ。
「あの店のナンバーワンがお前でよかった」
真顔でそんなことをいわれ、なんだかむず痒い気分になる。
「マスター、おかわり。水野さんも、なにか呑みます?」
空になりかけたグラス。そう尋ねると、彼は老マスターに「アイラでお勧めのものはありませんか」と流暢な敬語で尋ねた。
それぞれ数杯のグラスを空にした後、勘定をすませて店を出る。
「酔い覚ましに軽く散歩しますか」
「敬語じゃなくていい。お前の方が年上だ。むしろ俺がお前に敬語を遣うべきだろう」
男は真顔で、そんなことをいう。
「いやいや、そういうわけには」
実際には翼はいま二十四歳だから、この男より一個下だ。仕事柄、この程度の嘘は吐き慣れているはずだけれど、なぜだかちょっと落ち着かない気分になる。
「普段どおりの言葉で話してくれ。敬語は分かりづらいんだ。脳に負荷がかかる」
軽くこめかみを押さえるようにして、男はいった。
「そんなことより、お前、店に戻らなくていいのか」
「平気。一週間、水野さんに専念しろってさ」
すこしくすぐったかったけれど、敬語を使わずに翼はそう返した。くだけた接客のほうがいいというお客さまもいる。男がそれを望むなら、そうすべきだろう。
七月初旬。いまにも降り出しそうな潤んだ夜気のなか、ネオン街を抜け、ビジネス街へと歩いてゆく。
さらに進み万国橋までくると、みなとみらいのシンボルである観覧車や高層ビルのきらびやかなひかりが見えてきた。
たったの十数分歩いただけなのに、翼の働く猥雑な風俗街とは似ても似つかない美しい夜景が広がっている。
「うつくしいな」
男は立ち止まり、水面にうつる無数のひかりのゆらめきを眺めた。
うつくしい。日常生活のなかで、まず耳にすることのない言葉だ。
『きれい』とはすこしちがうその言葉の響きを、翼はなぜだかとても心地よいと思った。
「写真撮る?」
尋ねると、男は不思議そうな顔をした。
「地元の人間以外は、みんなここから写真を撮りたがるよ」
いまも数メートル離れた場所でOLと思しき女性たちが夜景を撮影している。男はちいさく笑って自分のこめかみを指さすと、
「ここに刻み込んでおく」
といった。
下手をしたらキザくさく感じられそうなセリフだけれど、飄々とした佇まいの彼がいうと、なんだかとてもよく似合う。
「日本人は写真が好きだな」
スマホを手にはしゃぐ女性たちを横目に、男は彼女たちに聞こえないよう小さな声でいった。
「スマホが出来てから、特にね」
スマホのカメラは高性能だし、自分で撮ったとは思えないくらいきれいな画像が撮れる。
その日見た景色、食べたもの、ちいさな筐体に次々と想い出を残したくなる彼女たちの気持ちは、翼にもなんとなくわかる。
「写真に撮ると、それで満足してしまうんだよな。結局、手元に残るのはデジタルデータだけで、記憶にはなにも残らない」
男の言葉に、翼は思わず吹き出した。
「IT企業のCEOとは思えない言葉だ」
「日頃、実体のないものを扱っているからなおのこと、そんなふうに思うのかもしれん」
真面目くさった顔でそんなことをいう男が、なんだかすこしおかしかった。
橋を渡り終えたら、赤レンガ方面に向かって歩いてゆく。市外在住の女性をエスコートするときの定番ルートだ。
「赤レンガ倉庫、来たことある?」
オレンジ色の淡い光に照らされたレンガ造りの倉庫は、この街の夜景を飽きるほど見慣れた翼の目にも美しく感じられる。
はじめて見る者にとって、とても幻想的に感じられるに違いない。
「日中、遠目に眺めたことはある。夜は初めてだ。ぐっと趣深くなるな」
ほぅ、と嘆息し、男はライトアップされた赤レンガ倉庫を眺める。
「外から見るとすごくいいけど、中に入るとちょっとがっかりするよ」
「汚いのか」
「や、狭いんだ。倉庫を改装して無理やり店舗にしてるから仕方がないんだけど。水野さんくらい背が高いと、窮屈に感じると思うよ」
「テナントが入ってるのか」
「世界一おいしい朝食って謳ってる店や、ジャズ寄りのライブハウス、いろいろ入ってる」
彼は後者に興味を惹かれたようだ。
「どんなのを演ってるんだ」
「普段は国内アーティストが多いけど、たまに海外から大物がくるよ」
スマホで検索すると、明日から三日間、キューバのジャズピアニストが来日公演をすると書かれていた。
「まだ席は残っているのか」
「自由席もあるし、当日券でもいけるんじゃないかな」
独特のリズム感と洗練された音遣いで世界的に人気の高いピアニストだ。おまけに今回の公演ではピアノだけでなく、ビンテージのエレクトリックピアノをつかうらしい。
ライブに行こうと誘うと、彼はうれしそうにうなずいた。相変わらず表情に乏しいが、さっきよりずっと感情のわかる雰囲気だ。
やっぱりキスくらい、したほうがいいのだろうか。周囲にひと目がないことを確認し、翼はさりげなく男の手を掴んで引き寄せた。
生まれてはじめてする、男同士のキス。
見上げるかたちになるのは少しヘンな感じだけれど、思ったより女性とのキスとかわらない。
この男の肌がさらっとしているせいもあると思う。唇も渇いていて嫌な感じがしない。むしろ香水や化粧の匂いがしない分、快適だ。
かすかに唇をあわせるだけのキスをしたあと、男に尋ねる。
「男同士のキス、大丈夫そう?」
男はじっと翼を見下ろすと、手を伸ばし、翼の唇に触れた。
つめたい指先に、ヒクンと心臓が跳ねあがる。男は翼の唇の感触を確かめるようにしばらく弄りつづけると、「ベタベタしないな」と真面目くさった声でいった。
なんだかその仕草がおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「そりゃ、女と違って口紅つけてないからな」
「なるほど、そのせいか」
納得したような顔で男は頷いた。
「あれ、苦手なんだ」
「口紅?」
「ああ、口紅とか、あと、ネイル? ファンデーションの匂いも……あまり好きじゃない。なんであんなものをつけるんだろうな」
ちいさなころ、母親が化粧をするのが嫌だったのだそうだ。そのままのほうがきれいなのに、と男はいう。
すこしだけ、翼にもその気持ちがわかる。
母親が『オンナ』になるところを、できれば見たくなかったのだ。
「まあ、だけど『化粧』っていうくらいだから、きれいに化ける力はあると思うよ。化粧しないほうがキレイなんてのは、水野さんちの母親くらいじゃないか?」
この男の母親。きっときれいなんだろうな、と思う。彼の顔もとても整っている。この顔だちで女性だったらもっときれいなはずだ。
「この後、どうする。セックスする?」
野郎同士。わざわざ回りくどい言葉を使っても仕方がない。ストレートな言葉で誘うと、男は真顔で尋ねてきた。
「男同士ってどうやってするんだ」
「知らないのか。そりゃアレだよ。こう、お尻の穴に……」
耳打ちすると、男はゲホゲホと派手にむせた。
「――敷居が高いな」
青ざめた顔で、男はつぶやく。
「ああ、そうだよ。てか、そんなのも知らないで、よく男と付き合おうなんて思ったな」
よっぽどショックだったのだろう。口元を手のひらで押さえたまま、男はブツブツとなにか英語で呟いている。
「無理に挿入する必要ないらしいよ」
ゲイバーのママから聞いたことがある。すべてのゲイが尻で性交するわけではなく、しごきあうだけで挿入しないカップルもいるのだそうだ。
そのことを教えてやると「そっちのほうが幾分気が楽だ」と男は神妙な顔つきで頷いた。
「滞在先、このちかく?」
「ああ、あそこだ」
男が指さしたのは、観覧車のすぐそばに建つ、この界隈でも一番リゾート色のつよいホテルだった。床から天井までつづく大きな窓が特徴的で、みなとみらいの景色を楽しむには絶好のつくりをしている。
ビルの群れにまばらに灯る明かりを眺めていると、ふいに腕を掴まれた。
不思議に思い振りかえると、すぐそばに男の顔がある。
「もう一回、してみてもいいか」
「なにを」
「キスを、だ」
真顔で問われ、翼はぎこちなくうなずいた。
つめたい指先で顎に触れられ、やんわりと上向かされる。さりげなく周囲に人がいないことを確かめてから、翼は目を閉じた。
男の吐息が微かに熱い。唇が触れ合うまでの時間が、なぜだかとても長く感じた。
「んっ……」
唇が重なり合った瞬間、ドクン、と心臓が跳ね上った。腰に手を回すようにして引き寄せられ、深く、口づけられる。
半開きになった翼の唇に、男の舌がすべりこんでくる。つめたい唇とは対照的に、蕩けそうなほど熱く、やわらかな舌だ。
絡めとられ、吸い上げられると、なぜだか脳天が痺れた。甘い酩酊感に襲われ、足元がおぼつかなくなる。
気づけば無意識のうちに、男の背に縋っていた。翼を抱く男の腕にもギュっと力が籠る。
「ぁっ……」
身体の奥底で、ぞわり、となにかが蠢く。
ただ口づけあっているだけ。それなのに自然と息があがってしまう。
「ぅ……はぁっ……」
やっと唇を離したと思ったら、男は翼の下唇を軽く甘噛みしながら舌を遣いはじめた。
――なんていやらしいキス、しやがるんだ。
からだの奥底を暴かれるみたいな、生々しくて鮮烈な刺激に、膝から力が抜けてゆく。
「なぁ……あんまりしてると、人が……」
掠れた声で咎めると、男はようやく翼を解放してくれた。
「とりあえず、水野さんの部屋、行く?」
「ああ、そうだな」
あんなにもいやらしいキスを自分から仕掛けておいて、なにを照れているのだろう。
かすかに頬を染める男の姿につられて、翼まで照れくさい気持ちになった。
男の宿泊している部屋は最上階のクラブフロアにある2ベッドルーム、書斎つきのスイートルームだった。ライトアップされた巨大な観覧車が窓辺を彩っている。
「奥の寝室を適当につかってくれ」
「いっしょの部屋で寝ないのか?」
「いっしょの部屋で寝たいのか?」
真顔で問い返され、なんだかすこし照れくさくなる。
「そ、そういうわけじゃないけど……」
口籠る翼の腕を掴み、男は引き寄せる。
至近距離で見つめられると、無性に落ち着かない気持ちになった。
男の顔がぐっと近づいてくる。
「ぁ……」
キスされるのかと思った。けれども男は翼の唇を素通りし、首筋に鼻を擦りつける。
「シャワー、浴びてこい」
「ん、ああ……」
さっきはあんなに青い顔をしていたのに、もうヤらしい気分になったのだろうか。
意外と切り替えが早いんだな、と感心しつつ、翼はシャワーを浴びた。
この部屋にはベッドルームだけでなく、バスルームも二つある。濡れ髪のまま寝室に戻ると、男もすでにシャワーを浴び終えていた。
胸板の厚い逞しい体躯にバスローブがよく似合う。淡いひかりに照らされた横顔。品のよいポイントフレームの眼鏡をかけ、ペーパーバックを読むその姿は、映画のワンシーンのようにさまになっている。
「視力、悪いのか」
尋ねると男は顔をあげ、口元を緩めた。
「ああ、夜になるとどうしてもな。疲れが出てくるんだろうな」
日中は裸眼で生活しているが、夜になると眼鏡が必要になるのだという。
サイドテーブルには読みかけのペーパーバックだけでなく、ノートパソコンや新聞などが置かれている。
「仕事、大変なのか」
「いや、いまは休暇中だからな。仕事のことはできるだけ考えないようにしているよ」
どうしても自分で行わなくてはならない仕事以外は、手を出さないようにしているんだ、と眉間を押さえながら彼はいう。
「休暇をとって日本に来てるのか」
「ああ。起業してから、一日も休んでいなかったからな。まとめて休みをとったんだ」
「休み、いつまで?」
「――特に決めてない」
そんなに適当で許されるのだろうか。不思議に思いつつ来日の目的を訊ねると、男はサイドテーブルに伏せてあった写真たてをそっと起こした。
「母の納骨だ」
写真たてには彼とそっくりな女性の写真が飾られている。若いころのものだろうか。凛とした美しさに視線が吸い寄せられる。
訊いてはいけないことを訊いてしまった。
うろたえる翼に、男はやんわりとした笑みを向けた。
「そんな顔をするな。母が亡くなったのは、いまから五年も前だ」
「五年前? 遺骨、今までどうしてたんだ」
「ああ、遺骨っていっても向こうは灰になるまで焼いちまうし、大半は彼女がお気に入りだった湖に撒いたよ」
亡くなる直前、彼女から『いつか日本に行くことがあったら遺灰の一部を想い出の海に撒いてほしい』と頼まれたのだという。
「もう撒いたのか?」
「いや、まだだ。この写真にうつっている海らしいんだが、彼女は地名を失念してしまったらしくてね、どこかわからないんだ」
そういって、男は一枚の古い写真を取り出した。
「――西伊豆だな」
「知っているのか」
「ああ、多分そうだと思う。ちょっと待って」
スマホのブラウザに浜の名を入力して検索すると、男の持つ写真とおなじ、特徴的なかたちの島が浮かぶエメラルドグリーンの海の写真がずらりと並んだ。
「この遊歩道、ちいさな鳥居。おそらく同じ場所だ」
似たようなアングルの写真を拡大表示してみせると、男はちいさく歓声をあげた。
「すごいな。日本に来てから色々な人間に訊いたが、誰もわからなかった」
交番に行って、警察に見せたりもしたのだという。
「ウチの店の慰安旅行、ここ最近、ずっとここなんだ」
オーナーはクルーザーを購入して以来、見せびらかしたいのか従業員を引き連れて西伊豆の奥地まで毎夏、慰安旅行に行くのだ。
砂浜はなく、こじんまりとした石浜で決して有名な海ではないが、透明度が高く魚影が濃いため、ダイバーには比較的人気がある。
「ここから遠いのか」
「渋滞しなければ、車で片道三時間くらいだ」
スマホで経路検索をして、男に見せてやる。
「車か。実は車の免許を持っていないんだ」
「俺、持ってるよ。乗せていってやろうか」
もしかしたらこういう大切な場所へは、ひとりで行きたいものだろうか。不安に思いつつ、翼はいった。
「いいのか」
「いいよ。どうせ七日間はアンタ専属なんだ」
「そうと決まれば早く寝たほうがいいな」
壁一面の大きな窓。眼下に見える観覧車がいつのまにか消灯している。男はベッドに横たわり、眠る体勢に入った。
「え、いや、『寝る』んじゃなかったのか」
「ああ、寝るよ。明日は早いんだ。お前もはやく寝たほうがいい」
戸惑う翼に、男はなんでもないことのようにいう。
「や、そういう意味じゃなくて……セックス、するんじゃなかったのか。だから風呂に入って来いっていったんだろ」
「ああ、お前の身体からたばこの移り香がしたから、洗い流してもらいたかっただけだ」
煙草の匂いが苦手なのだと男はいった。
「じゃあ、おやすみ」
「や、ちょっと待て。こういうときは……」
慌ててベッドに駈け寄り、男に顔を寄せる。
「ヤらないにしても、キスくらいするもんじゃないのか」
「したいのか?」
真顔で尋ねられ、なんだか無性に照れくさくなった。横になったままの男にジッと見あげられ、その目力に気圧されそうになる。
「なあ、目、閉じろよ」
「断る」
「なんで?」
理由を尋ねた翼の頬に手をかけ、男は目を開けたまま引き寄せる。
「閉じたらお前の顔を見られなくなるだろう」
見据えられたまま交わすキス。
かぁっと頬が火照り、ドクドクと心臓が暴れはじめる。
今まで仕事で色々な相手と寝てきた。
それなのに……いったいなんだっていうんだろう。
リードされることに慣れていないせいだろうか。男の舌に絡めとられ、吸い上げられるうちに身体を支えていられなくなる。
ぐったりとその胸に倒れこんだ翼を抱きしめ、男は甘やかなキスを繰り返した。
そして長いキスを終えると、男はやんわりと翼を退け、「おやすみ」と背中を向ける。
「ん、あぁ……おやすみ」
あまりにもあっさりと解放され、翼は拍子抜けした気分になった。
乱れた呼吸、早鐘のような鼓動、火照った身体をもてあまし、その夜、翼はなかなか眠りにつくことが出来なかった。
翌日、翼は男とともに一路、伊豆へ向かった。平日の昼間。すいているかと思ったが、雨のせいか、思ったよりも道が混んでいる。
「まいったな。日が暮れちまう」
朝早く起きるつもりが、いつもの癖で昼過ぎまで眠ってしまった。
起こしてくれればいいのに、男は眠りこける翼の隣で読書に耽っていたようだ。
途中のサービスエリアで遅い昼飯を摂り、目的の浜にたどり着くころにはすっかり日が傾きはじめていた。
遺灰を撒くには、それなりに沖に出るべきだろう。
「どうする。泳げなくはないだろうけど」
そろりと海水に指先をつけてみると、思った以上につめたかった。
雨はあがったが、いまも空は分厚い雲に覆われている。肌寒いこの気候で海に入るのはちょっと厳しいものがあるだろう。
「ちかくに宿はあるのか」
「あるんじゃないか。途中に温泉街もあったしな」
翼がそう答えると、男は「明日にするか」といい出した。
雲の狭間から、幾重にもひかりの筋が輝いている。オレンジ色のひかりと灰色の雲のグラデーションに翼は思わず目を奪われた。
「うつくしいな」
そのひかりに目を細め、男がいう。
普段聞きなれない『うつくしい』という言葉と、夕日に照らされて光る水面。ダイナミックな岩肌の島に、飄々と佇む男の姿。
それらの光景に、胸の奥のほうをギュっと締め付けられたみたいな気分になる。
「ずるいな」
「なにが」
振り返った男が、不思議そうな顔をした。
「俺も水野さんくらい、身長が欲しかった」
この男がかっこよく見えるのは身長だけの問題じゃない。わかっているけれど、その日本人離れした長い手足に、がっしりとしていながらも均整のとれた体躯に、研ぎ澄まされた刃のような精悍な顔立ちに、悔しさを感じずにはいられない。
「日本でこの身長だと不便だぞ。いろいろなところで頭をぶつけるんだ」
真面目くさった口調でいわれ、思わず吹き出しそうになった。
「こういうときって、ふつうは謙遜するだろ」
「謙遜、して欲しいのか」
真顔で問われ、余計におかしくてたまらなくなる。声をあげて笑った翼に、男はやんわりとした笑みを向けた。
最初のうちは硬い表情ばかりだったのに、気づけば微かだけれど、こうして笑顔を向けてくれるようになった。
「お前はそういう笑い方をしているほうがいいな。店にいるときより、ずっといい」
男の手のひらが、翼の頬に触れる。
「ばか、人がいる……」
浜の近くにはダイバー向けの民宿があって、その宿のおじさんが軒先でダイビング用品の手入れをしている。
「ああ、日本では人前でキスをするのはマナー違反だったな」
「なっ……キスしようとしたのか!」
思わず大きな声を出してしまった翼に、民宿のおじさんが怪訝そうな目を向ける。
「と、とりあえず今日はひきあげるぞっ」
「ああ」
母親が好きだったという海。
名残惜しいのだろう。男は振りかえりしばらく海を眺めたあと、翼のあとをついてきた。
結局、手ごろな宿は見つからず、車で十五分ほど離れた場所にあるラブホテルに泊まることになった。
一部屋ずつガレージと直結している古めかしいタイプのラブホだが、室内はきれいにリフォームされており、横浜市内のこの手のホテルと比べて驚くほど広い。
「すごいな。こういう場所に泊まるのははじめてだ」
部屋のど真ん中に置かれた巨大なベッド。ガラス張りの浴室に、鏡張りの天井。
物珍しそうに眺め、男は感心したような声をあげた。その瞬間、隣の部屋から盛大な喘ぎ声が漏れ聞こえてくる。
「日本人はもっと慎み深いのかと思ってた」
微かに頬を赤らめ、男はいう。
「――ひとによるよ」
潮風に晒されたせいか、身体がベタベタする。シャツを脱いでハンガーにかけ、翼は浴室の電気をつけた。
「ちょっと汗流してくる」
そう声をかけると、「俺もいく」といって男もついてきた。
「大きな風呂だな」
どうやら巨大なバスタブが気に入ったようだ。シャワーだけで軽く済ませるつもりだったが、男にせがまれバスタブに湯を張る。
「すごいな。ボタンがたくさんある」
水回りもきれいに改装されており、バスタブも最新鋭のもののようだ。
ジャグジーには数パターンの噴射切り替えがあり、青や緑のライトで水中をライトアップすることもできる。物珍しいらしく、男はライトの色を切り替えたり点滅パターンを変えたりして遊んでいる。
「お前は入らないのか」
「ん、ああ。入ろうかな……」
男同士のせいだろうか。ラブホなのだからそれらしい雰囲気に持っていくべきなのはわかっているのだが、なんとなくそういう行為に持ち込みづらい。男のほうもその気がないのか、なにも仕掛けてこなかった。
気まずさを感じつつ、誘われるがまま湯に浸かる。
なにかされるかと思ったが、男はバスタブのなかでもなにもしてこなかった。
風呂からあがり、自販機で購入した缶ビールで乾杯した。
隣の部屋の嬌声が気になるのだろう。微かに眉を顰める男の姿に気づき、翼はさりげなく有線をつけた。
彼の好きそうなチャンネルを選び、ふと顔をあげると、男の背に浮かぶ大きな傷跡が目に留まった。
「その傷、なにかの手術跡か?」
「いや、刺されたんだ」
さらりと物騒なことをいわれ、手にしていた缶ビールを落としてしまいそうになる。
「刺されたって……誰に?」
「面識のない女性だ」
面識のない女性に刺されるって、いったいどういう状況なのだろう。どんな反応をしていいのかわからず目を瞬かせた翼に、男はため息交じりにこう付け加えた。
「――お前のせいで息子が終身刑になったって……いわれたよ」
「なんでまたそんなことを……」
「わが社の扱っている仮想通貨を使用して闇サイトを運営していた青年が逮捕され、終身刑が確定したんだ。お前の会社が存在しなければ、ウチの息子は犯罪に手を染めなかったと、彼女は主張している」
「仮想通貨って……なに?」
「特定の国家による価値の保証を持たない電子通貨のことだよ。通貨というのは一般的に国家によって発行され、その価値を保障されているんだが……」
平易な言葉を選びながら説明してくれているのだと思う。
けれども義務教育もロクに受けることが出来ずに日本全国を転々としていた翼には、なんのことだかさっぱりわからない。
「ごめん、よくわかんないけど……つまり、逆恨みで刺されたってこと?」
「逆恨みじゃない。彼女以外にもウチが開発した秘匿性の高い仮想通貨【zero】を諸悪の根源のように感じている輩は……」
「ま、なんでもいーや。日本にいる間は、誰にも狙われないんだろ」
久々に長湯をしたせいで頭がぼーっとしている。そのせいもあって物事を単純にしか考えられなくなった翼は、ごろんとベッドに横たわりながら男を見上げた。
「――ああ」
「じゃあ、安心していられるな」
男はじっと翼を見つめると、手を伸ばしてその頬に触れる。思わず目を細めると、彼の顔が近づいてきて、そっと口づけられた。
「ん……っ」
ぐっと圧し掛かるようにして、深く、口内に侵入される。
――まただ。これ……なんか、ヤばい。
キスなんて今までどれだけしてきたかわからない。帰り際のお客さん、マクラ営業の相手、どんな相手としたって平気だったのに。この男のキスにはペースを乱されてばかりだ。
自分がリードする側になればいいのかもしれない。そう思い、翼は男から主導権を奪い返そうと試みた。自ら舌を絡め、吸い上げて、その背中を抱き寄せる。
「ぁっ……!」
けれども、深く舌を絡ませあえばあうほど身体は火照り、その熱に突き動かされるようにおかしくなってしまう。
「んっ……はぁっ……はぁっ……」
やっとのことで解放されたときには、すっかり息があがり、薄手の部屋着の下で、翼の分身ははしたなく濡れそぼっていた。
「おやすみ」
ちゅ、と額にキスをすると、男はベッドに横になってしまう。
――おい、ちょっと待て。ここまでその気にさせておいて、これで終わりかよ!
そんなツッコミを入れそうになって、翼はふと我に返る。
――俺、いま、なにを期待していた……?
その気になるって、なんだよ。
天を向いていたモノが一気に元気を失う。
野郎にキスされて大きくなってしまった。
その事実があまりにも恐ろしくて、翼は男に背を向け、ぐるぐる巻きにシーツに包まって目を閉じた。
どこかの部屋から、嬌声が響き続けている。
ぐっしょりと濡れた室内着。火照った身体をもてあまし、翼はシーツのなかで丸まったまま必死で眠りに就こうとした。
翌朝目覚めると、すぐ隣で男が眠っていた。
背中を向けて寝ていたはずなのに、気づけば互いに顔を突き合わせ向かい合わせになっている。
「なんかすごく、まつげ長いのな」
切れ長の目の印象が強く雄々しく感じられる男の顔立ちは、目を閉じていると、まるで写真たてのなかの彼の母親のように、とても穏やかでうつくしく見える。
やすらかなその寝顔に、なぜだか自然と吸い寄せられてしまう。起こしてしまわないようそっと口づけると、突然、ギュっと抱きしめられた。
「おわっ……!」
思わず情けない声をあげて男の腕から逃れようとした翼に、彼は真面目くさった顔でいう。
「いま、すこし鼓動がはやくなった」
「は……?」
男の言葉の意味が分からず、首をかしげた翼に、男はこう続けた。
「ときめくって、鼓動がはやくなることなんだろう」
「ま、まあ、一般的には……そうだろうな」
「もう一回、してみてくれ」
「なにを」
「キスを、だ」
色気もへったくれもない真顔でせっつかれ、翼は恐るおそる男に口づけた。
「いま、また来た。ほら、触ってみてくれ」
手首を掴まれ、彼の心臓のあたりに導かれる。
「お、おう……」
彼のいう通り、その心臓はドキドキしていた。
「舌をつかったら、もっと心拍数があがるかもしれない」
理科の実験でもするかのように胸の鼓動をはかりながら、男はキスをせがんでくる。そのようすに呆れつつ、翼は彼に口づけた。
薄手の布地越しに、男の鼓動が伝わってくる。そのはやさに煽られるように、翼の鼓動まではやくなってしまう。
温かな舌で絡めとられ、与えられるキスに蕩けかけたそのとき、突然男が大声をあげた。
「あっ!」
「なんだ」
「――これ」
自分の下半身を指さし、男は驚いたように目を見開く。
つられるように目をやると、ソコはむくりと不自然なかたちに盛り上がっていた。
「うまれてはじめてだ!」
刺激せずに大きくなるのが初めてのようだ。感動しているようすの男に、翼は呆れつつ、いってやった。
「朝は勃起しやすいからな」
「そういう問題なのか」
「ああ、朝勃ちって言葉があるくらいだ」
「あさだち。夕立ちの仲間か」
真顔で問われ、吹き出しそうになる。
思わず声をあげて笑ってしまい、男に思いっきり不機嫌そうな顔をされた。
「なにもそこまで笑うことないだろう」
「ごめん、ごめん。いや、悪気はないんだ。悪気はないけど……余りにもツボりすぎて」
目に涙まで溜めて笑い続ける翼の腕を掴み、男は引き寄せる。じっと見つめられ、トクンと心臓が高鳴った。
「なに……?」
掠れた声で尋ねると、顎を掴んで上向かされる。男はやんわりと笑って、
「お前の笑い顔はいいな」
といった。
「――っ……」
心臓がバクバクと暴れはじめる。慌てて目をそらそうとして、大きな手のひらで頬を包み込むようにして引き寄せられた。
条件反射的に目を瞑ろうとして、「目を閉じないでほしい」といわれてしまう。
「なん……で」
尋ねると、じっと目を見つめたまま唇を寄せられた。
「お前の瞳、すごくきれいだから」
「ばっ……」
かぁっと頬が火照るのがわかる。照れ隠しに悪態を吐こうとして、素早く唇を塞がれた。
「んっ……!」
あっという間に舌を滑り込まされ、深く入り込まれる。けれども熱い舌で弄られるその感覚は、すこしも不快ではなかった。
むしろ自分自身も……昂ぶってしまうのがわかる。
「お前も、大きくなってる」
いったん唇を離し、男は低い声で囁く。
「くっ……これは……っ」
ちがう、と否定したくて、けれども先端はすっかりそりかえり、はしたない蜜を溢れさせている。
「お前に触れたい。――いやならいってくれ。金の力でお前の意思を踏みにじるようなことは、したくないんだ」
「なっ……」
金で買っておいて、いまさらなにをいう。
呆れかけた翼に、男はふたたび問いかける。
「――こたえて欲しい。触れてもいいか?」
唇が触れるか触れないかの場所まで顔を近づけられ、腹に響くような深みのある声で問われる。翼は真っ赤になって、ぶっきらぼうな口調で答えた。
「好きに、しろ」
「ダメだ、それじゃ答えになってない。俺を受け入れる意思があるのか、と訊いてるんだ」
目をそらしたいのに、頬を包まれていて逃れることができない。
「なかったら……こんなふうにならない」
振り絞るような声でそう呟き、翼は男の唇に自分から口づけた。
抱きしめあった拍子に部屋着の裾が肌蹴け、みっともなく猛ったものが露わになる。
男はそれを大きな手のひらで包み込むと、ゆるく握りこんだ。
「ぁっ……!」
ただ触れられただけなのに、堪えきれず甘ったれた声が溢れる。
「はぁっ……んっ……!」
自分だけ感じてしまうのが恥ずかしくて、翼は負けずに手を伸ばした。自分以外のモノに触れるなんて正直物凄く抵抗があるけど、一方的にイかされるわけにはいかない。
おそるおそる触れたそこは、いまにもはちきれんばかりにそそり勃っていた。大柄な身体に相応しい、呆れるくらいに立派なモノだ。
「ぁ、ぅ、んっ……!」
はじめてとは思えない巧みさで扱きあげられ、あっという間に追いやられてしまう。
「お、まえ、男ははじめて、とか……うそ、だろっ……」
涙目になって睨みつけた翼に、男はやんわりとした笑みを向ける。
「同性と寝たことはないが、自分自身のモノなら幾らでも慰めたことがあるからな」
いわれてみればそうだ。自分のモノを擦るみたいにすればいいのだ。
いまさらのようにそのことに気づき、翼は負けじと男のモノを擦りあげた。
「ダメだ。翼、そんなにしたら……耐えられなくなる」
軽く耳朶を噛まれ、ゾクリと背筋が震える。
「ふぁっ……ぅ、イッちまえっ……」
男にイかされるなんて、屈辱以外の何ものでもない。せめて先にイかせてしまおうと、翼は男を握りこむ手に力を籠めた。
「んぅっ……はぁっ……」
ぐっと身体を倒しこむようにして、男は翼に口づける。深く絡めとられ、手のひらに擦りつけるようにして腰を遣われた。
「んぁっ……」
その仕草が妙に劣情的で、身体の奥底がぞわりと騒ぐ。
「翼……ッ」
激しく腰を打ちつけられ、男のソレは翼の手のあいだを突き破って翼のモノに触れた。互いの熱が擦れあった瞬間、強烈な快楽が翼を襲う。
「あぁっ……!」
思わず悲鳴をあげた翼の手を掬い上げ、男はベッドに縫い付けるようにしてその動きを封じ込めた。
「んぅっ……ぁ、んあぁっ……!」
互いの先端が強く擦れ、ぬちゃりといやらしい水音が響く。男は大きな手のひらで自分と翼のモノを重ね合わせるようにして同時に握りこむと、ゆっくりと腰を遣い始めた。
「い、ゃ、め、ろ、やめ……あぁ……っ!」
ギシっとベッドが軋む音が響き、男の腰遣いがさらに激しくなる。
「ぁっ……ダメ、イク、ぁ、あぁっ……んーーーーッ」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。激しい快楽に呑みこまれパニック状態に陥った翼を抱きしめ、男はさらに激しく腰を遣う。
「ぁ、ぁ、やめ、ぁっ……!」
達したばかりのそこを猛々しいモノで擦りあげられ、翼は再び追いつめられてゆく。
「だめ、も、マジで、おかし……あぁっ……!」
続けざまに二度目の絶頂を迎えたそのとき、低い呻き声をあげ、男も同時に果てた。
「はぁ……っ、ぁ、ぁ……ぅー……」
ビクン、ビクンと震えながら、翼の先端は熱いモノを吐き出しつづける。男はそれでも翼を解放せず、ひたすらキスを繰り返した。
「ん……ぅ、ぁ……」
拒まなくちゃいけない。そう思うのに、すっかり蕩けた身体は、翼の意思とはまったく関係のない行動をとってしまう。
気づけば自分から彼の背にすがり、その舌を求めていた。
口づけあっては昂ぶり、互いのモノに手を伸ばす。そんなことを繰り返しあって…… いったい何度、果てたのかわからない。
いつの間にか意識を失い、男の腕に抱かれたまま眠りこけていた。
「しまったっ……!」
慌てて飛び起きたときには、すでに午後四時を回っていた。
「目、覚めたか」
いつの間にか身支度を整え、ソファでノートパソコンを叩く男が穏やかな声音でいう。
「ん、あぁ……ゴメン。また海入れなかった」
ぐしゃぐしゃになった髪を手ぐしで整えながら、のそりとベッドから起き上がる。
昨晩、さんざん暴発したまま眠ってしまったはずなのに、汚れた身体はすっかり拭き清められ、山のようなティッシュのゴミもきちんと片づけられている。
「急ぐ旅でもない。明日にでも行けばいいさ」
男はそういうと、首から下げた遺灰の入ったちいさなケースを愛しそうに撫でた。
プラチナ製だろうか。ペンダントヘッドとしてはやや大ぶりだが、なめらかな弧を描く涙型のそれは、彼にとてもよく似合っている。
「それ、海に撒くより、これからもお前が持っていたほうがいいんじゃないのか」
肌身離さず持ち歩いているなんて、きっととても大切にしているのだろう。
「ああ、そう思う気持ちもあるのだが……そうしてしまったら、俺になにかあったとき、母との約束が果たせなくなるだろう」
「なにかあったときって……まだ若いのに、んなことふつう考えるか?」
あくびを噛み殺しつつ翼が立ち上がると男は手を伸ばし、翼を誘った。
「なに」
不思議に思いつつ近寄ると、手首を掴んで引き寄せられる。
「どうしてお前のキスはこんなに心地いいんだ?」
じっと翼を見つめ、男はいう。
「――そんなこと、いわれても……」
これはある種の口説き文句なのだろうか。
仕事で使えるかもしれないな、なんて思った翼の頬を片手で包み込み、男はもう片方の手で翼の唇に触れた。
「化粧をしないからベタベタしない。煙草を吸わないから苦くない。香水をつけていないから嫌なにおいがしない。――あとは温度か。温かくて……それに、すべすべしていてさわり心地がいい」
指先でその感触を確かめるようにして、男は次々と翼の唇に対する所感を口にする。
あまりにも真面目くさった顔でそんなふうにいわれ、翼はくすぐったい気持ちになった。
「なんだよ、ひとを実験動物みたいに……」
「理由を知りたいんだ。どうしてこんなに良いのか、理由を解明したい」
頬を包み込まれたまま、やんわりと上向かされる。男の顔が近づいてきて、条件反射的に翼は目を瞑った。
「目、開けていろ」
「――断る!」
照れくさくなって、ギュッと目を瞑る。すると男はおかしそうに笑った。
「お前は、ちっとも俺に媚びないな」
「なにが」
「『十億』って金額のせいだろうな。いままでの人たちは、呆れるくらい必死で俺を口説こうとしたよ」
「そりゃそうだろう。十億っていえば、日本人の生涯年収を軽く超えるからな」
「お前は、金が欲しくないのか」
「そういうわけじゃないけど……ぶっちゃけ、金があったからって、どうなるってモンでもない気がして……」
長く勤めているホストの大半は、その世界での『成功』を求めている。財産を築き上げ、独立したり、新たな事業を興したり、家族に贅沢をさせてやりたいと考えているのだ。
「俺には養うべき家族もなければ、事業を興したいっていう情熱もない。もちろん大金を貰えれば嬉しいけど、だからってその金をどうしたいのか、自分でもよくわからないんだ」
正直に答えた翼の髪に男が触れる。
「じゃあ、どうして夜の店で働いているんだ」
「――ほかに居場所がないし、ほかに出来ることもないから、かな」
「家族はいないのか」
「父親は最初からいなかったし、母親も……申し訳ないけど、産んでくれたことに感謝することさえできそうにない。兄弟もいないし、学校にもロクに通えなかったから、友人らしい友人もいない」
しいていえば、いまは自分を拾ってくれたオーナーが唯一の身寄りだ。
借金取りに追われ、身分を隠して夜逃げをつづける母親のせいで、翼には自分の住民票や戸籍がどこにあるのかさえわからず、健康保険に加入することさえできなかった。
そんな翼のためにオーナーは出自を探し出し、住民票をうつして社会生活を送れるようにしてくれたのだ。
母に連れられ、愛人の家やストリップ劇場の寮、ときにはラブホテルやサウナを転々としていた子供時代と違い、月に三十万という寮費をぼったくられながらも、いまはオーナーのおかげで立派なマンションに住まわせてもらうことができている。
けれどその親切心は、ホストとしての自分に向けられているものだ。夜の仕事を辞めたら、その庇護も受けることができなくなる。
「やりたいことが見つからないなら、見つかるまで探せばいい」
「え……?」
「親のせいで学校に通えなかったのなら、通えるようになったとき、通えばいいんだ。友人なんて学校でなくたって幾らでも作れるし、家族だって、作ろうと思えばいくらでもつくれる」
いつもどおり飄々とした声音のまま、男はいう。
「そんなもの……見つかる、のかな」
生きるのに精いっぱいで、なにかを求めるなんて、今までしたことがなかった。
なにがしたい、とか、どう生きたい、とか、そんな選択肢は最初から、自分には用意されていないのだと思っていた。
「見つけることを放棄していたら、絶対に見つからない。目を閉じることなくしっかり見続けていれば、必ずなにかが見つかるはずだ」
男の手のひらが、翼の頬を包み込む。そっと撫でられ目を細めた翼に、男は笑いかけてくる。
「というわけで、目は閉じるな。そのまま俺を見ていてくれ」
「なっ……!」
そんな話からキスに持ち込むなんて、不意打ち過ぎる。
突然のキスに戸惑う翼の身体を抱き寄せ、男は深く、甘やかなキスを繰り返す。
「はぁっ……ぅ」
あっという間に蕩かされた翼の頬に唇を摺り寄せるようにして、男は囁いた。
「やっぱり、お前のキスはいいな」
低くて甘いその声に、ゾクゾクと震えが止まらなくなる。
「決めた。残り五日のあいだに、なぜお前のキスがこんなにもいいのか、その理由を究明してみせる」
謎の宣言をすると、男はふたたび翼の唇にすっかり濡れそぼった彼の唇を重ね合わせた。
その夜、彼の提案で二人はキャンプ場に泊まることになった。
「なんでまたキャンプ?」
「昨日このキャンプ場の看板を見かけたとき、ちいさなころのことを思い出したんだ」
子供時代、両親といっしょに行くキャンプがお気に入りだったのだという。
「翼はキャンプ、したことあるか」
いつの間にか『お前』ではなく、彼は翼のことを名前で呼ぶようになっていた。翼にも、『水野さん』ではなく『晃久(あきひさ)』と呼んでくれ、という。
「ないよ、初めてだ」
「そうか。じゃあ、野外で飯を炊くのも初か」
「バーベキューならオーナーに連れられて何度かやったことがあるけど、飯は初めてだ」
キャンプ場で貸してもらった調理器具を使い、男は器用に料理を拵えた。
「うまいもんだな。自炊してるのか」
網焼きした肉や野菜に、トマトと豆のスープ。男の拵えた料理は、どれも旨かった。
「母が亡くなってからは、ずっと自炊だ」
「面倒くさくないのか」
「面倒じゃないといえば嘘になるが、毎食外食じゃ味気ないだろう。自分で作れば、自分の食べたいものがいつだって食べられる」
晃久はそういって、翼の皿に香ばしく焼きあがった肉を載せてくれた。
「嫁を貰えばいいじゃないか」
「そんな理由で結婚するのは、馬鹿げているだろう」
彼の母親は彼の父親にひと目惚れし、家族の反対を押し切って家出同然でアメリカまで渡ったのだという。
「そこまでして人生を賭けた相手と、十年も経たずに離婚してるんだから世話がないよ」
どうやら彼の両親も、彼が子供のころに離婚しているらしい。
「彼女のこと、愚かだなって思っていたけれど、正直、すこし羨ましかった」
親兄弟もキャリアも、すべて捨ててしまえるほどの情熱。そんな情熱を傾けられる『恋』というものを、一度でいいから自分もしてみたいと感じたのだという。
「日本に来たのはそのためでもあるんだ」
アメリカ国内で『恋』ができないのは、もしかしたら自分は民族的に自分と同じ民族にしか惹かれないせいかもしれない。そう思い、来日したのだという。
「だったらなにも夜の店で相手を探したりせず、フツーに恋愛すればいいじゃないか。晃久くらい男前なら幾らだって相手が見つかるだろ」
「時間がないんだ。相手を探している時間も、じっくり恋を育てる時間もない。だから手っ取り早く、『惚れさせることのプロ』に依頼したんだ」
「で、結局プロ相手でもダメだった、と」
「いや、まだわからない。あと四日間、あるからな」
鉄串に刺したマシュマロを火で炙りながら、晃久はやんわりとした笑みを浮かべる。
自分とのことをいわれているのだと気づき、翼は思わずむせてしまった。
「食べてみるといい。旨いぞ」
焼きあがったマシュマロを差し出し、晃久はいう。
「ん」
あまりおいしそうには見えないが、翼はおそるおそるそれを口に運んだ。
「うま、なんだ、これっ」
カリッとした表面、とろりとした中身。あったかくてふわふわのマシュマロが口のなかでしゅわりと溶けてゆく。
「だろ。ウチの母親の好物だったんだ。キャンプやバーベキューのときしか食えないから、貴重なデザートだ」
ちいさなころのことを思い出しているのだろう。いつになく無邪気なその笑顔に、胸が苦しくなる。
「いいな、そういう想い出があるのって」
自然と口をついて出てしまった言葉。慌てて口を噤んだ翼に、彼は穏やかな声音でいう。
「そんなもの、これから幾らでも作ればいい。この先の人生、長いんだ。いまからだって遅くはないよ」
口いっぱいにひろがる優しい甘さと、身体に響く晃久の声。
涙腺が緩んでしまいそうになって上を向くと、満点の星空が目に飛び込んできた。
「おおっ、星、すごいな!」
思わず歓声をあげた翼に続き、晃久も空を見上げる。
「ああ、すごいな。こんな夜空を見るのはひさしぶりだ」
「俺、はじめてかも」
「――これから先、幾らだって見られるさ」
やんわりと抱きしめられ、額に口づけられる。
「こら、ダメだって。周りの目が……」
「大丈夫だ。誰も見ていない」
梅雨時のキャンプ場。おまけに平日の夜ということもあって、ほかには誰も客がいない。
星空の下でかわすキス。結局、止まらなくなって、翼は自分から彼の背に縋るようにしてキスを求め続けてしまった。
翌朝、やっと二人は海に行くことが出来た。
「すごいな。日本なのに熱帯魚みたいな魚が泳いでる」
鮮やかな青色をしたソラスズメダイの群れを見つけ、晃久が歓声をあげる。
海開き前とあって、こじんまりとした浜辺には誰もいない。岸から百メートルほど離れた場所にちいさな無人島が見える。島にはいくつもの洞窟があり、その洞窟を抜けると外海に出ることができるのだそうだ。
「よく知ってるな。ここに来るの、はじめてなんだろ」
「ああ、昨日ウェブで調べたんだ」
翼が眠ってしまったあと、晃久はインターネットでこの浜について調べたのだという。
島の中心には横幅二メートルほどの狭い洞窟がある。高さがあり、奥行きは然程でもないため、薄暗いが視界は確保できる。
「なんか探検ごっこみたいだな」
「ああ、童心にかえる想いだよ」
相変わらず晃久の語彙力は、外国人離れしている。
「いったいどこでそんな言葉を覚えるんだ」
「日本の小説が好きなんだ。足を踏み入れたことのない祖国ってどんなものだろうって、ずっと、書物を眺めて想像していたんだよ」
水深五メートルくらいだろうか。当然のように足はつかない。水面に顔をあげたまま慎重に泳ぎ進むと、急に視界が開けた。
「おお、すごいな!」
思わず歓声をあげた翼に、晃久も感嘆のため息で応える。
「あぁ……すごい」
洞窟をこえた先には視界を遮るものがなにもなく、あたり一面大海原が広がっていた。
「ここにしよう」
晃久は立ち泳ぎしながら、器用に遺灰ケースから母親の遺灰を散布する。
風に舞うちいさなその粒を、翼はとてもきれいだと思った。
若くして亡くなった彼女はかわいそうだけれど、こんなふうに息子に想われているなんて、きっと幸せな母親だ。
――自分は、誰かの死をこんなふうに悼むことができるだろうか。
唯一の肉親である母の訃報を聞いても、涙さえ流すことができそうにない。そんな冷徹な自分を、翼はとても疎ましく思った。
海から上がった後、二人は横浜に戻り、赤レンガ倉庫にあるライブハウスに行った。
「なんとか最終日に間に合ったな」
「ああ、空席があってよかったよ。それにしても……翼、浴衣がよく似合うな」
じっと見据えられ、無性に照れくさくなる。
このライブハウスでは夏のあいだ、浴衣で来場するとオリジナルのカクテルをプレゼントしてくれるキャンペーンをしている。
せっかく日本に来たんだし、観光らしいことを経験させてやろうと、翼は晃久に浴衣を着るよう提案したのだ。
「すごいな。SAKEベースのカクテルだ」
日本酒ベースのキリリとしたカクテルに舌鼓をうち、晃久が満足げな笑みを浮かべる。
逞しい身体と涼やかな顔立ち。生まれて初めて着たという浴衣が妙に似合っていて、余りの色香にポーッと見惚れてしまいそうだ。
「晃久、お前、すごい目立ってる」
場内の女性たちの視線が集中しているのがわかる。
「いや、彼女たちが見惚れているのはお前の浴衣姿だろう。やはり自国の文化だからだろうな。俺と違って、すごくしっくりきている」
容姿を褒められることなんて慣れきっている筈なのに、晃久に真顔でそんなふうにいわれると、無性に落ち着かない気分になった。
「おお、演奏がはじまるぞ。初っ端からフェンダーローズだ」
照明を落とし、海底のような青いひかりのゆらめく場内。幻想的なその空間が、やわらかなエレクトリックピアノの音色で満たされてゆく。
夏の夜に聴くキューバの旋律は、さわやかな潮風のように心地よかった。
ライブが終わった後、中華を食べたいという晃久に付き合い、散歩がてら歩いて中華街に行った。
路地裏にある、深夜までやっている大衆店で紹興酒を酌み交わす。
小汚い店だが、手ごろな価格とボリュームの多さで地元民に愛される隠れた名店だ。
「いいライブだったな。まさか日本で彼の演奏が聴けるとは思わなかったよ」
「何年かに一度来るらしいよ。ほかにも色々、ほら青山のほうだとこんなのもある」
スマホを手に、ハモンドオルガンの名手と謳われるアーティストの来日公演の告知を見せると、晃久は「おお!」と嬉しそうに歓声をあげた。
「行く? 再来週だ」
「ん、ああ……」
再来週という言葉に、彼は微かに眉を顰める。
「行くなら、チケット取るよ」
「いや……いい。まだ再来週の予定はわからないんだ」
やんわりと断られ、なぜだか微かに胸がざわついた。
『期間内だけ、楽しませてくれればいい』
最初のころ、いわれた言葉を想い出す。
期間が終わったら、もう二度と逢わないつもりなのだろうか。
――そもそもこいつは……俺のこと、どう思っているんだろう。
昨晩もテントのなかで、晃久は翼を抱きしめ、口づけながら股間に手を伸ばしてきた。互いに何度も果て、朝まで抱き合って眠った。
ぶっちゃけていえば、十億円は貰えても貰えなくても構わない。
貸切料金の取り分(バック)だけで二四〇万円も貰えるのだ。一週間、店を休んでのんびりして、そんなにも報酬を貰えるのだから、それで十分だ。
そんなことより……。
さりげなく晃久のようすを窺うと、なぜか神妙な顔つきで眉間にしわを寄せていた。
「どうした。頭でも痛いのか」
こめかみを押さえるその姿が頭痛持ちのオーナーと重なって、翼は心配になった。
「いや、大丈夫だ。薬を呑めば……収まる」
テーブルの上にいくつもの薬を並べ、晃久はそれを紹興酒で飲み下してゆく。
「どこか悪いのか」
「――なんでもない。ただのビタミン剤だ」
ビタミン剤には見えないけれど、そんなふうにいわれたらこれ以上、なにもいうことができない。
「きょうはもう、ホテル、帰るか」
「いや、できればもうすこしだけ……外の空気を吸いたい。駄目かな」
腹ごなしに歩きたいんだ、と誘われ、翼は彼を山下公園に連れていった。
ベタすぎるくらい定番のデートスポットだけれど、やはり手軽に海や夜景を眺められる山下公園は最高だ。
海に面して等間隔に並んだベンチ。ふだんはカップルで一杯のその場所も、時間帯が遅いせいで人影はまばらだ。
「いい眺めだな」
ライトアップされた係留船、氷川丸を眺め、晃久は感嘆のため息を漏らす。
「ああ、昔はさ、ビアガーデンやってたんだ。あの船の上で」
母親の愛人、飲んだくれの自称ピアニストに連れてきてもらったことがある。あの男は機嫌がいいと、ビアガーデンやナイター、中華街などに連れて行ってくれたのだ。
家を飛び出したとき真っ先に横浜に足が向いたのは、この街で暮らした二年間が、それまでの人生のなかでいちばんマシな時期だったからかもしれない。
「船の上で酒が飲めるって、きっと楽しいよな。そのときはオレンジジュースだったからさ。もいっかい行ってみたい」
いつかまた、やってくれたらいいのにな、というと、晃久はちいさく笑った。
「なに」
「いや。ちゃんと楽しい想い出があったんだなって思うと、すこしホッとしたよ」
「まあ……なくはないよ。全体的に、クソみたいなことばっかだったけど。だけど、絶望して死ぬほどじゃなかったな」
圧倒的に、楽しいことより苦しいことの多い子供時代だった。
母の愛人からの暴力。学校にすらロクに通えない日々。通えていた時期も、教師から皆の前で給食費の未納を咎められたり、母親に無理やり染められた金髪や勝手につけられたピアスを叱られたりした。
「『人生における喜びの数は、誰もがおなじだ』と聞いたことがある。もし、翼のいままでの人生に喜びが少なかったのだとしたら、これから先の人生は、きっと喜びの連続だ」
先に来るか、あとに来るかの違いだよって、晃久はいった。
街灯に照らされたその笑顔は、うっとりするくらい魅力的に見える。
「お前のこの先の人生が、誰よりも幸多きものであることを心から祈っているよ」
クリスチャンなのだろうか。晃久は首から下げた空っぽの遺灰ケースにそっと手をあて、祈りを捧げるような声でそういった。
その穏やかな横顔に、無性に胸がくるしくなる。
「――いない、のか」
掠れた声で尋ねた翼に、晃久は不思議そうな顔を向ける。
「その人生に、お前は、いないのか」
再度、声を振り絞るようにして尋ねた翼に、晃久はなにも答えようとはしなかった。
「いつかまた、船の上のビアガーデン、再開されるといいな」
深みのあるその声に、ギュっと胸を押し潰されたような錯覚に陥る。
いいたいこと、たくさんあるのに。
うまく声が出てこない。
どんな言葉で伝えたら、伝わるのだろう。
すぐちかくに人がいるのに。それでも止まらなかった。手を伸ばして、浴衣から伸びた晃久のすらりとした手首を掴む。
「いっしょに、来たい。氷川丸のビアガーデン、お前と……いっしょに来たい」
どうしてこんな気持ちになるのかわからない。
たった数日間、一緒に過ごしただけ。
金を介して、惚れさせるつもりで接しただけなのに……わけがわからなくなる。
晃久の手が震えているのがわかった。その震えた手が、翼の頬に触れる。
「どうしてお前のキスはいいんだろうな。――最後に、その理由を知りたかったよ」
向けられた言葉が、痛くてたまらなかった。
最後って、なんだよ。
まだ、終わってない。
一週間、終わってない。
ふざけんな、俺はお前を……。
頬を包み込む手のひら。そっと引き寄せられ、口づけられる。
ひと目があるのはわかっている。
男同士で、おまけに浴衣で。こんなことしてたら超目立つの、わかってるけど……どうしても止まらない。
離したく、ないと思った。
このキスが終わったら全部終わってしまうみたいで、とにかく、唇を離したくない。
「んっ……ぅ」
互いの吐息が漏れて、その吐息さえ逃したくなくて、きつく抱きしめてその舌を求める。
その瞬間、ぐらりと晃久の身体が揺らいだ。
「おい、どうしたんだ。晃久、おいっ……」
こめかみを押さえ倒れこむその姿に、必死で声をかけたけれど、なんの返答もない。
「晃久っ……起きろよ、ふざけてんのか。なぁっ……」
翼の脳裏に、先刻、彼が薬を飲んでいた光景が思い浮かぶ。慌ててスマホを取り出し、震える指で119とタップする。
「晃久、しっかりしろっ、晃久っ……!」
救急車が来るまでのあいだ、どんなに呼びかけても、晃久が反応を示すことはなかった。
手術中のランプが燈る部屋の前で、家族が心配そうに待っている。――テレビドラマのなかでよく見かける光景だけれど、実際にはそんな場所まで入れては貰えなかった。
自動ドアの先には、部外者は入れないみたいだ。手術室のあるフロアに運び込まれる晃久を見送った後、翼は別の階の待合で手術が終わるのを待つことになった。
「ご家族の方では、ないのですよね」
「家族ではありませんが、彼にはここ日本に他に知り合いがいないんです」
はじめて出会った日に貰った彼の名刺を差し出し、翼は看護師にそう説明した。
晃久は鞄のなかにパスポートと共に、自分の病状を記した医師の診断書を所持していたようだ。
摘出の難しい場所にあり、全摘すれば重篤な後遺症が残る可能性が高いのだという。
「今回は出血した個所を中心に、最低限の処置に留める、とのことです。ですが、このままでは近いうちに……」
『自分には時間がない』
晃久の言葉が、脳裏をよぎる。
「馬鹿やろう……っ。恋なんかしてる場合じゃねぇだろうがっ……」
ドンッと思い切りベンチに拳をめり込ませた翼に、看護師が痛ましげな顔を向ける。
「――すみません。大体の病状はわかりました。とりあえずここで待たせてください」
時間のかかる手術なのだという。
彼女に頭をさげ、翼はぐったりと待合のベンチに身を預けた。
次に晃久の姿を見たのは、それから十五時間近く経過したころだった。
ICUのベッドの上、手術を終えたばかりの彼が横たわっている。会話が出来る状態ではないのだと思う。沢山の管に繋がれ、頭部に宛てられたガーゼからは血が滲んでいる。
しばらく呆然と立ちつくしつづけた翼に、看護師が退室を促す。
いったん帰るよういわれたけれど、そんなこと、出来そうになかった。
ここから離れたら、もう二度と晃久に会えなくなってしまいそうで耐えられない。
近くの店で着替えを買い、銭湯で汗を流すと、翼はそのまま病院で待機しつづけた。
ようやく面会の許可が下りたのは、その三日後だった。一般病棟に移された晃久は術後も強い痛みに苛まれているらしく、いまも眉間に深いシワが刻まれている。
「もう契約履行期間は終わったはずだ」
翼の姿を見るなり、晃久は抑揚のない声でいった。そして財布からキャッシュカードを取り出し、差し出してくる。
「十五億、用意してある。現金で用意できなくて悪いが、受け取ってくれ」
暗証番号と思しきメモ紙と共に手渡され、翼はそれを突き返した。
「ふざけんな。こんなもの受け取れるわけないだろ。っていうか、なに考えてんだ。どうして治療を受けないっ」
放っておけば、脳腫瘍は刻一刻と肥大し続ける。一刻を争うべきときに、この男はなぜ、あんな馬鹿げたことをしていたのだろう。
「オペを受けたところで、生存率は著しく低い。それに重篤な後遺症だって残る可能性が高いんだ」
「だからって……」
「もういいんだ。――最期に、お前に出逢えてよかった」
翼の言葉を遮ると、晃久は静かに目を閉じた。痛みと戦っているのだろう。微かに震えるその姿が痛々しい。
「ふざけんなっ。人のことを落とすだけ落としておいて、期間が終わったら放置かよっ」
「――そのための、手当だ」
キャッシュカードを差し出し、晃久はいう。
「お前はプロなのだから、顧客との色恋など、すぐに忘れられるのだろう」
「忘れられるわけないだろう。俺たちは……『モノ』じゃないッ」
確かにホストやホステスは色恋を商売にしている。だからといってそこにまったく感情がないわけではないのだ。
「すべて忘れてくれ。お前の仕事は終わった」
無理やりカードを押し付けられ、翼はかぁっと胃の辺りが熱くなるのを感じた。
「この金で、見つけてきてやる。お前が安心して手術を受けられる名医を、俺が見つけてきてやるっ……」
声が震えた。涙が止まらなくなって、翼は濡れる頬を拭いもせず、晃久を睨みつけた。
「どちらにしても、俺のような人間には生きている価値はないんだ」
秘匿性の高い仮想通貨zero。
彼の生み出したその通貨により、マネーロンダリングや違法薬物取引、人身売買など数えきれないほどたくさんの犯罪を横行させることになったのだという。
現在、仮想通貨ビジネスを取り締まる法はないが、世界中の見識者から、彼は諸悪の根源のように扱われているのだそうだ。
「悪いのはお前じゃない。それを悪用した奴らが悪いんだろうが」
「いまさらそんなことをいったって……どうなるものでもない。――もういいんだ。これ以上、この世に未練はないよ」
目を閉じたまま、彼は静かな声音でいう。
「うそを吐くな。本当にそう思っていたら、俺なんか面会禁止にしたはずだっ」
報酬を渡すだけなら、店に送りつけるなり、ナースステーションに留め置くなり、いくらでも方法はあったはずだ。こうして面会を許可した以上、まだ逢いたいという気持ちが残っていたのではないだろうか。
押し黙ったままの晃久に顔を寄せ、翼はそっとくちづけた。
唇を離すと、彼は翼の唇に指を宛がい、名残り惜しそうな声でつぶやく。
「最後のキスになるな」
「最後になんかしてたまるか」
「――大切な人を失うというのは、辛いものだ。お前にそんな思いをさせたくないんだ」
首から下げたペンダント。悲痛そうに眉根を寄せ、彼は空っぽの遺灰ケースを撫でた。
「死ぬかどうかなんてわかんないだろ。手術が成功すれば完治するかもしれない」
「簡易病理検査の結果が出た。もし仮にオペがうまくいったとしても、五年後の生存率は20パーセント程度だそうだ」
ギュッと手のひらを握りしめるようにして、彼はいう。翼は彼の拳に自分の手のひらをそっと重ね合わせた。
「その20パーセントになればいい」
「無茶をいうなよ」
困惑気な顔をする晃久の唇に、ゆっくりと唇を重ねあわせる。自分から舌を滑り込ませ、翼は彼の熱を求めた。
長いキスのあと、晃久は翼の髪を撫でながら深いため息を吐く。
「どうしてお前のキスはこんなにも心地いいんだろうな」
「――俺のことが好きだからだろ。お前は俺のことが好きだし、俺はお前のことが好き。だから心地いいんだ」
そういってやると、晃久はちいさくわらって、今度が彼から唇を重ね合わせてきた。
「お前とキスをすると、頭の痛みがすこし和らぐ」
愛しげに翼の髪に指を埋め、彼はいう。
「そんなことでお前の痛みが和らぐなら、いくらでもしてやる。ずっとそばにいて、いくらだってキスしてやるよ」
彼の腕にはいまだに点滴の管が刺さっている。翼は彼の頭や身体をいたわりながら、そっとその身体を抱き寄せるようにして口づけた。
晃久の病室を出ると、翼はホストクラブのオーナーの人脈を借り、その日のうちに世界的な名医と謳われる脳外科医にコンタクトをとった。
そしてその三か月後、彼が日本でのオペ拠点としている川崎市内の病院で、晃久の手術が行われた。
前回と違い、今回は全腫瘍の摘出を目指すのだという。彼が手術を受けるあいだ、翼は静まりかえった病室で、じっと窓の外を眺めつづけていた。
小高い丘の上にたつ真新しい大きな病院。敷地内にはたくさんの桜の木が植えられており、春には満開の桜が望めるのだという。
十月のいま、眼下の景色は寒々しい。
『いつかいっしょに、満開の桜並木を歩いてみたいものだな』
手術室に運ばれる直前、もの悲しい桜の木々を眺め、晃久はそう呟いた。
預かっていてくれ、と託されたペンダント型の遺灰ケースを握りしめ、翼はただ、彼の帰りを待ち続けた。
朝一番で行われた手術。終了したときには夜の十時を回っていた。
集中治療室に駆けつけた翼の目に、まだ意識が混迷していると思しき晃久の姿が飛び込んでくる。医師の呼びかけにかすかに応えるその姿に、涙が溢れてきた。
看護師に促され、翼は彼のそばに歩み寄った。そっと手のひらに触れると、口元だけでちいさく微笑んでくれる。
なにかいいたげに口を開き、痛みが激しいのか、なにもいわずに口を閉ざす。
翼は彼を安心させるように、「無理しなくていい」とその手をやさしく握ってやった。
翌日の午後には、彼は一般病棟に移ることができた。最上階にある個室の特別室。
翼が駆けつけると、ベッドサイドにはすでに先客がいた。
和装姿の老紳士、晃久の祖父だ。
はじめて対面したとき、晃久は元町で老舗の日本料理店を営む彼に、翼のことを堂々と『パートナー』だと紹介してしまった。
御年七十四歳の老人の目に、ふたりの関係がどう映っているのかわからない。
ぎこちなく頭をさげた翼に、彼はベッドの上で眠る晃久を一瞥し、静かな声音でいった。
「お前さんが私を探し出してくれなければ、こうして孫の顔を見ることもできなかった」
娘につづき孫にまで先立たれる不孝に見舞われずに済んだ、と彼は声を震わせる。
しばらく晃久の寝顔を眺めつづけた後、彼は無言で翼の肩を叩き、病室を出て行った。
晃久がようやく目を覚ましたのは、その日の面会時間終了間際だった。
早口の英語でなにかを捲し立てたあと、彼は手を伸ばし、翼にキスを求めた。
言葉より先に、キスを交し合う。
いいたいことは沢山あったけれど、どんな言葉より先に、彼が生きて呼吸をしているのだということを確かめたかった。
長い長いキスのあと、彼が最初に発したのは、翼の名前だった。
「海斗(かいと)……」
掠れた声で、十年前に捨てた本当の名前を呼ばれる。長いこと呼ばれていないうえに、あまりいい思い出のない名前だ。
だけど晃久に呼ばれると、違う名前みたいに感じられる。新しい名前をつけて貰ったみたいな、そんな気分だ。
彼は何度も何度も、『海斗』とその名を呼び、名を呼ぶたびに口づけつづけた。
**
「うわ、ホテルの部屋みたいだ!」
術後一年の定期検査を終えてしばらく経ったころ、晃久はみなとみらいにマンションを購入した。
定宿にしていたホテルから近く、海を臨むことのできる高層マンションの最上階だ。
「お前がちっとも報酬を受け取ろうとしないから、現物支給することにしたんだ」
通院の便を考え、いままでは病院のちかくの賃貸マンションで暮らしていた。
再発の可能性はゼロではないし、これからも定期的な検査や通院が必要になるけれど、こうして横浜に戻ってくると、なんだか新しい生活がはじまるみたいで嬉しい。
「おお、すごいな。観覧車も見える」
「ああ、桜並木もあるんだ。ほら、あの一帯が、春には満開の桜に覆われるんだよ」
バルコニーから身を乗り出すようにして外を見下ろすと、やんわりと背後から抱きしめられた。
振り返ると、晃久が頬を摺り寄せてくる。
出会ったころと違い、長かった髪は短く刈られ、術後、視力が低下してしまったため眼鏡をかけているけれど、長身で飄々としたその姿は、魅力的であることに変わりはない。
「ほかにも見せたいものがあるんだ」
彼の腕に抱かれたまま、真新しいカウンターキッチンやバスルームに案内される。そして最後に寝室へと連れて行かれた。
「うわ、なんだこの大きさ……っ」
そこには部屋の床を覆い尽くしてしまうくらい巨大なベッドが置かれていた。
「いくらなんでもこれ、デカすぎないか」
特注品だろうか。男二人が大の字になって眠っても余裕がありそうなとんでもない大きさだ。
「これくらいがちょうどいい。お前も俺も、長身だからな」
やんわりと押し倒され、晃久を見上げる。
「ダメだって。傷にさわる」
押し退けようとして、抵抗ごと封じこめるようにして口づけられた。
「んぅっ……! こら、ダメだって……」
「ダメじゃない。医師に確認したんだ。もう通常通りの性生活を営んでも問題ないといわれたよ」
真面目くさった顔でいわれ、海斗は思わず叫び声をあげてしまった。
「なっ……ふつうそんな恥ずかしいこと、医者にきくかっ?!」
呆れかえる海斗の首筋にチュッと吸いつき、晃久はいう。
「なにをいう。食と並び、性生活はクオリティ・オブ・ライフに於ける最重要項目だ」
首筋に舌を這わされ、ゾクゾクっと背筋が震えた。
抱きしめられたり、手で慰められたりしたことはあったけれど、こんなふうに元気になったモノを押し当てられるのは、術後はじめてだ。
「扱きあいっこ、だよな?」
尋ねると、唇を耳朶に摺り寄せるようにして囁かれた。
「できることなら、お前とひとつになりたい」
告げられた言葉の意味を理解し、かぁっと頬が火照る。
「嫌だっていったら……?」
「嫌なら、しない」
残念そうな声で、晃久はいう。
「そんなガッカリした顔するなよ」
「仕方ないだろう。ずっと楽しみにしていたんだ」
「って、まさか定期検査のたびに、医者にヤッてもいいか確認してたんじゃないだろうな」
「いや……体調が安定するまでは、むやみに求めるべきではないと思っていた。――お前の悲しみを深くするのではないかと不安だったからな」
晃久の手のひらが、かすかに震えている。
三か月ごとに繰り返されるMRI検査。いつ再発するのではないかという不安と闘いながら、彼は日々、暮らしているのだ。
「だが、こうして無事に一年が経った。生存率なんてものは単なるデータ上の数字でしかない。健康な輩だって、いつどんな事故に遭うかわからない。そのことでお前に引け目を感じるのは、やめることにしたんだ」
大きな手のひらが、海斗の頬を包み込む。海斗は目を細め、彼の眼鏡に手を伸ばした。
そっと外したそれをサイドテーブルに置き、その背に手をまわす。
「なんだよ。あんなにケツではしないっていってたくせに」
「気持ちが変わったんだ。キスだけじゃ足りない。身体の全部で、お前と繋がりたいんだ」
近づいてきた唇。避ける気がしなくて、海斗は目を開けたまま、彼の唇に自分から口づけた。
「海斗……っ」
キスの狭間に名前を呼ばれ、その低くて甘い声に溶けてしまいそうになる。優しく服を脱がされ、照れくささにまともに目を合わせられなくなった。
いままでだって身体に触れられたことはあった。だけどこんなふうに『その先』を意識しながら愛撫されるのは初めてだ。
「ぁっ……ちょっと待て、そこ、やめっ……」
ちゅ、と胸の突起を吸い上げられ、堪えきれず身体が跳ねあがる。
「ずっと、シたかったんだ。お前の身体の隅々まで、味わい尽くしたかった」
ぷっくりと膨れ上がった薄紅色のそこを舌先で転がされるようにして啄まれる。
シーツを掴み、乱れた吐息を噛み殺しながら、海斗はその身を震わせた。
「ここにキスしただけなのに……こんなにも潤んでる」
「ぁっ……!」
すっかり昂ぶった先端に触れられ、思わず甘ったれた声が溢れてしまう。
「手で、する……?」
いつものように扱きあおうとして、手首を掴んで遠ざけられた。
「触らなくていい。きょうはこっちで蕩けさせたいんだ」
尻の割れ目に指を這わされ、敏感な場所に触れられる。
「ぁ……ぅっ」
拒もうとして、抵抗の言葉ごと唇で塞がれた。熱い舌で絡めとられながら、ゆっくりとつめたい指を埋めこまれてゆく。
「すごく……熱いな。海斗のなか、ほら、こんなにも熱くなってる」
耳元で囁かれながら、ローションで潤まされたなかをぐるりとなぞられる。
「あぁっ……!」
思わず大きな声をあげてしまい、海斗は慌てて唇を噛みしめた。
「声、我慢しなくていい。ここは防音完備なんだ」
二人の共通の趣味、音楽鑑賞を存分に楽しめるよう、防音壁を使用しているのだという。
「ばか、そういう問題じゃ……ぁっ……」
男なのに、男の前で啼かされてしまうなんて……。恥ずかしくて堪らないのに、晃久の手を払いのけることができない。
「ぁ、ぅ、や、それ、やめっ……!」
はじめて触れられる場所。やめろといいながらも、自分の身体が蕩けてゆくのがわかる。
グチュグチュといやらしい音をたてながら、晃久は海斗のなかを解してゆく。
「ぁ、ぅ、あきひさ、キス……しろ」
漏れ続ける自分の声が余りにも情けなくて、海斗は唇を突き出すようにして彼のキスを求めた。
「はぅ、んっ……!」
ぐっと圧し掛かるように口づけられ、その拍子に挿入が深くなる。節高な指で、なかを探るようになぞられ、海斗はじっとしていられずに手足をばたつかせた。
「海斗……」
愛しげに名前を呼ばれ、唇を甘噛みされる。
「んぁっ……ん、ぅ、ぁっ……!」
大きく深呼吸すると、その拍子にどちらのものともわからぬ唾液がつう、と二人のあいだを伝った。
「ぁ、ん、ぅっ……」
濡れた海斗の口元を舐めとるように舌を這わせると、晃久は海斗のなかから指を引き抜いてゆく。
身構えると、ギュっと抱きしめられ、耳朶に唇を宛がうようにして囁かれた。
「いやなら、しない。お前のいやがることは、シたくないんだ」
深みのある声に絡めとられ、ぽーっとしてしまいそうになる。
「ば、かやろ。いまさら……嫌なわけ、ない」
晃久の顎を掴み、自分から唇を寄せる。彼は海斗の口内に舌を滑り込ませると、ねっとりと舌を絡ませきつく吸い上げた。
「んぅっ……ぁ」
意識が蕩けてしまいそうになって、慌ててその背中に縋りつく。片膝を掴まれ、股を開かされるようにして窄まりに彼の熱を宛がわれた。
「あいしてるよ、海斗」
耳元で囁かれ、恥ずかしさに頬が火照る。
「いいから、さっさと……んあぁっ……!」
ぬぷり、と埋めこまれたモノ。
指とは比べ物にならない圧倒的な存在感と焼けるような熱に苛まれ、ぞわぞわとした得体の知れない感覚に、おかしくなってしまいそうだ。
「んーーっ……ぅっ……」
手の甲を噛んで声を押し殺そうとして、やんわりと手首を掴んで退けられた。
「ダメだ、声、聞かせてくれ」
「ゃ、だ……ぁ、んあぁっ……」
さらに奥深い場所まで侵入され、意識が朦朧としはじめる。
手を伸ばし、海斗は汗ばんだ彼の背中にしがみついた。
「すごく……キツい。海斗のなか、熱くて、キツくて……いまにもイッちまいそうだ」
じっと見つめられ、照れくささに頬が熱くなる。
「くぅ……っ、はぁっ……んなバカなこと、いってないで……キス、しろよ」
熱に魘されたような声でキスをねだると、口づけながら内壁に擦りつけるように腰を遣われた。
「ぁっ……ば、か……ゃ、そんな……っ」
やめて欲しい、と口にしながらも、海斗自身も極限まで昂ぶってしまう。
乱れた呼吸。高鳴る鼓動。
こうして真っ裸で抱きしめあうと、彼が生きているのだということを全身で実感することができる。
「晃久……っ」
手を伸ばし、その頬に触れる。
出会ったころよりすこし痩せてしまった身体。いくつもの点滴痕の残る腕。短く刈られた髪の狭間に見える大きな傷跡。
病気の痕跡は未だ身体じゅうに残っているけれど……こんなふうに息をして汗を掻き、全身で海斗を求めてくれている。
ぜんぶ、愛したいと思った。
いとしい晃久のすべてを、もっと感じたい。
「海斗、痛くは、ないか」
心配そうな顔で、晃久は囁く。
彼も感じてくれているのだと思う。その声は熱に潤み、切なげに掠れている。
「ん、へいき……だから、もっと……来いよ。もっと、そばに来い」
ぐっと彼の背を抱き寄せるようにして、自分から口づける。ずくりと挿入が深くなって晃久のすべてが海斗のなかに埋めこまれた。
「はぁっ……ん、あきひさっ……」
こんなふうに心から相手を求めるなんて、生まれてはじめてだ。
晃久の身体も、心も、なにもかも全部、受け容れて、ひとつになってしまいたい。
海斗のそんな感情の昂ぶりに同調するように、やさしかった晃久の腰遣いが次第に激しさを増してゆく。
「ぁっ……も……イク、イ、きそ……ッ」
己のモノになど指一本触れられていないのに、突き上げられるうちにすっかり昂ぶり、ぐっしょりと蜜を溢れさせてしまう。
「ああ、俺も……イキそうだ。海斗、お前のなかで、イッてもいいか?」
「ぇ……っ、ぁ、ぁ――……」
目を背けようとした海斗の顎を掴み、晃久はやんわりと自分のほうに向きなおらせる。
「海斗、お前のなかでイキたい。お前は、どうされたい?」
掠れたその声がいつもより艶っぽくて、その濃密な色香に呑みこまれてしまいそうだ。
「――好きに、し……ろっ……」
ぶるりと全身が震える。いまにも達してしまいそうな熱に苛まれながら、海斗は目を伏せた。
「ダメ、だ。ちゃんと、こたえて欲しい。どうされたい。俺の熱を……受け入れる意思があるのか」
顎を掴まれ、ふたたび彼に向き直らされる。
焦らすように腰の動きを止められ、海斗は堪えきれず自分から身体を揺すった。
「いいから、はやく……出せ、よっ……」
「お前のなかに、出して、いいんだな」
噛みしめるような声でいうと、晃久はズンッと思いきり海斗を突き上げた。
「あぁっ……ゃ、んーーっ」
あまりにも激しい突き上げに、吹き飛ばされてしまいそうになる。しっかりとベッドに背を預けているはずなのに、なにもない中空に放り出されたみたいだ。
「ぁっ……ぁっ……んぁっ……やぁっ……」
声、我慢したいのに。どんなに頑張っても唇を閉ざすことができず、貫かれるたびに悲鳴をあげ、無我夢中で晃久の背に爪を食いこませる。
「海斗っ……いっしょにイキたいんだ。お前と、いっしょにイキたい……っ」
ぬちゃぬちゃと響くいやらしい水音と、激しく肉を打つ音。獣のように乱れた晃久の呼吸と……それら全てをかき消してしまいそうな自分の嬌声。
「あぁっ……あき、ひさっ……も、ダメ……ぁ、イク、イッちゃ……ッ」
「ああ、イけ。海斗。――いっしょにイこう」
ぐっと腰を掴まれ、めちゃくちゃに突きあげられる。もう、なにも考えられなくなって、海斗は泣きじゃくるような声で叫んだ。
「イ、く、ぁ、ぁ、あぁっ、んーーーーっ!」
びゅるり、と迸るのと同時に、最奥まで貫かれる。海斗を突き破りそうなほど激しく突き上げると、晃久は動きを止めた。
「ぁ……ぁ、ぁ――……」
ドプリ、と注ぎ込まれた瞬間、全身が震えた。激しく震えて、その震えが止まらなくなる。達したばかりの海斗の先端から、白濁交じりの透明な蜜が溢れてゆく。
「ぁ、ぁ、ぁ……ん―――っ」
とめどなく溢れるそれは、まるで永遠に続く射精のようで。いつもならすぐに引いてゆく熱が、すこしも収まりそうにない。
その身を震わせながら果てない絶頂に苛まれる海斗に、晃久はいとしげに頬を摺り寄せた。
頬と頬、鼻と鼻、唇と唇を擦り合わせるようにして、震える身体をさすってくれる。
落ち着かせようとしてくれているのだと思う。けれども甘い毒に浸された海斗の身体は、ほんのすこし触れられただけで再び熱を帯び、その震えはさらに大きくなってゆく。
「海斗のここ、すごく、締めつけてくる。ほら……喰いちぎられちまいそうだよ」
耳元で囁かれ、海斗は恥ずかしさに頬を染めた。
「ば、か……いつまで乗っかってんだ、さっさと……」
退けよ、と彼の身体を押し退けようとして、ぐっと圧し掛かるようにして口づけられる。
「ぁっ……ん、ぅー……」
達したばかりだというのに、まだ十分な硬さを残したモノ。ズンと奥まで貫かれ、甘ったれたような声が漏れてしまう。
晃久の胸にかかるペンダントの鎖が、さらりと海斗の首筋をなぞった。
「ぁ……ん、そう、だ……。あきひさ、おれ、欲しいもの……決まったよ」
乱れた呼吸。肩で荒く息をしながら、途切れ途切れに海斗はいった。
クリスマスや誕生日、記念日のたびに晃久は海斗に『なにが欲しい?』と尋ねてくる。
あまり物欲のない海斗は、そのたびに答えにつまってばかりいた。
だけどいま、こうして晃久とひとつになって……ある願いが生まれた。
心に湧きあがってきたその願いを一刻もはやく伝えたくて、海斗はちいさく何度も深呼吸しながら、息を整える。
「正確には……モノじゃない、けどさ」
「なんだ? お前の望むことなら、可能な限り、なんだって叶えてやる」
愛しげに海斗の髪を撫で、晃久は言葉を促した。
「――俺を、そのなかに……入れて欲しい」
空っぽの遺灰ケースを指さし、海斗は答える。
「このなかに……?」
「ああ。一生分の誕生日とクリスマスのプレゼント、全部、あわせていいから」
ひと息にいうと、海斗はふたたび深呼吸して息を整えた。そして晃久をじっと見上げる。
「このねがいを叶えてくれたら、他にはなにもいらない。だから、一日でもいいから俺より長生きして……俺の遺灰を、そのなかに入れてくれ」
掠れた声で告げた海斗を、晃久はあばらが折れそうなほどキツく抱きしめた。
「ダメだ。はじめての夜くらい、紳士的に愛したかったのに……ッ」
ミシリとベッドが盛大に軋み、あっというまにカタチを取り戻した晃久のモノが海斗のなかを引き裂かんばかりに押し広げる。
「んぁっ……ばか、いっぺん抜けっ……」
「抜けるわけないだろう。お前が悪いんだ。俺を惑わせるようなことばかりいうからっ」
両膝を肩に担ぎあげるようにして、深く、深く貫かれる。脳天まで突き抜ける快楽に、海斗はシーツをめちゃくちゃに手繰り寄せて絶叫した。
「ぁ、やめ……んーーっ……!」
せっかく整えた呼吸が、あっというまに乱されてしまう。
その夜、二人は空が白むまで、真新しいベッドの上で求めあい続ける羽目になった。
**
「ひさびさに、山下公園に行かないか」
みなとみらいのマンションで暮らしはじめて数か月が経ったころ、晃久からそんなふうに誘われた。
「ん、いいよ」
欠伸を噛み殺しながら、海斗は頷いてみせる。ベッドから起き上がろうとして、抱きすくめるようにして口づけられた。
「んっ……おい、山下公園、行くんじゃないのかっ……」
「ああ、行くけど……もう一度だけ」
半年前にホストクラブを辞め、海斗は伊勢佐木町の老マスターのバーで働いている。
せっかくマスターが誕生日休暇をくれたのに、どうやら晃久は海斗の誕生日を覚えていないようだ。
昨夜は遅くまで求めあい、昼過ぎに起きてからも、結局、食事を摂ってまたベッドにしけこんでしまった。
――なんだよ、これじゃいつもの休日と変わんないじゃねーか。
文句のひとつもいってやりたいところだが、自分から誕生日を祝って欲しいとねだるのもなんだか照れくさい。
口づけられるうちに拒むのが面倒になり、結局、流されてもう一度受け容れてしまう。
こうして身体を重ねるようになって半年が経つが、晃久の熱心な求愛はとどまることを知らない。
終わったあとも離れようとしない晃久を背中にくっつけたままシャワーを浴び、着替えを済ませて外に出た。
五月最後の日曜日。ここのところ真夏のように暑い日がつづいている。
「このまま夏になっちまいそうだな」
西の空を赤く染める太陽が、未だにムッとした熱を放ち続けている。パタパタと汗ばむTシャツをつまみながら、海斗は呟いた。
「ああ、だけど夏の前に梅雨があるのだろう」
「まあな。日本の夏は短いからなぁ」
二人が出会った頃、ちょうど梅雨のさなかだった。あれから二年も経つんだな、と海斗はしみじみした気持ちになった。
手術後、五年間再発しなければ、その後の再発率はいっきに下がるのだという。
こんなふうに盛れるくらいだ。いまのところ晃久の体調には異常がなさそうだ。
どうかこのまま健康で長生きしてくれますように。――海斗は日々、そう祈らずにはいられない。
山下公園までは、歩いて三十分ほどだ。
なにか特別なことをしたいわけじゃない。
こんなふうになんでもない日常を二人で積み重ねられることが、海斗にはとても幸せに感じられた。
「ん、なんだ、あれ……」
見慣れたはずの山下公園。氷川丸の桟橋にかかるアーチが煌びやかなイルミネーションに彩られている。
「なにかイベントでもやってるのかな」
いまは博物館として営業している氷川丸。たしか営業時間は夕方の五時までで、この時間帯は、普段ならひと気がなく静まりかえっている。
桟橋の入り口には、不思議なことに営業終了の札が下がっていなかった。ロープも張られておらず、船のなかに入れるようになっている。
「さあ、行こうか」
晃久は海斗の手を取り、そういった。
「や、ちょっと待て。もう営業時間は……」
戸惑いながらデッキに上がると、そこには幼いころに見た、あのビアガーデンの光景が広がっていた。
ライトアップされたデッキに白いテーブルやチェアがずらりと並び、前方にはささやかながらステージまである。
「これは……」
うそだ。十年以上前に廃止されたはずの氷川丸のビアガーデン。再開したなんて話は、誰からも聞いたことがない。
「本格オープンは来月からだ。きょうはプレ
オープンを兼ねた、お前のバースディパーティーだよ」
晃久の言葉に、ホスト時代、お世話になっていたオーナーや代表の怜哉の声が重なる。
「おっそいぞ、主役のくせに遅刻すんなー」
「お前、ホントはまだ二十代なんだなぁ。どうりで肌ツヤいいはずだぜ」
怜哉の隣には、現在お世話になっている店の老マスターが座っている。その向かいには晃久の祖父。馴染みの看護師さんの姿もある。
「な、んで……」
「本当は二人きりで祝いたかったんだが、お前はこういうほうが好きなんじゃないかと思ってな」
やんわりと微笑み、晃久はいう。
「や、そうじゃなくてっ……なんでビアガーデン再開してんだっ」
「ああ、営業権を買い取ったんだ。夏のあいだだけだがな、ここでビアガーデンをさせてもらうことになったんだよ」
IT企業のCEOを辞した後、こそこそと何かしているなぁと思ったら、彼はこのビアガーデンを運営するために飲食店経営に乗り出したようだ。ここだけでなく、近くにビアホールも常設するのだという。
「お前はほんとうに欲がないからな。放っておくと、一生かかっても報酬を受け取らせることが出来そうにない」
まだ、例の十億円のことをいっているのだろうか。
「や、あんなモンはもういらないっていってるだろっ」
「――ダメだよ。俺の、目標にさせてくれ。お前に一生費やしても渡しきれないくらいたくさんの『しあわせ』を与え続ける。その目標のためなら、頑張れそうな気がするんだ」
「晃久……」
「それに、こうして事業をはじめてしまえば途中で投げ出すわけにはいかない。従業員やその家族の行く末を背負っているのだと思えば、易々と倒れるわけにはいかないだろう」
晃久はビアガーデン内をぐるりと見渡し、やんわりと微笑んだ。
その胸元には出会った時とおなじ、白金色の遺灰ケースが輝いている。
「そのなかに入れて欲しいっていう、俺との約束、守ってくれんの?」
モノなんかいらない。
贅沢なんかできなくていい。
一日でもいいから自分より長生きして、そのなかに入れてほしい。
海斗のたったひとつの望みだ。
「――ああ、最善を尽くすつもりだよ」
「そんなんじゃダメだ。絶対に守るっていえ!」
ふて腐れた顔でいうと、晃久はおかしそうにわらって、「やっぱりお前はいいな」と海斗の髪に触れた。
「うっわ、まだ明るいのにいきなりイチャつきはじめやがったよ」
怜哉にからかわれ、海斗は照れくささに頬を染める。
「いいからさっさとロウソクを消せよ。海斗、ケーキに垂れちまうぞ」
オーナーに促され、海斗はテーブルの真ん中に置かれたケーキに歩み寄った。
大きなまぁるいケーキのうえに、二十六本のロウソクと、『海斗、たんじょうびおめでとう』と書かれたチョコレートのプレート、おいしそうな苺がたくさん載っている。
ちいさなころ、自分には絶対に与えられないと思っていたそんなしあわせに、思わず涙が溢れてくる。
またからかわれるかと思ったけれど、声を押し殺して泣く海斗を、誰もからかったりしなかった。
晃久に肩を抱かれ、濡れた頬を拭ってロウソクの火を吹き消す。
「ハッピーバースディ、海斗!」
晃久の声に、皆の歓声が重なる。
「これから先のお前の人生、『幸せな記憶』で埋め尽くしてやる」
そんなふうにいわれ、堪えきれず、また涙が溢れた。
どこで探してきたのだろう。ステージには出会ったあの日にバーで流れていたヴィンテージのフェンダーローズ。やわらかなエレクトリックピアノの音色が、ひとあしはやい夏を感じさせる軽快なメロディを奏でている。
晃久は海斗の頬を拭うと、皆の前だというのにそっと抱き寄せ、唇を重ね合わせた。
さわやなか潮風の吹き抜ける夕暮れのデッキ。
皆から野次を飛ばされながら、海斗は愛しい晃久の背中を、きつく、きつく抱きしめた。
=完=
2015.7.28